イスカリオテのユダは本当に裏切り者だったのか 幻の文書・ユダの福音書とは

人物

新約聖書によればイエス・キリストの12使徒のひとり、イスカリオテのユダは師であるイエスをユダヤの司祭長に銀貨30枚で売り渡し、その結果イエスは十字架にかけられて処刑されます。

以来、キリスト教の世界ではユダは裏切り者の極悪人とされ忌み嫌われてきました。ヨーロッパの一部の国では今でもユダという名を新生児につけることを制限しているともいわれています。

ユダは何故イエスを裏切ったのか、古来より喧々諤々(けんけんがくがく)の議論がされてきましたが未だに定まっているとは言えません。新約聖書を構成する4つの福音書(マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ書)やルカによる使徒行伝なども明確な動機は書かず微妙に違う経緯のみを記述しています。

ところが近年「ユダの福音書」と言われる伝説の書の写本が発見され、解読に成功するとそこにはこれまで伝えられたユダとは全く違ったユダの姿が描かれ、ユダがイエスをユダヤ教司祭長らに引き渡した理由が述べられていたのです。

そこで以下、イスカリオテのユダはどういう人物でなぜ師イエスを裏切ったのか、そしてこれまでのユダ像を大きく変えるユダの福音書とはどういうものかなどみていきます。

イスカリオテのユダとは

新約聖書にイエスの12使徒のひとりとして登場するユダがどういう人物であったのかはっきりしませんが、福音書の12人の使徒選びの場面で最後のひとりを、「イスカリオテのユダ、彼はまた彼を引き渡す者でもある」(マタイ書)と紹介し、ユダがやがてイエスを裏切ることを述べます。

「イスカリオテ」とはイスラエル南部の村、カリオテの人という意味であり、ユダという名がイスラエルの12部族の1部族の名称であることからユダがユダヤ人であることは間違いなさそうです。

一説ではイスカリオテが当時、政治改革を標榜するユダヤの「熱心党」の一派シカリ派に由来するものとし、ユダは過激な思想を持つシカリ派に属していてイエスに対する失望が裏切りを引き起こしたとしますが確証はありません。

またヨハネ福音書には「イスカリオテのシモンの子ユダ」と書かれているため、父親がシモンという名であったようです。

さらにヨハネ書ではベタニアの女が香油をイエスに塗る場面で、ユダが女に高価な香油を何故使うのかと正義ぶってとがめたものの、実はユダは偽善者で金庫番にもかかわらず密かに金をくすめていると批判しています。ユダは集団の中で資金の管理をする重要な役割を担っていたが、金に執着する裏表のある人物だったように描かれているのです。

ユダの裏切りとイエスの受難

新約聖書が描くイエスの受難とユダの裏切りの場面を振り返って見ます。

今からおよそ2000年前、ユダヤではユダヤ教の律法を厳格に遵守するパリサイ派が権威を握っていましたが、その形式的で偽善的な教えを批判して登場したのがイエスでした。やがてイエスの一団が勢力を増すとユダヤの祭司長や律法学者らはイエスを敵視し、機会があればイエスを殺すことをもくろみます。

そういう情勢のなかでニサン月(ユダヤ教暦の第1月)、現在の西暦30年4月、イエスはユダヤ人がモーゼに率いられエジプトを脱出した故事を起源とする過越祭を祝うために弟子たちと共にエルサレムの町を訪れます。

 4福音書では、いわゆる「最後の晩餐」の前に行ったユダの裏切り行為を次のように描いています。

「12使徒の一人、イスカリオテのユダは祭司長のところへ行きイエスを引き渡すことを持ちかけた。祭司長らは喜んでユダに銀貨30枚を渡した(マタイ書)、あるいは銀貨を渡すことを約束した(マルコ、ルカ書)。そしてその時からユダはイエスを引き渡す良い機会を狙っていた」

ユダは銀貨を得るためにイエスを売り渡したかのような表現ですが、マタイ書でいう銀貨30枚は当時の奴隷1人の値段、あるいは1ヶ月分の労働の賃金にすぎません。ルカ、ヨハネ書では「サタンがユダに入り込んでいた」と悪魔の仕業かのように述べます。

 一方、イエスも弟子の裏切りを見抜いており、夕食(最後の晩餐)の席上「あなたたちの一人が私を引き渡すであろう」と弟子たちに予告します。

最後の晩餐(Wikipediaより引用)

これを聞いた弟子たちは悲しみ、困惑して「まさかそれは私のことではないでしょうね」と口々に言い合います。イエスはさらに「私とともに鉢の中に手を浸す者が私を引き渡すであろう。人の子(イエス)は書いてあるとおり去って行く。しかしわざわいだ。引き渡す人は。生まれてこなかった方がましだったろうに」と述べます。

マルコ、ルカ書ではイエスはそれが誰か言いませんが、マタイ書ではユダが「ラビよ、それはこの私ですか」と尋ねるとイエスは「それはあなたの言ったことだ」と肯定し、ヨハネ書では「私がパン切れを浸して与える者がそれだ(裏切り者だ)」と言い、ユダにパンを与えるとサタンがその者に入った、そしてユダはただちに出て行ったとしユダを裏切り者とはっきり述べています。

そしてイエスが捕らえられる場面です。

イエスは弟子たちとの食事会(最後の晩餐)を終えたあと、エルサレム郊外にあるオリーブ山の麓、ゲッセマネの園に移動し、祈りを捧げていました。

そこにユダとともに祭司長カイファや長老、律法学者、大勢の群衆が押しかけます。ユダは「俺が接吻するやつがイエスだ。それを捕らえよ」とさけび、イエスに近づき「ラビ、喜びあれ」と接吻するとイエスは「友よ、あなたがなそうとしていることをしなさい」(マタイ)と答えます。これを合図に祭司長らはイエスを拘束します。その時、弟子たちは全員、彼を見棄てて逃げていきました。(マタイ、マルコ書)

その夜、イエスは最高法院の裁判にかけられ死刑が言い渡されます。そして刑の執行権をもつローマ総督ピトラに引き渡されますが、総督ピラトはイエスの罪に確証が持てず、また宗教問題に介入したくないためにユダヤ王ヘロデのもとにイエスを連れて行きヘロデの判断に委ねます。ところがヘロデはイエスが起こすという奇跡に興味を持ち会いますがイエスが無視したためただの狂人だと言って再びピラトの館に送り返したのです。

ピラトは困惑し、祭司長やイエスの処刑を要求する民衆に対し「過ぎ越しの夜には罪人の一人を釈放できる。殺人犯のバラバとイエスのどちらを選ぶのか」と問います。しかし人々は「バラバだ」と叫びます。

ピラトはさらに粘り「イエスは処刑する罪が見つからないので懲罰を加えて釈放する」と述べると祭司長らは「もしイエスを釈放するならあなたは皇帝の友でなくなるぞ」と脅します。

ローマ皇帝の反逆者になる事を恐れたピラトはここに至ってイエスの助命をあきらめ、群衆の前でユダヤの習慣に従い、自分の手を洗ってみせ、「この者の血については私には責任がない」と告げると、群衆らは「その血は我々と我々の子孫に降りかかってもいい」と叫んだのです。

このあと兵士に鞭打たれたイエスは茨の冠を頭に載せられて、十字架を背負わされヴィア・ドロローサ(苦難の道)をゴルゴダの岡まで歩き、十字架にかけられたのでした。西暦30年4月7日の金曜日のことです。

イエスはその後、最初の安息日の日曜日に復活し、マグダラのマリアや女性たち、使徒達の前に姿を現わしたとされます。

その後のユダの運命についてはマタイ書と使徒行伝で触れています。

マタイ書ではユダはイエスが死刑を宣告されたことを知り、後悔して祭司長らに銀貨30枚を返して「罪なき血を引き渡して罪を犯した」と言いますが、祭司長らは「そんなことは知ったことか。お前が勝手に始末しろ」と言い返します。そこでユダは銀貨を神殿に投げ入れ立ち去ったあと首をくくるのです。

後悔するユダ(public domain/wikipediaより引用)

使徒行伝ではユダは不義の報酬で地所を手に入れますが、そこへまっさかさまに落ちて腹が真ん中から引き裂け腹わたがみな流れ出てしまったとユダの無残な死を描いています。

ユダの裏切りの理由と矛盾

以上見てきたように新約聖書ではユダを金に執着した裏表のある人物で、主を十字架刑に追いやった裏切り者の極悪人と描き、教会もそのように教えてユダの罪を許してはいません。

しかしながらそこには次のような神学的な疑問が常に潜在していました。

イエスが人類の原罪を償うために十字架で死ななければならなかったのなら、イエスを引き渡したユダの裏切りは悪い事だったのか。ユダが裏切らなければイエスは十字架に架けられず人類は救われなかったのではないか。

またヨハネ書にはイエスはユダに対して「しようとしていることを早くしてしまえ」と述べ自分の引き渡しを促しているように見えます。これはいったいどういうことなのか。

そもそも一片の誤謬もない神の子イエスのはずですが、なぜユダが邪悪な人間であったことを見破ることができずに12使徒のひとりに選任し、集団の会計責任者として側においていたのか。そしてユダを正しく導かなかったのか。

またユダはなぜわずか銀貨30枚のために苦楽をともにした師イエスを裏切ったのか。ユダのなかに入り込んだサタンのせいとするなら、イエスはかつて修行中にサタンの三つの誘惑を退けているのになぜ追い払うことができなかったのか。

そして聖書がユダを極悪人のままとして残酷な死を描いていることはユダの罪が許されず神の裁きと見なされますが、これは「汝の敵を愛せよ」(マタイ、ルカ書)というイエスの教えに反するのではないか。ユダのような人間こそ救済されるべきではなかったのか。

など多くの人が疑問に思ってきたのですが、キリスト教会は明確な回答を与えず、ユダを裏切り者の極悪人と教えるのみです。

ユダの福音書の発見

ところが、近年になりこれらの疑問に対し回答を与える幻の古文書「ユダの福音書」が発見されます。

1978年、エジプト中部に位置するミニヤー県。その砂漠の中にある洞窟墓で、農民が崩れかけた石灰岩の箱の中からパピルス紙に書かれた古代文書を見つけました。

この古文書は何年もの間、ニューヨークやスイスの美術商たちの間を点々とし最終的にはスイスの美術財団が買取ります。その後、超一流の専門家チームによる5年に及ぶ修復作業が行われ、2006年6月にナショナル・ジオグラフィック協会によって刊行されました。

この古文書は全体で66ページからなり4つの文書が含まれていました。そのうちの一つの文書が「ユダの福音書」と呼ばれる伝説の福音書の写本だったのです。

ユダの福音書は紀元180年ごろのキリスト教会の司教エイレナイオスが「異端反駁」(いたんはんばく)という著書のなかで言及しており古代よりその存在が示唆されてきました。エイレナイオスは「異端反駁」で教会の教義と異なる教派を異端として攻撃していますが、とくに「知識」を重んじ、直接神と関わろうとするグノーシス派に対して、彼らが「ユダの福音書」なる異端の福音書を信奉していると批判しました。

しかし、その原本はもとより写本、その詳細な内容すら伝わっておらず、誰も見たことはありませんでした。

その幻の福音書が1800年以上の時を経て蘇ったのです。もちろん偽書の疑いもありましたが放射性炭素による年代測定、装丁、使用されたコプト語の書体などにより3~4世紀にエジプトで作成されたものと確定され偽書である懸念は払拭されています。

ユダの福音書に書かれていること

それではよみがえった幻の福音書には何が書かれていたのか。以下「原展 ユダの福音書」(日経ナショナル ジオグラフィック社)から引用して紹介します。

26ページからなるユダの福音書は「イエスが過ぎ越の祭りを祝う3日前に、イスカリオテのユダとの対話でイエスが語った秘密の啓示の話」という文章から始まり、主にイエスとユダとの間で交わされた対話をまとめたものといえます。文書の末には「ユダの福音書」と表題が記されています。

衝撃的なのはユダの福音書にはこれまで知られたユダとはまったく違ったユダが描かれていることで、新約聖書の4福音書では裏切り者の極悪人とさげすまれていたユダはこの書では誰よりもイエスを理解していて、イエスが最も信頼した弟子として登場します。

ユダはイエスとの対話で「あなたは誰か、どこから来たのか私は知っています。あなたは不死の王国、バルベーローからやって来ました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません」と告白しイエスの本質を指摘します。バルベーローとはグノーシス主義では真の王国の神のことです。

これに対しイエスはユダが他の無知な弟子と違い、イエスを何者であるか知っていることを見抜き「ほかの者から離れなさい。そうすれば王国の秘密を授けよう。お前はそこに達することができるが大いに嘆くことになるだろう。誰かほかの者が取って代わるからだ」とユダにいい、さらに「お前は13番目となり、のちの世代の非難の的となり・・しかし彼らの上に君臨するだろう。最後の日々には聖なる世代に引き上げられるお前を彼らは罵ることだろう」とユダの運命を予言します。

そしてイエスはユダに「いまだかつて何人も目にしたことのない秘密を授けよう。それは果てしなく広がる御国で、天使たちさえ見たことのない広大で見えざる霊、至高神がある・・」と神の国の秘密を授けました。

その意味することは、この地上の世界は下位の創造神が支配する暗黒の世界であり、天上には光と栄光に包まれた真の神の御国がある。人は真の神の国の存在に気づきこの世界から抜け出し、光と栄光に満たされたその世界に上らなければならないとするのです。

さらにイエスは「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう・・・」と自分をユダヤ司祭長らに引き渡し自分が肉体を捨ててその国に帰る手伝いをするように命じます。

神の子イエスの真の居場所は天上の御国であり、イエスにとって死は肉体から解放され御国に帰る手段でした。ユダがイエスを引き渡すことはこの地上の世界ではさげすまれ過酷な仕打ちを受けることになります。しかしユダにとっては自らが神性を得て栄光の国に上る道だったのです。

最後にイエスは「・・・さあ、これでお前にすべてを語ったことになる。目を上げ雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星がお前の星だ」とユダを諭します。

そして「彼」は光の雲の中に入っていきます。その直後、地上に立っていた人々に神の声が聞こえます。ただ、神の声の内容は写本が欠損していて不明です。

この行の解釈について、ナショナル・ジオグラフィック社版では「彼」はユダとしています。ユダは雲の中に入っていき栄光を与えられ、雲の中から聞こえた神の声はユダを讃えるものでユダは名誉を取り戻します。

しかし聖書学者・荒井献氏は「彼」はイエスのことであるとし、イエスが肉体から霊魂に変容したことを描いているものとします。つまり霊魂としてのイエスは雲の中に入って御国に上り、肉体としてのイエスは地上に残ったとするのです。

最後にユダの福音書は、ユダが律法学者らからいくらかの金を受け取り、イエスを引き渡す場面を淡々と描き終わります。

結局、ユダの福音書が説くイエスは人類の原罪を背負って死ぬ救済者ではなく、神の国の秘密を明かす教師でした。人類を救済するために十字架に架かったのではなく、肉体の牢獄から逃れ、この汚い世界から天にある真の神の国、イエスがいるべき御国へ戻ろうとしておりその手伝いをしたのがユダで、12使徒のなかでただ一人、イエスの心を理解した無二の弟子だったのです。

イエスはユダのみに本当の教えを授け、ユダは命じるままにイエスを祭司長らに引き渡し地上の不名誉を引き受けます。その結果ユダは天上の神の王国に上った最初の人間となりました。ユダはイエスを裏切ったのではなくイエスによって命じられた使命を果たしただけでした。

以上のように、ユダの福音書によれば新約聖書、4福音書では理解できないユダの行動や裏切りの動機が明確になります。

しかしこのようなユダの福音書のストーリーは正統派教会にとって絶対に認められるものではありません。正統派キリスト教にとってはイスカリオテのユダは師イエスを裏切り、司祭長らに売り渡した大悪人であり、その結果イエスは十字架にかけられ、死して人類の原罪を償った救世主だったのです。

現在、キリスト教会が認めている福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4書ですが、初期キリスト教の時代にはほかに多くの福音書が存在したといわれています。しかしそのほとんどが教会の教義に反し異端とみなされて破棄処分され消えていきました。

ユダの福音書もそのうちの一つで、正統派教会にとってもっとも危険な思想とみなされたグノーシス派が信奉していたため研究者はその写本の発見に驚愕しました。ユダの福音書によって、初期のキリスト教界においては教義の根本に関わるいろいろな考えがあったことがはっきりしたのです。

ほかの失われた福音書にはいったい何が書かれていたのか現在も探求が続いています。

参考文献:「原典 ユダの福音書」ロドルフ・カッセル他(日経ナショナル ジオグラフィク社)、「ユダとは誰か」荒井献(岩波書店)、「ユダ イエスを裏切った男」利倉隆(平凡社)

コーヒータイムによむシン・日本史

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