「マヤ文明」という名称は多くの日本人は知っているかも知れませんが、マヤ文明がどのような文明だったか正しい知識を持っている人は少ないかも知れません。
マヤ文明については、高校の世界史でも十分に取り上げられていないため、中南米のアステカ文明、インカ文明などとの区別が判然とせず、あるいは混同している人は多いと思います。
たとえば、近年、観光地として人気の遺跡である天空の都市「マチュピチュ」はどの文明に属していたのか、わからない人が多いというのが実態でしょう。
しかし、一方では、「残虐な生け贄」が強調されたり、「マヤ暦が人類滅亡を予言している」というような都市伝説も流布しマヤ文明が神秘で謎の文明として関心が高まったりしました。
そこで、マヤ文明とは本当はどのような文明だったのか、調べて見ました。
マヤ文明の源流とは?
マヤ人の源流は、アメリカ大陸のすべての先住民と同様に約1万2000年以上前ベーリング海峡が陸続きの時代に歩いて渡ってきたアジアのモンゴロイドの人々です。
彼らは紀元前7000年のころに、メキシコの南部からユカタン半島付近に到着し、狩猟中心の生活をしていましたが、紀元前5000年のころ、トウモロコシを中心にカボチャ、インゲン豆などの栽培を始めます。
この地域を「メソアメリカ」といい、この地域で勃興したオルメカ文明やマヤ文明、アステカ文明などを総称して「メソアメリカ文明」と呼びます。
なおメソ(meso)とはギリシャ語の「中間」という意味で、メソアメリカ文明とは中央アメリカにあった文明ということになります。
なお余談ですが、メソポタミアのポタミアは「複数の川」を意味しますので、メソポタミアとはチグリス川とユーフラテス川の間という意味です。
まずメキシコ湾沿岸地域に、マヤ文明に先行して、紀元前1200年頃から紀元前400年まで、有名な巨石人頭像を造った「オルメカ文明」という最古の文明が興り、都市文明として栄えますが、この文明がマヤ文明に引き継がれていきます。
またメキシコ中央高地ではマヤ文明と平行して、紀元前100年から紀元後600年までテオティワカン文明、紀元後900年から1150年までトルテカ文明、1430年ごろから1521年までのアステカ文明などが興り、マヤの諸都市とは密接な交易関係を結んで影響を与え合いました。
マヤ文明の4つの地域
マヤ文明は通常、次の4つの地域に区分されます。なおここでは中部と南部を併せて南部低地と考えています。
現在のメキシコ領内でユカタン半島北部を指し、古典後期に栄えたウシュマル、古典期末に半島北部を支配し た大都市チチェン・イツァ、後古典期に繁栄したマヤパンなどが代表的な都市です。
ユカタン半島中南部で現在のメキシコ、ベリーズ、グアテマラ北部に位置し、多くの都市が興亡しました。
マヤの代表的都市で、数百年に及ぶ繁栄と衰退を繰り返したティカル、ティカルと抗争を続けたカラクムルやカラコル、古典期を代表する都市で多くのマヤ文字が解読されたパレンケなどが有名です。
グアテマラ南部の山岳地帯で、先古典期から古典期までの中心的都市カミナルフュなどがあります。
グアテマラ、エルサルバドルの太平洋沿岸地域で、先古典期後期にイサパ芸術様式と呼ばれるオルメカ文明とマヤ文明を融合した文化を生んだ都市イサパが有名です。
マヤ文明の推移
マヤ文明は「先古典期」(紀元前2000年~紀元後250年)、「古典期」(250年~900年)、「後古典期」(900年~1500年)と3つに大きく区分されます。
先古典期中期の紀元前1000年ごろから文明が勃興し、その中心地はそれぞれの時代によって移り変わりながら、スペイン人が侵入した後古典期後期末の16世紀まで盛衰を繰り返しました。
なおスペイン人が侵略した16世紀以前を「先スペイン期」とも称します。
先古典期の前期(前2000~前1000)ではマヤ人は狩猟採集を主体としながらも、現在のグアテマラ北部、ベリーズなどで徐々にトウモロコシの農耕中心の村を作り始め、土器を使い、農作物の豊穣を祈ることから宗教も始まります。
中期(前1000~400)ごろには、ナクベ、ティカル、セイバルといった南部低地に集落が現われます。
人口が増大すると集落も拡大し、農民、商人、職人などの区別がはっきりとなり、政治や宗教を司る支配者が現われます。
石を使った神殿ピラミッド、球技場などの建設や天体観測なども始まりました。
マヤ文明の始まりです。
後期(前400年~後250)には都市国家が誕生し、マヤ文字や、農業を円滑に営むための20進法の数字、マヤ暦などが創られ、宗教儀式も複雑化されます。
主にマヤ南部低地のティカル、カラクルム、コバン、パレンケなどでは、強大な権力を持つ神聖王と呼ばれる人物たちが巨大な都市国家を樹立し、覇権を争います。
各都市では巨大な神殿ピラミッド、マヤ文字が刻まれた石碑や多彩色土器が多く作られ、マヤ文化は絶頂期を迎えます。
各都市国家は合従連合し、特にティカルとカラクルム(カーン)の2大都市が覇権争いをしますが、どちらもマヤ南部低地を統一するには至りませんでした。
各都市は商業で交流しつつ、一方で戦争も起こしますが、南部低地の都市は800年ごろから、人口増による食料不足など生活状態の悪化や王権の失墜などから衰退しはじめ、ユカタン半島の北部低地に文明の勢力が移っていきます。
ユカタン半島北部低地にマヤ文明の中心が移っていき、1000年の頃、チチェン・イッツァは半島北部の最大の都市として栄えます。
その後1200年ごろにマヤパンが台頭、半島北部を支配します。
マヤパンでは9kmにわたる城壁の中に4000以上の建造物が建設され、17000人の住人が城壁の中で生活したといわれますが、15世紀中ごろには衰退していきます。
スペイン人の侵入・征服
1492年のコロンブスの新大陸発見以来、ヨーロッパ諸国はアメリカ大陸への侵略を繰り返しました。
マヤ文明はそのころ衰退期に入っており、1511年、スペイン軍がユカタン半島に上陸すると、マヤ人は激しく抵抗しますが、武力と組織的な攻撃に徐々に征服されていきます。
1524年にはマヤ高地を侵略・破壊し支配下に置きます。
スペイン人は海岸部や高地の主要都市に植民都市を建設しますが、多数のマヤ人は、地の利を生かしマヤ全土で抵抗し続けました。
マヤの中心地である低地南部のタヤサルは熱帯ジャングルに囲まれたペテン盆地にあり、マヤ最期の都市になりました。
1697年、そのタヤサルが征服され、ついに半島全体がスペインの支配下に入り、マヤ王権の支配は終了します。
スペイン人の侵入は、武力での虐殺だけでなく、天然痘や麻疹などマヤ人が免疫を持たない病原を持ち込んだため、マヤ人の人口は10分の1に減るという歴史上、類を見ない厄災をうけました。
1821年、マヤの後継国家であるメキシコや中央アメリカ諸国はスペインから独立しますが、それはスペイン系が支配する国家の独立であって、先住民であるマヤ人は社会の底辺に据え置かれたまま現在でも貧困問題は続いています。
しかしマヤの文化は現在もしぶとく続いています。
現在もマヤ語を話す先住民族は800万人以上いて、マヤ文化を受け継いで将来に伝えようとしているのです。
マヤ文明の特徴とは?
マヤ文明は、世界4大文明との違いが際立っています。
世界四大文明は、大河のほとりの豊かな水と肥沃な土地の統一王朝でした。
しかし、マヤ文明では、統一国家が作られることなく、ジャングルの中に独立した70を超える大小の規模の都市が分散して興亡しました。
紀元前1000年ごろ、メキシコの南部から中央アメリカにかけて、政治や宗教を司る支配者である王が次々に現われ、熱帯ジャングルの中に数多くの神殿都市を建設します。
最盛期には70を超す都市国家が乱立し、都市間の交流や勢力を争う抗争を繰り返しました。
マヤ文明では、スペイン人が侵略するまでは鉄器は使われることがなく、石器のみの石器文明で、金属は装飾品や儀式に使われたのみでした。
マヤ人は、大型の家畜がいなかったため荷車なども作らず、人力で多数の巨大なピラミッドの神殿を建設しました。
神殿は王族の墓として建設されたほか、宗教的儀式を行う場所、天体観測を行う場所としての役割もありました。
高くそびえるピラミッドは、支配者の権威を高めるとともに他都市への威圧を与えたと見られています。
ピラミッドの正面には王の姿とその事績を刻んだ石碑を建て、民衆に王への畏敬の念を高める役割を果たしました。
マヤの遺跡からは天文台跡とみられる施設が多く発見されていて、盛んに天体観測が行われていたと推測されます。
その結果、マヤ人は他の古代文明と比較にならない高度な天文学の知識を持ち、太陽や月、金星、火星の運行や星座の位置を正確に把握し、30年先の日食も予測できたと言われます。
マヤ人は、このような高度な天文学の知識をもとに多様なマヤ暦を作りました。
また現代人は時間を直線的に考えているのですが、マヤやメソアメリカ文明では「暦は循環する」という独特の考えを持っていました。
マヤでは、すべての日付を現在の太陽暦と17.28秒しか誤差がない365日の周期の暦と260日の周期を持つ暦で併記し、その両方を歯車のように組み合わせ1周期が52年の暦、「カレンダーラウンド」も活用しました。
また約5126年を1周期とする長期暦、約256年を1周期とする短期暦も使いました。
マヤ人は数学も高度な知識を持っていて、古代インドに先立ち、人類最初にゼロという数字を発明し、カウント方法は20進法で、1を点、5を横棒、0を貝殻の絵で数字を表しました。
マヤ文字は800種類ほどの動物や人間の顔、身体、幾何学模様などの組み合わせで1字を表し、単語や文章などの意味を持たせました。偏やつくりでできている漢字と似ているとも言えます。
非常に多くのパターンがあるため解読は難解ですが、石碑や壁画に残されたマヤ文字は高度な文明を記録していました。
マヤ人は高い芸術センスを示す多くの遺物を残しています。
神殿や石碑に刻まれた神々をモチーフとする精緻な彫刻技術は完成度が高い芸術品と評価されています。
また古典期の土器は土偶や動物をモチーフにした多彩な形状と鮮やかでダイナミックな色彩を持ち、豊かな表現力が見られます。
さらにヒスイや硬玉、貝殻を用いた装飾品や大胆な構図と植物や鉱物を原料とした多彩な塗料を使用した壁画はマヤ人の美的センスに溢れています。
マヤ人は神を崇め、神の怒りを鎮めるため、そして西に沈んだ太陽に再び東から生れる力を与えるため、人間や動物を生け贄として捧げました。
この習慣は古典期から始まり、初期は王や神官の耳や舌、性器などから血を採り捧げたのですが、後古典期には捕虜とした敵の王、貴族、球技での敗者や時には勝者を生け贄としました。
チチェン・イツァの神殿には生け贄のシーンを描いた壁画が残っています。
ただし征服したスペイン人は生け贄の犠牲者数を誇張・ねつ造したと言われ、「聖なるセノーテ」では雨乞いのために多くの処女が生け贄にされたと言われていますが俗説のようです。
マヤ文明と都市伝説
マヤ文明が驚異的な高度な文明であったこと、そしてその実像がまだよく解明されていないことなどからいろいろな「都市伝説」と結びついて語られることがあります。
「マヤ人は人類が2012年12月21日に滅亡すると予言している」という都市伝説は1900年代の後半から世界中に流布しましたが、当然のことながら当日は何も起こりませんでした。
都市伝説の根拠は、マヤ暦の一つ、5126年を1周期とする長期暦です。
長期暦では2012年12月21日に1巡し、新たな時代がはじまることから、その日に人類が滅亡するとマヤが予言していると曲解したのです。
発信源はアメリカのオカルト本でした。
1975年にSF作家フランク・ウォーターが出版した「神秘のメキシコ」、デニス・マケンナ、テレス・マケンナの「不可視の風景」、1995年のジョン・ジェンキンスの「マヤ2012宇宙創生記」などが基本書となり増殖していきました。
1927年にイギリス人探検家フレデリック・ヘッジスがベリーズの遺跡を発掘している際、同行した養女アナが水晶のドクロを発見したといわれました。
それは「ヘッジスの水晶ドクロ」と言われ、マヤ時代には考えられない精巧な技術で切削・研磨したもので、しかも解剖学的にも正しい精緻な構造でしたので、これこそマヤに「超古代文明」が存在した証拠となるオーパーツであると長い間話題にされました。
しかし、この発見は虚偽であることが2008年にわかります。
スミソニアン研究施設の調査でドリル加工の痕跡が見つかったことや、アナが発掘に同行していないことが判明したのです。
アナは、ヘッジスがドイツの古物商から買い上げたドクロを相続し、金儲けのため多くの展示会に出品します。
それをジャーナリズムが興味本位に取り上げただけでした。
マヤの低地南部のパレンケは7世紀に栄えた都市ですが、1952年、その神殿ピラミッドに王であるバラムの石棺が発見されました。
その石棺の蓋には浮き彫りが施されてあり、横にして眺めると「ロケットに乗って操縦している宇宙飛行士」に見えるため、「マヤ人は宇宙飛行を行っていた」とし、マヤ「超古代文明」説の証拠という都市伝説が広がりました。
この不思議なレリーフのことは、有名なスイスの宇宙考古学者フォン・デ二ケンの著作「未来の記憶」で広範に流布されます。
しかし、現在ではこの図柄は縦に見るのが正しく、操縦桿と見えるのはマヤでは生命の樹とされるトウモロコシをデフォルメした十字架であり、人物の下のエンジンに見えるものは地下世界を描いたものでした。
すなわち、死んだバラム王が地下世界に飲み込まれそうになりながら、天上世界に再生しようとする姿を描いたと解釈するのが正しいレリーフなのでした。
参考:マヤを知る辞典/青山和夫、マヤ/グアテマラ&ベリーズ/辻丸純一
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