30歳前後のころでしたか、知り合いの小さなレコード店の店主から、これを聴いてみたらと差し出されたのがビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」でした。
矢沢永吉のアルバムをその店で買い続けていて、ほかに心に響くロックはないか探していると、店主は私のバラード系好みを察して、ビリーを薦めてくれたのです。
その頃、「オネスティ」はテレビやラジオなどでよく流れていて聞いたことはありましたので、さっそく買い、独身寮で一人になって聞くとソロウなメロディが心に染みました。
これがビリーとの最初の出会いでした。
その後、セカンドアルバム「ピアノ・マン」から10番目の「ザ・ブリッジ」まで、毎週そのレコード店で購入を続け、しばらく「ビリー」に夢中になったを覚えています。
ステイ・ホームで、しばらく忘れていた「ビリー・ジョエル」を急に聴いてみたくなり、通販で「ピアノ・マン・ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ビリー・ジョエル」を購入しました。
聞き覚えのあるアップテンポで躍動的なハードロックやメランコリーでメロディアスなバラードの曲が交互に繰り出す収録に、ビリーに没頭していた若い時代がよみがえります。
全世界でアルバム販売枚数は1億枚を超え、米国のアルバム販売総数ではビートルズに次ぐという人気ミュージシャンでありシンガーソングライター、ビリー・ジョエルですが、そのクオリティの高い楽曲と人の心をつかむ歌詞とともに、彼の型破りな生き方は常に世間の注目を集めました。
多くの楽曲の創作意欲とイマジネーションにも大きな影響を及ぼしたであろう、ビリーの破天荒な生き様をまとめてみました。
ユダヤ系家系に生まれ、やがて両親が離婚する幼年時代
祖父母、カール・ジュエルとメタは、ドイツで衣料品会社を経営していたユダヤ人でしたが、ナチスの台頭によって会社をドイツ人に略奪され、強制収容所送り直前の1940年に米国に脱出します。
カール・ジョエルは新天地ニューヨークで再び衣料品、装飾品販売を始めますが、一人息子であり、ビリーの父となるハワード・ジョエルは米国陸軍に徴兵され、焦土化したドイツに派遣されます。
ハワードは、がれきの中にかつての父の工場の残骸を見つけるとともに、ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所で死体の山を目の当たりにしてシニシズムに陥り、後年の人生に影を落とします。
ハワードは退役後ゼネラル・エレトリック社にエンジニアとして働き、同じユダヤ系のロザリンド・ハイマンと結婚します。
1947年、ビリー・ジョエル(本名/ウイリアム・マーティン・ジョエル)が誕生し、一家は養女の姉、ジュディとともにロングアイランド・ヒックスヴィルで暮らします。
当時、ロングアイランドはユダヤ人への差別意識も強く、ビリーは近所の年下の女の子から「あんたはユダヤ人だからもうすぐ角が生えてくるよ」と言われ、寝床で角が生えるのか心配で頭を触ったと回想しています。
家庭ではビリーは幼い頃から音楽に囲まれて育っています。
父ハワードは正式な音楽教育を受けていて、特にピアノでベートーベンなどのクラッシックを弾くのが得意でした。
家にあるアップライトピアノで、特にクラシックを好んで弾きビリーに聞かせました。
母のロザリンドもギルバード&サリヴァンなどのレコードをよくかけていたといいます。
ビリーは両親の音楽の才能を受け継ぎ、幼い頃から才能を発揮し、3歳の頃にはモーツアルトを耳で聞いたまま弾くことができたようで、ロザリンドはその才能を伸ばすため、近所にピアノを習わせに行かせました。
しかし父親のハワードは兵役の精神的影響でシニシズムに陥り、陰鬱な性格で、8歳のビリーに向かって「人生は汚水だめみたいなものだ」というほどでした。
開放的な妻とは性格が正反対で、二人はやがて不仲となりけんかが絶えない家庭となります。
そしてビリーが8歳の時、ついに離婚に至りハワードはヨーロッパに去ります。
ビリーは両親の離婚で、家庭内でのけんかがなくなりほっとする一方、母ロザリンドがしばしば台所の窓から外をながめているのを見て、「どうしたの」と聞くと「もしかしてお父さんが帰ってくるかも知れないでしょう」という返事に心を痛めるのでした。
非行とバンド活動により高校を退学した十代
ビリーはジュニアハイスクールに入ると地元の非行少年のグループに入り、仲間とつるんで、シンナーをやったり、飲酒したりして一度は強盗の嫌疑で留置場に一晩過ごしたりしています。
一方で姉・ジュディや友達の影響で、エルビスやスモーキー・ロビンソンなどのロックンロール・ミュージック、R&B(リズムアンドブルース)などにも興味を持つようになりました。
本格的に音楽に夢中になったのは、ビートルズを友達の家のテレビを見て衝撃を受けてからです。
ビリーはビートルズのアルバムを買い、1曲目から最期まで夢中で聴き「プロのミュージシャンになって金を稼ごう」と決心します。
ビリーは友人が結成したエコーズというガレージ・バンドに加わると、学業をそっちのけでバンド活動に打ち込み、すぐにエコーズの中心人物となり、地元のイベントやホームパーティなどギグ(小さな集まりの演奏)で演奏します。
当然のことですが、ハイスクールの出席日数が不足し、卒業を目前に「俺はコロンビア大学など行く気は無い。代わりにコロンビアレコードに入るよ」といって高校を去ります。
ビリーが特別課題のエッセイの提出と引き換えに、ヒックスヴィル高校から卒業証書を授与されたのは25年後の43歳の時でした。
先の見えない下積み・不倫・自殺未遂・精神病棟
ビリーはエコーズからハッスルズに移り、キーボードプレイヤーとして活動しますが、なかなか芽は出ません。
69年、バンドは解散しハッスルズのメンバー、ジョン・スモールとアッティラというデュオを結成するも、レコードを2枚出しただけに終わります。
ところが、ビリーは盟友であったスモールの妻エリザベス・ウェーバーと不倫に陥いるという裏切り行為を行います。
ビリーの釈明では、エリザベスはジョンとは訣別していると聞いていて、エリザベスはジョンに自分のことを説明していると思っていたといいますが、ジョンに気づかれ、殴りつけられても抵抗できませんでした。
ビリーのミュージシャンへの道は見えなくなり、著名なミュージシャンのバックでの演奏はまだしも、ライターとしてコンサートレヴィユーを書いたり、壁のペンキ塗り、工場で働いたりして生活費を稼ぐ羽目になります。
友達のアパートを点々としたり、カギのかかっていない車の中で寝たり、野宿したりホームレスのような経験もしたといいます。
そして、そんな先の見えない状況や友人を裏切ったことなどから、ビリーは鬱状態になります。
70年、21歳の時、ビリーは、母の家で大量の睡眠薬を飲み、スモールへ謝罪の電話をかけます。
その時は駆けつけたスモールが意識を失っているビリーを見つけ、病院に運んだため、からくも命は助かります。
しかし、鬱症状は改善せず、数週間後、今度は台所の家具用光沢剤を一気に飲みほしました。
このときもすぐに発見されますが、今度は精神科の監視病棟に3週間入院することになります。
その時のことをビリーはこう述べます。
「人生で一番大切なことに気づくためのショック療法みたいなものだった。物事を深く感じるようになった。ソングライターになり自分が経験したことを書いてやろうと思った」
4回の結婚と3回の離婚
ビリー・ジョエルはこれまでに4度結婚して3度離婚しています。
1回目の結婚は先に見てきたように、ハッスルズおよびアッティラの盟友ジョン・スモールの妻だったエリザベスとの略奪婚です。
ビリーは、スモールに対する罪悪感もあり2度の自殺未遂を起し一旦エリザベスと別れますが、結局、1973年、24歳の時に結婚します。
この年にリリースされた2ndアルバムが「ピアノ・マン」です。(以降アルバムの番数はスタジオ・アルバムのみ)
カルファルニアのバーでビリーがピアノ演奏しているとき、エリザベスはウェイトレスをして家計を助けました。その時のビリーこそ「ピアノ・マン」だったのです。
ちなみに1971年発表の1stアルバム「コールド・スプリング・ハーバー」に収録されている「素顔のままで」は結婚前にエリザベスに贈った曲です。
経営学を学んでいた彼女は、ビリーが「ピアノ・マン」で売れ始めるとマネジャーとして、レーベルとの契約、印税著作権の交渉などで辣腕を振るいます。
しかし、9年後、ビリーの浮気、薬物摂取にエリザベスは愛想が尽き離婚します。
一方、ビリーにとっても、エリザベスの取引相手に対する対する厳しいやり方にストレスを受けていたと述懐しています。
しかし、2ndアルバム「ピアノ・マン」から8th「ナイロン・カーテン」まで、ビリーがトップミュージシャンに上り詰めた時期に、エリザベスはビリーに寄り添い、ビリーが無知のまま結んだ契約を改善したのもエリザベスでした。
2回目の結婚は1985年で、相手はカリブ海の高級リゾートで出会った、スーパーモデルのクリスティ・ブリンクリーでした。ビリーは34歳、クリスティは29歳です。
12月に長女アレクサ・レイ・ジョエルが生まれ、ファーストネームはアレクサンダー大王の女性版、ミドルネームはビリーの永遠の憧れのシンガー、レイ・チャールズの名前からもらいました。
83年、クリスティと交際しだした頃に作ったのが9thアルバム「イノセント・マン」です。
「イノセント・マン」収録の大ヒット曲「アップタウン・ガール」のプロモーション・ビデオには自動車整備士に扮し歌って踊るビリーと憧れのピンナップ・ガール役のクリスティが出演しています。(現在もYouTubeで見られます)
「もし、妻と仕事のどちらかを選べと言われたらすぐにでもロックンロール・スターの座を降りるよ」と言ったビリーですが、1993年発表の12thアルバム「リヴァー・オブ・ドリーム」のレコーディングの頃には、すでに夫婦仲は危機に瀕していました。
原因はビリーの女性関係で、91年ホノルルのホテルで二人はすさまじい喧嘩を繰り広げ、ほかの宿泊者が警備員を呼ぶという光景を目撃されています。
離婚が成立したのは結婚から9年後の1994年8月で、ビリーは一人娘のアレクサとも別れることになります。
その後も、ビリーの派手な女性関係は止まりません。
相手は女性アーティスト、キャロリン・ビーガン、テレビ・レポーターのトリッシュ・バーキン、女優のダイナ・メイヤーなどです。
2003年にビリーはカリブのサン・バルテルミー島で33歳差のケイティ・リーにプロポーズします。ケイティは大学を出たばかりで料理家を目指していました。
2004年、10月、二人はロングアイランドに新たに購入した大邸宅で贅を極めた結婚式を挙げます。
しかし結婚して数ヶ月もたたないうちに、ビリーはアルコール依存症が悪化し、さらに鬱状態にも陥り、およそ1ヶ月の間、病院で自殺防止の観察下に置かれました。
退院後ビリーはかなり気弱になったようで、2006年、2回目の結婚記念日にケイティのために作った「オール・マイ・ライフ」はビリーのそんな心理状態を投映しているようにも思えます。
ビリーはケイティに自分のそばにいて共に生活を楽しむことを望みますが、彼女は自分の仕事の芽が出始めチャンスを逃したくないと思ったため、徐々に二人の距離は開いていきます。
やがてケイティはケーブルテレビの料理番組の司会兼シェフとして活躍するようになり、若手男性デザイナーとの浮気報道などで夫婦間はギクシャクし、別居に至るのです。
ケイティとは5年後の2009年に離婚しました。
ビリーは「ケイティとの破局は、あの男のせいじゃないよ。ケイティは戦いで不在の夫を待って貞節を守り続ける人生を望んでいなかったのさ」といいます。
しかし、その年、ビリーは証券会社社員の29歳の女性、アレクシス・ロデリックとバーレストランで知り合います。
そして2015年、ロングアイランドのビリーの自宅で4回目の結婚を挙げ、娘デラ・ローズをもうけ、2017年には二人目の女の子レミー・アンを授かっています。
3回の離婚と4回の結婚についてビリーは「彼女たちは今も良い友達で、みんな僕を嫌っていない。クリスティやエリザベスともたまに会い、彼女たちにとっていい友人でいられるのはうれしいよ」とあくまで楽観的に話しています。(参考:イノセントマン・ビリー・ジョエル100時間インタヴュー/プレジデント社)
4回のバイク・自動車事故事故
ビリー・ジョエルの自由奔放なエピソードは、まだまだ尽きません。
例えば確認されているだけでも4回起こした交通事故もその例です。
1982年、ロングアイランドでハーレーダビッドソンに車を突っ込まれましたが、左手の親指と右手首の骨折だけで済みました。
2002年、ニューヨーク州でベンツを走行中に柱に激突。飲酒を疑われたもののアルコールの検出はなかったとされていますが、その直後、うつ病とアルコール依存症で入院しています。
2003年1月、ロングアイランドで立木に激突しベンツは大破し、ビリーは残骸から身体を引っ張り出されて救出されます。
2004年4月にはシトロンを雨の中運転中にスリップし、民家に車毎突っ込んでいます。
ビリー・ジョエル・都会の吟遊詩人の型破りな人生・まとめ
1993年のスタジオ・アルバム「リヴァー・オブ・ドリーム」以降、ビリーの活動の中心はライブとクラシック音楽になりました。
シングルも2006年の「オール・マイ・ライフ」が最期で、新曲を待ち望むファンも多いと思います。
しかし、「オール・マイ・ライフ」を改めて聴いてみると、この曲は3番目の妻ケイティのために作った曲といわれますが、バラードとジャズの融合した、スローで美しいメロディラインに乗せて自分自身をしみじみと見つめています。
「僕は今まで大切な人をずっと傷つけてきた...次々に。僕は粗暴で落ち着きがなかったが、君はすべて受け入れてくれた。
僕は多くのことを学んだよ。よかれと思ってしたことが悲劇的な結果を招いたことを。過ちに対する多くの代償を払ったし、強固な精神力も無くなり、心の痛みとつらさを経験した。
それはナイフの傷よりずっと傷ついた。すれ違いの恋ばかりで失恋に喪失感を抱いたよ...」
ですから、ビリーの最期のシングルにふさわしいのかも知れません。
ビリーの生き様は、まさしくロックンローラーのそのものといえますが、一方で精神的なもろさを抱え、その繊細さ故、人の心に染みる音楽を創作し表現することができたともいえます。
そのビリーも70歳を超え、今後どんなパーフォーマンスを私たちに見せてくれるのでしょうか。
*参考:ビリー・ジョエル素顔のストレンジャー/山本安見訳/東邦出版、イノセントマン ビリー・ジョエル100時間インタヴュー/斉藤栄一郎訳/プレジデント社
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