今さらのようですが、私たちの国の名前は「日本」であり、私たちは日本人であることに間違いありません。
しかし、実はこの国を「日本」と呼び、そこに住む人々を「日本人」とすることを規定した法令はどこにも存在しないのです。
例えば、アメリカ合衆国は1777年に採択された「アメリカ連合規約」で、自国を「アメリカ合衆国」と規定しています。
また、イギリスは1800年の合同法により国名を「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」と決め、1927年にアイルランドが分裂して北アイルランドのみが残ると「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」と変更しています。
このように多くの国では、独立したり国の大枠が変わった時点で国名を明確に規定しています。
我が国の場合、そういうドラスチックな国の枠組みの変更といえば、明治維新で「大日本帝国憲法」が発布された時、第二次世界大戦に敗退し「日本国憲法」が公布された時かも知れません。
しかし、「大日本帝国憲法」が発布された際も、戦後に「日本国憲法」に変わった時も、国名については明確にされないままです。
ですから、この国の現在の正式名称は「日本」なのか、それとも「日本国」なのか、「日本」の発音としても「にほん」なのか、「にっぽん」なのか疑問が湧きます。
「日本」の発音については、政府は2009年、平成21年6月の国会答弁で発音について、政府は「どちらも広く通用しており、一方に統一する必要は無い」としています。
私たちのアイデンティティーにかかわる国名が曖昧のままであり、これでいいのかとも思います。
「倭」と呼ばれた時代
それでは、この国はいつから、どのような経緯で「日本」と呼ばれるようになったのでしょうか。
正史である「古事記」、かつ日本と言う名を冠した「日本書紀」でさえ、国名の変更については述べることなく、またそのことをはっきり記した国内の文献は見つかっていません。
我が国の名前が歴史上登場するのは中国の歴史書においてですが、「倭」とか「倭国」と呼ばれ、民族としては「倭人」と表現されています。
例えば、「漢書」地理志(紀元前1世紀ごろ)においては、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる」と記述しています。(*括弧は文献成立時期)
「三国志」魏志倭人伝(3世紀)では「倭人は帯方の東南大海の中にあり」といいます。
また、魏志倭人伝は邪馬台国の卑弥呼は中国から「親魏倭王」に任じられ、金印を授けられたことを記述しており、中国から「倭」と呼ばれ、自分たちもそう自称していたことが推測できます。
「後漢書」東夷伝(5世紀)でも「建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝貢す」と記しています。
また、後漢の光武帝から倭の奴国王に与えられた「漢倭奴国王」(漢の倭の奴国王)と印字された金印が九州の博多湾で見つかっています。
そして「隋書」倭国伝(7世紀)には「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中にあり」としていて、このころまでは少なくとも中国からは我が国は「倭」と言われていたことがわかります。
「倭国」から「日本」へ
ところが、時代が進んで、「旧唐書」(10世紀)の東夷伝において、次のように「倭国」から「日本」へ国名変更があったことを記述しています。
「日本国は倭国の別種なり。その国日辺に在るを以て故に日本とし、倭国はその名の雅ならざるを憎み日本と改める。あるいは日本は小国なれども倭国を合わせたり」
また「新唐書」では「倭の名を憎み、日本となづく。使者、国、日の出るところに近ければ以て名となす。あるいは云う。日本は小国にして倭のあわすところの故にその号を冒す」と伝えます。
つまり、この頃に「倭」から「日本」という国名に変わり、宗主国の唐も承認したと読みとることができます。
それとともに、新旧唐書では「日本」という小国が「倭」を併合した、あるいは「倭」が「日本」を併合して名前が変わったということを記していて興味深いのですが、ここでは触れません。
国名の変更については、日本側の資料でも確認できます。
遣唐使として唐に赴き、704年に帰国した粟田真人(あわたのまひと)の報告が「続日本紀」に記されています。
要約すると「初めて唐に至ったとき、唐の役人にどこからの使者かと問われ、日本国の使なりと答えると、役人は海の東に大倭国があり、豊かで礼儀に篤いと聞いていたが、今使者を見るとその通りで、信じないわけには行かないと言った」と述べています。
現在の学説では天武天皇あるいは持統天皇の時期に日本と国名変更があったのではないかとされ、689年の飛鳥浄御原令によるというのが有力ですが、701年に発布された「大宝律令」で改名されたという説も出されています。
しかし、どちらの律令も現存せず、確かめることはできません。
また有力説では、粟田真人が遣唐使として702年(大宝2年)に唐に派遣されたのは、日本と国名を改名したことの承認を得るのが目的だったとします。
当時は、朝貢国の国名は宗主国が認めて初めて対外的に有効となるからです。
ところで、「倭」にしろ「日本」にしろ、国内の発音は「ヤマト」だったようです。
例えば、あの伝説上の英雄は古事記では「倭建命」や日本書紀では「日本武尊」と書きますがどちらも「ヤマトタケル」と呼び、また国のことを最大限に飾って言う場合、古事記では「大倭豊秋津島」、日本書紀では「大日本豊秋津島」と表現し、どちらも「オオヤマトトヨアキズシマ」と言いました。
「倭」の意味とは
「唐書」は、日本が「倭」という国名は、自分の国の名としては、優雅でなく、好ましくない国名だったので日本と変えたと伝えてます。
そんな名を自ら付けるわけはないので「倭」とは中国側がつけた名なのでしょう。
ただ「倭」の持つ意味ははっきりしません。
一説には、「倭」には従順という意味があり、倭人の性格が従順だったのでそのように称したとか、「倭」は小ささを表す言葉のため、小柄な人々という意味で「倭」を使ったなどとの説があります。
しかし、想像の域を出ません。
「卑弥呼」や「邪馬台国」と同じように、中国は蕃夷の国として蔑称を当てたという見解もありますが、他方で「倭」の字が悪字であるかどうかは見解が分かれているようです。
江戸末期の国学者、本居宣長は「国号考」において「倭」の由来は不詳と述べていていますが現在もその意味は不明というのが大方の意見のようです。
「日本」の由来は
次に「日本」という語の由来はどうなのでしょうか。
先に挙げたように、旧漢書の「その国日辺に在るを以て故に日本とし」、新漢書の「日の出るところに近ければ以て名となす」のとおり、宗主国から見て、太陽が昇る東に位置する国という意味合いは揺るがないでしょう。
本居宣長も「日本という名の由来は、日の大御神がおられる国という意味か、日の出ずるところにある国か、の二つの考え方の内、後者の日の出ずる処に由来するもの」が妥当と述べています。
これについて、思い起こすのが、607年(推古15年)小野妹子が持参した国書に対して、隋の煬帝の反応です。
国書には「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなしや」という有名な文言が書かれていて、これを見た煬帝は立腹し、「蕃夷の書、無礼なるものあらば、また以て聞することなかれ」と命じます。
このくだりから中国が、倭国が「日出ずるところ」という意味の「日本」という名に改号することを喜ばないようにも思われます。
しかし、実は煬帝が立腹したのは、自国を「日出ずるところ」とし、隋を「日没するところ」としたことではなく、蕃夷である倭国が自らを「天子」と称したために無礼として怒ったのです。
「日出ずるところ」・「日没するところ」は東と西という単なる方向としての意味合いしかなく、煬帝はそこは気にとめていませんでした。
中国側の認識はそのことは一貫していて、後代に遣唐使・粟田真人が当時の周の支配者、則天武后に国名変更の報告をするとすんなりと承認されています。
「史記」の注釈書「史記正義」では「武后、倭国を改めて日本国と為す」というように、むしろ積極的に則天武后が改号したかのように記述しています。
いずれにしても「日本」という国号については、「倭」と違って、国力の隆盛に伴い、我が国自身がつけた名前なのです。
日本という名の始まりと経緯は?・まとめ
以上、この国の国名が「倭国」から「日本」に変わった時期や経緯を見てきました。
「日本」と定めたと推測される、飛鳥浄御原令か大宝律令の原本はどちらも失われていて、本当のところはわかりません。
以来、私たちは1300年以上、「日本」という国名を使い続け、自分たちを日本人と称しているのです。
しかも、あまり気にすることなく、日本としたり、日本国と表記したり、「にほん」と発音したり「にっぽん」と言ったりしています。
ところで、NHKは「日本」を正式な国号として使う場合は、「にほん」でなく「にっぽん」と呼ぶことに決めています。
政府のどちらでもよいという見解に従ったということでしょうが、自国の正式な呼び方を放送局の自由裁量とする国は他にあるのでしょうか。
不思議な国ですね。日本は。
*参考「日本」国号の由来と歴史/神野志隆光、日本国号の歴史/小林俊男
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