人類最古といわれるシュメール文明は、古代メソポタミアに忽然と現われ、世界で最初の高度な都市国家文明を築き、1千年にわたり繁栄しますが、突然に姿を消します。
シュメール文明は、実は、現代文明にも大きな影響を与え、現代社会の源泉ともいわれています。
しかし、日本の私たちには、よく知られていないようです。
シュメール文明とはどんな文明だったのでしょうか?
シュメール人はどこから来て、どこへ消えたのでしょうか。
1千年にわたるシュメール文明について調べてみました。
シュメール文明とは? その特徴は?
メソポタミアのペルシア湾に注ぐティグリス川とユーフラテス川下流域の川の間の地域に、紀元前5000年頃から大規模な灌漑農耕が始まり、紀元前4000年から3000年末に都市文明が勃興しました。現在のイラクの地です。
ちなみにメソポタミアとはギリシャ語で「河の間の土地」という意味で、メソポタミアの北部をアッシリア、南部をバビロニアといいました。
この都市文明の担い手となった人々をシュメール人と呼び、その文明をシュメール文明といいます。
シュメール人は、シュメール語と呼ばれる膠着語(こうちゃくご/日本語のように「てにおは」のような接辞をもつ言語)を話し、世界最古の文字である楔形文字により、多くの記録を残しました。
世界最古の法典を作り、世界最初に60進法やはんこを使い、ビールを最初に楽しんだのもシュメール人です。
しかしシュメール人は、どこから来たのかわからない、民族系統が不明な民族です。
聖書の記述を手がかりにイラン南西部から移動したとする説、ペルシア湾を渡ってきたとする説、バビロニア北部という説、モンゴルから来たとする説などがありますが、今のところ決め手はありません。
その正体不明の民族が、高度な都市国家文明を創造しました。
シュメール文明は、ウルク文化期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代、アッカド王朝時代(アッカド人)、ウル第三王朝時代と推移します。
まず、その歴史を見ていきます。
シュメール文明が始まる前の紀元前5000年頃、バビロニアにはウバイド文化(前5000~3500年)という先史文化が長く存在しました。
ウバイド文化は、ウバイド遺跡やエリドゥ遺跡などに見られるように大規模な村落を作り、農耕や放牧・漁業・狩猟、彩文土器の製作、交易などで、前3500頃まで長い繁栄を誇りました。
この文化を担った民族はシュメール人ではなく、正体はわかっていません。
シュメール人がどこからともなく姿を見せ、驚異的な文明を創造するのが、次のウルク文化期(前3500~3100年)からです。
シュメール人は、大規模灌漑による農業生産力の向上を背景として、ウルクを中心に都市国家を形成します。
シュメールの都市国家は、都市を守護する「ジグラト」と呼ばれる神殿を中心にして、その外側に住民が住む居住区を造り形成されましたが、時代を経るごとに神殿は巨大化され、美しく装飾されました。
ウルク後期には、楔形文字を使った粘土板の文書、円筒印章、プラノ・コンヴェクス煉瓦が登場し、行政機構が作られ、支配階級と職業の分化や、新しい芸術様式など、現代につながる都市文明に発展します。
続くジュムデト・ナスル期(前3100年頃~前2900年頃)には、ウルクの都市文明は周辺に波及して都市国家が次々と誕生していきました。
次の初期王朝と言われる時代の前半は史料がほとんどないのですが、「シュメール王朝表」という、ウル第三王朝時代に作成された粘土板が残っており、そこには、この時代の有力都市の歴代の王とその統治期間が記録されていました。
「シュメール王朝表」によると、初期王朝時代は、さらに、第Ⅰ期(前2900年~2750年)、第Ⅱ期(前2750年~2600年)、第Ⅲ A期(前2600年~2500年)、第Ⅲ B期(前2500年~2335年)の4期に区分されます。
第I期は都市国家キシュを中心としたキシュ第一王朝の時代、第II期はウルク第一王朝、第III A期にはウル第一王朝の時代とされます。
第III B期になると、かなりはっきりしてきて、都市国家の抗争の結果、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルクの七都市が台頭しました。
その中で、覇権争いの結果、前2370年頃にウンマ市の王がシュメール諸都市を統一します。
しかし、前2334年ごろ、ウンマは勢力を拡大したアッカド国に敗れ、シュメール人による初期王朝時代は一旦終わります。
シュメール人による都市国家を統一したのが、アッカド王朝です。
セム系言語を話す人々、アッカド人は前3000年紀頃から南メソポタミアの北部地方に進出したようです。
アッカド王国の王サルゴンはシュメールを統一していたウンマを滅ぼし、前2335年、ついにメソポタミアの統一に成功します。
しかし、アッカド王朝は長くは続かず、サルゴン王を含め11人の王が統治しましたが、グティ人の侵入により180年間で滅亡しました。
前2112年、再びシュメール人のウル・ナンムがグティ人の支配から解放し、政治的混乱を収拾して、シュメール人初の統一王朝のウル第三王朝を興します。
ウル第三王朝とはウル市に都をおいた3番目の王朝という意味です。
ウル・ナンム王は世界最古の「ウル・ナンム法典」を制定しました。
しかし、ウル第三王朝、第3代目のシュ・シン王(在位:前2037~2029年)の時代にはフルリ人、アムル人、エラム人ら周辺諸国からの侵攻や国内反乱がおこります。
第4代イッビ・シン王(在位:前2028~2004年)の時代になると、塩害による大飢饉が発生するなど、国内はさらに混乱します。
そこにアムル人の将軍、イシュビ・エッラが反乱を起こしイシン王朝を創設し、前2004年、ウル第三王朝は5代約100年で滅亡しました。
そして、シュメール人は歴史の舞台から退場することになります。
以後、メソポタミアは、バビロン第一王朝のハンムラビ王による再統一まで約200年、イシン王朝とそれに続くラルサ王朝を中心に群雄割拠の時代となりました。
シュメール文明とは?その文化は?
シュメール文明は、現代文明の原点と言われるように、文明社会の諸制度の源流が数多く見られます。その一例を見ていきましょう。
現在わかっている世界最古の文字は、シュメール人が作りました。
前 3200 年頃のウルクの遺跡から出土した絵文字で「ウルク古拙文字」と呼ばれています。
交易活動を記録するために生まれたといわれています。
絵文字の元になったのが、いろいろな形状をしたトークンと呼ばれる小形の粘土製品と、トークンが入ったブッラと呼ばれる小型の粘土球で、ウルクの遺跡から多く出土しています。
当初はトークンそのものを記録として使っていましたが、やがてトークンを粘土板に押つけて記録するようになり、最期はその図形を、とがった筆で書くようになったのが文字の始まりと推定されています。
ウルクで発明された絵文字が完全な文字体系に整えられるのは前 2500 年頃のことで、文字の数も約 600 に整理され、シュメール語が完全に表記されるようになりました。
また1 本でさまざまな形を作り出せる葦(アシ)製のペンが考案され、書き始めが三角形の楔形になる文字が書かれるようになり、楔形文字が生まれました。
楔形文字はシュメール人が消えたあと、約 3000 年にわたってメソポタミアだけでなく古代オリエント世界の各地で使われ、様々な言語の表現に用いられました。
現存する世界最古の法典がウル第三王朝の創設者ウル・ナンム王の治世下(前2112年~2095年)で発布された「ウル・ナンム法典」です。
都市国家から統一国家になり、王権が拡大すると、社会正義を維持することが王の重要な責務ということが意識されるようになり、法典が制定されるようになったと言われます。
「ウル・ナンム法典」は、ニップル、ウルの遺跡から出土した断片などをあわせると、序文と30の条文からなります。
殺人や暴行・強姦などに関する条項や結婚・離婚・不倫、奴隷の扱いや、神に裁きを委ねる「神明裁判」の手続きなども規定されています。
約300年後の「ハムラビ法典」に大きな影響を与えましたが、「ハムラビ法典」と違い、目には目を、というような「同害復讐法」ではなく、現代法のように損害賠償を基本とする進歩的な規定といえます。
例えば傷害罪も銀を量って賠償金を支払うことが定められていました。
現在、世界でもはんこ文化が残っているのは、日本などアジア諸国ぐらいですが、このはんこ文化の源流はシュメール文明にあります。
私たちが使っているスタンプ式の印章は紀元前7000年、北シリアの遺跡から出土したものが最古とされています。
本格的な印章文化は前3000年頃ウルク文化期後期に、円筒印章が登場して始まりました。
円筒印章は、粘土板に転がすことで連続的な文様を手早くつけることができます。
材料の石は交易で海外から輸入され、細かい図柄を彫るため、高度な技術力を持った職人が存在したようです。
円筒印章は、交易の急増により事務処理を効率よく処理するためにさかんになり、東はインダス川流域から、西は東地中海まで広がったとみられ、広範囲に円筒印章が出土しています。
図柄は、幾何学、植物、動物文様から、神話や人物文様、楔形文字が刻まれました。
円筒印章は、シュメール文明滅亡後も、前5世紀ごろまで使われたことが文献に残っています。
「楽しいこと、それはビール、いやなもの、それは旅路」という、シュメール人のことわざがあります。
シュメール人は世界最初にビールを造った民族なのです。
シュメールの代表的農産物、大麦を粉にして主食のパンが焼かれましたが、パンに水を加え、おかゆのように食べました。これをビールパンと言います。
ビールパンの残りが瓶の中で自然発酵し、偶然にビールができたと思われます。
ですから、表面に麦の殻が浮いていて、シュメール人は、ビールをストローで飲んだようで、円筒印章にもその図柄が残っています。
ビールを司る神は、ニンカシ女神で、遺された粘土板の「ニンカシ女神賛歌」はビール醸造の方法を描写しています。
また種類も大麦ビールのほか黒ビール、白ビール、赤ビールなど多様なビールがあったようで、当時のビール造りを知るための貴重な資料となっています。
シュメール人のビールは、シュメール滅亡後、エジプト、バビロニアに伝わり、世界中に広がったのです。
シュメール文明の滅亡
シュメール人が初めて建てた統一王朝、ウル第三王朝は紀元前2004年に滅亡します。
その後、アムル人が建設したイシン第一王朝(前2017年~1794年)、ラルサー王朝(前2025年~1763年)、バビロン第一王朝(前1894年~1595年)のアムル系国家が続く中で、シュメール人は徐々に埋没し、歴史上から消えていきました。
そして、シュメール文明は、1877年、フランスの調査隊がテッロー遺跡を発掘し、その存在を明らかにするまでの約3500年間、人々から忘れ去られたのです。
しかし、シュメール人が残した文化は、紹介しました例のように現代社会の様々な分野に形を変えて残りました。
以上、シュメール文明の歴史と文化をみてきました。
シュメール人は膨大な記録を粘土板に残しており、世界の研究者がその粘土板を読み、歴史の復元作業を日夜続けています。
まだまだ知られていない驚きの事実が見つかるかも知れませんね。
参考:「シュメルー人類最古の文明」/小林登志子
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