千利休(せんのりきゅう)(1522~1591)は、茶道における侘び茶(わびちゃ)の完成者で、茶聖といわれています。
佗茶とは、簡素・簡略で静寂な境地を重んじる茶の湯で村田珠光(じゅこう)、武野紹鷗(じょうおう)を経て千利休が完成しました。
現在に伝えられている表千家、裏千家、武者小路千家は利休の直系の子孫が興した茶の湯の流派なのです。
千利休は、茶道指南として織田信長、豊臣秀吉に仕え、秀吉が織田信長から継承した、いわゆる「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」において、多くの大名に影響力をもちました。
しかし、やがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹を命じられ、京都の一条戻橋で梟首(きゅうしゅ/さらし首)となったといわれています。
しかし近年、千利休は切腹せず、九州へ逃れ生き延びたという新説が発表されました。
はたして真実はどうなのでしょうか?
検証してみましたので、おつきあいください。
千利休とは?その生涯は?
千利休は、大永2年(1522)、和泉国・堺の納屋衆(倉庫業)、田中興兵衛の長男として生まれ、幼名を与四郎といいます。
18歳の時、名高い茶人、武野紹鴎に師事しました。
24歳で堺、大徳寺の僧で茶人、大林宗套(だいりんそうとう)より「宗易」の法名を授かります。
元亀元年(1582)、今井宗久の推薦により、織田信長に茶の湯の指南役として仕え、5年後、茶頭になります。
信長は活況に湧く堺を重要視して直轄地とするとともに武器の供給地としました。
そのために武力だけでなく、茶の湯という文化を活用し高価な茶道具を買い上げたり、茶会を開催し堺の有力者とのパイプを強固にします。
信長は特定の家臣にのみ茶の湯を許可したため、茶の湯は武家の儀礼としての資格となり政治的権威が与えられました。
これを「御茶湯御政道」といいます。
天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が自刃すると、利休は信長の後継者である秀吉に仕えることになります。
秀吉は信長以上に茶の湯に熱心で、部下の武将たちも競って利休に茶の湯の指南を求めましたので利休の名声はさらに高まります。
しかし、9年後の天正19年(1591)、大徳寺山門の利休木像事件などで秀吉に不興を買い、京・大坂から堺に追放されます。
利休は堺に下り蟄居しますが、2月26日、再び上洛を命じられ、自宅の聚楽屋敷に入ると秀吉より切腹命令が下され、28日、屋敷内で切腹して果てました。
利休は、切腹の前に、検使役3名に茶の湯を振る舞います。
最期まで淡々と茶を点て、茶の湯の第一人者としての所作は変わることが無かったといわれています。
秀吉との確執の原因は?
利休が、秀吉の逆鱗に触れた主な原因といわれるのは次の通りです。
① 京都・大徳寺三門の楼閣に自分の像を設置したため。
② 茶の湯の哲学の違いから利休が秀吉から離れていった。
③ 利休が茶器を高価で売りつけるという売僧(まいす)の行い。
④ 秀吉が利休の娘を差し出すよう命じたが拒否した。
⑤ 石田三成など側近の讒言(ざんげん)にあった。
① 利休は京都大徳寺三門の改修に際し多大な援助をしましたが、住持の古渓宗陳は利休に謝意を表すために、利休の像を三門の2階に設置します。
秀吉はこのことが三門を通る自分や天皇を踏みつける行為で利休の増長も極まったと激怒します。
これが利休に死を命じた直接の原因とされますが、利休自身はこのことに関与していないともいわれています。
実際に設置にした古渓宗陳は責任を取って自決しようとしますが、秀吉はそれを止め赦免しました。
古渓宗陳と利休との処分のアンバランスから、この事件は口実に過ぎないことがわかります。
また設置は2年前のことで、これを持ち出し秀吉に讒言したのは、三成などの側近グループだとといわれています。
② 小説や映画などでよく取り上げられる理由です。
佗茶という簡素・簡略な茶の世界を重視する利休の茶道観と秀吉のきらびやかさを好む気質の違いが、秀吉が権力を握っていくに従って拡大し、両者の内心的抗争が行き着いた結果という説です。
それは茶の湯をわかっていると自負する権力者・秀吉に対し、あくまで佗茶を追求する求道者としての利休との関係の必然的な帰着点だったとします。
また利休の一番弟子で、秀吉を歯に衣着せず批判した山上宗二を、秀吉により残虐なやり方で処刑されたことで両者の関係が決定的になったとも考えられます。
③ 当時、秀吉をはじめ、茶の湯に熱心な大名たちは珍しい茶器を収集するために利休に目利きと斡旋を求めます。
利休は商人としての側面もあって、相手によって価格を変えることもあったようで、暴利をむさぼっていることを知り不快に思ったことが原因となったという説です。
しかし天下人の秀吉の贅を好む気性からは考えにくいようにも思えます。
④ 明確な根拠資料が見当たらず俗説の類いではないでしょうか。
⑤ 九州の領主、大友宗麟は書状で、秀吉の弟である豊臣秀長から「公儀については私に、内々のことは宗易に何でも相談してください」と声をかけられ感激したと書いています。
それほど、利休は秀吉の懐に入って、茶の湯を超えた秀吉の相談役になっていたことがわかります。
一方、そのことは石田三成など秀吉の側近グループの反感を買うことになります。
天正19年(1591年)、利休の最大の理解者である豊臣秀長が世を去ると、側近グループは、利休の排除に動き、①や③などの、あることないことを秀吉に讒言したとされます。
また秀吉もまた②のように、天下人となった自分におもねる事のない利休への不快感、あるいは茶道における劣等感から、決定的な対立に突き進んだというのが、現在の見方です。
利休生存説とは?その根拠は?
ところが、最近になり、千利休は切腹せずに生き延び、九州で命を長らえたとの新説が発表されました。
中村修也・文教大学教授が発表した説です。
中村教授の論点を著書「千利休 切腹と晩年の真実」(朝日新書)からみていきます。
① 実は同時代の一次史料には、利休が切腹したという記述は無く、ただ追放されたとのみ記述している。
一次史料とは記述対象と同時代に遺した手紙、文書、日記などで、「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を満たした文献をいいます。平たくいえば伝聞でないことが証明できる史料です。
中村教授はその例として、公家の勧修寺晴豊の日記「晴豊記」、西洞院時慶の日記「時慶記」、伊達政宗の家臣、鈴木新兵衛の書状を上げています。
・「晴豊記」は天正19年2月26日付けで「宗易のことであるが曲事があり逐電した」とあり、その原因が大徳寺三門の件や茶器を高値に売りさばいたことで、その木像が磔(はりつけ)にされたと記述されている。
・「時慶記」にも2月25日「千宗易に不法行為が露見し、宗易は逐電した。それで、今日一条橋に宗易の木像をはりつけにしたという。おかしなことだ」とある。
ただ、筆者にはこの2例は利休が切腹した28日以前の記事で、必ずしも適当な例とは言えないように思えます。
・鈴木新兵衛の2月29日付け書状には、「利休が行方知れずになり木像が磔になった」とはっきり書いている。
・一方、奈良の多聞院の日記には28日に「宗易が今日の明け方に切腹したという」と書きつつ「宗易から弁解やお詫びがあり、像を磔にし、本人は髙野山に上った」とあるが、中村教授は、これは人に聞いた相反する二つの話を並列に述べているだけとし2次史料と位置づけます。
・また北野社家日記は28日に「宗易が売僧をして成敗されたことを聞いた」と記しているが教授は伝聞史料としています。
このように中村教授は、利休の時代の1次史料には利休は追放されたとだけ記載されているとしています。
② 中村教授は利休切腹が後世に広まったのは、表千家4代目が1653年に紀州徳川家に提出した「千利休由緒書」からだとします。
この文書には「利休が大徳寺山門の上に自分の木像を置き、讒言する輩がいて秀吉の機嫌を損じ」「28日に・・切腹されました」と記載されています。
しかし、中村教授は利休の死後60年以上経過した後世の史料であり、年代や歴史的事実に間違いがあり、信頼に足らないと評価します。
③ 中村教授が最も強調するのが、利休切腹後とされる秀吉の手紙に、利休が生存をうかがわせる1次史料が存在することです。
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵で肥前名護屋城に滞在中に秀吉は大政所付き侍女への親書(実際は大政所あて)に、自分の健康について「昨日も、利休の茶を飲んで気分も良いので、安心してください」と死んだはずの利休の茶を飲んだと書いています。
これについては、従来より「利休流の茶という意味」と解釈されていますが、中村教授は、その当時、利休流の茶なるものが確立されていたのか、また名護屋城で利休以外の誰が利休の茶を点てることができるのかと疑問を呈されます。
さらに、秀吉は同じく文禄元年の秀吉の前田玄以あての書状には、伏見城の築城について「利休に考案させ、心を込めて依頼したい」と書いています。
これについても、従来説は、「城の趣向、造作を利休が好むようにしたい」という意味と、つじつまを合わせる拡大解釈をしていますが、文章的にはそうは読めない無理な解釈とします。
中村教授は、この2通の秀吉の文書により、利休が切腹せず生存していたのは確実とします。
④ 中村教授は利休の逃亡を助けたのは、利休の茶の湯の弟子でもある細川忠興とします。
忠興は、利休の子、千道安に領国、豊後に300石の領地を与えていることが史実としてありますので、利休のためだったのだろうと推測しています。
利休生存説の評価は?秀吉は利休の幻を見た?
中村教授の新説は、いまのところ学会では、例によって無視されて賛同も反論もないようです。
切腹を命じられて死んだといわれた千利休が実は生存していたというのであれば、歴史のロマンとして非常に面白いですね。
しかし、筆者の率直な感想を述べますと、
約400年も信じられてきた「千利休の切腹」という歴史的事件を塗り替える新説の最大の根拠が秀吉の2通の書状だけでは、証拠として不足しているように思われます。
名護屋城で秀吉が利休と面談しているなら、周囲の証言が少しでも残っていそうですし、その後も、利休ほどの人物が生きていた形跡がないことも不可解といわざるを得ません。
中村教授が言うように、細川忠興が与えた豊後の土地に、利休が余生を過ごしたとすると何か伝承なり、遺物が残っていてもおかしくないと思われます。
秀吉が2通の書状で、利休が生きているように記述していることの解釈ですが、筆者はその書状が、朝鮮出兵の名護屋城から出されたことに注目します。
秀吉は朝鮮・明を征服しアジアの皇帝になるという壮大な構想をもって、肥前名護屋まで出向いています。
そういう事を本気で考えるほどに当時の秀吉の思考能力は衰えていたのではないかと推測せざるをえません。
秀吉は、自分が一時の激情から利休に切腹を命じたことを忘却し、利休の幻を見ていたのではないでしょうか。
秀吉は利休がまだ自分のそばに仕えていると思い、亡き利休と昔のように、親しく言葉を交わし、利休の茶の湯を味わっていたのです。
そう思うと、秀吉も哀れですね。
みなさんはどう思われますか。
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