明智光秀は死んでいない?天海になったの?謎の怪僧・天海僧正とは?

人物

NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」が始まりましたが(注.2020年1月)、いろいろ話題となりましたので 関心も高いようです。 明智光秀の新しい像をどう描いてくれるのか興味深いですね。

ところで、明智光秀は本能寺の変で織田信長を討ちますが、山崎の戦いで豊臣秀吉に破れ山中を敗走中に農民に襲われ殺されたというのが定説です。      

しかし、実は光秀は生き延び、江戸幕府で徳川家康をはじめとする3代の将軍に仕えた、高僧・天海大僧正に姿を変え再び表舞台で活躍したという根強い伝説があります。   

なかなか信じがたい説ですが、その根拠はどこにあるのでしょうか。真偽はどうなのでしょうか。調査してみました。

天海とはどういう人物?経歴は?

まず、天海とはどういう人物でしょうか。

異説もありますが、天海は1536年(天文5年)に生まれ、陸奥国会津群(福島県)高田郷の出身とされます。

幼名は兵太郎、その後、随風、55歳で南光坊天海と改名しました。

11歳で地元の天台宗・龍興寺において得度、14歳で比叡山に登り、以後、三井寺、興福寺、上野禅昌寺などで天台、法相、三論、禅などを習得、各地の住職などをつとめます。

資料に天海が現われるのは1588年(天正16年)、武蔵国無量寿寺喜多院に入ってからです。1599年(慶長4年)には同院の住職に就任します。

1611年75歳の時、徳川家康に召され講義をおこない感銘を与え、以後家康の側近となり、金地院崇伝とともに幕府の宗教行政を担います。

家康、秀忠、光秀の三代将軍に、政治顧問、相談役として仕え「黒衣の宰相」と呼ばれる存在となります。

78歳で日光山の貫主に就任、本坊・光明院を再興します。

家康の死後、東照大権現の神号を奉り、日光東照宮の建造を進めました。

1625年(寛永2年)には上野寛永寺の創建に尽力し開祖となります。死後ですが日本最初の木製活字印刷で「大蔵経」を刊行しました。

1634年(寛永11年)天海99歳の時、比叡山の復興・再建を始めます。

1643年(寛永20年)108歳で没しました。

天海の葬儀の際は、異例の罪人の恩赦が行われたということです。

慈眼大師の諡号を賜り、日光の大黒山に埋葬されました。

天海・光秀説の根拠とは?

天海・光秀説の根拠としては、下記の6項目が上げられます。(光秀生存説だけの根拠は除きました)

  • 日光に「明智平」という地名があり、天海が明智の名を残すために名付けた。

  • 徳川家光の乳母・春日局は光秀の家臣の娘である。家光の子、家綱の乳母も光秀の家臣の孫である。天海(光秀)が推挙しなければありえない。

  • 光秀の孫である織田昌澄は大坂の陣で豊臣方についたが助命された。天海(光秀)への配慮のおかげである。

  • 日光東照宮の陽明門に明智家の家紋の桔梗紋が使われている。天海(光秀)が明智の家紋を後世に残そうとしたものである。

  • 光秀と天海の筆跡がよく似ている。

  • 方広寺鐘銘事件は豊臣秀吉への遺恨を晴らすため天海が家康に進言して豊臣家を滅ぼした。

あと、

・家康と天海が最初に面談した際、人払いして二人だけで密談していた。

・春日局が初めて天海と会ったとき「お久しぶりでございます」と挨拶をした。

・徳川秀忠と家光の名は「光秀」の名から取ったもの

などというような見てきたようなオモシロ説もあります。

天海・光秀説、根拠の検証結果は?

上記の、天海・光秀説の根拠を、検証をしてみました。

  • 明智平は天海が名づけたかどうか確証は見つけられませんでした。そもそも天海が名づけたとしても、天海・光秀説とは結びつけるには弱いですね。

  • 斉藤福、後の春日局は小早川秀秋の家臣、稲葉正成の妻でした。正成は関ヶ原の戦いで、主君小早川秀秋を説得して東軍に寝返らえさせ、徳川家康を勝利に導いた功労者です。その妻ですから、徳川家が福を粗末には扱わないのは当然のことです。

福は幼い頃、母方の公家に養育され、書道・歌道等の教養を身につけており、将軍家の乳母に選定されることに違和感はありません。

福の息子、稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、最後は老中に就任し小田原藩主になりました。

  • 織田昌澄は、確かに大坂の陣で豊臣側について破れ、徳川側に出頭しましたが、以前に仕えていた藤堂高虎が家康へ取りなしたため助命されたのです。

藤堂高虎は家康の信任が相当厚く、外様でありながら譜代大名として扱われました。家康臨終の際も、枕元に侍ることを許されたといわれていますから、織田昌澄の助命は藤堂高虎の力によるものでした。

  • 日光東照宮の陽明門の門衛の袴の紋は桔梗紋でなく木瓜紋(もっこうもん)で、鐘楼やひさしの紋は装飾用の唐花柄紋です。

そもそも、桔梗紋は明智家だけが使っているわけでなく、また仮に明智と同じ桔梗紋が使われていたとしても天海・光秀説の論証の助けになるのでしょうか。

  • 光秀と天海の筆跡の比較はテレビの企画で専門家を招いて行われています。

2000年の「世界不思議発見」での専門家の判定結果は「別人」でした。

2006年の「超歴史ミステリーロマン2」で2000年と同じ専門家でしたが、判定結果は「極めて強く似ている」という前回と違った判定でした。

同じ専門家の鑑定で、違った結論ですから筆跡鑑定も難しいのですね。

番組制作上の忖度はあったのでしょうか。

  • 方広寺鐘銘事件とは、豊臣秀頼が行った方広寺大仏殿の再建において、鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽」ときざまれていて、徳川側は、これを「家康を分断し」、「豊臣を君として楽しむ」との意図があるとクレーム。そのことから徳川・豊臣がこじれ、大阪冬の陣のきっかけとなった事件です。

鐘名の難詰を進言したのは崇伝か天海か2説がありますが、崇伝とする説が有力のようです。

ただ、当時、有力者の諱(いみな)を勝手に使用することは、非常に礼を失する行為とされていました。

明らかに豊臣側の落ち度ですから、豊臣側に抗議すべきと進言することは幕府の宗教責任者として当然の責務ではないでしょうか。

家康の強引な言いがかりと感じるのは、秀頼贔屓(びいき)の後世の人間の考えかも知れませんね。

天海・光秀説、結論は?まとめ

根拠にあげられていることを並べてみると、どれも曖昧で説得力に欠けます。

結局は、天海・光秀説は、光秀の最後がはっきりしていないことと、天海の前半生が不明であることが結びついた奇説といえます。

基本的な疑問ですが、もし天海が光秀であれば、戦国で生き抜いた大名たちのなかには、光秀の顔をまだ記憶していた人間がいたはずです。

家康が、何かの事情で天海の正体について箝口令を敷いたとしても、人の口に戸は立てられないのが世の常です。

天海の正体について、なんらかの風聞、日記などが残っていないことはあり得ません。

また、金地院崇伝(以心崇伝)は天海と並ぶ幕府の宗教政策の責任者です。天海のライバルといってもいい人物です。

崇伝も家康の信頼が厚く、武家諸法度、禁中並びに公家諸法度、寺院諸法度などを起草した奇才です。

しかし家康が死ぬと、家康を大明神として奉ることを進言し、ほぼ決まりかけたときに、天海が反対し、論争に敗れ、東照権現に変更されます。

崇伝は面目を失いました。

もし天海が光秀であれば常にライバルとして接している崇伝ほどの人物がその事実を見抜けないはずはありません。

しかしそのような気配もありません。

やはり天海・光秀説は荒唐無稽の説なのです。

おもうに、現代人は、天海に対して、帝政ロシアを操った怪僧ラスプーチンのようなイメージを持っているために、このような奇説がたち消えることなく、存在し続けたのでしょう。

大正大学 宇高教授(当時)は、天海大僧正について

「常に純然たる宗教家の態度を失わず、失意の境遇にある者を庇護し、罪過を犯した者を救済する等、良くその本分を守り任務を尽くした」人物

と書かれています。(参照:近世天台宗教団における南海坊天海の役割)

天海・光秀説は歴史のロマンとしては面白いのですが、

近世天台宗の再建に奔走した宗教指導者としての天海大僧正の事績を見ていくことが大切かも知れません。

最後までおつきあいありがとうございました。

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