道鏡は悪人だった?本当に天皇の座をねらったのか?宇佐八幡事件の真実とは?

人物

奈良時代の高僧・道鏡といえば、多くの人はロシアのラスプーチンのような怪僧というイメージを持っていると思います。

女帝を籠絡して出世を極め、あげくは、宇佐八幡の神に天皇にすべきとの偽のご神託を下させ、天皇の地位を奪おうとした悪僧というわけです。

 

 

 

 

しかし近年、歴史の見直しが行われ、歴史上のいろいろな人物像が揺らいでおり、道鏡についても旧来と違う見解が出されています。

道鏡は本当に天皇の地位をねらった悪僧なのか、真実はどこにあるのでしょうか、調べてみました。

道鏡とは?孝謙天皇との関係は?

道鏡は、文武4年(700年)に河内国若江郡(大阪府八尾市)に生まれたと伝わっています。

父親は弓削櫛麻呂(ゆげのくしまろ)といい、物部氏の流れをくむ豪族・弓削氏の一族とされています。

弟がいて道鏡のおかげで従二位大納言まで出世する弓削浄人(きよひと)です。

道鏡は天智天皇の皇子である志貴皇子の子という説もありますが信憑性は低いようです。

若くして法相宗の高僧、義淵の弟子となりますが、兄弟弟子には玄昉(げんぼう)や行基、良弁がいました。

サンスクリットの経典などを研究し、また葛城山で修行して呪術能力による祈祷に優れていたといわれています。

天平宝字2年(758年)、女帝孝謙天皇は、淳仁天皇に譲位して上皇となりますが、その後、天平宝字5年(761年)に病にかかり、道鏡の手厚い看護を受けたことから道鏡を寵愛するようになります。

上皇は44歳で道鏡は62歳でしたが、すぐに二人の関係が朝廷内でささやかれるようになりました。

翌、天平宝字6年(762年)、孝謙上皇は出家するとともに国家の大権は自分が行うと宣言、淳仁天皇の権限を制限すると両者の対立が表面化します。

淳仁天皇とその後見者である藤原仲麻呂(恵美押勝)が、道鏡を排除するように求めたことが一因ともいわれています。

孝謙上皇は詔で、淳仁天皇が「身分の卑しいものが話す言葉で私に言った」と道鏡との男女の関係をあからさまに淳仁天皇が口にしたことを非難しています。

天平宝字8年(764年)、仲麻呂は孝謙上皇から権力を奪還すべく挙兵し、いわゆる「恵美押勝の乱」を起こします。

仲麻呂は当初こそ有利に戦いを進めますがやがて琵琶湖湖畔に追い詰められ、開戦7日で首をはねられ勝敗は決しました。

孝謙上皇は淳仁天皇を廃して淡路国に配流し、皇位に復帰すると称徳(しょうとく)天皇と称しました。

称徳天皇は即座に道鏡を「大臣禅師」に任命します。

翌年、天平神護元年(765年)には「太政大臣禅師」に任じます。道鏡のために作った位で、太政大臣は臣下の最高位でその位と同等の僧職でした。

さらに翌天平神護2年(766年)、末寺に仏舎利が出現したと届け出る者がいて称徳天皇は道鏡の徳による吉事と喜び、道鏡に「法王」の称号を与えます。

法王という称号は日本史上、道鏡だけが称した称号ですが、僧職ながら天皇と同等の位で、称徳天皇の道鏡への思い入れはとどまることはありませんでした。

宇佐八幡神託事件とは?

このような状況の中で起こったのが、宇佐八幡宮の神託事件です。

神護景雲3年(769年)5月、太宰主神(だざいのかんつかさ) である中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、宇佐の八幡神より「道鏡を天位につければ天下太平ならん」との神託が下ったと奏上します。

当時の太宰権師は道鏡の弟の弓削浄人でしたので、この神託は道鏡と弓削浄人が仕組んだことといわれました。

称徳天皇は、夢の中で宇佐八幡の大神から「神託を確かめるため女官の広虫を勅使として派遣するよう」に言われ、広虫の代わりに弟、和気清麻呂を送ります。

ところが清麻呂は9月に帰京すると称徳天皇の期待に反し「天つ日嗣は必ず皇緒を続けよ」(天皇の位は皇室の中から選びなさい)と八幡神の神託を受けたと報告します。

称徳天皇は清麻呂が期待に反した報告をしたため偽りごとを述べたと激怒し、清麻呂を穢麻呂(きたなまろ)と改名し大隅国に流罪とし、姉の広虫は狭虫(せまむし)と改名して備後国へ配流します。

しかし、翌、神護景雲4年(770年)8月、称徳天皇は道鏡を帝位に就けることなく、53歳で世を去ります。

以上が歴史書の語る宇佐八幡神託事件の顛末です。

宇佐八幡神託事件の真実とは?

この事件により、道鏡は天皇の寵愛を利用して不遜にも臣下の身で天皇の地位を奪おうとした逆臣として、長く日本の歴史に定着したのです。

道鏡は本当に天皇になるという野望を持っていたのでしょうか?

筆者には道鏡本人が自ら天皇になることを望んだということには違和感があります。

 

 

 

 

 

宇佐八幡神託事件時、道鏡の年齢は69歳です。当時平均寿命が30歳前後の時代ですから、相当な高齢と言わざるを得ません。そんな老境に入った人物が、大それた野心を持つものでしょうか。

また皇統を渡す子供もいませんし、なによりも高僧として教養も高く、皇統でないものが皇位に就くことが道理でないことはわかっていたはずです。

道鏡が称徳天皇に上奏して実施したといわれているのが、放生司(ほうじょうのつかさ)を置き、猟を禁じ、魚肉を御贄(みにえ/神・天皇に供する食物)に奉ることを禁じる施策ですが、非常に仏教の教えに忠実な施策とも言えます。

この施策からみても、道鏡は俗説のような皇位をねらう脂ぎった妖僧というよりも、厳格な仏教者のイメージが浮かびます。

また弟・弓削浄人が太宰権師を務める太宰府の神官が宇佐八幡の神託があったと奏上すれば、誰が考えても道鏡と弟の浄人の企てと疑います。

そのようなわかり易い謀りごとを道鏡が堂々と行ったとは思えません。

称徳天皇死後、道鏡はすべての役職を剥奪され、下野国薬師別当に左遷されます。

普通、逆臣の大罪を犯せば斬殺刑のはずですが、下野時薬師寺は東日本における僧侶の資格を授ける事ができる唯一の寺院で、日本における三戒壇の一つと言われています。

その造寺別当(長官)ですから、左遷の中にも道鏡への配慮がうかがえるのです。

白壁皇子を中心とする新政権は、前政権で権力を振った道鏡を煙たく思ったのでしょうが皇位を狙った大罪人とまでは思っておらず、都落ち程度の権力剥奪という処分に済ませたように思われます。

一方、称徳天皇には道鏡を天皇にしたい切実な理由があったという説があります。

天皇は52歳という当時としては老齢に達し、皇位を譲るべき天武系の他戸皇子(おさべのおうじ)は幼く、皇子が成長するまで中継ぎとして道鏡に皇位を継がせるために朝廷にゆかりの深い宇佐八幡の神託という形にして周囲を納得させようとしたというのです。

称徳天皇の夢に現われた八幡神が側近の広虫を使者に指名したことも女帝の意図という事になります。

しかし、称徳天皇の思いは、腹心であった和気清麻呂の予想外の裏切りで実現しませんでした。

その裏には和気清麻呂個人だけでなく、藤原氏を中心とする、皇室の血統でない道鏡が皇位につくことを阻止しようとする勢力、さらに言えば天武系の皇統から天智系へ帝位を奪おうとする勢力の動きがありました。

ただ称徳天皇が本当に道鏡に譲位する意思を持っていたとすると、不可解なのは清麻呂の報告を作り話として否定し、流刑にしたにもかかわらず、最初の神託通り、道鏡へ譲位する動きをしていないことです。

称徳天皇と藤原氏など反道鏡派勢力の間で将来は他戸皇子を皇位に就けるという確約ができたからなのでしょうか。

宇佐八幡神託事件の黒幕は?道鏡のその後は?

称徳天皇は宇佐八幡神託事件後も道鏡を信頼し、道鏡の出身の河内国弓削に作られた由義宮(ゆげのみや)に道鏡とともに頻繁に滞在します。

神護景雲4年(770年)2月、称徳天皇は由義宮で病に倒れました。

そして8月、平城京の寝殿で世を去ります。享年53歳でした。

宇佐八幡神託事件の1年後です。

称徳天皇は高野山稜に埋葬されますが、道鏡はひとり天皇の陵から離れず、夜昼無く、冥福を祈ったとされますが、そこには二人の深い絆が想像されます。

後継として、皇太子となった白壁皇太子(10月に光仁天皇として即位)は、称徳天皇を埋葬して4日後、道鏡を下野国薬師別当に左遷します。

そして2年後の宝亀3年(772年)、道鏡は下野国で没します。72歳でした。

称徳天皇はおそらく死の床で自分より年上で62歳になる白壁皇子の暫定継承は了解したものの、その後は天武系の他戸皇子に皇位を引き継がせることを再確認し安心したものと思われます。白壁皇子は他戸皇子の父ですから。

しかし、その約束も実現されませんでした。

他戸皇子は皇太子にはなったものの、2年後、母の井上皇后が光仁天皇を呪詛したという讒言をされ、皇太子の身分を剥奪され母子とも幽閉されます。

そして2年後、親子は同日に死去するのですが、暗殺か親子心中が考えられています。

その結果、皇太子に推挙されたのが全く候補の外にあった山部親王(やまべのみこ)で、のちの桓武天皇です。

桓武天皇は、母が百済系の渡来人で、本来なら候補にもならない存在だったのですが、天智系ということで歴史の表舞台に躍り出ます。

他戸皇太子の失脚から、天智系の桓武天皇の即位までの裏側で暗躍したのは藤原百川というのが通説です。

しかし、宇佐八幡神託事件から、天智系の桓武天皇即位までを一つの謀略のストーリーとすると、藤原百川こそ、宇佐八幡神託事件を仕組み天武系勢力の力をそいで、道鏡に罪をかぶせ、排除した黒幕と考えることもできます。

そうだとすると、称徳天皇、道鏡は藤原百川の謀略に踊らされたのでしょうか。

 

残念ながらこれを立証する文献などは見つかりませんが今後の研究が待たれます。

ところで下野国薬師別当としての道鏡の動向については伝わっていません。

しかし、道鏡は都から遠く離れた地で称徳天皇の冥福を祈り静かに余生を過ごしたのでしょうか。

これまで私たちが持っていた道鏡のイメージは大きく変わるような気がします。

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