12世紀半ば中世ヨーロッパ世界がイスラム勢力の攻勢により危機に陥った頃、人々の間には東方に知られざるキリスト教の強大な王国があって、その大王プレスター・ジョンが救世主としてやってくるというまことしやかな風説が広まりました。
それを裏付けるようにローマ教皇やヨーロッパの諸侯にはプレスター・ジョンからの書簡が届きます。その内容は自らの大国の壮大さを誇り、キリスト教国としてヨーロッパ諸国と連帯してイスラム勢力に対抗することを期待させるものでした。
ヨーロッパの人々はその話に歓喜し、教皇アレクサンデル3世もその書簡を信じて救援要請の親書をしたため使者を派遣します。しかしその使者は戻って来ずプレスター・ジョンの救援軍も姿を現わすことはありませんでした。
はたして謎の大王プレスター・ジョンとその王国は実在していたのでしょうか。

プレスター・ジョン(Wikipediaより引用)
ヨーロッパ世界の危機
1096年、ヨーロッパ世界は危機を迎えます。セルジューク・トルコが活動を活発化し、東ローマ帝国(ビサンティン帝国)に侵攻したのです。またセルジューク朝はエルサレレムを占拠しキリスト教徒の聖地巡礼を妨げます。
そこでローマ教皇ウルバヌス2世は東ローマ帝国の救援と聖地回復のために6万から10万人と言われる各国の連合軍を派遣しました。これが第一回十字軍の遠征です。
当初、十字軍の士気は高く1099年にはエルサレムを奪還し、キリスト教徒によるエルサレル王国を樹立します。しかしその後、イスラム勢力の攻勢は激化し、1187年アイユーブ朝を創設したサラディンによりエルサレムは再び占領されます。そのためヨーロッパ諸国は続けて十字軍が派遣しますがエルサレムを二度と奪還することはできませんでした。
エルサレムが再びイスラムの手に落ちたことはユーロッパ世界にとって衝撃的なことでした。さらに地中海地域までイスラム勢力が進出してきたためキリスト教世界の危機感は頂点を迎えたのです。
そんな時、人々の不安を打ち消すように「東方世界に未知なる強大なキリスト教国があって我々を救うためにやってくる」という噂がヨーロッパ中に駆け巡ったのでした。
プレスター・ジョン王国の探索
プレスター・ジョンの名が初めて歴史に登場するのはドイツ・バイエルンのフライジングという町の司教オットーが1145年に著した「年代記」の中です。そこでオットーは前年にローマ教皇のもとにエルサレムの救援要請のために派遣されてきたシリア人司教ヒューゴという人物から聞いた話を記します。
ヒューゴが次のように語りました。「東方にはかつてローマ・カトリック教会からは異端として追放されたネストリウス派のキリスト教徒の大王がいる。その大王プレスター・ジョンは巨万の富と権力を持っており常にエメラルドの王笏を使っている。プレスター・ジョンはイスラム勢力のペルシャと戦って勝利し、さらにエルサレムを救済するために軍を進めようとしたが厳しい気候のためやむなく兵を引き上げた。しかし彼はイエス・キリスト誕生の際に東方から訪れた三博士の子孫であり、キリスト教の聖地エルサレムの回復には並々ならぬ意欲を持っている」
ネストリウス派が東方へ勢力を伸ばしたことはよく知られた事実であり、ペルシャと東方民族との戦いは実際にあった史実なのでオットーの聞いた話はまちがいないと広く信じられていきます。
さらにヨーロッパの人々を信じさせたのがプレスター・ジョンから送られてきたという書簡でした。その書簡はビサンチン帝国のマヌエル1世、さらにはローマ教皇やヨーロッパ諸国の国王にも届きました。書簡は多くの年代記や小説にも取り上げられ、現在でも100通あまりの写本が残されています。
その書簡でプレスター・ジョンは、自らを徳の高い人間であり富や権力についても他に比する者がない大王と誇りました。彼は72の地域の王を従え、その支配は西のバビロンから東は3つのインド諸国、そしてその先まで広がっていると述べます。また国の秩序については厚いキリスト教信仰心により正義と平等が保たれているとし、軍事力はペルシャやトルコなどイスラム勢力を打ち破る強大な力を持っていると誇示しました。
そこでローマ教皇アレクサンドル3世はかつて異端として追放したネストリウス派のキリスト教徒たちが救いにやって来たと考え、1177年に藁をもつかむ気持ちで親書をしたためて側近の侍医フィリップスを派遣したのです。
しかし、その努力は徒労に終わります。フィリップスの使節団は2度と戻ることはありませんでした。
プレスター・ジョン伝説の背景
それではオットーが聞いたというシリア人司教ヒューゴの話しというのは全くの作り話だったのでしょうか。プレスター・ジョンの書簡といわれるものも偽作だったのでしょうか。
現代の研究では、プレスター・ジョンとその王国の存在は当時のアジア情勢とヨーロッパ世界の危機感、そしてヨーロッパ人が東方世界に対して抱く憧れや畏れにも似た思いが混在化して作り出された幻想で、ヨーロッパ世界における権力闘争のなかで巧みに利用され拡大されていったとし、プレスター・ジョンとその王国は実在せず、書簡なるものも偽書にすぎないと結論づけています。
実は中世ヨーロッパ人にとって東方世界は未知なる神秘的な世界でした。そこには黄金や絹、香料など莫大な富と不思議な自然や怪物、奇異な民族が存在すると信じられていました。さらにイエスの使徒トマスがインドで広く布教をおこなったという伝説も伝わり、イスラムという敵に対抗するキリスト教の同盟国が存在するとしてヨーロッパの人々は憧れにも似た幻想を持つようになっていたのです。
1122年にはインドの総主教ヨハネと自称する人物がローマ教皇カリストゥス2世を訪問していたという真偽不明の話が流布しています。ヨハネはインドには聖トマスを起源とする聖トマス教会と多数のネストリウス派キリスト教信者が存在していると話し、自分を正式のインド大司教に任命するように求めたといいます。おそらくこの話がのちにプレスター・ジョン(司祭(Prester) ヨハネ(John))という名を生んだ源流と思われます。
一方、中央アジアにおいては新たな勢力が台頭していました。西遼(カラ・キタイ)です。中国北部、モンゴルを支配していた契丹の指導者、耶律大石は女真族の金王朝に追われて中央アジアに移動し西遼を建国します。西遼はさらに西に勢力を伸ばし1141年にはサマルカンド付近でイスラム勢力であるペルシャのセルジューク朝トルコと激突して大勝利をおさめました。そしてイスラム勢力の大敗の知らせがヨーロッパに伝わると、あたかも東に存在していたキリスト教徒の王プレスター・ジョンがヨーロッパを助けにやってくると人々は熱狂したのです。
かたやヨーロッパ内部では「カノッサの屈辱」に端を発するいわゆる「叙任権闘争」といわれるローマ教皇と神聖ローマ皇帝との激しい権力闘争が起こっていました。教皇側は、教皇は神の代理者であり神聖ローマ皇帝に戴冠する権利があると主張し、皇帝側も神聖ローマ皇帝は神より直接統治を委任されておりその地位はローマ教皇が左右するものではないと反論、ヨーロッパの最高指導者の地位をめぐって皇帝フリードリッヒ1世(赤髭王バルバロッサ)と教皇アレクサンドル3世の対立は頂点を迎えていました。

ローマ教皇庁
そのような時に皇帝、教皇の両側は人々の喝采を集めていたプレスター・ジョン伝説を自らの勢力の強化に利用します。
とくに神聖ローマ帝国側はプレスター・ジョンの伝説を同じ世俗の王国として皇帝権力の正当性と優位性を強化することに使います。プレスター・ジョンの書簡は現在では神聖ローマ皇帝側が創作した偽作であるとする説が多数説となっていますが、その根拠は今に伝わる書簡の写本がすべてドイツにあり神聖ローマ帝国領の修道院から流布したものであること、その内容も皇帝優位の思想が如実にみられることなどをあげます。
他方、教皇側は自ら主導した十字軍が苦境に陥っている時に、神は見放していない、教皇の力により東方からキリスト教の王国が援軍にやってくると喧伝し人々の喝采を得ることに利用しました。
ただ十字軍を援護してくれる東方の王国の存在には歓迎したものの、プレスター・ジョンが異端としたネストリウス派であったことには教義的には受け入れられないため複雑な感情を持たざるをせざるを得ませんでした。このことは教皇アレクサンダー3世が側近のフィリップスに持たせたプレスター・ジョンへの書簡の内容に滲み出ています。
前出のオットーの年代記あるいは13世紀のハインリッヒの修道院年代記などに引用された教皇のプレスター・ジョンへの書簡において、教皇は冒頭にプレスター・ジョンのことを「神の恩寵のもとにある高貴で司祭にして王であるプレスター・ジョン王」と持ち上げて友好的な同盟を呼びかけ暗にイスラム勢力に対する反撃の支援を求める一方で、ローマ・カトリックが正統でキリスト教の長であるローマ教皇に従うべきと婉曲的に釘を刺したのです。
さらに続くプレスター・ジョン伝説
その後も400年にわたってプレスター・ジョン伝説はヨーロッパの人々の心を捉え続けました。
13世紀はじめにはプレスター・ジョンと称するダヴィデ王が西に向かっており、すでにペルシャを征服しバクダードへ進んでいるという風聞がヨーロッパ中に広がります。
当時ヨーロッパ世界は第5回の十字軍派遣を行い、イスラム勢力の根拠地となっていたエジプトへの進軍を進めていました。ヨーロッパ人はプレスター・ジョンの再登場に喜び、彼の援軍を期待してカイロに軍を進めます。しかし、またしてもプレスター・ジョンは姿を見せず十字軍は大敗を喫します。
その時ヨーロッパ人が待望したプレスター・ジョンの軍隊は後年の歴史が証明したようにチンギス・ハーン率いるモンゴル民族の大遠征だったのです。

モンゴル軍
それでもローマ教会は十字軍への応援を求めて1245年には修道士ジョバンニ・カルピネを、1253年にはウイリアム・ルブルックを東方に派遣しプレスター・ジョンの王国を探させます。しかし結局のところ、彼らはむなしく帰国し「プレスター・ジョンとその王国はなかった」と報告せざるをえませんでした。
このように東方からイスラム勢力と戦う集団の情報がもたらされるたびに,ヨーロッパ人はプレスター・ジョンの伝説と結びつけ、今度こそプレスター・ジョンの軍勢ではないかと期待したのでした。
アフリカのプレスター・ジョン王国
やがて中央アジアにプレスター・ジョンの王国が存在しないとわかってくると、ヨーロッパの人々は伝説の舞台を東アフリカのアビシニア(エチオピア)に求めます。
ヨーロッパ人はエチオピアには古代からキリスト教(コプト派)国が存在していることを知っていました。
またインドやさらにその東から運ばれる香料がまず東アフリカの沿岸で陸揚げされていたこともあり、ヨーロッパ人はエチオピアをインド諸国の王国と誤認していました。さらに周囲をイスラム勢力に囲まれていたこと、エチオピアの王が宗教的権威を保持していることなどからヨーロッパ人が持つプレスター・ジョン伝説のイメージに合致してため「エチオピアこそプレスター・ジョンの王国だ」と信じるようになります。
1520年にポルトガルよりエチオピアに派遣された探検家で牧師のアルバレスは著書「エチオピア報告・インド諸国の司祭ジョアン」でエチオピアこそプレスター・ジョンの王国だったと書きます。彼の書籍はヨーロッパ中で読まれたためエチオピアにプレスター・ジョンの王国があると広く信じられるようになり、14~16世紀のヨーロッパの世界地図ではアフリカ東部にはプレスター・ジョン王国が書き込まれました。
しかし、ヨーロッパとエチオピアの交流が活発になりポルトガルの使節団が長期滞在するとエチオピアが伝説で語られたプレスター・ジョンの王国と違うことがわかってきます。この国は黄金や宝石に満ちた王国でなく強大な軍事力もありませんでした。したがって国王は威厳があり、敬虔で信仰深いがプレスター・ジョンのような万能の王ではありませんでした。またこの国は外部勢力に対する警戒心が強く同盟に値する国ではないことがわかるとヨーロッパ人はエチオピアもプレスター・ジョンの王国でなかったことを知るのでした。
大航海時代を開いたプレスター・ジョン伝説
さて15世紀前半にポルトガルのエンリケ航海王子は探検家たちのパトロンとしてアフリカ西海岸の探索を支援し大航海時代の扉を開きました。彼の目的の一つがエチオピアのプレスター・ジョンの王国へ到達しイスラム勢力に対抗するため同盟を結ぶことであったとも言われています。
エンリケに続いてポルトガル王ジョアン2世が1487年に派遣した冒険家コヴィリャンがエチオピアに到達し、翌年にはバルトロ・メロウ・ディアスが喜望峰を発見、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達し、インド航路を開かれました。
このようにプレスター・ジョン伝説はヨーロッパ人の外の世界を知ろうとする動機を大きく刺激したのです。
ヨーロッパ人はプレスター・ジョンという実在しない王国を希求することで東方への冒険心をかき立て、 それがアフリカ、インドへの航路開拓につながり、世界進出を進めることになったといえます。
大航海時代がはじまり、やがて東方の事情がヨーロッパ人に明らかになってくるとプレスター・ジョンの王国は想像の国だったことが判明し、プレスター・ジョン伝説は東方に対する幻想の物語として歴史の中に消えていったのです。
参考文献:大モンゴル2 幻の王プレスター・ジョン 世界征服への道/角川書店、ヨーロッパをさすらう異形の物/柏書房、世界伝説歴史地図/原書房、世界をまどわせた地図/日経ジオグラフィック社


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