謎の怪僧ラスプーチン、その虚像と実像とは?

人物

ラスプーチンといえば、帝政ロシア末期に登場した奇怪な容貌の僧侶で、皇帝ニコライ二世に取り入り、高官の人事にも介入し国政をろう断、さらに貴婦人たちを怪しげな呪術で次々に虜にし、宮廷を腐敗させ、ついにはロマノフ王朝の滅亡を引き起こした希代の怪僧、妖僧として知られています。

残されている写真では、女性に囲まれ、ボサボサの頭髪と長い顎ひげをはやし、そして鋭い眼光のラスプーチンはいかにも、さもありなんと思われる容貌です。

 ラスプーチンに関する書物はこれまで数多く出版されてきますが、その生涯については異説も多く、殆どがフィクションともいわれています。

ラスプーチンとはいったいどのような人物だったのでしょうか?

ラスプーチンの幼年、青年期

ラスプーチンが世に出るまでの経緯はどこまでが事実か判然としませんが、生い立ちについては次のようにいわれています。

グレゴリー・ラスプーチンは西シベリア、トボリスク県のポクロフスコエという農村の裕福な自作農の次男に産まれました。

生年は、1864、5年ごろといわれていますが、1871年と書かれた書物もあります。

ポクロフスコエは、首都ペテルブルグから東に約2600Km、鉄道や車を使って6~8日かかり、黒海のちょうど真北に位置しています。

少年時代のラスプーチンは、ロシアのほとんどの農村の子供同様に正規の教育は受けていず、父とともに農作業に従事していたようです。

ラスプーチンの伝説の一つは、幼いときから人や家畜の気持ちや性格を読むことができ、病や傷を治すなどの超能力を発揮したといいます。

よく引用されるエピソードは、ある農家で馬が盗まれるという事件が起き、村の大人たちがラスプーチンの家で相談をしていると、それを側で聞いていた幼いラスプーチンは「こいつが盗んだ」とその中の一番裕福な農夫を指さします。

この男は激怒しますが、怪しんだ他の農民が農夫の納屋を調べると、ラスプーチンのいうように盗まれた馬が隠されていたことがわかりその農夫は警察に逮捕されます。

12歳の時、ラスプーチンの人格に影を落とす悲劇が起こりました。

夏の暑い日に兄のミハイルと川に泳ぎに行きますが、急流に足を取られ二人とも流されてしまいます。

近くを偶然に通った農夫に二人とも引き上げられるものの、結局ミハイルは死に、ラスプーチンは助かりました。

ラスプーチンは兄を失い自分だけが助かるというショッキングな経験により強いうつ病となるとともに、ときどき自暴自棄となることもあり、過度な飲酒や喧嘩騒ぎ、あるいは馬泥棒のような事件も引き起こします。

信仰への目覚めと巡礼修行

一方で16歳の時、ラスプーチンは荷馬車の御者の仕事で、100マイル離れたヴェルホトゥレにある僧院に若い修道士を送り届け、しばらく滞在したことをきっかけに信仰に目覚めます。

自宅に帰ってからも、長時間、思索や神に祈るようになり、村人たちとも信仰について語るようになります。

ラスプーチンは元来、人を惹きつける話しぶりをするため、自然に自宅に多くの村人が集ることになり、村の教会からは信者を取られるのではないかと警戒されるほどになったのです。

1890年ごろ、4歳年上の近隣の村の娘プラスコヴィ・ドゥブロヴィンと結婚し、すぐに息子が生まれますが、6ヶ月後に死ぬという悲劇に遭遇します。

そのためラスプーチンはさらに宗教に傾いていき、家を出て巡礼に出ようという思いが強くなります。

子供の死により、宗教への関心へ拍車がかかった頃、ある日一人農作業をしていると太陽の光のヴェールに包まれた聖母マリアが空中に現われます。

聖母はラスプーチンに、自分が示す道に進むように手を遠くの地平線に向け示したといいます。

ラスプーチンは神が自分に大きな仕事を為すよう求めておられると理解し、修行の旅に出ることを決意します。

1890年代の初め、ラスプーチンは、さらなる神の啓示を得るため、巡礼の旅に出ることを決意し、3200Km離れた有名なギリシャの聖なるアトス山を目指し出発します。

わずかばかりの食料だけを持ち、各地の修道院に立ち寄り、あるいは晴れの夜は原野に野宿し、雨の日は農家に宿を請いながら、そのお礼として農民とともに祈り、聖書を論じたり故郷の話をしたり、時には病人のために祈り、病を治したり、苦しみを取り除いたりして旅を続けました。

約10ヶ月の困難な旅の後、アトス山にたどり着きますが、ラスプーチンは、休む間もなくアトラス山から聖地エルサレムに向かいます。

ほぼ2年と半年の遍歴で、魂の浄化、肉体への試練を自らに課し、祈りと冥想の旅を続け、故郷ポクロフスコエに戻った時には、ラスプーチンは智恵と威厳が備わった宗教者として変身していたといいます。

ラスプーチンという特異な修道士の存在は西シベリアの農民や聖職者の間で知られるようになりますが、やがてキエフ、カザンという大都市でも、農民出身の分かりやすく聖書を解説でき、病人を癒やす農民聖職者として名前が広がっていきます。

髪とひげを伸ばし、みすぼらしい服を着た農民出身の僧侶はふたつの都市の上級階級からも評判の修道士としてもてはやされるようになります。

一方で、ラスプーチンについて常に語られるのが異常とも思われる性的放縦さです。

ラスプーチンは相手を突き刺すような鋭いブルーの瞳を持ち、催眠にかけるような視線と、まれに見る肉体的特徴を武器に、数多くの女性と次々に関係を持ったとされ、後にペテロスブルグに出てからも貴婦人たちを誘惑する堕落した聖職者として非難されます。

しかし、反ラスプーチン派が創作した話しという説も根強く真偽は不明です。

ラスプーチンが皇帝に取り入った経緯

ラスプーチンが皇室に近づくきっかけとなったのは、キエフでロマノフ王朝ニコライ二世の叔父にあたるピョートル大公の妃ミリッツァとニコライ大公妃アナスタシアの姉妹と面識を得てからです。

ミリッツァとアナスタシアは降霊術や予言といった神秘思想に傾倒していて、病気を治癒したり予言をしたりするラスプーチンに非常に興味を持ち、皇后のアレクサンドラに紹介します。

1905年、11月14日にラスプーチン皇帝ニコライ二世に初めて面会します。これは「ニコライ二世の日記」に書かれている事実です。

皇帝は「トボリスク県出身の神のごとき人間、グリゴリーと知り合いになった」と書いています。

また、1906年の12月22日には「ミリッツァとアナスタシアは一晩中グリゴリーについて話してくれた」と書き、彼女らがラスプーチンを皇帝に吹き込んでいることがわかります。

ラスプーチンニコライ二世アレクサンドラ皇后の、特に皇后の心をつかんだ経緯は一人息子アレクセイが当時は治療方法がなかった血友病に罹っていたという特殊な事情からでした。

アレクサンドラ皇后は元来内気な女性で、ニコライ二世の母であるマリア皇太后との仲も良くないため、一人息子、アレクセイを育てることが彼女の生活のすべてでした。

その息子が血友病だったことを知ると、アレクサンドラ皇后は、息子を助けるためには何にでもすがったのですが、そこに「神のごとき奇跡を起こす」ラスプーチンが登場するきっかけとなったのです。

アレクセイが3歳の時、転倒すると足に内出血が起こりますが、宮廷の医師たちはひどい腫れに何の対処もできませんでした。

この小さな後継者は苦痛に耐えているほかはなく、ペテルブルグのすべての教会では皇太子の回復のミサが行われ、ただただ祈るのみです。

アレクサンドラ皇后は最期の頼みとしてラスプーチンにすがります。

宮廷に召されたラスプーチンは病室に入るや、子供の傍らに跪き、祈ること10分、やがて目を開きなさいと声をかけると、皇太子は眼を開き、うっすら笑みの表情を表したといいます。

驚くニコライ二世アレクサンドラ皇后に、ラスプーチンは静かに「皇太子を助けたのは自分でなく神であり、皇太子は血友病で死ぬことはない」と述べるのです。

アレクサンドラ皇后は狂喜し、ラスプーチンこそ神が使わした神の代理者と考え、この出来事以来、シベリアの農夫出身の修道士をロシア第一の聖者として傾倒していきます。

ラスプーチンの率直で飾りのない話のうまさに、アレクサンドラ皇后だけでなく皇室一家は虜になり、宮廷に出入り自由の身になります。

ニコライ二世は皇后ほどラスプーチンに傾倒したわけではなかったようですが、「ニコライ二世の日記」には1905年から1918年までの間90回近くラスプーチンと宮廷で歓談した記述が登場します。

ラスプーチンニコライ皇帝夫妻の寵愛を受けていることは瞬く間に政界、宗教界などの上流社会に知れ渡り、やがて、この修道士が高官の人事や国政、対外政策まで介入しているとも噂が広がっていきます。

そうなるとラスプーチンにはいろいろな人間が近づいてきます。

ラスプーチンは、元来性格が開け広げで来る人間を拒むことはしなかったので、病気の治癒やニコライ皇帝への口利きによる猟官などの頼み事のため、貢ぎ物を持ってくる者がひっきりなしとなります。

ラスプーチンがどこまでニコライ皇帝の政治に口出しをしたのかははっきりしていません。「ニコライ二世の日記」にも具体的記述はありません。

皇帝夫妻の寵愛と反ラスプーチンの動き

ラスプーチンに対する皇帝夫妻の寵愛が評判になると、彼に対する羨望や憎しみを持つ貴族や高官も増えていきます。

政府の重鎮の間にもこの農民出身の修道士に嫌悪を持つものが多くなり、当時の首相のストルイピンは、ニコライ二世ラスプーチンが異端宗派の鞭身派(べんしんは)(フルイスティ)の人を邪道に導くニセの宗教者であり、皇室に近づけないようにと進言します。

鞭身派とは一心不乱に歌い踊り、自らをむち打ち、果ては乱交を行う儀式を行っていると噂され、ロシアの地方では密かに普及していたとされる土着の宗教でロシア正教会からは異端とされていました。

ラスプーチンは長期巡礼の途中、鞭身派の集まりに出会ったともいわれますが、その後、鞭身派に帰依し信奉した証拠は見つかっていません。

ストルイピンは直接ラスプーチンペテルブルグを出るように警告します。

1911年、ラスプーチンは警告を受け入れペテルブルグを離れます。

アレクサンドラ皇后ストルイピン首相に激怒し、首相がその直後劇場で暗殺されても冥福を祈ることさえ拒否したといいます。

1912年、皇太子アレクセイが静養先で再び内出血を起こし苦しみ出します。

誰も治療できず、絶望の淵に立たされたアレクサンドラ皇后は、ラスプーチンに電報で助けを求めます。

ラスプーチンは知らせを受け取るとその場で祈りに集中した後、皇后に「神はあなたの願いを聞き入れられた。恐れることはない。皇太子は助かる」と返事を出します。

アレクセイは臨終の儀式を行っていたとされますが、ラスプーチンの返事が到着する直前にその容態は急速に回復し、アレクサンドラ皇后ラスプーチンへの信仰は絶対的なものになります。

この時期に、アレクサンドラ皇后や4人皇女からラスプーチンに当てた、恋文のような手紙が新聞などで暴露され、反ラスプーチン派は政治的に利用し多くの国民も信じる事になります。

この手紙をラスプーチンから盗み、公表したのは、ラスプーチンを憎んでいたイリオドルトという元修道士でした。

イリオドルトは始めラスプーチンと親交があったのですが、ある貴婦人に暴行を行い、ラスプーチンにとがめられ皇帝からペテルブルグから追放され、聖職も剥奪されたためラスプーチンに対し恨み骨髄を持つ男でした。

イリオドルはさらに故郷ボクロフスコエ村に滞在していたラスプーチンに刺客を送り、その後本人はフィンランドに逃亡します。

1914年、6月、ラスプーチンはその刺客であるグセバという物乞いに扮した女性にナイフで刺されます。

田舎道でグセバが手を差し出しながら近づいてきたため、ポケットの小銭を探しているときにいきなりナイフで腹を突き刺され、へそから胸の近くまで切り裂かれました。

馬車で6時間かけて遠くの町の医者まで運ばれますが、出血が激しく助かるチャンスは少なかったとされましたが、奇跡的に回復します。

9月の「ニコライ二世の日記」には「負傷してから初めてグリゴリーと会った」と書いてます。

ラスプーチン暗殺

しかし、ついにラスプーチンの暗殺が実行されます。

首謀者はニコライ二世の妹クセニアの女婿フェリックス・ユスポフ公爵とニコライのいとこであるドミトリー・パブロヴィッチ大公右翼国会議員プリシケヴィッチです。

その中でも主犯はユスポフ公爵で、彼もラスプーチンのもとに足繁く通い親しい関係だったのですが、皇帝の妹と結婚した後、国会で右翼の国会議員プリシケヴィッチによるラスプーチンを弾劾する演説を聞き、ラスプーチンを排除するという使命を悟ったといいます。

ラスプーチンの娘、マリア・ラスプーチンは、ユスポフ公爵ラスプーチンに対する性的好意を拒絶されて憎しみを持っていたと回想録に書いています。

暗殺の状況は、後にユスポフが著作に詳細に書いています。

1916年12月29日の夜遅く、ユスポフラスプーチンを自分の豪邸、モイカ宮殿に招きます。

ユスポフラスプーチンを自宅まで車で迎えに行き、宮殿に着くと、地下室の部屋に招き入れ二人で歓談し、その間、他のメンバーは別の部屋で待機しました。

まずケーキとワインでもてなしますが、そのどちらにも青酸カリが混入されていました。

ユスポフは世間話をしながらケーキを勧めますと、ラスプーチンは2個のケーキを口に入れます。

ユスポフは緊張して様子を伺いますがラスプーチンに変化がないので、額の汗を隠しながら、ワインを勧めますと、ラスプーチンは青酸の入ってないグラスをとり上げワインを一気に飲み干し、このグラスに好物のマディラ酒をついでほしいと頼みます。

そこでユスポスは、手を滑らしたように見せかけグラスを床に落とし割ってしまい、毒を仕組んだグラスにマディラ酒を注ぐことに成功します。

ラスプーチンはそのグラスで2杯の酒を一気に飲み干しますと、やがて不快を訴えテーブルに顔を伏せますが、しばらくして立ち上がったため、恐怖におびえたユスポスは背後に廻り、ラスプーチンを拳銃で数発撃ち抜きました。

ラスプーチンが床に倒れると、銃声を聞いてやって来た他のメンバーも一斉に射撃しラスプーチンは動きを止めました。

ところが、彼らがしばらくラスプーチンの死体をそのままにして処理方法を協議していると、突然、血だらけのラスプーチンが立ち上がり、ユスポスにつかみかかります。

ユスポスは恐怖にかられ、中庭に逃げますがラスプーチンが追いかけてきたので、プリシケヴィッチが拳銃で撃ち、倒れたラスプーチンを自制心を失っているユスポフとともに何回も殴る蹴るなどして今度こそ息の根を止めました。

そのあと布に死体をつつみ、車に乗せ深夜のペトロフスキー橋から凍った川に投げ捨てたのです。

ラスプーチンの遺体は2日後に見つかります。死因は溺死でした。

ラスプーチンは水中で蘇っており、硬直した指は十字を切ろうとしていたことを示していて、驚くべき生命力です。

ラスプーチンの死を知ったアレクサンドラ皇后は、悲しみ、怒り、暗殺者の処刑を皇帝に訴えますが、皇室の身内だったため、ユスポフは地方都市に、パブロヴィッチ大公は戦争の最前線であるイランに追放されます。

ラスプーチンの遺体は、アレクサンドラ皇后の指示により、皇帝の離宮があるツァールスコエ・セロの教会に葬られました。


ラスプーチンは本当にロシアに害を為したのか?

ラスプーチンは生前に自分の死を予感し、

「私は1月1日以前にこの世を去ると予感する。もし、私が兄弟たるロシアの農民に命を奪われるなら、皇帝はなにも恐れることなく皇帝の地位にとどまり続けるだろう。しかし私がこの国の貴族に殺されれば帝国は滅び、あなた方の家族も2年以内にこの世を去ることになる」

という趣旨の書簡をニコライ皇帝に残していました。

ラスプーチンが死ぬとこの書簡は、アレクサンドラ皇后に届けられますが、皇后はニコライ二世に見せることなくラスプーチンの遺族に返しました。

1917年、2月23日、2月革命が起こり、3月15日、ニコライ二世は退位し、ロマノフ王朝は崩壊します。

ロシア臨時政府は、ツァールスコエ・セロ教会ラスプーチンの遺体を掘り出し、ペトログラードから運び出し、山中で焼却したといわれます。

1918年7月17日、ロマノフ王朝最期の皇帝、ニコライ二世、アレクサンドラ皇后夫妻とその家族は、抑留地の西シベリア・トボリスクにある住居の地下室で射殺され、ラスプーチンの予言の通りとなったのです。

ラスプーチンの死後、彼に関する書物が次から次に刊行され、その人物像が形成されていきます。

まず、あの追放された元修道士イリオドルは、恨みを込めて「聖なる悪魔」を刊行し、ラスプーチンを好色漢、大酒飲みで皇帝に取り入った詐欺師として辛辣に描いています。

その後も、ラスプーチンに関する書物は次から次へと出版され、どれもがラスプーチンをニセの聖職者、詐欺師、色情狂の妖僧として描き、アレクサンドラ皇后を籠絡してニコライ二世に取り入り、国政をろう断した怪僧として描き、その人物像は定着しています。

ラスプーチンの本当の姿はどうだったのでしょうか?

ラスプーチンの娘、アンナは回想録で「父は立派な宗教者であった」とし政治の介入には否定しています。

「ニコライ二世の日記」にも、ラスプーチンの名前は何遍も出てくるものの、政治介入らしき話はなにも出てきません。

日記の「グリゴリーと話しができてうれしかった」とか「グリゴリーと1時間半楽しい時を過ごした」などの記述には、皇帝を廻る状況が混迷を深める政治情勢のなかで、ニコライ二世が、ラスプーチンが宮廷にやってくるのを待ち焦がれ、彼と話しをすることで、心の安定を得ている様子がうかがえます。

ラスプーチンは、ニコライ二世とアレクサンドラ皇后心療カウンセラーの役割だったように思えます。

アレクサンドラ皇后は人事などに口出ししたといわれますので、皇后を通じてラスプーチンの影響力は否定できませんし、よく言われる女性関係も多少は羽目をはずこともあったかも知れません。

しかし、その奇怪な人物像は、帝政末期の混乱した権謀渦巻く政治情勢の中で、ラスプーチンを宮廷から排除しようとする一派により、ほとんど創作された虚像というのが真実ではないのでしょうか。

ラウプーチンに関するさらなる研究が待たれます。

参考:「ラスプーチンその虚像と実像」/ジェーン・オークレー,「ニコライ二世の日記」/保田孝一


 

 

 

 

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