蝦夷(エミシ)とは・どういう人々でどこへ消えたのか?

歴史
多賀城

歴史の教科書は平安時代の章で「奈良時代の末ごろから激しくなった蝦夷(エミシ)の反乱に対して、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて派遣しこれを平定させた」と書きます。

しかしこの「蝦夷(エミシ)」とは一体どういう人々だったのかについて詳しい説明がありません。

このように学校の歴史の教科書には正体が今ひとつわからない集団が出てきますが授業では充分に教えてくれません。

以前にこのブログで取り上げた「倭寇(わこう)」もその例の一つです。

現代では「蝦夷」はエゾと読み、アイヌ民族のことを指しますので、古代の蝦夷(エミシ)もアイヌのことだったのでしょうか。

学説ではいろいろ意見が分かれていてまだ定まってはいないようです。

蝦夷(エミシ)とはいったいどういう人々で、歴史の流れのなかでどこに消えていったのでしょうか。

またアイヌ民族とはどのような関係にあったのでしょうか。

そして近畿王権が蝦夷(エミシ)に対し行った「征夷」とは、一般には知られていない蝦夷(エミシ)の「強制移配」とは。

教科書では教えてくれない蝦夷(エミシ)の実像についてまとめてみました。

蝦夷(エミシ)の語源と表記の由来

かつて日本列島の東北部から北海道南部という辺境地に住み、天皇を中心とする古代国家の支配の外にいる人々のことを「蝦夷(エミシ)」と呼びました。

蝦夷(エミシ)という名は、古代の東北・北海道の人々が自ら名乗ったわけではなく、近畿王権が国家の民である公民と差別するために彼らをそう呼んだのです。

その居住範囲は日本海側は現在の新潟市、内陸部では米沢盆地、太平洋側は仙台平野を南限としていました。

エミシの語源については、

・彼らは弓矢を常に持ちその腕に長けていたので「弓人・弓師(ゆみし)」と呼ばれ、これが訛ったという説

・中国で東の異民族を表わす「夷」という字を分解した弓・人から呼ばれたという説

・アイヌ語で人を意味する「エンチュ」、その古語の「エムチュ」、あるいは刀剣を意味する「エムシ」、あるいは「エムス」から「エミシ」となり、さらには「エゾ」と呼ぶようになったとする説

など諸説がありますがはっきりしません。

エミシの漢字表記は当初は「毛人」と書き、その後「蝦夷」という字に変化します。

最初にエミシを「毛人」と書いた文献は、5世紀後半に倭王武(雄略天皇)が南宋の皇帝に提出した上表文で、「東に毛人(エミシ)を征すること55国、西に衆夷を服せしむこと66国・・」と書き、中国の「宋書」倭国伝に掲載されています。

この「毛人」を「エミシ」と読みましたが、有名な蘇我一族の蘇我蝦夷(そがのえみし)が蘇我毛人と表記された文献があることが一つの根拠とされています。

この上表文は非常に優れた漢文のため中国からの帰化人が代筆したのではないかと推測されますが、秦・漢のころ成立した書「山海経」に中国東北部に全身毛が生えた「毛人」が住む「毛民国」があったことが記述されており、上表文の「毛人」の語はここから取ったようです。

エミシの表記が「毛人」から「蝦夷」という字に変わったのは7世紀半ばで、日本書紀の斉明天皇紀に「蝦夷」という表記が初めて出てきます。

斉明紀によれば、659年の第4次遣唐使の際、大使は男女2人の蝦夷を同伴して唐の高宗と面談しており、高宗に蝦夷について問われると

「蝦夷の国は東北にあって、遠い者を都加留(ツガル)、次に麁(アラ)蝦夷、近い者を熟(二ギ)蝦夷と三種の蝦夷がいて、五穀でなく肉を食べ、深山の木の根元に住んでいます」と答え、高宗は蝦夷の異様な身体を見て非常に興味を持ったと記しています。

エミシの表記が「毛人」から「蝦夷」に変わった理由としては、

高宗がエミシの容貌を見て、長いひげを持つエビに似ていたことからエビを意味する「蝦」に、異民族を呼ぶ際の「夷」を付けて「蝦夷」と名付けたため、日本側もこれにならい「蝦夷」という漢字に変えたという説

倭国が中華思想の国家体制が整っていることを中国に示すため、エミシも朝貢する異民族として「・夷」とした方がふさわしいと考え、発音的に似ていている「蝦」に「夷」をつけた「蝦夷」に変えたとする説

逆に王権に従わない東北辺境の人々をエビのように長いひげと腰が曲がった醜いものと侮蔑するためにエビを意味する「蝦」という字を名付けたという説

などがあります。

平安末期になると「蝦夷」の読みは「エゾ」に変化し、中世・近世になると「蝦夷(エゾ)」は北海道やそこに住むアイヌ民族を指すようになりました。

何故、遣唐使はエミシを中国の皇帝に会わせたのか

この記事で誰もが不審に思うのが、遣唐使がなぜ蔑視された蝦夷(エミシ)の男女を中国に連れて行き皇帝に拝謁する重要な場面に同席させたのかということです。

このことは中国側の史書「通典」にも載っていますから本当にあった出来事に間違いありません。

実は蝦夷(エミシ)を皇帝に見せたのは倭国の外交政策上、重要な目的があったというのが現在の定説です。

当時、東アジアでは唐・新羅連合と高句麗・百済連合の対立が激化しており、最強国の中国は倭国に対して新羅への軍事支援を求めていましたが、倭国としては親密な関係にある百済を見捨てることはできず苦しい立場にありました。

このような緊迫した国際関係のなかで、我が国は朝鮮諸国より上位にある特別な国家であることを中国に認めてもらう必要がありました。

そこで蝦夷(エミシ)を従えて朝貢することによって、高宗の威信が皇帝も知らない異民族まで及んでいることを示しておもねるとともに、中国が中華思想により夷狄を従えているように、倭国も蝦夷という朝貢関係を持つ夷狄を従えた中央集権国家であることを示そうとしたのでした。

このことから倭国が中華思想の国家体制が整っていることを中国に示すため、中国が朝貢する異民族を「・夷」としたことを真似てエミシを毛人から蝦夷という表記に変えたとする説に説得力があります。

蝦夷(エミシ)とはどういう人たちだった?

それでは蝦夷(エミシ)と呼ばれた人たちはどういう人たちだったのでしょうか?

江戸時代以来、広く理解されていたのはアイヌ民族であったとする「蝦夷アイヌ説」でした。

中世以降に北海道の蝦夷(エゾ)と呼ばれた人々がアイヌ民族であることははっきりしているため、当然同じ蝦夷と表記とする古代の蝦夷(エミシ)もアイヌ人であると考えました。

江戸時代の政治家であり学者でもあった新井白石や国学者の本居宣長は、古代においてアイヌ民族は宮城県付近まで広がっていて日本人に追われ北上していったと主張しました。

近代では喜田貞吉などが石器時代人すなわち縄文人はアイヌ人で日本列島の先住民族であり(石器時代人アイヌ説)、大陸から渡来して現在の日本人の祖先となった弥生人に駆逐されて北に退いたとします。そして古代の蝦夷(エミシ)とは北に退く途中のアイヌ人だったと結論づけます。

金田一京助は「ナイ」や「ペッ」といったアイヌ語の地名が東北にも多く残されていること、さらには東北の山中のマタギの言葉の中にもアイヌ語が存在することなどから、北海道と東北地方は区別する必要はないとして言語学の立場から蝦夷アイヌ説に賛同します。

しかし戦後になると石器時代人アイヌ説や蝦夷アイヌ説は劣勢となり、優勢となったのが「蝦夷日本人説」です。

この説は、蝦夷(エミシ)とは他の地域の日本人と変わらない人々であって、ただ東北という辺境に住んでいたため近畿王権が蝦夷(エミシ)と呼んで蔑視したのだとします。

戦後、考古学上の発掘調査が進むと岩手県の胆沢城近くなど東北南部で前方後円墳が発見され、東北北部からも古墳時代の土師器、須恵器、鉄製品などが出土し、さらに他の日本国内と同じように早くから稲作が行われていたことが判明しました。

この事実により東北地方も中・西日本と同じように弥生・古墳文化が営まれていて、その当事者はただ単に辺境に住む日本人だったとした蝦夷日本人説は多くの研究者の賛同を得ます。

ただ先に挙げたように東北北部ではアイヌ語の地名が残っており、後のアイヌ文化につながる続縄文土器や擦文土器が出土していることも無視できないため蝦夷アイヌ説も一概に否定すべきでないという反論もあり、近年は蝦夷(エミシ)を人種や民族面から脱却して説明すべきという意見が主流になりつつあります。

どちらにしろ、近畿王権は領土拡大のための武力侵攻を正当化するため、蝦夷(エミシ)が持っていた日本人との共通性よりも異質的な部分をことさらに強調した蝦夷(エミシ)像を作り上げたことは間違いありません。

縄文人から蝦夷(エミシ)への3つの道

現在では蝦夷(エミシ)を蝦夷アイヌ説、蝦夷日本人説を統合して次のように説明します。

すなわち、日本列島の東北より南は縄文時代から弥生時代、古墳時代、飛鳥・奈良・平安時代というように歴史の教科書に書いているように時代を経て行きますが、東北以北の人々は別の歴史をたどります。

縄文人(小樽総合博物館)

まず、北海道の縄文人は縄文時代の後、寒冷気候のため水稲栽培を行わず、ほとんど縄文時代と同様の狩猟生活を継続したため弥生時代には移行せず「続縄文時代」に入ります。

その後7世紀になると土器の表面に刷毛の文様がつけられた「擦文(さつもん)土器」を特徴とする「擦文時代」に入り、13世紀ごろからはアイヌ文化とアイヌ民族が形成されるという独自の道をたどりました。

一方、東北地方の縄文人のうち南部の人々、具体的には盛岡と秋田を結ぶ線の南の地域では、早くから水稲を受容して弥生時代に移行します。

この地域は平安初期までに近畿王権が武力で侵攻し、城柵が作られて直接支配を受けるようになると他地域からの移民政策などで日本民族に同化していきます。

しかし、盛岡と秋田を結ぶ線の北側では一時的に稲作を行ったものの、寒冷化の影響で稲作を放棄し7世紀頃までは北海道の続縄文文化、擦文文化と同様の生活を送ります。

その後、温暖化のため稲作が再び普及・定着し農耕社会に変貌していくなかで、王権の軍事侵攻はなくとも徐々に中央の政治的・経済的・文化的影響を受けるようになり平安時代末には日本民族に組み入れられたのです。

整理すると蝦夷(エミシ)とは、北海道、東北地方の縄文時代からの流れをくむ人々が日本民族とアイヌ民族形成の過程にあって、

北海道では続縄文文化、擦文文化を経てアイヌ文化を形成しアイヌ民族となった人々

東北北部では中途まで北海道と同じ道を進みながらも、やがて稲作文化を受け入れ日本民族の道を歩んだ人々、

東北南部では列島の東北以外の地域と同様に弥生・古墳文化という歴史を歩んだ人々

のことで、国家の支配下に入るのが遅れ、公民から区別された人々だったのです。

10世紀以降、東北の人々は日本民族の一員ととなり、文献にも蝦夷(エミシ)の名は記載されなくなり、東北の蝦夷(エミシ)は消えていきます。

ただ北海道の人々のみは日本民族に同化せず、アイヌ民族を形成し蝦夷(エミシ)の後継者として存続し続けます。

そのため、「エミシ」の呼び方は「エゾ」に変わりますが、表記としてはそのまま「蝦夷(エゾ)」が使い続けられたのです。

近畿王権の征夷と蝦夷(エミシ)の抵抗

近畿王権は列島東北部の人々を「蝦夷(エミシ)」と呼び、武力により侵攻し、拠点を確保するため「城柵」を設置して国家の支配地域を拡大していきました。

記録がはっきりしている大規模な軍事侵攻は8世紀初頭から9世紀初頭までの約100年間で17回程度行われてます。

ただし7世紀半ばの有名な阿倍比羅夫による北方遠征は軍事侵攻と言うより、北方各地の蝦夷(エミシ)集団と政治的、経済的な関係を求めたものとして区別されるのが通説です。

城柵の設置は大化の改新直後の648年から始まり、9世紀初頭まで有名な陸奥国の多賀城や胆沢城など20数カ所が築かれています。

多賀城

城柵は、かつては軍事的な砦と考えられていましたが、現在では政務や儀式を中心とする役所、「官衙(かんが)」だったとされ、その周囲には「柵戸」と呼ばれる移民が他地域から移住させられて「郡」が置かれました。

一方、蝦夷(エミシ)側では7世紀の頃から東北北部でも農耕文化の進展により大規模な集落が出現し、8世紀には蝦夷(エミシ)集団のなかから「伊治公呰麻呂(コレハレノキミアザマロ)」や「阿弖流為(アテルイ)」などの有力な族長が現われ、征夷軍の圧力や支配地の過酷な施政に対し反乱を起こして激しく抵抗しました。

平安時代に入ると桓武天皇は大規模な征夷軍を派遣しますが、胆沢地方の蝦夷の族長、阿弖流為(アテルイ)は強力な蝦夷(エミシ)集団を率いて反抗し派遣軍を撃破します。

そこで征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は4万人にも及ぶ大軍を動員して攻撃すると、やがて数の上で劣る阿弖流為は投降し、田村麻呂は胆沢城と志波城を建設して一帯を支配下に治めることに成功するのです。

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂は投降した阿弖流為を蝦夷(エミシ)との融和を進めるために釈放することを強く主張しますが、現地の事情を知らない公家たちの主張により処刑されました。

ところがその後、桓武天皇は財政難や将兵の疲弊などから蝦夷征夷の停止を決断したため、近畿王権の北進は終わりを告げます。

そのため盛岡と秋田を結ぶ線より以北は平安末期まで近畿王権の直接支配外であり続けることになったのです。

蝦夷(エミシ)の強制移配

近畿王権は武力により制圧した蝦夷(エミシ)を「俘囚(ふしゅう)」と呼び、日本全国に分散して強制移住させるという残酷な政策を行いましたが、この事実は現代ではあまり知られていません。

近畿王権に抵抗を続けた蝦夷(エミシ)に対する懲罰的な隔離と蝦夷(エミシ)社会の分断による弱体化が目的だったとみられます。

強制移住が本格的に行われたのは、坂上田村麻呂の征夷の前後からとみられ、記録に残る移配蝦夷は約2千人が、実際には1万人を越える人々が全国35カ国に分散して移住させられました。

なかには移配先を二転三転させられた俘囚もいて、近江国に移配された蝦夷640人がさらに太宰府に送られ、東国人が務めるはずの防人(さきもり)に当てられたという記録があります。

移送された蝦夷(エミシ)たちには食料が支給され税も免除されましたが、移配先ではさまざまな差別を受けて過酷な生活を強いられ、しばしば彼らは大規模な反乱を起こしています。

東北蝦夷(エミシ)の終焉

近畿王権に支配された東北の蝦夷社会でも、派遣された地方役人による苛政に対する反乱や交易をめぐる蝦夷(エミシ)同士の抗争が頻発しますが、11世紀にはその中で実力をつけた蝦夷(エミシ)の系統の豪族、安部氏や清原氏が台頭してきます。

やがて1051年から1062年までの「前九年後三年の合戦」を経て安部氏、清原氏が滅び、清原氏の後継である奥州藤原氏が東北全域を掌握します。

初代の藤原清衡は「俘囚の上頭」と自称し、蝦夷(エミシ)の血統であることを誇りました。

奥州藤原氏は拠点を平泉に移し清衡・基衡・秀衡と京の文化を取り入れ、雅な王朝文化を開花させます。

そして1189年、4代目藤原泰衡の時、源頼朝が東北に侵攻し、奥州藤原氏を滅ぼすと東北地方全体が鎌倉幕府の支配下となり東北の蝦夷(エミシ)社会は日本民族の一員となります。

ここに至って東北の蝦夷(エミシ)は消滅し、北海道のアイヌ民族だけが蝦夷(エミシ・エゾ)の世界として残されることになったのです。

参考:蝦夷の古代史/工藤雅樹、蝦夷と東北戦争/鈴木拓也

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