シェイクスピアは、「ハムレット」、「リア王」、「オセロ」、「マクベス」の四大悲劇、「ヴェニスの商人」、「ロメオとジュリエット」、「真夏の夜の夢」など37の有名な戯曲の作者としてだれでもが知っている人物です。
しかし、その人物像は謎に包まれており、本当にこのような歴史に残る作品を書いたのかという疑惑が古くから議論されてきました。
この「シェイクスピア別人説」は、単なる都市伝説とは違い、多くの著名人が賛同しています。
最近も「もう一人のシェイクスピア」という映画も作られ、話題になりました。
シェイクスピアとはどういう人物なのでしょうか?はたして「シェイクスピア別人説」は本当でしょうか。
ウィリアム・シェイクスピアとは?
ウィリアム・シェイクスピアが実在しているのは間違いありません。
1564年、イギリス中部の町、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれました。
父親のジョン・シェイクスピアは手袋職人で、ストラトフォードの町長を務めたほどの名士でしたが、羊毛の闇市に関わって起訴されたともいわれて、急に社会的、経済的に没落したようです。
ウィリアム・シェイクスピアは、記録はないものの公立の学校を卒業したと推測され、1582年、18歳で結婚したという記録が教会に残っています。
相手は8歳年上の農家の娘アン・ハサウェイアで「できちゃった婚」だったようですが、さらに双子の子供もでき、20歳で3人の父親となりました。
1587年、ウィリアム・シェイクスピアが23歳の時、父親の裁判に立ち会った記録がありますが、その後、シェイクスピアの記録は消えます。
次に記録に表れるのは7年後で、1952年、劇作家、ロバート・グリーンが著書「三文の知恵」でシェイクスピアを「成り上がり者の自惚れ屋」と中傷していることから、この頃までにシェイクスピアが作家として世に出ていた証拠とされます。
したがって、ウィリアム・シェイクスピアとグリーンが中傷したシェイクスピアが同一人物とすると、中学を出て田舎にいた青年が、7年の内に、ロンドンで歴史に残る優れた戯曲も創作する大芸術家に大変身しているわけで、その間の経緯がまったく不明なのです。
その7年間を「シェイクスピアの失われた歳月」(The Lost Years)と呼ばれています。
続いて1595年、ウィリアム・シェイクスピアがロンドンの宮内大臣一座という劇団で、出演料として報酬20ポンドを受け取った記録があります。
また1616年のウィリアム・シェイクスピアの遺書には、役者仲間3人への遺産遺贈の記述があり、彼が役者となっていたこと、そして劇団の株主となっていたことは事実として間違いないようです。
したがって役者で劇団の株主のウィリアム・シェイクスピアが、本当に大傑作の戯曲を創作したシェイクスピアなのかということが問題になります。
ウィリアム・シェイクスピアは1613年に引退し、1616年に故郷、ストラトフォードでなくなります。52歳でした。
反ストラトフォード派の主張
ストラトフォード生まれのウィリアム・シェイクスピアが通説どおり大傑作の戯曲を書いた人物とする人たちを「ストラトフォード派」といい、シェイクスピア別人説を唱える人々を「反ストラトフォード派」と言います。
反ストラトフォード派には「トムソーヤの冒険」で有名なマーク・トゥエン、精神分析のフロイト、映画監督のオーソン・ウェルズ、チャーリー・チャップリンなど著名な作家、学者、芸術家が多数、名を連ねています。
反ストラトフォード派が一番問題にするのが、中学しか卒業しておらず、しかも独学や苦労して学んだ痕跡がまったく見当たらない青年ウィリアム・シェイクスピアと、法律、音楽、哲学、軍事、宮廷生活など多くの専門的知識を駆使した高度な教養にあふれる作品との隔たり感なのです。
しかも役者として忙しく活動しながら、あれだけの作品を次々と完成させることは到底不可能ではないかと反ストラトフォード派は主張します。
またウィリアム・シェイクスピアが訪れた記録がないフランス、イタリア、デンマークなどの国々について作品中で表現されている豊富な知識への疑問もあります。
加えて、多くの戯曲を書いた文学者であったにもかかわらず、一切の自筆の原稿、1冊の蔵書も見つからず、作家活動の気配がないこと、
当代随一の文豪シェイクスピアによって書かれた手紙は1通も残されていないし、そのことに触れた記録もないのは不可解、
ウィリアム・シェイクスピアの自筆とされている抵当証書、遺言状、裁判の宣誓書は6個のサインがすべて違っていて、まともに読み書きができたのかさえ疑わしい、
などの理由により、反ストラトフォード派は、「ストラトフォード生まれのウィリアム・シェイクスピアは、事情により、戯曲の作者として名前を明かせない人物に名前を貸しただけで、真の作者は別にいる」と主張しているのです。
本当のシェイクスピアの候補者は?
そして、反ストラトフォード派は、多くの候補者を、シェイクスピア作品を書いた人物としてあげていますが、そのなかで有力なのが、
・当時最高の哲学者であり政治家フランシス・ベーコン
・第17代オックスフォード伯爵エドワード・ド・ヴィア
・劇作家クリストファー・マーロウ
の3人です。次に見ていきましょう。
18世紀前半、最初にフランシス・ベーコンこそシェイクスピアと思い立ったのはイギリスのジェイムス・ウィルモットという牧師でした。
フランシス・ベーコンは、哲学者にして大法官も歴任した法律学者で、当時のイギリス最高の知識人でした。
貴族であり、宮廷もよく知っていて、シェイクスピアの作品の作者にぴったりな教養豊かな人物です。
1858年には、ディリー・ベーコンという同姓のアメリカ人女性が、シェイスピア=ベーコン説に関する書籍を出版し、ベーコン説を広めます。
ディリー・ベーコンは、あまりにシェイスピア=ベーコン説にのめり込み、シェイクスピアの墓の下にその証拠が隠されているとの妄想にとらわれ、イギリスまで出かけ墓を暴こうとします。
その墓には「わが骨を動かす者に呪いあれ」と刻まれており、彼女は最期に思いとどまりましたが、その後、精神を病み、療養所にはいり48歳で死去します。
この説を信奉する人々のことをベーコン派といい、1885年には「フランシス・ベーコン協会」まで設立されました。
フランシス・ベーコンの当代第一の博学・見識は、シェイクスピアの教養豊かな戯曲の作者にふさわしいと言えますが、シェイクスピアの戯曲とベーコンを結びつける具体的証拠はありませんし、両者の文体は決定的に違いました。
ベーコンは暗号についても豊富な知識を持っていたとされ、もしベーコンがシェイクスピアなら、その作品の中に、シェイクスピアとベーコンを結びつける暗号が残されているのではないかと、多くの暗号の専門家が研究しますが、結局見つけられていません。
第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアはケンブリッジ、オックスフォード大学で学び、武人で、宮廷詩人で劇作家としても高い評価を得ていました。
フランスやイタリアも頻繁に訪れていて、その国の知識も豊富でシェイクスピアの作品の舞台となったこともうなずけます。
反乱軍鎮圧の司令官などを務めたため軍事知識も豊富で、シェイクスピア作品に出てくる軍事知識と符合します。
またエリザベス女王にも寵愛され宮廷生活にも通じており、作品の中の宮廷場面もお手のものといえました。
オックスフォード伯爵は芝居好きで自分の劇団も抱えていて、伯爵の生涯とシェイクスピアの戯曲の内容に多くの類似点があることも、真の作者である根拠とされます。
また伯爵の文体もシェイクスピアに似ているとされています。
ところが大きな障害は、オックスフォード伯は1604年にペストに感染し死去しているにもかかわらず、シェイクスピアの作品は1611年まで書き続けられていることとの矛盾です。
2011年に公開された「もう一人のシェイクスピア」はオックスフォード伯=シェイクスピア説に従って作られていますが、映画では、オックスフォード伯は死ぬ間際に、書きためた遺作を友人の劇作家、ベン・ジョンソンに預けることで1604年以降も作品が発表されたという史実をクリアしています。
第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア=シェイクスピア説を信奉する人々を「オックスフォード派」と呼び、現在でも多数派を占めています。
クリストファー・マーロウは、シェイクスピアと同時代の著名な劇作家で、「タンバレン大王」、「フォースタス博士」、「マルタ島のユダヤ人」など、傑作作品を残し、エリザベス期の演劇に多大な貢献をしたといわれています。
もともとシェイクスピアの初期の作品は、マーロウが書いたのではないかという説は、シェイクスピア学の重鎮などからも唱えられていました。
1994年にも、イギリスのアストン大学はコンピューター分析から「ヘンリー6世」はマーローが原作者だったと発表し、話題になりました。
しかし、マーロウ説の難点は、彼が1593年、29歳の時に殺されているということです。
ちょうどシェイクスピアが作家としてデビューした頃です。
すなわち、シェイクスピアと入れ変わるようにこの世から去ったのです。
そこでマーロウ=シェイクスピア説を信じるマーロウ派は、マーロウは実は1593年に死んでおらず、執筆を続け、シェイクスピアの名で作品を発表していたと主張します。
確かにクリストファー・マーロウは、シェクスピアに劣らず謎に包まれた人物なのです。
ケンブリッジの学生時代からエリザベス女王の諜報機関に属し、大学を休んでフランスで活動をしていたという説があり、長期に休学していたにもかかわらず、枢密院からの書簡により修士号を与えられたと、まことしやかに言われています。
ところが、やがてマーロウは無神論者として治安を乱す行動を行い、政府に逮捕される危険にさらされる事態に陥ります。
そこで死を偽装して海外に逃れたというのがマーロウ派の推定なのです。
1855年のジーグラー著「それはマーロウだったー3世紀にわたる謎」、1955年のカルビン・ホフマン著「シェイクスピアだった男の殺人」などマーロウ説による書物も多く出版されています。
しかし、シェイクスピアの初期の作品がクリストファー・マーロウの影響を受けていること、マーロウの死について謎があることは異論がないとしても、マーロウがシェイクスピアだったということには直接結びつかないというのが現状のようです。
謎の人物、シェイクスピアとは?別人説は本当なの?・まとめ
このように別人説にはそれぞれ決め手が欠けること、そして作品の語彙力の豊富さから、シェイクスピア作品は多数の人によって書かれたという「複数人説」も古くから唱えられました。
1931年にギルバート・スレイターが発表した「7人のシェイクスピア」では、先の3人のほかエリザベス朝の文化人たちが作者としてあげられています。
しかし、複数人説はいいとこ取りで、少々都合のいい説であることは間違いありません。
「シェイクスピアの正体」の著者、河合祥一郎氏は、
エリザベス期の演劇では共同執筆が当たり前で、「優れた作品」が「優れたひとりの作家」から生まれるという発想に問題がある。
またシェイクスピアの作品にはほとんど種本があり、資料がある。
無条件にシェイクスピアの作品は優れている、だからシェイクスピアは天才でなくてはならないと思いこんだところに、シェイクスピアが見えなくなっている原因がある。
作品からシェイクスピアというブランドを剥ぎ取ると、天才でないウィリアム・シェクスピアでもシェクスピア作品は生み出せるはずで、シェイクスピアはシェイクスピアなのだと結論づけています。
一方、世界では、映画「もうひとりのシェイクスピア」の影響もあって、シェクスピアの正体をめぐる議論はますます盛んになって新刊も次々に出されています。
イギリスやアメリカの大学ではAIを活用した作品分析による作者の特定などが活発に行われています。
真実はどこにあるのでしょうか。今後の研究結果が待たれますね。
参考:「シェイクスピアの正体」河合祥一郎
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