13世紀後半、マルコ・ポーロはヴェネツィアから中国まで命がけの大旅行を敢行したとされます。往路は陸路で復路は海路の旅でした。
中国は元王朝の時代で、マルコは皇帝フビライに17年間にわたって仕え、その間、フビライの使者として中国各地に派遣されたといいます。
マルコはやがてヴェネツィアに帰国すると、中国をはじめアジア諸国における多彩な見聞を書物にまとめます。
これが有名な「東方見聞録」です。
なお、この名は日本訳の書名で、原題は「世界の記述(叙述)」といいます。
マルコはこの書で日本の存在を「ジパング」という名称で初めてヨーロッパに紹介しました。
しかし、マルコ・ポーロとその東方旅行については「東方見聞録」以外に資料はほとんどなく、「東方見聞録」にも自身についての記述は少ないためその生涯はあまりわかっていません。
「東方見聞録」の誕生の経緯や内容についても疑問がつきまといます。
さらに近年、「マルコ・ポーロは、本当は中国には行っていない」という衝撃的な説が話題となっています。
マルコ・ポーロとはどういう人物で東アジアへの旅とはどのようなものだったのでしょうか。
また黄金の国・ジパングとは、そして「東方見聞録」が誕生した経緯、マルコ・ポーロの東方旅行の真偽についても調べてみました。
ポーロ兄弟の東方旅行
「東方見聞録」(以下、見聞録)によると、マルコの東方旅行は単独行でなく、父・ニコロ・ポーロと父の弟、マルコにとっては叔父にあたるマテオ・ポーロとともに行った旅でした。
しかも父ニコロと叔父マテオはその前にも中国を訪れており、ふたりにとっては2度目の旅だったのです。
ニコロとマテオ兄弟の最初の旅の様子は「見聞録」の「序章」に記されています。
それによると1260年、ヴェネツィアの商人であるニコロ・ポーロとマテオ・ポーロの兄弟はコンスタンチノープルで宝石類を仕入れると、商売を行うために黒海の対岸のクリミヤ半島にわたり、そこからモンゴル帝国のキプチャク・ハン国やチャガタイ・ハン国に足を延ばします。
二人はチャガタイ・ハン国に3年もの長期滞在をして商いを行いますが、そこでモンゴル帝国の宗主である元朝のフビライ皇帝が西洋人の来訪を歓迎していると聞き、さらに東に向かい1年以上をかけて元朝の首都・大都(だいと)に至ります。
フビライは西洋世界に関心を持つ視野の広い人物でポーロ兄弟に謁見を許して手厚くもてなし、ヨーロッパの事情やローマ教会などについて興味深く聞き入ったといいます。
フビライはポーロ兄弟に、賢者100人の派遣要請などローマ教皇あての書簡を託し、またエルサレムの聖墓に灯されている燭台から聖油を少々持ち帰ることを命じます。
賢者100人の派遣というのは、国内統制の懸案になっている偶像教徒(仏教・ラマ教)らの勢力を押さえ込むために、偶像崇拝が悪魔の所業であると論破できる聖職者を欲したためのようです。
フビライはその賢者が偶像教徒を論破できたら、自らキリスト教に改宗してもよいとまで言ったといいます。
ポーロ兄弟が元を出発したのが1266年ごろとされ、フビライから与えられた特権の印である牌子(パイザ)のお陰でモンゴルの各都市で優遇を受け、商売をしながら帰還の旅を続けました。
1269年にエルサレムの隣の都市アッコに着くと当時のローマ教皇クレメンス4世は没し、教皇は空位になっていることを知り、パレスチナ駐在の教皇特使テオバルドに面会しフビライ皇帝から託された使命を報告します。
その後、ふたりはヴェネツィアに到着しますが、出発から9年の年月が経っていてニコロの妻はすでに亡くなり、待っていたのは出発後に生まれて15歳になっていた息子・マルコでした。
マルコの15歳までの生活については妻の妹フローラに育てられていたという以外は「見聞録」でも語られておらずほとんど知られていません。
マルコ・ポーロの東方旅行
ポーロ兄弟は、しばらくヴェネツィアに滞在して、1270年の年末に17歳となったマルコ・ポーロを伴い、再び東方に出発します。
二人は元朝に戻り戻り、フビライに復命して信頼を得て多くの富を獲得したかったのです。
これが世界史上あまりにも有名なマルコ・ポーロの東方旅行です。
ポーロ兄弟とマルコは、出発する前に新教皇に就任したテオバルド、すなわちグレゴリウス10世に招かれ、2人の修道士にフビライ宛の書状を持たせ使者として派遣するので同行するよう依頼されます。
書状の内容はカトリックの東方伝道への支援要請が記されており、また修道士の派遣はフビライの聖職者100人派遣要請に不十分ながら応えるためだったと思われます。
ところが出発してまもなく紛争地域に来ると修道士たちは怖じ気をなし書状をポーロ兄弟に預けて引き返してしまい、結局3人で旅を続けることになりました。
3人が元朝の夏の都・上都(じょうと)に到達したのは1274年で、フビライは都から40日の工程のところまで出迎えの部隊を出しました。
3人はフビライに謁見しローマ教皇の書簡とエルサレムの聖油を献上するとフビライは大いに喜び、あらため3人を臣下として遇しました。
以後17年間マルコたち3人は元朝で生活することになります。
元王朝での生活
マルコたちはフビライの宮廷で手厚く遇され、重臣にも劣らぬ地位を与えられたと「見聞録」は述べます。
特に若いマルコはモンゴル人の言語や習慣をすぐに習得し、有能で慎み深かったため、フビライは寵愛し常に側近として侍らせます。
マルコは頻繁に中国各地や南方に使者として派遣され、帰還すると各地の情報を詳しく報告し、珍しい土産も持ち帰ったためフビライを喜ばせました。
ただ不思議な事に、ニコロやマテオの動向については「見聞録」はほとんど伝えません。
マルコはフビライ皇帝を古今東西、比類のない武力と財力を持つ最強の帝王として描きます。
戦いでは勇猛だが、天災や飢饉の時には庶民の税を免除し食料を施すなど慈悲深さを兼ね備えた、キリスト教にも寛容な偉大な大王だったと述べます。
その容姿は、肉好きがよく中背で、顔色は白皙(はくせき)に赤みを交え、眼は黒く美しく、鼻は格好よくずっしりとして端麗であったとします。
このようにマルコがフビライを最大級に賛美するところに、フビライの寵愛を受け臣として仕えたことへの誇らしさが見て取れます。
黄金の国・ジパング
マルコ・ポーロは日本を「ジパング」という名で初めてヨーロッパ世界に紹介しました。
マルコ自身はジパングへは行かなかったと述べていて伝聞であることは明確にしています。
まず、ジパングは大陸の東方1500マイルの大洋中にある大きな島で、自分たちの国王をいただき独立国をなし住民は肌の色が白く礼節正しい偶像教徒(仏教)であると説明します。
マルコはジパングを黄金の国としてその素晴らしさを次のように描写します。
「この国では至る所から金が産出するので国人は皆莫大な黄金を所有しているが、大陸からは商人をはじめ誰も行ったことがないので、豊富な黄金は国外に持ち出されることはなかった。
国王の宮殿は純金ずくめで、屋根は純金で葺かれ、部屋の床も指二本の厚さの純金が敷き詰められ、広間も窓も一切が黄金作りである。
金のほかに真珠も多量に産し、バラ色をした丸い大粒の真珠はとくに美しいが、人が死んで土葬に際しては一粒の真珠を死者の口に含ませる習慣がある。
ジパングは黄金や真珠のほかに多種多様の宝石が産出し本当に富める国である」と賞賛しますが
またジパングの宗教については「中国の華北(カタイ)や江南(マジン)と同様の偶像教徒(仏教徒)で、牛・豚・犬などの動物の頭をした偶像を崇拝するが、一頭で四面や千の腕のある偶像もある」などと述べます。
マルコは偶像崇拝に嫌悪感を示し、キリスト教徒が偶像崇拝について見聞きすることは重罪に値するのでこれ以上書かないとして記述を止めます。
マルコは「元寇」についても記述しています。
マルコたちが元朝に到着した1274年に「文永の役」が起こっていますが、「見聞録」の記述は1281年の「弘安の役」のことと思われます。
フビライはジパングの無尽蔵の富を伝え聞き、武力でこれを征服することを決意し2人の将軍にジパングへの侵攻を命じます。
しかし、将軍たちはお互いにいがみ合い協力することがなかったとし、さらにジパング島に到達して都市を攻撃する直前に大暴風が襲います。
そのため遠征軍の艦隊は互いに激突し、多くが難破したため将軍たちは将校のみを船に乗せると、3万の兵卒を孤島に置き去りにして帰還しました。
残された兵卒はジパングの本土に上陸して奮戦しますが、ついには降伏しジパング侵攻は失敗に終わります。
フビライは激怒し、将軍のうちのひとりを斬首刑にし、もうひとりは絶海の孤島に流刑にしたようです。
ヴェネツィアへの帰還
「見聞録」によると、ニコロ、マテオ、マルコ・ポーロの3人は17年間元朝に滞在してフビライ・ハンに仕えます。
その間、彼らは度々フビライに帰国の願いを行いますが、フビライは彼らを手放したがらず許可しませんでした。
マルコたちは、自分たち西洋人がフビライに重用されていることに不満を抱いている重臣がいることに薄々気づいていて、高齢であるフビライが亡くなるとこれまで寵愛されてきた自分たちにどのような危険が訪れるかわからないと懸念していたのです。
1290年、ついに帰国の機会が訪れます。
イル・ハン国の新しい王妃となる女性を元朝から送り出すことになり、フビライはその随行として3人に帰国を許します。
フビライは3人にローマ教皇やヨーロッパ諸国の王公宛の親書を託し、必ず戻ってくるよう命じて送り出します。
4本マストに12枚の帆を張る14隻の船が用意され、そのなかには水夫が250人ほど乗り込む大船も4、5隻があったといいます。
一行は泉州の港(福建省)から2年分の食料を積込んで船出し、スマトラのランブリ、セイロン島などを経由し、イル・ハン国の上陸地であるホルムズ港に到着したのは1年半後でした。
最初に船に乗り込んだ人員は600人以上いたのが、ホルムズに到着したときには18人しか残っていなかったといいます。
マルコらはホルムズから陸路で王妃をイル・ハン国のタブリーズまで送ると、船でコンスタンチノープルを経由してヴェネツィアに帰還したのは1295年でしたが、前年の1294年にフビライ皇帝は崩御しています。
東方旅行に出発して24年が経過し、マルコはすでに41歳になり、父のニコロ、叔父のマテオは60歳を越え老境に入っていました。
3人がヴェネツィアのかつての自宅を訪れると、そこには見知らぬ人が住んでいて親族さえも初めはポーロ家の者とは信じなかったといいます。
東方見聞録の誕生
マルコが帰国した当時、イタリアの2大都市共和国、ヴェネツィアとジェノヴァは地中海、黒海沿岸の商業権益の覇権を争い、抗争が激化していました。
「見聞録」によると1298年、マルコは、経緯は不明ながらヴェネツィアの艦隊のガレー船に指揮官として乗り込んでいたところ、ジェノヴァ軍との海戦に敗退し、捕虜となって投獄されます。
その獄中で同じく投獄されていたピサ市出身の作家ルスティケロと運命的な出会いをします。
ふたりは意気投合すると、マルコは東方旅行での経験を語り、ルスティケロに持ちかけそのすべてを記録させます。
ふたりはジェノヴァの牢獄で口述と筆記の共同作業を行うこと2年間、数千枚に及ぶ旅行記を完成させました。
これが「東方見聞録」誕生の経緯です。
「見聞録」は、元朝の繁栄とフビライ皇帝の豪奢な宮廷、中央アジアから東南アジア、インドおよび黄金の国ジパングまで周辺諸国の風物や習慣を描写し、中世ヨーロッパに中国とアジアを初めて詳細に紹介しました。
しかし当時の人々はその内容を荒唐無稽な物語としてとらえ「見聞録」の真価を理解する人は少なかったようです。
マルコが東方旅行を語るときの口癖だった「百万」という言葉をからかい、マルコに「百万(イル・ミリオーネ)」というあだ名をつけて呼んだといいます。
当時は印刷技術が発達していなかったため、手写により多くの写本がつくられて読まれましたが、原本は早い時期に失われたとみられます。
「東方見聞録」が評価されるようになったのは15世紀、大航海時代が到来してからで、同時期に活版印刷技術が発明されると、「見聞録」はヨーロッパ中に普及し、詳細に描いたアジア各地の地理と風物は人々のアジアへの憧憬をかき立てました。
クリストファー・コロンブスが「見聞録」を携帯し、大西洋を西へ向かって航海してインドに到達したと誤解してアメリカ大陸を発見したのは有名な話です。
また20世紀に入ってスエン・ヘディン、オーレル・スタインらの探検家がアジアの奥地を調査した際、「見聞録」の正確な記述に驚嘆したといいます。
その後のマルコ・ポーロ
1299年ごろ、マルコは釈放されヴェネツィアに帰りますが、その後の人生については資料がほとんどなく、おそらく商人として生活したものと思われます。
唯一、ヴェネツィアの公文書館に残されたマルコの遺言書から、ヴェネツィアで結婚して3人の娘がいたことがうかがえますが、所有していた財産はつつましく、大富豪というわけではなかったようです。
「見聞録」の著者として有名人だったはずですが、ヴェネツィア市などから公式に表彰されたり、公的地位を与えられた記録は残されていません。
このことから華やかな前半生に比べると、晩年は恵まれなかったようにも思われます。
東方から帰還して29年後の1324年、マルコ・ポーロは、70歳で世を去ります。
ヴェネツィア市内のサン・ロレンツ教会にある父・ニコルの墓の傍らに葬られました。
マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか?
「東方見聞録」については、中国、アジアの状況を初めて西洋世界に詳細に紹介した書物として賞賛される一方で、昔からその内容や誕生の経緯について数々の疑問が呈されてきました。
よく言われるのは、旅行記にもかかわらず、マルコ・ポーロ自身の体験談の記述が少なく、博物誌や百科事典的であることです。
例えばアジア大陸横断の陸路、中国からイラン・ホルムズ港までの海路の旅がどのようなものだったのか、どのような体験をしたのか、元朝で父・ニコル、叔父・マテオと17年間も、どのような生活を送ったのかなどがまったく記述されていません。
またヴェネツィアに帰還した後、フビライの書簡をローマ教皇に届けたのかどうかも「見聞録」は沈黙していますし、ローマ教会にもフビライの書簡は存在しません。
そのほか史実との違いも多々指摘されました。
しかし、これまで、これらは「見聞録」が執筆される際の取捨選択の問題とか、あるいはマルコの記憶違いなど許容範囲として理解され、マルコ・ポーロの業績を大きく損ねることはありませんでした。
そもそも牢獄であのような詳しい書物が書けるのか、マルコの記憶力は人間の能力の限界を超えているのではないかという懐疑にも、牢獄責任者の特別の配慮があったのだろうとか、旅日誌など手持ちの資料を牢獄に持ち込むことが許されていたのではなどと擁護されてきました。
ところが近年、そもそもマルコ・ポーロは中国にはいっていなかったのではないのかという説を述べる研究者が出てきています。
これは新説というよりも,従来からささやかれていた疑念が表面化したともいえます。
そのひとりであるイギリスの研究者、フランシス・ウッドは、著書「マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか」(草思社、栗野真紀子訳)で、
「見聞録」が中国の詳しい風土、風物を紹介しているにも関わらず、ヨーロッパ人にとって興味深いはずの事柄にまったく触れていないと述べます。
例えば西洋人にとっては風変わりな模様の「漢字」、「見聞録」に登場する土地の多くが産地であり中国の一般的な飲み物の「茶」、マルコも見かけたはずの中国女性たちの奇習である「纏足(てんそく)」などです。
マルコらが陸路で中国に向かったコースだと必ず見られたはずの巨大な建造物「万里の長城」についても一切述べていません。
これらはマルコが本当に中国を訪れていたら記述から落とすはずはないと主張します。
またマルコたちはフビライに重用されたと誇りますが、「元史」だけでなく宮廷人の日記などその他の記録にポーロたちの名前は一切出てこないことにも疑惑の目を向けます。
さらには「見聞録」ではフビライの襄陽(じょうよう)攻撃の際、投石機の作り方を教え、その征服に貢献したことを誇らしく記述していますが、元史ではこのときペルシャ人軍事技術者を採用したと書かれていて、そもそもこの戦いはポーロたちが元朝に来る1年前の出来事だったのです。
モンゴルの王女がイル・ハン国の国王に嫁ぐための旅については歴史上の事実として記録されていますが、そこにはポーロたち外国人が同伴したという記述はまったくありません。
これらは他の記録を借用して、その中心に自分たちを据えるという捏造例とします。
フランシス・ウッドはこれらのことを論証して、マルコ・ポーロは中国には行かなかったと結論づけます。
ただ、父ニコル、叔父マテオが元朝を訪れたことまでは否定しません。
マテオの遺言書に自分の金の牌子(パイザ)をマルコが返さないため仲違いし争っていた記録があるからです。
牌子(パイザ)は、モンゴルの支配者から与えられるものですからフビライと面会した確率が高いとし、ニコルと自分が危険な旅をした証拠をマルコが奪い、勝手に物語を書き換えたことを憤慨したのではないかと推測します。
それでは、中国に行っていないマルコ・ポーロがなぜ詳細な「見聞録」を書くことができたのかという問いに対して、フランシス・ウッドは、マルコが参考にした原資料は見つかっていないと認めつつ、次の可能性を指摘します。
父ニコルと叔父マテオの東方旅行の際の情報が当然参考になっただろうし、ニコルたちは商売上、多数の東方の資料や案内書を持っていたのではないか。
唐代以降長安など中国の大都会には多くのアラブやペルシャの商人たちが滞在したといわれていて、未発見のアラブやペルシャ語の資料があったはずで、マルコやルスティケロはそれらを入手できた可能性がある。
これらを参考に、職業作家ルスティケロの筆力により壮大な旅行記ができあがり、その後、手写が繰り返され、その都度新しく、詳細な情報が付け加えられて今日の「見聞録」が完成したのではないかと主張するのです。
マルコ・ポーロと東方見聞録の真実とは・中国へは行っていない!?(まとめ)
以上、マルコ・ポーロと東方見聞録についてまとめました。
マルコ・ポーロの東方旅行については、「山川世界史」においてさえも、
「・・・ただ、中国側の記録や『世界の記述』の矛盾を根拠にしてマルコ・ポーロが実際に中国に行っていないとの考えやその実在さえも疑う識者もいる」
と書いていて、「マルコ・ポーロは、本当は中国に行っていなかった」という説は単なる奇説とはいえなくなっています。
もちろん、やはりマルコは実際に中国に行き、自分の見聞をもとに「東方見聞録」を書いたというのが多数意見であることは間違いありません。
マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのかどうか、今後この論争に決着は付くのでしょうか。
フランシス・ウッドはマルコ・ポーロが中国へ行ったかどうかにかかわらず、「東方見聞録」は中国や東アジアについての貴重な情報源として大きな存在意義があり、マルコの記録者としての功績は毀損されないと付け加えています。
参考:マルコ・ポーロ/東西世界を結んだ歴史の証人(佐口透)、マルコ・ポーロ/「東方見聞録」を読み解く(海老澤哲雄)、 マルコ・ポーロは本当に中国に行ったのか(フランシス・ウッド/栗野真紀子訳)
コメント