日本書紀によれば、飛鳥時代、蘇我氏本宗家(馬子・蝦夷・入鹿)は天皇に次ぐ最高権力者に上り詰めると時の天皇をないがしろにして権力を振るい、あげくに天皇の地位まで奪おうとします。
危機感を覚えた中大兄皇子と側近の中臣鎌足は「乙巳(いっし)の変」と呼ばれるクーデターを決行し、蘇我入鹿を殺害し、蝦夷を自殺に追い込み、ついには蘇我氏(本宗家)を滅ぼして天皇中心の政治を実現しました。
私たちは、日本史の授業でこのように教わり、蘇我氏は同情の余地がない悪の氏族というイメージを植え付けられました。
ところが、上記の蘇我氏の「専横」は「日本書紀」だけの情報だったのです。
「日本書紀」は勝者が書いた歴史書であり、その記事の真偽については明治以来疑いの目が向けられてきました。
ですから乙巳の変の真相や蘇我氏の専暴についても異論が出されていました。
そこで蘇我氏の歴史の表舞台への登場から、滅亡までをたどりながら、乙巳の変の真相と蘇我氏の本当の姿を探っていきます。
蘇我氏の源流は?
蘇我氏の出身地については、諸説があります。
大和国高市群曽我(奈良県橿原市曽我町)説、大和国葛城群(奈良県葛城市)説、河内国石川郡大阪府富田林、南河内)説、そして渡来人説ですが、現在では大和国葛城地方の葛城氏の集団のなかから蘇我氏が台頭したという説が有力です。
葛城氏とは奈良県葛城地方を地盤とした氏族で、記紀によると5世紀に諸大王の外戚として大臣など高位について活躍したとされますが、6世紀になるとほとんど姿を見せなくなります。
代わって登場するのが蘇我氏で、蘇我氏は葛城氏から独立し発展的に生まれた一族と言われているのです。
蘇我氏は、朝鮮からの渡来人が多く住んでいた大和の飛鳥地方と河内の石川地方に進出し、鉄の生産、灌漑技術などの新しい文化や技術を持った渡来人を傘下におさめ大和政権の実務を取り仕切ったことで権力を握りました。
歴史の舞台に登場するのは蘇我稲目(いなめ)の時で、欽明天皇(在位539~71年)の治世に大臣となります。
稲目は、葛城氏と同様の手法で、娘の堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の后とし、堅塩姫は後の用明天皇や推古天皇を産み、小姉君は崇峻(すしゅん)天皇を産みました。
その結果、天皇家の外戚となり蘇我氏の権力基盤は盤石なものになります。
崇仏論争と丁未の乱(ていびのらん)
日本書紀では552年、上宮聖徳法王帝説では538年、百済から仏教が伝えられると欽明天皇は群臣にその受容の可否を問いました。
蘇我稲目は諸外国が受け入れている仏教に我が国だけが背を向けることは国際的な地位を損なうと主張し受容に賛成しますが、反蘇我勢力の物部尾輿や中臣鎌子は我が国の王は八百万の神を祀ることが勤めであり異教を信仰したら国神の怒りを招くと反対します。
そこで欽明天皇は試みに稲目に仏像を礼拝することを許します。ところがその直後に疫病が流行すると物部尾輿と中臣鎌子は八百万の神々の怒りと欽明に訴えたため仏教の排斥を認め、稲目が建てた寺院は焼き払われ仏像も難波の堀江に捨てられます。
その後、敏達天皇、次の用明天皇の時代と移り、蘇我氏も稲目から子の蘇我馬子へ、物部氏は守屋の時代に変わりますが崇仏論争は続きます。もっともその本質は蘇我、物部氏の権力抗争であったことはいうまでもありません。
用明2年(587)、用明天皇が病死し、次期天皇擁立問題にからんで両者の対立はついに武力衝突に発展し、馬子は厩戸皇子(うまやどのみこ)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ:後の崇峻天皇)らを味方にして物部氏を討伐します。いわゆる丁未の乱です。
この戦いの後、馬子に擁立された崇峻天皇が即位して二代続けて馬子の係累が天皇となり、蘇我氏全盛時代が築かれたのです。
崇峻天皇弑逆事件
しかし、日本書紀はまもなく崇峻天皇と馬子が対立し、崇峻天皇は馬子により暗殺されたと記述します。
この事件で蘇我氏は天皇を弑逆するという日本史上最悪の犯罪を起こした極悪人と決定づけられのですが、書紀の記述には不審な点が多々ありそのまま信じることはできません。
例えば天皇暗殺の首謀者であるはずの蘇我馬子が事件後の推古天皇の治世でも大臣の地位にあったことですが、いかに時の権力者でも天皇を殺害しておいて身分に変動がない事は不可解です。直接手を下したのは東漢駒(やまとのあやのこま)とされますが崇峻と馬子の対立は朝臣に知られていて誰が黒幕かも皆わかっていたはずです。
また馬子が崇峻天皇に不満を持っていたなら殺さずとも退位させればよかったのです。そもそも崇峻天皇が皇位についたのは、馬子の妹の子という血筋の力が大きかったのですから。
馬子と崇峻天皇の対立のそもそもの原因が、崇峻が大伴系の女性である大伴小手子を妃にした点でしたが、日本書紀によると馬子に崇峻天皇が害意を持っていると密告したのは小手子とされており、そのことも不可解です。
さらに他の箇所では蘇我氏の悪行をさかんに喧伝する書紀も、この件については事件を淡々と伝えるのみで違和感があります。書紀の編者の後ろめたさの反映でしょうか。
結論として、日本書紀が伝える馬子による崇峻天皇弑逆の真偽は疑わざるを得ません。
聖徳太子の業績は本当か?
崇峻天皇の次に即位したのは当時39歳の女帝・推古でした。日本書紀は厩戸皇子、後の聖徳太子が皇太子・摂政として補佐し、古代国家の基礎を築く重要な政策を次々と打ち出したことを記述します。
例えば冠位十二階制を施行し、個人の才能や功績、忠誠度に応じて官位を授け、将来の中央集権的な官僚制度構築への第一歩となったといわれています。
また十七条の憲法を制定し、仏教思想による豪族の服務規程や道徳的訓戒を定め、国の政治理念を示したとされます。
対外政策では小野妹子を遣隋使として派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という国書を隋の煬帝(ようだい)に送り、中国との対等外交を行って先進文化を取り入れたと評価されています。
日本書紀ではこれらの政策はすべて厩戸皇子が中心となって推進し、一方、蘇我馬子は厩戸皇子が進める先進改革を妨害したという対立軸で描きます。そのため現在でも聖徳太子は歴史上最高の偉人とされているのです。
しかしこの書紀の記述もそのまま信じることはできません。
実は当時は皇太子や摂政という役職はなく、厩戸王子は弱冠20歳の有力な皇位後継者の一人に過ぎませんでした。しかも、馬子にとって姉の孫にあたります。
そのような立ち位置にあり、しかも、馬子は40歳を超える老練の政治家で推古天皇とは緊密な関係にあったとされています。
したがって役職もない20歳の厩戸皇子が、馬子を差し置いて独自に政策を進めたとは常識的に考えられないことです。
むしろ、推古天皇時代の政策は馬子が主導的に推進し、厩戸皇子はその指示に従って忠実に遂行していったと考えるほうが自然でしょう。
日本書紀は、いずれ滅ぼすことになる蘇我氏を先進的な政策の功労者にしないために厩戸皇子という若者をヒーローとして創作したと思われます。このことは別の章で取り上げる聖徳太子虚構説につながります。
上宮王家襲撃事件の首謀者は蘇我入鹿なのか?
推古34年(626)、蘇我馬子が亡くなると子の蝦夷が大臣となります。
2年後、推古天皇は亡くなりますが、その直前、敏達天皇の孫である田村皇子と厩戸皇子の子である山背大兄王を別々に枕元に呼び遺言を伝えます。その趣旨は後継を田村皇子とし、山背大兄王には逆に身を慎むようにという忠告でした。
そこで蘇我蝦夷は朝廷の有力者「大夫」を招集し、彼らの意見を聞いて次の天皇を田村皇子(舒明天皇)とします。
皇位につくことを強く望んでいた山背大兄王は、推古の遺言が自分を後継としたものと解釈し当初は蝦夷の決定に納得しなかったものの、最終的にはこれを受け入れたため舒明天皇が即位します。
しかし舒明天皇の次の皇極天皇の時、事件が起こりました。
日本書紀は、皇極2年(643)11月、蝦夷から大臣を引き継いだ子の入鹿が独り謀り、巨勢徳陀(とくだ)らに斑鳩宮の山背大兄王を襲わせたと述べ、臣下の豪族が王家の王子を殺害するという衝撃的な事件を記述します。
山背大兄王とその一族はいったん生駒山に逃げますが、斑鳩寺(法隆寺)に戻ったところを兵に囲まれ、一族そろって首をくくって自害して果てたとされます。
この事件で聖人・聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族をことごとく殺してしまった蘇我入鹿は、王家をないがしろにして王権を狙った大罪人として歴史に名を残すことになりました。
しかし、書紀がいうように蘇我入鹿が本当にこの事件の首謀者なのでしょうか。
山背大兄王は入鹿のいとこにあたる身内であり、個人的に山背を排除する合理的理由が見つかりません。
また入鹿の単独犯罪のように記述していますが、藤原氏の書物である「藤氏家伝」では、山背大兄王を討伐する際、入鹿が「諸王子と共に謀りて」と、諸王の賛意を得て行ったことを記しています。
「藤氏家伝」は藤原氏の伝記で入鹿をかばう必要がないのですから筆が滑って真相を書いてしまったのでしょうか。
実は最近の有力説ではこの事件の背後には次期皇位継承問題があったとします。
皇極天皇は次の天皇の候補として古人大兄王子、中大兄皇子、山背大兄王がいるなかで自分の子である中大兄皇子に皇位を譲りたいと望んでいました。
しかし古人大兄王子、中大兄皇子は20歳に達していず、皇極はこのままでは山背大兄王に皇位が行ってしまうと恐れていて、その皇極の意を受けた側近たちが山背大兄王を排除したというのです。
山背大兄王は、最期はだれにも助けを求めず、抵抗をやめ、一族全員が首をくくり自害しますが、この最期は入鹿の単独犯罪というより、王家全体が自分を排除しようとしているとの絶望的なあきらめを示唆しているかのようです。
皇極はじめ諸王子などが山背大兄王襲撃に加わっていたとすれば、これは王族の権力闘争と考えるべきで、蘇我氏が天皇家乗っ取りのために仕組んだ事件ではないことになります。
また事件現場となった法隆寺では上宮王家一族を祀った形跡がないし、夫人をはじめ何十人かいたはずの一族の墓がどこにも見当たらないということも謎です。非業の死を遂げた一族は丁重に祀られることもなく、忽然とこの世から消えてしまったようにも思えます。
そのため上宮王家そのものも存在せず、日本書紀が蘇我氏の悪行をことさら強調し、政治家としての実績をはく奪するためにつくり上げた架空の一族だったという説もあるほどです。
いずれにしても書紀はこの山背大兄王襲撃事件を入鹿の皇位簒奪の明確な意思として描き、1年半後に起こった乙巳の変(いっしのへん)というクーデターの原因とします。
蘇我本宗家の滅亡(乙巳の変)
日本書紀によると、皇極4年(645)6月12日、雨の中、三韓の儀が飛鳥板蓋宮・大極殿の前庭で行われ、皇極天皇、中大兄皇子、中臣鎌足、古人大兄皇子、大臣の蘇我入鹿が出席していました。
中大兄皇子と中臣鎌足はこの儀式で入鹿の暗殺を計画し、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田を刺客として配置していました。また入鹿はそのころ用心深くなり常に剣を手元から離さなかったのですが、道化師を使い騙して取り上げました。
事前の計画では蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始めると同時に子麻呂と網田が入鹿に斬りかかる手はずでしたが、本番では二人とも緊張のあまり体が動きません。
石川麻呂も緊張のあまりし上表文を読む声が震え、入鹿にとがめられますが、「天皇の御前で緊張して声が震えてしまいました」と弁明します。
すると業を煮やした中大兄皇子が入鹿に剣を抜いて突進し頭と肩を斬り割きます。
不意を突かれ驚いた入鹿が立ち上がろうとすると、ようやく緊張から解放された子麻呂も入鹿の片脚を斬りました。
入鹿は皇極天皇の前に転がりついて、「自分が何の罪で誅されるのかお調べください」と懇願すると天皇は中大兄皇子に「どうしてこのようなことをするのか」と聞きます。
中大兄皇子は山背大兄王襲撃事件を念頭に置いて、「鞍作(入鹿)は皇族を滅ぼしつくし、皇位を絶とうとしております。鞍作のために天孫(皇族)が滅びることがあってよいものでしょうか」と答えます。
皇極天皇が黙して宮殿の中に入ると、子麻呂と網田がさらに入鹿に斬りかかりとどめを刺しました。この日は雨が降り庭に水が溢れたため入鹿の屍は敷物や屏風で覆われました。
自邸で知らせを聞いた蘇我蝦夷も屋敷に火を放って自刃し、権謀を振るった蘇我氏本宗家は滅亡したのです。
乙巳の変の真相
この乙巳の変の入鹿暗殺シーンは誰もが知っている有名な場面ですが、日本書紀の虚構であり、暗殺の首謀者も中大兄皇子と中臣鎌足ではなかったという説が有力となっています。
まず、三韓の儀式は入鹿をおびき出すためのニセの儀式だったと考えます。
海外の使節の前で自国と天皇の恥さらしになるような暗殺劇をおこなうことはあり得ない。また三韓の使節団はクーデターの1ヶ月後に来日したとの記録があります。
ただ海外情勢に精通して用心深い入鹿がニセの儀式に易々と騙されて出てくるのだろうかとの疑問から、ニセの三韓の儀すら創作であり、入鹿は別の場で暗殺されたのではないのかという説もあります。
また、暗殺の首謀者を中大兄皇子とすることにも異論があります。
書紀が描くように、武人たちが恐怖で剣を抜けない中で弱冠20歳の皇子が先頭になって切りつけることができたのか、かつ堂々たる口上を行うところなどは芝居がかっていて潤色そのものではないか。さらに血の穢れを忌む時代に、将来天皇になる人物が直接手を汚すことがあり得るのかという違和感からです。
さらに皇極天皇は息子の中大兄皇子を後継にすることを強く願っており、命をかけてクーデターを起こす必要はない。また入鹿は皇極体制を支えており入鹿を排除すれば現実にそうなったように皇極体制が揺らぐのではないのか。
結論として暗殺の黒幕は直後に天皇の座を獲得した軽王子(孝徳天皇)とします。
次期天皇候補者、中大兄皇子、古人大兄王子に比べると最も次期天皇に遠い存在であった軽王子は天皇の座に強く野心をもち、この状況を変えるべく蘇我入鹿を暗殺し蘇我の影響力をなくし、皇極天皇に史上初めての生前退位を強制して皇位を奪ったと考えます。
いずれにしても日本書紀は蘇我入鹿の最期をぶざまに描いて貶め、蘇我稲目から続く蘇我氏本宗家を歴史から消し去ったのでした。
蘇我の傍流で乙巳の変において王権側についた蘇我石川麻呂はその功により右大臣の要職につきますが、4年後謀反の疑いで自殺に追い込まれ、蘇我氏全体もその後衰退していきます。
蘇我氏とはどういう一族だったのか
蘇我氏は、もともと、渡来人と盛んに交流し大陸の進んだ文明と情報に触れてきた一族でした。
蘇我氏は稲目から入鹿に至るまで旧来の政治体制を打破して天皇を中心とした中央集権国家(律令国家)づくりを目指した改革派だったのです。
蘇我入鹿も遣隋使として隋にわたって帰国した僧・旻のもとで学び、旻からは非常に高い評価を受けたといわれており、大陸の新知識に触れて革新的な政治体制を構想していました。
しかし日本書紀は乙巳の変以後の藤原体制を正当化し強固にするため、蘇我氏が行った改革を厩戸皇子と中大兄皇子、中臣鎌足の功績とし、崇峻天皇暗殺や山背大兄王襲撃事件など負の歴史の責任を蘇我氏に押付けました。
そして「馬子」、「蝦夷」、「入鹿」という蔑称をつけて(古代では動物の名をつけることは蔑視ではないという説もありますが)、最後には、皇位簒奪を企てた「極悪人」の蘇我入鹿が、英明で勇敢な中大兄皇子に誅殺されるというストーリーを創作したというのが歴史の真実のように思われます。
参考:謎の豪族 蘇我氏/千秋千秋、偽りの大化改新/中村修也、蘇我氏 古代豪族の興亡/倉本一宏、大化改新/遠山美都男
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