世界を席巻している新型コロナウイルスですが、各国はその克服に向け、感染防止策の実施や、ワクチン、治療薬の開発に全力を挙げている状況です。
世界はいつ、この新型コロナウイルスを克服できるのでしょうか。
人類は古代からいろいろな感染症に見舞われ、戦ってきました。
天然痘、ペスト、新型インフルエンザ、そして近年は、エイズ、プリオン(狂牛病)、鳥インフルエンザ、SARS、MERSなど数年おきに、新興感染症が出現し人類を苦しめています。
感染症をもたらす病原体や対処法がわかってきたのは19世紀後半になってからで、その後の感染症による死亡者を、大幅に減少させることができるようになりました。
ただ、病気そのものを撲滅できたかというとそうではなく、ペストのようにパンデミックまではいかずとも、繰り返し小流行する感染症もあります。
そういう中で、人類が根絶することができた感染症が天然痘です。
有史以来、不治の病と言われた天然痘は、1798年、イギリスのジェンナーが種痘を考案し、それが世界で普及すると劇的に患者数が減少し1977年のソマリアにおける発生を最後として、1980年5月8日、WHO(世界保健機関)は根絶宣言を行いました。
しかし、人類が撲滅した感染症が、もう一つあったことをご存じでしょうか?
それが「牛疫」(ぎゅうえき/Rinderpest)なのです。
牛疫とはどんな病気?その特徴は?
「牛疫」は牛疫ウイルスによって起こる家畜伝染病で、強い伝染力を持ち世界で最も恐れられた病気です。
牛疫は英語でRinderpestといいますが、Rinderはドイツ語で牛という意味で、「牛のペスト」として恐れられました。
牛疫は4000年前から存在し、牛や水牛、めん羊、山羊、豚などに感染し、牛や水牛では感染すると多くは死亡します。
特徴的な症状は、発熱、そのあと涙、鼻汁、よだれなどを多量に分泌し、激しい下痢のあと、起立不能と脱水症状で1~2週間で死亡します。致死率は70%といわれます。
牛疫はウイルスは、唾液、鼻汁、糞尿、乳汁に混ざって感染します。
古代より最も恐れられた感染症はペストと天然痘ですが、牛疫は、農耕の重要な労働力である牛を大量に死亡させ、ペストや天然痘と同様に世界史に大きな影響を与えてきました。
しかし、牛疫はほとんど知られていません。それは人に感染しないからですが、特に日本で知られていない理由は、日本では約100年前の1922年(大正11年)に撲滅されたからです。
最近のウイルス構造の研究で、実は、麻疹(はしか)ウイルスは、牛疫ウイルスが進化したものと言われていて、牛の家畜化が始まった1万年ぐらい前から麻疹ウイルスへの進化が始まったと考えられています。
牛疫の歴史は、パンデミックは?
[古代文書の記録]
牛疫の最も古い記録は、紀元前2000年のエジプトのパピルスで、牛疫の症状が書き残されています。
紀元前1500年にインド、タミル地方で描かれた椰子の葉には、牛疫の症状や処置方法が描かれていました。
旧約聖書の紀元前1300年の大脱出「エジプトの第5の厄災」にはエジプトで牛疫が発生した記述があります。
紀元前343年にアリストテレスが書いた「動物誌」には牛の熱病のことが述べられており、牛疫をさしたものと考えられています。
[古代・中世]
古代・中世ヨーロッパでは牛疫の発生が社会に大きな影響を及ぼしました。
まず、ローマ帝国の滅亡の引き金となりました。
4世紀後半、ゲルマン民族の大移動で、ローマ領内に移動した西ゴート族は農業を始めますが、牛疫が発生し、労働力の牛が全滅して大飢饉が起こります。
その結果、暴動が起き、出陣したローマ皇帝も戦死し、ローマ帝国は東西に分裂し衰退が始まりました。
1222年にはモンゴル人のヨーロッパ侵入が始まり、モンゴル軍が連れてきたグレイステップ牛により、牛疫はヨーロッパ全土に広がったといいます。
18世紀にも全ヨーロッパに牛疫が広がり、ヨーロッパの牛の半分の2億頭が死んだとされます。
その結果、農耕の労働力不足により、農作物の収穫が激減し、食料難による飢餓や暴動の原因にもなり、世界史を揺るがせました。
[近代]
1887年、イタリア軍がエチオピアに食用として持ち込んだ牛が発生源となり、アフリカ全土に牛疫のパンデミックが起こりました。
その結果、原住民の貴重な財産である多くの牛が死亡し、経済が破綻したため、イギリス、ドイツのアフリカ植民地化が進むことになったのです。
1920年にはインドからブラジルに送られる牛を積んだ船がベルギーの港に立ち寄るとベルギーで牛疫が発生しさらにブラジルでも発生しました。インド牛が発生源だったのです。
日本で発生した牛疫
日本で記録にみられるのは近世で、1638年(寛永15年)から1642年(寛永19年)にかけて西日本で発生し、50万頭以上の牛が死亡しました。
1672年(寛文12年)には長州藩で約5万頭、四国で1万頭以上の牛が死亡しています。それぞれ寛永牛疫、寛文牛疫と言われています。
この時期は朝鮮半島で牛疫が発生しており、牛疫ウイルスが朝鮮半島からもたらされたと推測されています。
当時、牛疫は「タチ」と呼ばれており、最も古い記録として日本イエズス会が発行した「日蘭辞書」で、「多智は牛のペストに似た病気」と記述されています。
明治時代に入ると1872年(明治5年)、今の新宿御苑である内藤新宿で牛疫が起こり、297頭の牛が死亡しています。
次の年には東京、大阪など20府県で大流行し、4年で4万頭以上が死亡しました。
その後も頻繁に発生しましたが、1922年(大正11年)が日本で発生した最後の牛疫となりました。
牛疫の撲滅と日本人の貢献は?
牛疫に治療法はありません。感染すると殺処分しかありません。
予防方法としては、免疫血清とワクチンがあります。
免疫血清法は、血清を感染にさらされた牛に注射し発病を防ぐもので、19世紀末のアフリカでの大流行時に開発されました。
ワクチン開発について、先端を走ったのは日本でした。
1891年(明治24年)、農商務省に獣疫研究室が設置され、牛疫の研究が開始されています。
そして1917年(大正6年)釜山近郊にあった農商務省 牛疫血清製造所で蠣崎(かきざき)千里博士により、世界初の牛疫不活性ワクチンが開発されました。
このワクチンは中国と朝鮮の国境地帯で使用され、この地帯を免疫地帯とすることに成功しました。
蠣崎博士に師事した中村稕治(じゅんじ)博士は、さらに免疫持続時間が長く、安価な牛疫ワクチンを開発し、モンゴル、中国、東南アジアで使用され、アジアの牛疫の撲滅に大きく貢献しました。
1960年代に入ると弱毒牛疫ワクチンが英国のプローライト(Walter Plowright)により開発されましたが、副作用がなく品質管理も容易で、しかも製造費用も安い近代的なワクチンで、これが最終的に牛疫の世界的な根絶につながりました。
近代獣医学を発達させた牛疫
一方、牛疫は、近代獣医学を発達させました。
1711年に牛疫がイタリアで発生した時、ローマ法王の侍医、ランチシが提言した、殺処分と埋却、消毒、隔離などは、そのまま現在の、口蹄疫、BSE、鳥インフルエンザなど家畜伝染病対策と変わらず、感染症対策の基礎となっています。
また当時、職業として確立していなかった獣医師を育成する大学が各国で設立され、獣医学教育が始まりました。
国際機関としては1924年、ベルギー出発生した牛疫をきっかけとして国際獣疫事務局(OIE)が設立され、国際的な家畜の安全基準の制定や専門的な知識・技能の提供などにより伝染病予防と研究のために活動しています。
牛疫撲滅宣言・まとめ
2011年5月25日、OIE(国際獣疫事務局)および6月、FAO(国連食糧機関)は、4000年間、人類を苦しめてきた牛疫が地球上から撲滅されたと宣言しました。
人類が撲滅できた恐ろしい二つの感染症の一つ、牛疫の撲滅に、蠣崎博士、中村博士をはじめとする日本人が、大きく貢献したことをもっと日本国民は知ってほしいですね。
参考:史上最大の伝染病・牛疫;根絶までの4000年/山内一也、地上から消えた病気、消えない病気/田島朋子
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