先日、箸墓古墳を見てきました。鶴橋から近鉄線で奈良まで行き、JR万葉まほろば線に乗り換え、無人駅の巻向(まきむく)駅で下車します。
駅から徒歩15分程度、幹線道路を歩くと、左手に箸中大池とその隣にこんもりとした森が姿を現わします。これが箸墓古墳です。
人の目線から見ると横長の森ですが、上方から見ると前半分が四角形で後方が円形のいわゆる「前方後円墳」です。
大きさは全長が280m、高さは25m、後円部の直径は160m、前方最長部の幅は140mで、古墳時代前期では最大級の前方後円墳です。
ぐるっと一周して歩くと、池の反対側は道路が古墳を廻り、民家や田畑に隣接しています。
前方の正面には小さな鳥居が設置され宮内庁の立て札があり、そこには孝霊天皇皇女“倭十迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)”の墓・大市墓(おおいちのはか)と書かれています。
池のほとりに、古墳の中に続く小道の入口がありますが、金属の柵により人の侵入を遮断しています。
第7代孝霊天皇は「欠史八代」といわれ、日本書紀や古事記に記載が少なく実在性が疑われている天皇のひとりです。
皇室の私的墳墓として宮内庁が管理していて、国民が中に入ることを厳重に禁じており、考古学上の調査は実施されていません。
したがって古墳の状態は宮内庁が発表する資料や発掘物、周辺の遺跡などから推測するのみです。
日本書紀には次のように箸墓の名の由来が記述されています。
「百襲姫命は夜ごと通ってくる大物主神(おおものぬしのかみ)に顔が見たいと望むと、絶対に驚かないことを約束し櫛笥(くしげ)をのぞくようにと言われ、次の朝、姫がのぞくとそこには美しい小さい蛇がいました。姫が驚き叫ぶと大神は恥じて去ります。姫はそのことを悔いて座り込むと箸が陰部に突き刺さり死んでしまったので大市に葬りました」
この箸墓古墳が邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説があり、長年大論争となっているのです。
「卑弥呼の墓」説の根拠とは
箸墓古墳を卑弥呼の墓と考える人たちは、邪馬台国から大和朝廷への連続性、「ヤマト」という名称の関連などから邪馬台国は畿内にあったのは間違いなく、箸墓古墳が存在する纏向遺跡こそ邪馬台国の地と主張します。
その纏向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山(みわやま)の麓(ふもと)から大和川にかけて、東西2km、南北1.5kmに広がっています。
昭和46年(1971)頃より現在に至るまで、150回を超える発掘調査が行われ、この地が高度な都市であったことを示す出土物が多数見つかっているのです。
土器については、畿内以外の各地の特徴を持つ搬入土器が多く、全国から人が移住してきていたと考えられ、纏向は倭国連合の中心地である邪馬台国の条件に合致するかも知れません。
また近年の調査で、3世紀前半の大型の建物跡が発見され、3棟が東西に主軸をそろえて一直線に並んでおり、計画的な建物配置から巨大な祭殿跡と考えられることも邪馬台国の傍証と考えられます。
その纏向遺跡のなかで、箸墓古墳は“最古級、最大”の前方後円墳で、かなりの権力者の墓に違いなく女王卑弥呼の墓にほかならないというのです。
魏志倭人伝には卑弥呼の墓は円墳と記述されていますが、箸墓古墳は前方後円墳とはいえ、後円部分の大きさはほぼ同等なので、前方部分は後世に追加されたのではないかとも推測できます。
また箸墓古墳に葬られているとされる倭十迹迹日百襲姫命は巫女としての神話が伝えられており、この百襲姫命こそ鬼道をよく使いシャーマンであった卑弥呼であると考えられます。
ただ箸墓古墳を卑弥呼の墓とする最大の障害はその築造時期で、これまでの考古学の多数意見は4世紀半ばだったので、これでは魏志倭人伝がいう卑弥呼の没年である247~248年ごろとは一致しないのです。
ところが2009年、国立歴史民俗博物館の研究グループは箸墓古墳の周壕から出土した「布留0式」といわれる土器に付着した炭化物を放射性炭素(C14)年代測定法で換算し、築造時期を240~260年と断定しました。
この発表により箸墓が卑弥呼の墓という説が強化され、纏向遺跡一帯が邪馬台国の所在地であり邪馬台国論争においても「近畿説」に大きく傾くことになります。
「卑弥呼の墓」説への反論
このような「箸墓古墳、卑弥呼墓説」・「纏向遺跡、邪馬台国説」に対して、特に「邪馬台国、九州説」派から次のような強い反論が出されています。
まず倭人伝には卑弥呼の墓は円墳であると記述されているのに対し、箸墓古墳は前方後円墳であり、食い違いがある。
仮に、その円墳が前方後円墳の後方円墳だったとみなしても、1里を76mとする短里説が有力であり、それからすると、箸墓の円径は倭人伝の記載の卑弥呼の墓に対し大きすぎる。
また倭人伝では、卑弥呼の墓は棺を覆うものがなく土を小高く盛り上げて作った冢(つか)とされていますが、箸墓は周りの古墳の状況から棺が墳墓として木槨(もくかく)等で覆われていると推測され、これも食い違いがある。
また倭人伝によると生口100人を卑弥呼とともに殉葬とされますが、その跡は見つかっていない。
日本書紀では、箸墓古墳は第十代崇神天皇の時代に築造され、崇神天皇の叔母で、孝霊天皇の皇女である倭十迹迹日百襲姫命を葬ったものと書かれています。
したがって、倭十迹迹日百襲姫命を卑弥呼とすることは、親魏倭王と魏より認められた女王卑弥呼の権威と地位とのイメージに合致しない。
そして、一番重大視するのが、箸墓の築造時期で、従来説が4世紀半ばですから卑弥呼の没年と一致しないことです。
国立歴史民俗博物館の研究グループが放射性炭素(C14)年代測定法で算定し、築造時期が卑弥呼の没年の頃と一致したという発表は重大な誤りであるとします。
歴博の炭素(C14)年代測定に対する批判
2009年、日本考古学協会の発表会において、国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループは放射性炭素年代測定法により箸墓古墳の築造時の土器とされる「布留0式」などを測定した結果、箸墓古墳の築造は240年から260年の間であり、箸墓古墳は卑弥呼の墓と断定できると発表しました。
放射性炭素年代測定法とは生物の遺骸の炭素化合物中に1兆分の1ほど含まれる放射性同位体である炭素14の崩壊率から生体として存在した年代を推定する方法のことです。
歴博が測定した炭化物は食べ物の煮炊きの際に土器に付着していた薪(まき)と見られ、発掘の状況から箸墓古墳の完成間もない時期に捨てられたとみられます。
ただし炭化物に不純物が混じると誤差も大きくなるとされますが、歴博は周辺の古墳で見つかった土器も測定し同じような結果が出たため分析結果の精度は高いとします。
これに対し、歴博の発表はあの「旧石器捏造事件」に匹敵するような意図的でずさんな研究発表であると多くの学者から厳しく批判されています
批判の要点は二つあり、一つは測定方法についてであり、もう一つは学術的論議を経ることなくセンセーショナルな情報に飛びつくマスコミを利用した発表のやり方です。
まず、元来、炭素14年代測定法によって得られる推定値は、100年単位の広い幅があるため、数千年以上前の年代を測定するには有効ですが「240年から260年」というようなピンポイントで年代を推定するには適当な測定方法でないと言われています。
特に土器付着炭素物の年代測定データは、数十年から100年近く古く測定されることが、北海道埋蔵物文化センターの研究などから実証的に明らかにされています。
にもかかわらず、歴博はその測定方法やデータの取り扱いの詳細について明らかにせず、ただ間違いないということだけで外部からの質問に誠実に答えていないと批判されています。
さらにこのような従来の学説をひっくり返すような重大な発表を事前に論文や学会で発表して学問的な査察をうけることをせずに、先にマスコミにリークして公表、PRするやり方についてはとくに酷評されているのです。
このような手法は、一般国民を意図的に自説に引き込もうとする邪道なやり方であり、かつて考古学界を震撼させた「旧石器捏造事件」にも比すべき暴走行為ともいわれています。
この非難は、邪馬台国九州説の学者だけでなく近畿説の学者からも学問の危機とクレームがつけられていますが、当事者である歴博の研究グループは沈黙を守ったままです。
箸墓(はしはか)古墳とは?卑弥呼の墓なの?・まとめ
以上、箸墓古墳が卑弥呼の墓なのかどうかみてきましたが、やはり学会の大勢では卑弥呼の墓とするには無理があるようです。
卑弥呼の墓とするには、箸墓が3世紀半ばに築造されたこと、倭十迹迹日百襲姫命が卑弥呼であったことを証明する必要があります。
しかし、それらをクリアすることは現状では難しいとするのが、「邪馬台国九州説」、「近畿説」両派とも大方の意見であるようです。
そうなると、「邪馬台国近畿説」には有力な邪馬台国候補地が見当たらなくなります。
そもそも、邪馬台国を近畿に持ってくるためには魏志倭人伝が示す「南」という文字を、強引に「東」と訂正せざるを得ません。
また倭人伝に記載のある考古学的遺物である鏡・鉄・勾玉・絹などが圧倒的に多く九州から出土していますが近畿からは皆無であるという現実があります。
近畿説の支柱は邪馬台国と後年の大和朝廷の連続性ですが、邪馬台国の後継勢力が九州から近畿に移動してきたとするいわゆる「東遷説」を考えるならば、邪馬台国が九州にあったとする説のほうが説得力があるように思えますがいかがでしょうか。
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