エルヴィス・プレスリーは、戦後まもない1950年代のアメリカショービジネス界に彗星のごとく登場し、ロックンロールの創始者、そしてキング・オブ・ロックンロールと呼ばれました。
極貧の家庭に生まれ、世界ナンバーワンのロックスターに上り詰め、文字通り、アメリカンドリームを体現しました。
多くの若者たちの憧れとなり、ビートルズ、ボブ・ディラン、エルトン・ジョン、フレディ・マーキュリーをはじめ、そうそうたるミュージシャンが後に続きます。
エルヴィスのようにアメリカだけでなく、世界中の文化に大きな影響を与えたカリスマを私たちは知りません。
しかし、日本ではそのネームバリューとは裏腹に彼の生涯については、あまり知られていないようです。
そこで世界中に愛された大スター、エルヴィス・プレスリーの栄光と苦悩の生涯についてまとめてみました。
幼少期・極貧と音楽の日々
エルヴィス・アーロン・プレスリーは、1935年1月8日、米国ミシシッピ州の北東のテューペロで生まれました。
父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリーは大工仕事の技術を持っていたのですが、定職がなく、その時々の雇われ仕事をしていたといわれ、母グラディス・ラブ・スミスは衣料工場のミシン仕事をして家計を支えるような貧しい家庭で育ちます。
エルヴィスの幼少期の環境は、彼の精神構造に生涯影響を及ぼします。
その一つはエルヴィスは双子の弟として生まれ、兄ジェシー・ギャロンは死産だったことです。
双子の兄の死は、エルヴィスの人生に最期まで影を落とし続け、「自分が兄を死なせたのではないか」、「自分が代わりに死ねば良かった」など、その罪悪感に終生さいなまれました。
そのことは、後年、エルヴィスを兄が死んで自分が生きて生まれたことが「自分は神に選ばれた」とか、「神に使命を与えられている」などスピリチュアルの世界に向かわせる精神土壌となります。
また父ヴァーノンはハンサムだけが取り柄で、無気力で人の尻馬に乗って安易に生きていく人間であったといわれ、エルヴィスは母グラディスの苦労をずっと見続ける事になります。
そのヴァーノンが、家畜の売買で小切手を偽造し逮捕されるという事件を引き起こし、禁固3年を言い渡され収監されました。
この事件により残された母子が家から追い出され経済的に困窮することになります。
その間の二人だけの生活は、その後、生涯にわたって母子の濃密な絆を築くきっかけにもなりました。
エルヴィスは、はやく大きくなって母に楽をさせたいと思い、グラディスもまたエルヴィスを溺愛し、生涯エルヴィスを過剰に心配し続けます。
そのような関係はエルヴィスの精神的な自立に障害を及ぼすことになります。
またエルヴィスの周囲にはいつも音楽がありました。
ヴァーノンとグラディスは音楽が好きで、家のラジオからはいつもヒルビリー(カントリー)ミュージックが流れていました。
エルヴィスは母に連れられて通った近所の教会でのゴスペル、少し離れた黒人系の教会での黒人ゴスペルを聴いて育ちます。
またエルヴィスは生まれつき敏感な聴覚の持ち主だったとも言われていて、3歳の時、教会でコーラス隊が賛美歌を歌い出すと、エルヴィスはよちよちと歩いて前に進み、彼らに加わり歌声に会わせてメロディを口ずさんだといいます。
グラディスと近隣の黒人地区に行けばリズム・アンド・ブルースが幼い耳に降り注ぎました。
10歳の時、テューペロのフェスティバルで木箱に乗って歌った「オールド・シェップ」は2等賞となり5ドルの賞金をもらい、初めて人前で歌って喝采を浴びたことがエルヴィスの進むべき道に影響を及ぼします。
この少年と老いた老犬の悲しい物語を歌った歌は死んだ兄への思いが投影し、エルヴィスの心を捉え、生涯歌い続けました。
11歳の誕生日には、グラディスに、ほしかったライフルの代わりにギターを与えられ、学校にも持参してクラスで演奏と歌を披露するほど夢中になります。
始まり・ロックンロールの誕生
1948年、エルヴィス一家はメンフィスに移ります。ヴァーノンの仕事の都合だったようですが、メンフィスでの家はシャワーもトイレも共同使用の惨めな暮らしでした。
エルヴィスはメンフィスの学校に編入しますが、人と比べて粗末な服装や、話し方まで貧しい家庭の子供として目立ち、屈辱の日々を過ごします。
しかし、幸いなことにメンフィスはテューペロ以上にカントリー音楽のメッカで、黒人のリズム・アンド・ブルースの本場であり、黒人ゴスペルの中心地でもあったことが、エルヴィスを自然に音楽への道に導いてくれることになります。
エルヴィスにとっては、ギターを弾いて歌う時だけがコンプレックス、羞恥心、また内向的性格のストレスを解放できる唯一の時間であり、生きる糧でした。
そのために、メンフィスは黒人差別が根強い地域でしたが、エルヴィスは黒人の音楽を聴いたり、歌うことに何のこだわりもなく、自由にその旋律を吸収していき、やがてそれは独自の音楽センスとしてエルヴィスの身体の中で胎動していきます。
また同時に、歌うことで生きて行きたいという望みと母に家を買って楽な生活をさせてあげたいという夢も醸成されていきます。
そういう中で、偶然の巡り合わせがエルヴィスに起こりました。
ハイスクールを卒業するとトラックの運転手として働き始めたエルヴィスですが、母グラディスの誕生日プレゼントとして自主制作レコードを作成しようと、市内のサン・レコードで「マイ・ハピネス」を録音します。
この会社のオーナーであるサム・フィリップスは、黒人のようにブルースやR&Bを歌える白人を見つけて、全米に売り出したいと考えており、偶然に訪れたエルヴィスの歌を聴きくことになりました。
エルヴィスのパフォーマンスは、最初は満足を得るものではなく、バンドを組ませて再度歌わせますが、やはり物足りません。
エルヴィスはフィリップスの度重なるダメ出しにいらつき、ついに耐えかね、やけくそのように叫びながら、身体を激しく震わせて「ザッツ・オール・ライト・ママ」を歌い出します。
今までと違うそのサウンドは、あたかも洪水で川の水が溢れ、堰を切って奔流のようにスタジオ中に流れ出しました。
フィリップスはその即興的な演奏のエネルギー、奔放、狂気のリズムに驚愕し、「今までの音楽と違う、これこそ探していた音楽だ」と叫び録音機を回しました。
1954年7月5日、「ロックンロール」と呼ばれる20世紀の新しい音楽の誕生の瞬間でした。
快進撃・パーカー大佐の出現
1954年7月に「ザッツ・オール・ライト・ママ」をメンフィスのラジオ局が初めてオン・エアすると、次から次にリクエストが入り、一晩でリクエスト電話は5千本に上り、放送局の電話回線はパンク状態になったといいます。
そして、A面「ザッツ・オール・ライト・ママ」、B面「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」のファーストシングルが販売されると、あっという間にメンフィスのヒットチャート3位となり、すぐに2万枚が売り切れました。
エルヴィスは一夜にしてトラックの運転手からショウビス界の新進ミュージシャンに躍り出たのです。
エルヴィスはバンド名を「エルヴィス・プレスリー・アンド・ザ・ブルー・ムーン・ボーイズ」とし南部一帯でライブ活動を開始します。
選曲はほとんどが黒人ブルースのロカビリー風アレンジで、すぐにセカンドシングル「ミステリー・トレイン」がレコーディングされました。
エルヴィスのステージは、檻から放たれた獣のように性的エネルギーを発散させる身振りで縦横に身体を動かします。
右足を支えとして左足を激しく震わせる動きは、見る者を強烈に引きつけて熱狂させ、特に女性たちは悲鳴を上げ、泣きわめき歓声を上げました。
このような白人歌手による黒人のようにセクシーに踊りながら歌うダンスミュージックは、黒人音楽と白人音楽が合体しさらにロックとヒルビリーも融合し「ロカビリー」と言われました。
しかし、大人たちは、白人が黒人のまねをして歌うと、眉をひそめたり腰の動きに嫌悪や反発したりしました。
カントリーミュージックの本拠地ナッシュビルで憧れの「ザ・グランド・オール・オープリー」に出演し「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」を歌った時は、司会者より「黒人ミュージックはいらない、トラックの運転手に戻ったらどうか」と言われ、エルヴィスは落胆のあまり泣いて帰ったといいます。
パフォーマンスに対する誹謗や今後への不安に無関心でいられるほど、エルヴィスの精神は強靱ではなく、フラストレーションが高まる時の神経質な貧乏揺すりや爪かみは頻繁に続きました。
そんな熱狂と嫌悪、興奮と反発の中でも、エルヴィスはヒットを連続し快進撃を続けます。
その時期に出会ったのが、トーマス・パーカーという人物です。しわだらけのシャツと安物の背広を着て、よたよたと歩く風采の上がらない小太りの男でした。
彼はオランダ生まれの辣腕のプロモーターで、通称「パーカー大佐」と呼ばれ、その後のエルヴィスの命運を握ることになります。
パーカー大佐は、エルヴィスの潜在能力を即座に見抜き、彼を使ってショービジネス界で世界制覇を成し遂げるという野望のため、強引にエルヴィスとプロモート契約を結びます。
エルヴィスとパーカー大佐の契約は、あらゆる面で大佐に大きな利益をもたらす片務契約で、エルヴィスは大佐に食い物にされたとも言われます。
しかし、南部の下層階級出身で、飛び抜けた教養や何の人脈のないエルヴィスが成り上がるには、業界に精通し、辣腕マネジャーのパーカー大佐と組むことはベターな選択だったという評価もされています。
まず大佐は、エルヴィスにサン・レコードはスターダムに押し上げる力が無いので離れるように説得しますが、一方、フィリップスも会社を大きくするため金が必要でした。
その結果、1955年11月、フィリップスはエルヴィスに関する権利をRCAヴィクターに譲り渡し、エルヴィスは弱小レコード会社からメジャーへ移籍し、活躍の舞台を広げる事になります。
移籍直後にレコーディングした「ハートブレーク・ホテル」はビルボードで7週連続1位となり、その後も「ブルー・スウェード・シューズ」、「ハウンド・ドック」、「冷たくしないで」、「ワン・ナイト」などヒット・シングルを連発しました。
パーカー大佐の狙いはコンサートを主眼とせず、エルヴィスを全米にアピールするために、新しいメディアであるテレビと映画をターゲットにします。
大佐の巧みな売り込みで、エルヴィスはテレビ番組の「ミルトン・バール・ショウ」、「スティーヴ・アレン・ショウ」、「エド・サリバン・ショウ」など次々に出演し、エルヴィスの魅力が全米の家庭に直接大写しで送信されました。
視聴率は80%を超える記録破りとなり、特にティーン・エージャーはエルヴィスのテンションとエネルギーに惹きつけられ、自分たちのヒーローの登場に喝采します。
しかし、一方でエルヴィスのパフォーマンスは全国的論争を巻き起こします。特に中年以上の保守的視聴者は彼の腰を突き出して回転させる挑発的なジェスチャーに眉をひそめ非難しました。
番組によってはエルヴィスの腰の動きを見せないために下半身を映さないようにしました。
エルヴィスへの非難は、表面的にはエルヴィスのセックス・アピールに向けられていましたが、白人が黒人のように踊るという人種の垣根を取り払われるということへの憎悪でもありました。
そして彼らはエルヴィスを無教養で洗練されていない田舎者と決めつけますが、このことにエルヴィスはひどく傷つき反発します。
パーカー大佐はもう一つのターゲットである映画に進出するために、エルヴィスに名作「カサブランカ」のプロデューサー、ハル・ウォーリスのオーディションを受けさせます。
その結果、1956年8月にはデビュー作、「やさしく愛して」が公開され、興行的に大成功を収め、その劇中に歌った「ラブ・ミー・テンダー」は大ヒットし、エルヴィスの代表曲となりました。
翌年に制作された「さまよう青春」、「監獄ロック」も、驚異的な興行成績を記録し、挿入歌「ラヴィング・ユー」や「監獄ロック」もビルボード1位など大ヒットとなります。
エルヴィスは、ついに全米規模のロック・スター、ムービースターに成り上がったのです。
兵役・グラディスの死
1957年12月にエルヴィスに徴兵令状が届きます。
当時、4本目の映画、「闇に響く声」を撮影中で、パラマウントの工作もあり、入隊したのは1958年3月でした。
テキサスのフォート・フッドの訓練基地に配属され、その後西ドイツの駐留米軍に配転し、1年半の軍隊生活でした。
当時、冷戦の真最中で選抜徴兵体制を取られていて、誰もが徴兵される可能性がありましたが、エルヴィスが徴兵され、前線に送られたことには政府の意図があったのではないかとも言われています。
有名人は本国にとどまり広報や慰問活動で活用されることが多いからですが、エルヴィスの場合、そのパフォーマンスに保守層が反発し、若者を挑発し反体制の象徴であるかのように捉えられ、ある種の見せしめの処置ではなかったかという考えです。
しかし、エルヴィスには反体制の意図はなく、既成の価値観を転覆させようという確固たる意思はなかったのです。
ただエルヴィスには、南部の貧乏な家庭の生まれで、黒人の歌を歌うことへのタブーを持ち合わせていなかったことや、50年代、それまで続いた秩序や価値観が崩壊していく時代の中で、エルヴィスが、ロックンロールという新しい音楽によって時代の先端に押し出されていったにすぎなかったのです。
ですからエルヴィスは、自分に向けられる非難にいつも傷ついていたといいます。
母グラディスは、エルヴィスが世に出て生活か向上しても、息子の成功に戸惑い、息子への誹謗中傷に心を痛めます。
グラディスは普通の生活を望み、エルヴィスが売れても、ツアーの間、エルヴィスに「遅くならないようにね」と声をかけ、エルヴィスも帰れない夜には必ず母に電話して安心させました。
息子についての心配事で、ストレスがのしかかり、貧乏のころに戻りたい何度も口にして、飲酒がひどくなり、精神安定剤も欠かせなくなり、だんだんと健康を害していきます。
エルヴィスが入隊中の1958年8月、グラディスは倒れ、二度と目を開けることはありませんでした。
グラディスを深く愛し、グラディスのために家を買い贅沢をさせることを心から願っていたエルヴィスにとって、グラディスの死は衝撃で、喪失感は耐えがたく、彼の悲嘆は、グラディスが埋葬されるまでほとんど泣き続けます。
それは一人で歩くこともできないほど病的なもので、周囲の誰も慰めの言葉が出なかったといいます。
エルヴィスにとって唯一の理解者で、保護者でもあったグラディスの死は、エルヴィスの残りの人生に大きな影を落とします。
グラディスを幸せにするという生きる目標を失い、生きる指針、道徳のコンパスまでも失ったとも言われます。
帰還・ビートルズの来訪
1960年3月、エルヴィスは兵役を終了します。
パーカー大佐は、除隊後のエルヴィスの営業戦略として、ツアーをやめてエルヴィスに直接人前に立って歌うことをさせず、もっぱらテレビ出演や映画出演、映画で歌った曲のレコード化に焦点を絞りました。
またこれまでの時代への反逆者のイメージを抑えたエルヴィス像を創造するような演出をおこないます。
最初のステージはフランク・シナトラのショー番組で、かつてロックンロールを「白痴のチンピラの音楽」と言い放ったシナトラは、兵役から帰還したエルヴィスに敬意を払い、二人は、肩を組み「ラブ・ミー・テンダー」をデュエットします。(このシーンはYouTurbeで見れますがエルヴィスの緊張した表情が印象的です)
番組の企画は大成功で、エルヴィスの復帰は国民に大歓迎を受けました。
その月には、「スタック・オン・ユー」、「アー・ユー・ロンサム・トゥナイト」、「イッツ・ナウ・オァ・ネヴァー」など矢継ぎ早にレコーディングします。
映画も、従軍の経験をもとにした「GIブルース」などでヒットを飛ばし、エルヴィス映画の代表作となる「ブルー・ハワイ」はその挿入歌とともに大ヒット、同じく挿入歌「好きにならずにいられない」もエルヴィスの代表的なバラードとなります。
大佐の目論見どおり、エルヴィスのショービジネスでの活躍は隆盛を極めますが、一方でエルヴィスは、映画中心の活動に、自分の能力を最大限に発揮できていないという不安とフラストレーション、意欲の減退に陥っていました。
1965年8月、エルヴィスはビートルズの表敬訪問をうけます。
エルヴィスが、不満足な映画に出演している間に、すでにビートルズはロックンロールの最前線にいました。
エルヴィスはビートルズがひたひたと自分の後を追ってきていて、自分の地位を脅かされていることに、脅威を感じていましたが、彼らは、エルヴィスをキングとして尊敬し、自分たちのアイドルと会いたかっただけなのでした。
ところが、エルヴィスとビートルズの面談は相手へのエルヴィスの警戒心とビートルズのキングに対する畏怖心により、終始ぎこちない雰囲気になります。
場を取り持つため、ジョン・レノンが「どうしてレコードを作らないのですか」とエルヴィスに聞いたとき、その場の雰囲気は凍り付いたといいます。
エルヴィスはビートルズとの会談で、自分がやりたい仕事がなんであったかを思い出し、陳腐なストーリーの映画の中で歌を歌うことではなかったと思い知るのです。
復帰・音楽活動の再開と結婚
1966年、エルヴィスは新しい音楽プロデューサー、フェルトン・シーヴィシャスを迎え、映画を離れた音楽活動を始めます。
3月にリリースした「ゴールデン・ヒム」は子供の頃から歌ってきてエルヴィスの音楽のベースになっているゴスペルを集めたアルバムで、映画の中では見られない生身のエルヴィスが表現されて多くの人の心をつかみ、初めてグラミー賞を受賞しました。
それは7年間のフラストレーションから自分を解放させる方向転換で、パーカー大佐の方針への異議申し立てでもありました。
1967年、エルヴィスは、兵役で西ドイツ滞在中に知り合った空軍大佐の娘プリシラ・ボウリューと結婚し、翌年には父親になります。
1968年12月、NBCテレビからオン・エアされた「エルヴィス」はエルヴィス本来のパワフルな歌声を披露し全米では70%を超える視聴率を記録しました。
1969年にはラスベガスをスタートにコンサート活動を再開、エルヴィスは完全によみがえりました。
鬱憤を晴らすように、その後1976年までの8年間は年150回ものコンサートをこなすことになります。
1972年にゴールデン・グローブ賞を受賞した「エルヴィス・オン・ステージ」や「エルヴィス・オン・ツアー」も制作され全世界にエルヴィスの復活を印象つけました。また「この胸のときめきを」などの今でも根強い人気の楽曲も生まれます。
1973年の「エルヴィス・アロハ・フロム・ハワイ」は世界40ヵ国へ中継され世界で15億人の人が視聴したといいます。
エルヴィス・プレスリー・終曲
しかし、あまりに過密な日程は徐々にエルヴィスの健康を害しはじめます。
ストレスに起因する偏食や過食・拒食の繰り返し、いろいろな処方薬の副作用による影響、肥満は進行していきます。
1973年には7年にわたるプリシラとの結婚生活も破綻し、エルヴィスの精神的打撃は大きく、孤独感と虚無感にさいなまれます。
エルヴィスには、メンフィス・マフィアと呼ばれる遊び相手は数多くいても、本当に心を許せる人はいず、心身が弱っていくなかで、専属ヘヤースタイリストの影響で神秘思想にのめり込んでいきます。
アリゾナ砂漠の上空に悪魔とキリストの姿をみるという神秘体験をしたり、自分はこの世に特別の使命を持って使わされた人間であるという考え方にとらわれたりします。
Elvisという名前のアナグラムによりlivesが生きること、生命すなわち神を表し、またevilsすなわち邪悪、悪魔になると考え、自分の中に神と悪魔が存在すると考えたりします。
1977年6月、インディアナポリスのマーケット・スクエア・アリーナでのコンサートがエルヴィスの最期のステージとなりました。
8月16日午前、エルヴィス・プレスリーは、メンフィスの自宅「グレイスランド」のバスルームで倒れ死去します。享年42歳、あまりに早すぎる死でした。
参考:「エルヴィス・プレスリー、世界を変えた男」/東里夫
「エルヴィス・プレスリー」/ボビー・アン・メイソン
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