古代最大の内乱、筑紫の君・磐井の乱とは?

歴史

謎の多い26代継体天皇の時代、王権を揺るがす内乱が勃発します。

「筑紫君・磐井の乱」(つくしのきみ・いわいのらん)です。

この事件について、日本史の教科書では欄外の注釈に小さく記載されているだけで、詳しい説明はなかったし、授業でも滅多に取り上げられなかったので、詳しく知っている人は多くはいないでしょう。

しかしこの古代の九州で起こったとされる内戦は「古事記」「日本書紀」「筑後国風土記」逸文(釈日本紀の引用文)などに詳細に記録されています。

これら文献と古墳などの考古学的資料により「磐井の乱」は古代最大の内乱で、この戦乱の帰趨がその後のわが国の歴史に大きな影響を及ぼしたことは間違いありません。

「筑紫君・磐井の乱」とはどういう戦乱で、その原因、あるいは目的はいったいどういうものだったのでしょうか。

磐井の乱とはどういう戦乱だったのか

従来の史観では、日本書紀「筑後国風土記」逸文により、当時九州は大和王権の支配下にあり、磐井の乱は、一地方豪族の反乱というのが通説でした。

しかし古事記には「筑紫の君、磐井が天皇の命に従わず、礼が無いことが多かった。そこで物部荒甲(あらかい)(麁鹿火)大伴金村を遣わして殺した」と簡潔に述べるだけで、どちらかというと大和王権側からの一方的な攻撃のように書いています。

ただ古事記のこの時期の記事は主体が天皇の系譜などで、物語や事件は記述していないなかで「磐井の乱」を記載しているのは異例で、この事件をかなり重大視していることが読み取れます。

一方、日本書紀では詳細に事件の経緯を語ります。

要約すると、

527年(継体21年)6月、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)が軍6万を率いて、新羅に侵略された任那を支援しようとしました。

ところが筑紫国造・磐井(つくしのくにのみやつこ・いわい)は、これまで密かに天皇に背くことを考えていていたため、これを知った新羅は賄賂をおくり、近江毛野臣の軍を止めるよう依頼します。

そこで磐井は、火(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)の国と連携し、朝鮮各国からの朝貢船を拉致し、近江毛野臣の海路を遮断するのです。

その際、磐井は近江毛野臣に対し「お前は大王の使者であるが、かつては我が友として同じ釜の飯を食べたではないか。なぜ急に使者となり私をひれ伏させるのだ」と傲慢に言い放ちます。

そこで8月、継体天皇大伴金村と相談し、物部麁鹿火(あらかい)に磐井の討伐を命じ、その際、継体は「長門より東は私が治めるが筑紫より西は汝が治めよ」と命じます。

麁鹿火は自ら磐井と戦い、528年(継体22年)11月、筑紫の御井(みい)郡で、軍旗を振り太鼓を鳴らす激戦の末、ついに磐井を切り国境を定めました。

12月、磐井の子の筑紫君葛子(くずこ)は父の罪で誅されることを恐れ、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上、死罪の許しを請うため戦乱は終結します。

しかし現在ではこの日本書紀の詳細な文章について、中国の「芸文類聚(げいもんるいじゅう)」の漢文を借用するなど「潤色」が多く、事実と創作が織り混じっているというのが定説です。

日本書紀の問題点

書紀の記述の問題点を見ていきますと、

まず、書紀が、磐井が新羅と内通し、その要請により近江毛野臣の任那出兵を妨害したことが戦乱の直接の原因であるように記述しているのは、編者の創作ではないかとするのが有力です。

その理由として、

そのような重要な事象が他の文献の古事記や筑後国風土記、あるいは朝鮮側の資料にも記述されていない。

近江毛野臣が率いた6万の兵士が磐井の乱でどう活躍したのか全く描写されていないこと。

さらに当時において6万の兵士が海を渡るという要員や船団についてのリアリティにも疑問が投げられています。(後の白村江の戦いでは最大3万人弱、中世における秀吉の朝鮮出兵は16万人と言います)

一方、朝鮮半島の窓口に位置する北九州で勢力を誇っていた磐井が新羅と接触を持っていた可能性は否定できず、書紀の記述はすべてが創作とは言えないという反論もあります。

また磐井が近江毛野臣に対し「お前は大王の使者であるが、かつては我が友として同じ釜の飯を食べたではないか。なぜ急に使者となり私をひれ伏させるのだ」と傲慢に言ったというのも、その原本があるわけでもなく、どこで同僚であったのかの説明もなく創作であろうとします。

これらのことから現在の多数説は、

日本書紀は、磐井は大和王権の一員であったにもかかわらず天皇に刃向かった、すなわち磐井の乱が朝廷への謀反に対する討伐戦争であったように描きこの戦いを正当化しようとしている。

日本書紀が古事記と違って磐井を継体政権下で役職についているかのように「筑紫国造」と書いているのもそのためである。

実際は当時、北九州には磐井を首長とする、大和王権とは独立した地域王権があり、磐井の乱は大和王権が国内統一をするための侵略戦争だったと説明します。

磐井の墓、岩戸山古墳とは

磐井が北九州一帯に勢力を持った地方王権であったことは、磐井の墓とされる「岩戸山古墳」の研究から推測されていています。

この古墳は福岡県八女市にある八女古墳群のなかにあり、全長135メートルの前方後円墳で6世紀前半の築造とされ、「筑後国風土記」逸文によると磐井が生前に作ったとされます。

その場所は磐井が死んだとされる筑紫の御井郡の南東8キロの近い距離に位置しています。

大きさは北九州では最大で、この時期の古墳としては近畿の最大級の古墳にもひけをとらない規模です。

古墳の東南部には43メートル方形の平坦部があり、これは「筑後国風土記」によると「別区」と称し「衙頭(がとう)」と呼ばれる裁判の様子を表現した石人や臓物の石猪(盗まれた猪を表す石)があったとようです。

すなわち「岩戸山古墳」はその規模や内容から磐井の政治権力を誇示したものなのです。

さらに岩戸山古墳からは石人・石馬・石靫(ゆき・矢をいれる筒)などの石造物が多数出土し、阿蘇凝灰岩製横口式家形石棺、築肥型と呼ばれる横穴式石室が特徴ですが、この特徴は福岡・大分・佐賀・熊本・宮崎など有明海沿岸の大型古墳に共通して広がっています。

考古学者、柳沢一男氏はこのような古墳の共通性から、九州北部、中部に広域な政治連合があったと推定し、これを「有明首長連合」と名づけ、その頂点にあった人物こそ磐井であったと説明します。

さらに阿蘇凝灰岩製の横口式家形石棺、築肥型と呼ばれる横穴式石室は、九州だけでなく瀬戸内海沿岸から近畿、出雲などに分布していることから、この「有明首長連合」が吉備や出雲などとも同盟関係を結んでいたのではないかと考えます。

そのため、この地域連合が大和王権から乖離する動きに対し、中央の大和王権に危機感が高まったことが磐井の乱を引き起こしたと説明します。

そうだとすると、継体天皇物部麁鹿火に磐井の討伐を命じた際、「長門(山口県)より東は私が治めるが、筑紫より西は汝が治めよ」と言った言葉は、「芸文類聚」の盗用とされてはいますが一部に真実があるとすれば大和王権が九州だけでなく中国・近畿の敵対勢力について危機感を持っていたことの表われかも知れません。

磐井の乱後の九州支配

磐井の乱は、1年半にわたり続きますが、ついに磐井は敗れ大和王権は九州北部の直接支配を進めます。

具体的には行政単位である「国造制」を導入し、国造という地方官を置きます。

書紀が、磐井の最期の場面で「磐井を切り、国境を定めた」との述べているのは国の区分を決め「国造制」を導入したことを意味していました。

また北部九州には大和王権の直轄地である屯倉(みやけ)が次々と設置されます。

さらに536年(宣化天皇元年)には大和政権の九州統治機関である「那津官家(なつのみやけ)」が博多湾沿岸に設置され、九州における軍事・外交の拠点となり、非常事態に備え全国から食料が集められ保管されました。

この那津官家が後の太宰府になるのです。

さらに、大和王権の有力豪族である物部、大伴氏は私有民である「部民」を置き自らの勢力を九州に配置します。

このようにして九州は大和王権の直接の支配下に置かれることになったのです。

古代最大の内戦、筑紫の君・磐井の乱・まとめ

最期に、大和王権の攻撃に果敢に抵抗し、敗れた「筑紫の君・磐井」とはどのような人物だったのでしょうか。

現在まで残されている「古事記」や「日本書紀」、「筑後国風土記」逸文などは、ほとんどその人物像には触れていず、没年が磐井の乱終結した528年らしいという以外享年も不明のままです。

わずかに日本書紀では磐井が近江毛野臣に対し抗議した際に驕った様子を描写し、筑後国風土記では「継体天皇の世に筑紫の君磐井は豪強、暴虐で皇風に従わず」という表現があるぐらいですが、もとより大和王権下で編纂された文献ですから磐井のいい印象を書かないのは当然のことです。

逆に言えば、磐井は大和王権に反逆したという位置づけなので、いかようにも創作できるにもかかわらず、大悪人として描いていないのは日本書紀の他の事例から不可解とも言え、書紀編纂当時においても忖度する事情があったのでしょうか。

一方、筑後国風土記では「大和王権の官軍が磐井を追い、見失うと怒りを抑えきれず磐井が生前から作っていた古墳の石人・石馬の頭を打ち落としたため、その後このあたりでひどい病が多かった原因ではないかという古老の伝えがある」ことを書いていて、これは磐井に対する人々の人望の反映ではないかという意見もあります。

また磐井の子、筑紫君葛子(くずこ)糟屋屯倉を献上することにより死罪を許されたのも、磐井に対する支持勢力や人々の人望が磐井の死後も根強く残っていて、大和王権は磐井の子をその後の九州支配に利用することが得策と判断したのではないかとも推測されるのです。

さらに、先に紹介したように、磐井が新羅と通じて反乱を起こしたという書紀の記述は創作としても、新羅となんらかの親交があったことは推測できます。

そのことは、後年、大和王権が朝鮮半島との外交政策に失敗し、白村江で新羅に大敗したことを考えると、磐井の外交感覚が大和王権より優れていたと言えるかもしれません。

以上のようなわずかな手がかりから想像を飛躍させると、筑紫の君・磐井とは、北・中部九州の勢力を結集できた豪胆でしかも国際感覚にも優れ、民衆にも人望のある威風堂々たる人物ではなかったかと思うのですがいかがでしょうか。

そして歴史に「もしも」はありませんが、もし磐井の乱で磐井が勝利していたらその後の我が国の歴史はどう変わったのでしょうか。

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