白村江の戦い、日本は唐に占領されたのか?

歴史

我が国は、歴史上2度の無残な敗戦を経験しています。

一つは言うまでも無く太平洋戦争です。

我が国は、国家指導者と軍部の無謀な開戦により、1945年8月15日に終戦を迎えるまでに約310万人が犠牲になるという未曾有の災難を経験しました。

連合国軍は日本全土を占領し、領土は割譲され、大日本帝国という国家体制は解体されました。

我が国が日本国として再度独立を果たしたのは1951年のサンフランシスコ講和条約においてでした。

もう一つの敗戦は古代に唐を相手に戦った「白村江の戦い」です。

戦争の規模は違いますが太平洋戦争と同じように、日本は無謀にも当時の超大国である「唐」に戦いを挑み大敗したのです。

しかし我々が知る歴史においては戦勝国である唐から我が国が敗戦の懲罰を受けた記述はありません。

これは奇妙なことで、中国王朝は古来周辺の国と戦争を行って勝利した場合、その国を併合するか、都督府を置いて軍事力を背景に間接統治するという「羈縻(きび)政策」をおこなうのが通例だからです。

ところが、歴史学者・中村修也氏(文教大学教授・当時)は敗戦した天智天皇の時世、我が国は事実上唐の占領下にあったと主張します。

これは日本史の通説に反する衝撃的な説といえます。

「白村江の戦い」とはどのような戦いだったのか、そして中村氏が述べるように日本は敗戦後、唐に占領されたのでしょうか。

7世紀朝鮮半島情勢と百済滅亡

7世紀の朝鮮半島は高句麗、百済、新羅のいわゆる朝鮮3国が並び立ち、これに加え隋・唐の侵攻により領土拡大と生存競争を目的とした激しい抗争が繰り返されていました。

高句麗は現在の中国東北部から朝鮮半島北半分を占める大国で、隋や唐の攻撃を受けつつも、百済、新羅と領土争いにしのぎを削っていました。

また半島南西部を占める百済は、表向きは隋・唐に従いつつ、かつて敵対していた高句麗と同盟を結び、新羅との激しい戦いを行います。

これに対し新羅は、半島南部の東側に位置し、高句麗・百済に挟まれ常に両国から圧迫を受けていたため、高句麗と百済が手を結んだことを知ると、唐に追従し軍事支援を要請して対抗しました。

一方、日本(倭国)は古くから朝鮮の進んだ文化や鉄を求めて朝鮮半島に進出していましたが、とくに「任那」と呼ばれる伽耶(かや)地域を進出の重要拠点としており歴史的に百済とは友好関係にありました。

660年、唐は新羅の進言により13万の大軍を派遣し百済の討伐を開始、百済は海上から唐、陸上から新羅の挟撃にあい、ついに王城である扶余城が陥落、義慈王ほか王族、大臣など1万2000人が長安に連行され、百済は滅亡します。

百済遺臣の日本への支援要請

しかし唐の主眼は高句麗であり、後方の憂いをなくすため百済を先に攻撃して滅ぼすと5つの都督府を置いて統治させ、大半の軍を引き上げ高句麗攻撃に向かわせました。

そのため、旧百済ではすぐに遺臣たちが百済の再興をめざし反乱を起こします。

その反乱勢力の首領が旧百済王族の将軍「鬼室福信(きしつふくしん)」でした。

福信は唐や新羅軍との戦いに勝利して友好国の日本(倭)にも支援を求めます。

彼は唐の捕虜100人余りを日本に送り、軍隊の派遣と百済再建後の王とするため亡命していた義慈王の弟「余豊璋(よほうしょう)」の帰国を要請しました。

当時の大和朝廷は女帝・斉明天皇中大兄皇子の時世で、斉明天皇は福信の要請を受け入れ、豊璋の送還と支援軍の派遣を決定します。

なぜ斉明天皇や中大兄皇子らの政権トップが、超大国唐との戦争に参加するという無謀な意思決定をしたのか、いろいろな説があります。

唐の朝鮮半島への影響力を排除し権益の維持するためや歴史的に友好関係を維持してきた百済に対する心情的によるもの、また政権に近い百済系帰化人の強い働きかけなどです。

理由はどうあれ、その決定には百済抵抗軍が優勢に戦いを進めているという情報を信じ、よもや敗北することはないだろうという甘い判断があったことは間違いありません。

そのことは68歳という高齢の斉明女帝自ら船で大勢の官人を引き連れ九州に向かい、途中、大海人王子の妃が出産したり、熱田津(松山)では道後温泉に入り、歌人・額田王(ぬかたおおきみ)が歌を詠んだりして、緊張感に欠けた物見遊山のような行軍からもうかがえます。

おそらく側近に超大国の軍事力の恐ろしさを知り冷静に敗戦リスクを判断して、進言できる人物がいたら参戦することは無かったかも知れず、これはまさに太平洋戦争においても言えたことです。

そういう意味では中大兄皇子の最側近とされた中臣鎌足は伝えられるほどの人物ではなかったのでしょう。

白村江の戦いと凄惨な敗北

661年、斉明天皇は九州の那大津(なのおおつ)に着くと磐瀬行宮に入りさらに朝倉橘広庭宮に移りますが、まもなく病にかかり死去します。

そこで中大兄皇子が「称制」として天皇に即位しないまま政務全般の指揮を執り、朝鮮半島に軍隊を3度に亘って派兵します。

日本書紀によると、第一次派兵は662年で、百済の王子・豊璋とともに5千人の軍勢を送り、翌663年に第二次として2万7千人、さらに第三次派兵として1万人強、総計約4万2千人以上の将兵を派遣したことが記されています。

「白村江の戦い」は現在の錦江の入江(異論があります)において、663年8月27日と28日の2日間に亘って激しい戦闘を繰り広げ日本軍の大敗北で決着します。

日本書紀は戦いの状況を、「日本軍は戦況をよく判断せずに、先に攻撃すれば敵は退却するだろうと思い込み大唐の軍に攻めかかるが逆に唐の水軍に左右から挟み撃ちされ、瞬く間に敗れ、海に落ちて溺れる者も多く、舳先を廻らせて引き返することもできず、将軍の田来津(たくつ)は天を仰いで祈り、歯を食いしばって敵兵数十人を殺すがついに戦死した」と述べます。

また旧唐書は「唐軍の仁軌は白江の入口で倭軍と出会い、4度戦い皆勝利し、倭の船400隻を焼いた。その炎と煙は天にみなぎり、海水はすべて赤く染まり賊軍は全滅した。しかし余豊(豊璋)は逃げていった」と書き、日本軍の凄惨な壊滅状況を伝えます。

日本軍の敗因については、百済抵抗軍の王に祭り上げられた豊璋が彼を迎えた福信と対立し、ついには福信を殺すという内部分裂を引き起こして求心力を失い、百済軍は白村江では戦力にならなかったこともあげられます。

そのような事情にもかかわらず、日本軍は戦いを回避することもせず、40万人とも言われる圧倒的な人的、物的軍事力を誇る唐軍に、ただ突撃を繰り返すだけの無手勝流で戦いに挑み、多くの将兵が海の藻屑と消えていったのでした。

当時、我が国は大規模な対外戦争や海戦の経験はなく、戦略・戦術も持ち合わせておらず、まさに負けるべくして負け、無残な結果を招いたのです。

ちなみに白村江から逃走し高句麗に逃げた豊璋は、668年に高句麗が唐に滅ぼされると長安に連行され、高句麗の王族が許されたにもかかわらず流刑にされ生涯を終えます。

終戦後の日本・唐の動き

白村江での惨敗の知らせは帰還兵たちにより九州の中大兄皇子らに伝えられ、大和政権を震撼させます。

朝廷は5万人近い将兵を一挙に失い、茫然自失し今にも唐が攻めて来るのではないかと戦々恐々としていたことは想像に難くありません。

唐は翌664年(天智3年)3月に百済反乱軍の残党を壊滅させると、さっそく使者を日本に派遣し、対日戦後処理を開始します。

日本書紀によると、664年(天智3年)5月に旧百済の熊津都督府から郭務悰(かくむそう)という人物が来日したと述べます。

書紀は郭務悰は文箱と貢ぎ物を持って来日し、10月には中臣鎌足らが物を与え饗応し、12月に帰国したと述べますが、何のために来日し7ヶ月も滞在したのかまったく記述せず不明です。

通説は唐が和睦と修好を求めるための来日だったとしますが、中村説は、戦勝国が敗戦国に低姿勢で和睦や修好を求めることはあり得ず、厳しい要求があったのだろうと推測します。

旧唐書や資治通鑑その他の唐側の文献によると、665年に唐の将軍劉仁軌新羅・百済・耽羅・倭の酋長を率い、唐の高宗が泰山で行った「封禅(ほうぜん)の儀」という儀式に参加し、高句麗からも王の子が出席し高宗は大いに喜んだと記しています。

このことから中村説は、郭務悰の要求の1つが日本の天皇級の人物がこの「泰山封禅」へ参加することだったのではないかとします。

これにより、唐は敵対していた各国の首脳を高宗皇帝が主催する国家儀式に参列させ、皇帝の威光を示して唐に従うことを約束させたのではないかとし、日本からの出席者は酋長にふさわしい人物として天智天皇の子、大友皇子ではなかったかと推測します。

一方、この年、朝廷は対馬・壱岐・筑紫国防人(さきもり)や緊急連絡用の烽火(とぶひ)を設置、水城を築きます。

さらに665年(天智4年)8月、長門城、大野城、基肄(きい)城という朝鮮式山城が築造され、そのほか9カ所に高安、茨城など瀬戸内、近畿にも同様な山城が作られています。

これらについては従来から学説では朝廷が唐の侵攻に対する備えるため設置したと説明されてきました。

しかし、中村説は、従来説は戦時中ならまだしも朝廷が敗戦を認め、唐からの使者が来日した段階で防衛のために設置することは意味が無く、かえって唐に対する抵抗の意思を示しその侵攻を招くことになるのではないかと疑問を述べます。

中村教授は烽火が中国の通信システムを取り入れたものという研究を引用し、防人・烽火は郭務悰らが設置した唐占領軍の連絡網だろうと述べます。

また水城も内陸に寄り過ぎた位置に作られ、唐の攻撃からの防御というより、郭務悰らが滞在する占領軍の指令地を、唐占領軍に不満を持つ現地豪族の襲撃から防御するために作られたものとします。

確かに蒙古襲来の「文永の役」の後に築かれた「元寇防塁」は、博多湾沿岸一帯に築かれ「弘安の役」では蒙古の上陸を拒むことができたのですが、水城の位置では唐軍を水際で撃破することはできません。

山城についても、唐の侵攻軍は城をよけて瀬戸内海などから大和を目指せばよく、防衛にはあまり機能しません。

これらの山城は日本書紀によると百済滅亡後、渡来した旧百済人に築かせたものと明記していますが、なぜ防衛上重要な拠点を日本人でなく百済人に作らせたのか、百済の技術がいくら優れていたとしても旧百済人から唐に築城の情報が漏れる恐れがあり、朝廷が築いたなら日本人を築城の責任者とするはずだと疑問を述べます。

これらのことから、山城を築いたのは郭務悰ら唐のメンバーであり、羈縻(きび)政策による日本統治の拠点とするために、引き連れてきた旧百済人に築かせたのではないかと考えるのです。

筑紫都督府・唐兵2000人来訪・近江遷都・近江令

さらに中村説では唐が日本を占領していた傍証をあげます。

まず日本書紀の667年(天智6年)の記事です。

11月9日に唐の百済鎮将の劉仁願が熊津都督府の法聡らを「筑紫都督府」に派遣したと書きます。

そのまま解釈すれば唐の統治機関の都督府が筑紫に設置されていた事になります。

通説は同じ記事の熊津都督府に引きずられた誤記か、あるいは参考資料の外国系資料に「筑紫都督府」という表現があって、それを不用意に利用したのかもしれず、これをもって九州が唐に占拠されていたという一部の説は採らないとします。

日本書紀が唐の日本占領を隠蔽しているとしたら、この「筑紫都督府」は筆が滑ったのでしょうか。

また669年(天智8年)11月の記事では、郭務悰らが2000人あまりを引き連れて来朝したと伝えます。

この記事は671年にも見られますが、中村説では671年は唐と新羅が戦闘を開始した年で、そういう状況で兵2000人を日本に連れてくることはあり得ず669年の出来事とするのが正しいとします。

それにしても2000人という多人数は何のための来訪でしょうか?

従来の説は、大部分は白村江の敗戦で捉えられた日本人の捕虜、あるいは百済難民の送還ではないかとしますが、そのことをうかがわせるような記述はなく、中村説は文脈から唐占領軍の来訪であることに間違いないとします。

さらに667年(天智6年)3月、中大兄皇子は正式に即位しないまま、突如都を大和から近江大津京に移します。

遷都の理由ははっきりせず、民衆の不満は多く批判の歌や放火などが多発したようです。

通説は、唐の侵攻に備え、奈良よりも大阪湾から遠く、琵琶湖を経由して東国、北陸に逃れやすい近江に遷都したものとします。

しかし、中村説では、距離的に奈良と滋賀ではどれほどの違いがあるのか、東国、北陸に逃げてどうするのかと疑問を呈し、真実は唐が占領軍の駐留のため飛鳥京の明け渡しを要求したからではないかとします。

確かに2000人あまりの駐留軍の来日は、近江遷都が完了した後であり、つじつまが合う事になります。

また近江京遷都が完了した668年(天智7年)正月、中大兄皇子は天皇に即位します。

中大兄皇子が、斉明天皇崩御後7年間も正式に即位せず「称制」という形で政務を行ったことも謎とされていますが、通説では、白村江の敗戦で国内体制の整備に忙殺されたためではないかとします。

しかし、即位して正式な天皇として指令を発したほうがやりやすいはずで、これも唐側と飛鳥京の明け渡しなど占領方針で折り合いがつき、唐より正式即位が認められたと考えれば納得がいきます。

また中村説では、日本史においてその存在が定まっていない「近江令」についても唐の指示により編纂されたのではないかと推測します。

近江令は、「弘仁格式」に「近江朝廷の令」という言葉が記載され、日本書紀にも「新律令」などとその存在を推測される言葉があるものの内容については具体的に言及していず存在否定説が通説となっています。

しかし、近江令は唐の押しつけによって作られたため、次の天武朝はそれを否定し新たに「飛鳥浄御原令」に編纂され直し、近江令は抹殺されたのではないかとします。

新羅の反逆と唐の日本撤退

このまま長く唐の日本支配が続くのではと思われましたが、日本にとっては神風が吹きます。

新羅が唐に反旗を翻したのです。

新羅は唐の軍事力を利用し百済・高句麗を滅亡させ日本軍まで駆逐したのですが、唐が新羅に対しても「羈縻政策」により支配を強めようとすると反発しました。

671年1月、新羅の文武王は都督府がある熊津の南で唐と戦いを起こします。

意外にも新羅の勇猛果敢な戦いぶりは超大国の軍隊を蹴散らし、7月には旧百済領の63の城を陥落させ、10月には唐の軍船70余隻を撃破して兵100余人を捕虜としました。

このような状況では、唐は日本どころか朝鮮半島にさえ駐留できず、日本に対する羈縻政策は中断せざるを得ませんでした。

676年、熊津都督府が陥落し、678年には唐は朝鮮半島から撤退し、新羅はついに朝鮮半島を統一します。

その間、671年12月3日、天智天皇は近江京にて崩御し、天智朝は在位10年という短い政権でした。

翌672年、6月22日、「壬申の乱」が起こり、天智天皇の後継であった大友皇子(弘文天皇)は自死し、天武天皇が即位します。

日本書紀によると、郭務悰らは天智天皇崩御後もしばらく日本に滞在して天智の喪に服し、壬申の乱直前の5月30日に帰国します。

こうして、唐は日本より撤退し、占領状態は終結したのでした。

 

白村江の戦い、日本は唐に占領されたのか?・まとめ

ここまで白村江の敗戦後、日本は唐に占領されたという説を見てきました。

従来の説では、唐と日本は戦争をしたにも関わらず友好関係を維持し、日本は唐から律令制度を導入して国家体制を構築していったとされます。

歴史界では天智天皇期、唐に占領されていという説はほとんど無視され議論もなされていないようです。

しかし、従来の説ではなぜ戦勝国の唐は敗戦国日本に責任を問うことをしなかったのかという疑問はいつまでも残ります。

中村説に従えば従来から明確な理由が説明できなかった強引な近江遷都や中大兄皇子が長く即位しなかったこと、近江令の存否、そして壬申の乱までの歴史の流れがほぼ説明できるように思えます。

壬申の乱は、天智朝の敗戦責任、唐の占領支配、強引な近江京遷都、唐に押しつけられた近江令などに対する豪族たちの不満により引き起こされ、かつ政権側の軍事力が白村江の戦いで弱体化していたため、そのクーデターに成功したと考えるとすんなり理解できるのです。

そして勝利した天武系王朝で編纂された日本書紀では、我が国が唐に占領されたという屈辱な歴史は記載されず隠蔽されました。

本当に日本は唐に占領されたのか、学会でもっと議論が深まればいいですね。

参考:「天智朝と東アジア・唐の支配から律令国家へ」(中村修也)



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