フランシスコ・ザビエルとは?その生涯と日本とのかかわりは?

人物

フランシスコ・ザビエル1549年に、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師です。

日本史の教科書には、必ずあの有名な宗教画の人物画像とともに紹介されていて、その名を知らない人はいないでしょう。

ザビエルは、日本だけでなくカトリックの世界で大変な尊敬を集め、後年カトリック教会はザビエルを聖人に列しました。

 

 

 

 

しかし、教科書にはザビエルについて1行だけしか触れられておらず、一般の日本人は、ザビエルがどういう人物であったのか、なぜ日本に布教しようとしたのか、日本での布教活動や日本を去ったあとの活動などよく知らないこと多いと思います。

そこで、ザビエルの誕生してから世を去るまでの足跡について調べて見ました。

ザビエルの生い立ちからイエズス会創設まで

フランシスコ・ザビエルは、1506年4月7日、フランスとスペインの間にあるバスク地方ナバラ王国で生まれました。

ザビエルの父は、ナバラ王国の地方貴族で王室会議議長という要職にあり、ザビエルは経済的にも恵まれた貴族の家庭に育ちました。

しかし、この地域は昔からフランスとスペインの争奪の舞台で、その戦いにおいてフランス側についたザビエル家は敗戦を機に没落します。

1525年、ザビエルは故郷を離れ、当時カトリックの最高学府といわれたフランス・パリ大学のバルバラ学院に学び、哲学修士の学位を得て、パリ大学でアリストテレス哲学を講義するようになります。

ここでザビエルは運命的な出会いをします。

バルバラ学院の寮で同室になったのが14歳年上のイグナシオ・デ・ロヨラでした。

ロヨラも同郷の出身でしたが、フランス・ナバラ連合軍と敵対したスペイン側の軍人で戦争で重傷を負い、神に仕えることを決意して大学で学んでいました。

ロヨラは貴族出身の学生として裕福な生活を送っていたザビエルに、この世での成功ではなく神に仕えることの意味や「心の救い」についてザビエルを熱心に説きます

ザビエルは最初は耳を傾けなかったのですが、最愛の母マリアと敬愛する姉マグダレーナの訃報に触れます。

心の支えになっていた母と姉の死の悲しみが引き金となって、やがてザビエルはロヨラに感化されるようになります。

彼は、これまで高位の聖職者になりザビエル家の再興することが望みでしたが、立身出世の道を放棄し、ロヨラとともに修道者として身を捧げることを決意します。

この決意をザビエルの「大回心」といいます。

1534 年、ザビエルはロヨラ、フランス人ピエール・ファーブルら7人で、生涯の誓いを立て、後にカトリック修道会「イエズス会」となるグループを パリのモンマルトルで結成しました。

これを「モンマルトルの誓い」といいます。

その誓いとは・清貧・貞潔・聖地エルサレムへの巡礼とローマ教皇の命じる世界のいかなる場所にも布教に赴くという3つの誓いを聖母マリアにささげたものでした。

イエズス会の若者達は、貧しい人々や病人を助けながら、自らも托鉢して生活し、教皇パウルス 3 世 にも聞き及ぶほどに人々の信頼を獲得していきます。

そして1540年、イエズス会はカトリック教会により修道会として認可され、総長にはロヨラが就任し、1557年に没するまで務めました。

ザビエルの東方布教

ローマ教皇によってイエズス会が正式に認可されると、ヨーロッパ各地からイエズス会宣教師を派遣してほしいという要望が寄せられます。

イエズス会の評判がポルトガル国王ジョアン 3 世にも伝わると、折りしも、国王は、ポルトガルの植民地である東インドの布教のために優秀な宣教師がいないことを憂いていて、ローマ教皇にイエズス会からのインドへの優秀な宣教師派遣を要請します。

 

 

 

 

 

ザビエルは当初インド派遣候補者ではなかったのですが、派遣されるはずだった人物が急病になったため、インド行きを躊躇なく決断します。

1541年、ザビエルはポルトガル国王に謁見のあと、リスボンを出発しますが、これ以降、生涯ヨーロッパに帰ることはありませんでした。

1542年5月、ザビエルはアフリカの喜望峰を経て、インドのゴアに到着します。

ザビエルは1542年から1549年までの間、インド南部や東部海岸、マラッカ、セイロン島などに滞在し、精力的に布教活動を行います。

しかし、現地ポルトガル人の非協力、多様な言語の障壁や頑迷な異教徒の抵抗などにより布教は難航を極めました。

その当時、カトリック教会が直面した重大な危機は聖職者の資質の悪さでした。

ヨーロッパを離れた宣教師の大半は、武力に守られた傘から抜け出して活動するという覚悟がありませんでした。

しかし、ザビエルは軍事力を背景とせず、信仰を伝えようという熱意だけで異教徒の内部に身を投じ伝道を行ったのです。

ザビエルは決然とした信念を持って活動し、それが実を結び、宣教師として尊敬を集めるようになります。

ザビエルと接した人々の多くは、その一貫した論法や果敢な行動に、カリスマ性を感じ魅了されました。

一方、ザビエルは異教徒の内部で布教ができる強い心を持った人材や、伝統的な布教方法との訣別の必要性への思いを強くしたのです。

ザビエルの鹿児島上陸

そのようなとき、ザビエルはマラッカで「アンジロー」という日本人と出会いますが、これがザビエルの東方布教にとっての大きな転機となりました。

アンジローは鹿児島出身で、鹿児島でなんらかの事情で殺人を犯しマラッカに逃亡したとされていますが、マラッカでキリスト教を知り洗礼を望み、ザビエルのはからいにより洗礼を受けます。

ザビエルは、アンジローの知性・人格に惹かれ、また日本という国と日本人の資質を聞き、日本での布教を望むようになります。

さらに日本を知るポルトガル商人のジョルジ=アルバレスが書いた『日本記』を読み、東方布教の成果は日本でこそ得ることができると確信し、日本への渡航を決意します。

また、ザビエルは日本が強力な「国王」が支配し、「大学」があることを聞き、まず「国王」により布教許可を得て、「大学」では日本の異教者たちと論争してキリスト教の権威を高めようと考えました。

1549年4月、アンジローを案内役とし、司祭コスメ=デ=トルレス、修士ファン=フェルナンデスほか2名を伴ってゴアを出発、マラッカで中国人の商船に乗り換えて、ついに同年8月15日(天文18年7月22日)鹿児島に上陸しました。

9月には薩摩藩主、島津貴久に謁見し、住院を与えられ、布教の許可を得、上洛の便宜供与の約束も取りつけますが、島津貴久はそれほどキリスト教には関心を示さなかったと言われています。

ザビエルはアンジローの助けを借り、島津氏の菩提寺である福昌寺の境内で聴衆に説法を行います。また同寺の住持、忍室と親しくなり、霊魂の不滅を論じ合いました。

当時、キリスト教は日本人からは「天竺宗」と呼ばれ、仏教の一宗派と見なされました。

ところが、信者は増加しましたが、僧侶の妨害が起こり、また島津貴久も期待した貿易の利益が得られないことに失望し、キリスト教への改宗は死罪として禁じます。

平戸・山口から京都へ

そこでザビエルは、1550年9月、アンジローを残し、トルレス・フェルナンデス、日本人信者のベルナルド、アンジローの弟ジョアンほか1名を従えて、平戸に渡ります。

折しも停泊中のポルトガル船が彼を丁重に歓迎するのを見て、平戸領主の松浦隆信もザビエルを厚遇し、布教を許します。

改宗者も多く獲得しましたが、滞留1ヵ月余で平戸をトルレス、ジョアンに委ね、博多・下関を経て山口に移動します。

山口では、領主大内義隆に謁見は許されますが、布教許可は得られなかったため、最大目的である天皇からの布教許可を得るため、京都に向うこととし、海路、泉州堺に到着、後に洗礼を受ける堺の豪商、日比屋了珪(ひびやりょうけい)(洗礼名ディオゴ)の屋敷に迎えられました。

 

1551年1月、ザビエルは堺より勇んで京都に入ります。

しかし、ザビエルが見た京都は相次ぐ戦乱で荒廃しており、天皇や将軍の権威は地に堕ちていたのです。

また比叡山の「大学」も異国人を理由にザビエルが入ることを拒否します。

ザビエルは、この状況に失望し、天皇からの布教許可を得ることが意味を持たないと判断、滞在11日で京都での布教を断念します。

ザビエルにとっては予想しない事態でした。

再び山口、そして豊後での布教

ザビエルは気を取り直し次の目標を山口に置き、当時中国一の富強を誇った大内氏の保護を仰いで、同地を布教の中心地にしようと考えました。

祭器や「国王」に献上すべきものとしていた時計・楽器・眼鏡・ポルトガルの酒・織物など贈物とインド総督・ゴア司教の推薦状を携えて、同年4月再度山口を訪れ、領主大内義隆に謁見します。

義隆は布教を許可し、住院として廃寺を提供します。そこでのザビエルの説法には、仏僧を含む訪問者が殺到し、説法や天体の運行、雷、雨、月の満ち欠けなど自然現象の説明は聴衆を魅了しました。

その結果、滞在中の改宗者は琵琶法師ロレンソ、山口のマテオはじめ500人以上になりました。

またザビエルは、この時期に、神の名称として、布教上便宜的に使ってきた「大日(ダイニチ)」の語をあらため「デウス」を用いることにしました。大日如来を意味する「大日」は日本人にキリスト教を仏教の1宗派と誤解を与えていて、通訳を務めていたアンジローの無知による誤訳であることに気づいたのです。

山口滞在が5ヶ月過ぎた頃、豊後の領主大友宗麟(洗礼名フランシスコ)の使者が豊後来訪の要請を伝えてきたので、ザビエルは、同年9月大友宗麟を府内の居城に訪ねます。

宗麟はキリスト教に関心を寄せており、礼を尽くしてザビエルを迎え、直ちに布教を許し、自身も改宗すると約束します。

六十日あまりの豊後滞在中、ザビエルは山口の大内義隆が家臣の反乱で死に、義隆の弟、大内義長が新領主となり、布教保護が継続されたことを知ります。

ザビエルは安堵しましたが、一方で、鹿児島上陸以来、全くインド・ヨーロッパから書翰がなく、要請した援助者の派遣もないので、いったんインドに帰還して諸問題を処理して、日本の布教にあたるべき宣教師を選定し、再び来日しようと決断しました。

ザビエル、日本を去る

1551年11月20日、ザビエルは、豊後沖の浜から日本を去ります。

ヨーロッパに派遣しようと考えた鹿児島のベルナルド、山口のマテオ両名とほか2名を伴い、インドへの帰路につきます。

ザビエルの2年3ヵ月の日本滞在中の改宗者は1000人にも満たなかったのですが、ザビエルの日本人に寄せる期待は大きく、「その文化・礼儀・作法・風俗・習慣はスペイン人に優る」「日本人ほど理性に従う人民は世界中で逢ったことがない」と伝えて絶賛しています。

また日本文化の源泉は中国にあり、中国への布教が成功すれば日本のキリスト教化を促すだろうと考え、次に中国へ布教に行くことを考えました。

1552年4月、ザビエルはゴアを、7月にはマラッカを出発し、8月末、広東省沖合の上川島(じょうせんとう)に上陸します。

しかし、当時の明は鎖国政策中で中国へは入国できず、その機会を待つうちに11月21日に熱病で倒れます。

ザビエルは、病床においても布教活動を案じ、絶え間なく指示を出しますが、12月3日の明け方、上川島にて没します。享年47歳でした。

ザビエルの遺骸は同島に埋葬後、1554年ゴアに移されますが、墓から掘り起こされると遺体は腐敗しておらず、聖性を示すものとされました。

現在も、ザビエルの遺体はミイラ化した状態でゴアのボン・ジェス教会に安置されています。

1619年、ザビエルは教皇パウルス5世により福者に、1622年教皇グレゴリウス15世により、ロヨラとともに聖人に列せられました。

1748年には「喜望峰から中国・日本に至るインド諸国の守護聖人」、1927年には「カトリック布教の守護聖人」に列せられました。

フランシスコ・ザビエル・まとめ

フランシスコ・ザビエルが日本にいたのは2年3ヶ月という短い月日でした。

しかし、ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えたことは、キリスト教の歴史においても、日本の歴史上にも重大な出来事となり、その影響は現在まで連綿と続いているといえます。

日本にとっては、キリスト教に代表されるヨーロッパ文明が初めて初めて到来し、日本が近代化に向かう契機となったのが、ザビエルの日本上陸ということができます。

ザビエルは日本滞在の短い間に日本と日本人を的確に洞察し、前述したとおり、日本を高く評価し、ヨーロッパに伝えています。

それが、今日までヨーロッパにおける日本のイメージの基礎となっているともいわれています。

そういう意味でも、ザビエルの足跡と困難な布教活動への飽くなき情熱を知ることは、キリスト教信者でなくとも意義があることではないでしょうか。

*参考「フランシスコ・ザビエル東方布教に身をささげた宣教師」浅見雅一


 

 

コメント