陰陽師・安倍晴明とはどういう人物?陰陽道とはどういう思想?

人物

現在、新型コロナウイルスという見えない敵の攻撃に世界はさらされていて、毎日、世界で積み上がる死者の数を止めることができない状況です。(2020年3月現在)

もし、今が平安の昔でしたら、魑魅魍魎の仕業と考え、人々は「陰陽師・安倍晴明」にすがるより、方法はなかったかも知れません。

しかし、現代の我々には医学という武器があり、その武器を持って現代の安倍晴明たちがウイルスという異形な敵に立ち向かってくれており、早晩撃退してくれるものと確信してます。

このようなタイミングに、陰陽師・安倍晴明が再度のテレビ映画化されましたが、ドラマや映画の陰陽師・安倍晴明は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する京の都で、怪しげな妖術を使って人々に害をなす異形者を超人的な陰陽道の呪術により撃退するスーパーヒーローでした。

 

 

 

 

 

しかし、実在した安部晴明とはどういう人物だったのでしょうか?

また安倍晴明がつかさどる陰陽道はどういうものでしょうか?

調べて見ましたのでおつきあいください。

陰陽師・安部晴明が活躍した時代背景、「怨霊」と「穢れ」

まず安倍晴明などの陰陽師が活躍したのは、「怨霊」と「穢れ(けがれ)」のふたつの思想の高まりという時代背景がありました。

晴明が生きた平安時代は、桓武天皇が都を平安京に移した、延暦13年(794)から鎌倉幕府が開かれた建久3年(1192)までを言います。

平安時代は、王朝貴族が優雅に生活した時代である一方で、権力闘争に明け暮れ、勝利した側でも敗れた人々の「怨念」におびえる時代でもありました。

その代表的な話が讒言(ざんげん)による菅原道真の太宰府への左遷と怨霊による復讐譚です。

菅原道真が太宰府で不遇のうちに死んだ後、讒言した藤原時平やその子孫が次々と亡くなり、あるいは、宮中の清涼殿に落雷が起こり、多くの公卿が死傷しました。

人々はこれを道真の怨霊と恐れおののきました。

このような怨霊思想は現代の私たちからは想像がつかないほど貴族たちをおびえさせました。

また平安時代は、「穢れ(けがれ)」という観念が強かった時代でもありました。

「死の穢れ」「産の穢れ」「血の穢れ」が忌み嫌われ、人だけでなく動物も対象でした。

このように生死に関係するできごとが穢れとされ、このような穢れに触った人は、宮中への出仕も禁じられ、祭事にも参加できませんでしたし、政治や神事が中止されることもありました。

鼻血を出しただけで職務が免じられたとの記録もあります。

このような時代背景の中で、貴族たちは魔除け、厄除け、方角の吉凶判断、行事の吉日の判断などのために陰陽道をつかさどる陰陽師に助けを求めたのです。

陰陽道とはどういう思想?

陰陽道とはどういう思想なのでしょうか。

陰陽道の起源は、古代中国の戦国時代(紀元前403~221)の「陰陽五行説」までさかのぼり、中国から朝鮮半島を経て、5世紀頃に我が国に伝わったとされています。

「陰陽五行説」は「陰陽思想」と「五行説」が統合した思想です。

陰陽思想は、あらゆる事象を陰と陽に区別する2元原理(例えば天と地、男と女、太陽と月、昼と夜、動と静など)から説明します。

五行説とは、自然界は「木・火・土・金・水」の5つの要素で成り立つものとして森羅万象を説明します。

「陰陽五行説」はこの2つの思想を組み合わせ、すべての現象を解釈する思想です。

陰陽五行説は、中国ではその後、全く発展せず消えていきましたが日本では逆に陰陽五行説は深く浸透し、国家の思想として取り入れられ「陰陽道」という別の名に生まれ変わりました。

政府には陰陽寮が設置され、日夜、天体の運行や位置、天象の観察を行い、自然の変化の吉凶禍福を占いました。

また暦を作ったり、時刻の管理なども行いました。

やがて陰陽道は次第に政治へ関与していき貴族の生活を支配するようになります。

安倍晴明は陰陽師として陰陽寮に勤務し、天文得業生、天文博士となり、陰陽寮のトップの陰陽頭には就任していませんが位階はそれより上位の従四位下まで昇任しています。

そして、この陰陽道は、明治維新の後、新政府が迷信として廃止するまで、長期にわたって日本の政治・社会・庶民の生活まで大きな影響力を維持していったのです。

安倍晴明の生涯は?

安部晴明の実像を見ていきましょう。

実は安倍晴明の前半生は現在も明確でなくいろいろな資料の断片的な情報により推定されています。

安倍晴明は平安時代の醍醐天皇の治世である、延喜21年(921)、摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区)で生まれたと

いわれています。奈良県桜井市安部との伝承もあります。

大膳大夫・阿倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安部春材の子とされ、陰陽師、賀茂忠行・保憲に師事し、陰陽道を学び、天文道を継承しました。

安倍晴明が歴史に登場するのは960年(天徳4年)からで、「天文得業生」という官職でほぼ40歳でした。

天文得業生とは、陰陽寮で天文博士に天文道を学び、天文の観測をして、博士に報告する役目です。

当時は40歳まで生きたら「四十賀」のお祝いをしたともいいますから、前半生はかなり遅咲きの人生だったといえます。

52歳の頃に天文博士に任じられますが、頭角を現わすのは、977年(貞元2年)、陰陽道の有力者、賀茂保憲が亡くなってからです。

晴明が表舞台で第一人者として活躍するのは、60歳以降で、目をかけられた一条天皇が即位し、天皇の外戚である藤原兼家とその息子、道長が権力を握った頃からです。

天元2年(979)、皇太子の師貞親王(後の花山天皇)の命で、式神を使い、那智山の天狗を岩屋に封じ込めたという伝承があります。

式神とは陰陽師が意のままに使うという鬼神のことです。

正暦4年(993)には一条天皇が急病を発した時に、禊ぎ(みそぎ)を行い、たちまちの内に回復させた功により正五位上に叙されました。

 

 

 

 

 

寛弘元年(1004)、84歳の時、都の深刻な干ばつの際には雨乞いの儀式、五龍祭を行って雨を降らせ天皇より褒美を与えられました。

寛弘2年(1005)の春には、中宮(天皇夫人)の大原野神社参りのため、邪気払いの呪法を行いました。

そして、その秋の9月26日、晴明は85歳で没しています。

安倍晴明は60歳過ぎという遅咲きで表舞台に登場して20年以上現役で活躍した晴明は、80歳過ぎても、陰陽道の第一人者としての地位にありました。

また、当時の陰陽師では異例の左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、行政官庁の長官もしくは次官相当の位階である従四位下にまで昇進しました。

そして最期まで、陰陽師として仕事をし、当時としては希有な長寿を全うしたのです。

晴明の息子の安部吉平、吉昌も同様に天文博士などに栄達し、安部氏は晴明の代において陰陽道一族としての地位を確立しました。

晴明没後、寛弘4年(1007)、一条天皇の命により晴明を御祭神とした「晴明神社」が京都市上京区の屋敷跡に創建されました。

大阪阿倍野区の安倍晴明神社、名古屋晴明神社など晴明を御祭神として祀る神社や、奈良の安部文殊院、東京都葛飾区の立石熊野神社など晴明ゆかりの神社が全国に存在します。

陰陽師・安倍晴明/まとめ

以上で見てきたように、陰陽師・安倍晴明の実像は、60歳ぐらいまでは、出世の遅れた、専門職の中級公務員でしたが60歳を過ぎた頃から、天皇や大臣など要人の知己を得て、陰陽師としての才能を発揮します。

 

 

 

 

そして、当時として希な85歳の長寿で没するまで、陰陽師の第一人者として、活躍を続けました。

どうやら、安倍晴明の実像は、現代の我々がイメージする、呪術を駆使して、邪悪な異形者を撃退するスーパーヒーローではなかったようです。

特に高齢になってからは、陰陽道の高度な知識と技術を駆使して、不可解な天変地異におびえる、平安時代の人々の心の安寧を図る宗教者のような人物ではなかったかと思われます。

最期までおつきあいありがとうございました。



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