補陀落渡海(ふだらくとかい)とは?観音浄土を目指した僧侶たち

歴史

かつて遠く南海上に補陀落山(ふだらくさん)という観音菩薩が住まわれる浄土があり、そこは清浄な空気と光に満ちており、清流は山をめぐり大地を潤し、常に緑の木々にはたわわに果実が実って花も満開で芳香を放っていると信じられていました。

そして、人がこの地に至るならば観音菩薩の慈悲により往生(再生し永遠の命を得られる)できるというのが補陀落信仰なのです

補陀落とはサンスクリット語の「Potalaka(ポータラカ)」の音写語ですが、補陀落山の場所は諸説があり、インドの南海岸、中国の揚子江の入口にある普陀山、あるいはチベットのラサなどが比定されています。

9世紀から16世紀にかけて、補陀落信仰により紀州熊野を中心として各地の海岸より多くの僧侶たちがその補陀落山を目指して小舟に乗って出港しました。

これを「補陀落渡海」とよび、船出した僧侶のほとんどは沖において入水自殺したのか、潮に乗り遙か海上に漂流し死亡したのかわかりませんが死出の旅であったことは間違いなく、一種の捨身行もしくは水葬であるともいわれています。

日本の宗教史において、未だ全容が解明されない謎の宗教儀式「補陀落渡海」について解説します。

補陀落渡海上人とは

補陀落渡海は、補陀落渡山寺がある熊野の那智海岸のほか、四国の足摺岬、室戸岬、水戸の那珂湊(なかみなと)、大阪・四天王寺の海岸、九州・熊本、鹿児島、山陰の鳥取・島根などで行われたという記録や伝承が残されています。

しかし正確な総数や実施された期間など全容の解明はまだなされていないようです。

そのなかで那智海岸にある補陀落渡山寺は背後の那智山が補陀落山にも擬され、古くから補陀落信仰の中心地とされて那智海岸からは最も多く補陀落渡海が決行されました。

補陀洛山寺

補陀洛山寺

特に補陀落山寺では多くの住職が渡海したとの記録があり、彼らは渡海上人と称されています。

「熊野年代記」によると、868年(貞観10年)の慶竜上人に始まり、1722年(亨保7年)まで20人の住持職が5人から18人の同行者を引き連れて渡海し、その総計は100人近くとなっています。

ただ、江戸時代になると生前の渡海は禁止され、死去したのちに水葬されるようになりました。

もちろん住職以外の多くの行者も渡海を決行したとみられますが、その詳細は数える程度しかわかっていません。

補陀落渡海を決行した僧侶

現在まで伝えられている数ある補陀落渡海者のなかから、3人の有名な人物をあげてみました。

智定坊・失態の40年後渡海した元武士

「吾妻鏡」によると、1233年(天福元年)3月7日、那智海岸から補陀落渡海した智定坊は、もとは源頼朝の御家人、下河辺行秀といいました。

弓の達人として聞こえていた行秀は1193年(建久4年)4月2日、頼朝が行った鹿狩りで一頭の大鹿を射ることを命じられます。

ところが不覚にも仕損じ、同僚が代わって射止めたため、行秀は大舞台での失態を恥じその場から行方をくらますのです。

逐電後、出家し智定坊と名乗り、熊野山で激しい修行に明け暮れます。

そして失態から40年後、智定坊こと下河辺行秀補陀落渡海を決行したのです。

智定坊は外から釘で打ち付け扉も無く光が全く遮断された渡海船に、30日分の食料と灯火用の油のみを携えて乗り込みます。

行秀は決行に際して、時の執権である北条泰時に逐電から渡海に至る経緯を記した書状を送ります。

実は二人は若き日、弓馬の友であり、泰時は書状を読み行秀の苦難を知り、涙を流したといいます。

江戸時代の「北条九代記」では、智定坊は「一心に法華経を読経し30日余にして到着す」と書き、補陀落山に至ったとされます。

そして補陀落山の景観を「山渓険しく岩谷幽明で、山頂には池があり、そこから流れる大河が山を巡り海に入っている。池の畔には石の天宮があり観音菩薩が住まわれ、願行満ちたる人は直に拝謁することができた」と描きました。

「北条九代記」は、智定坊は50日ほど補陀落山にとどまり、再び渡海船で熊野に戻ったとし、智定坊のその後について知る人はいないが再び補陀落渡海したのではないかと書くのです。

智定坊こと下河辺行秀の渡海は武士の一分を守った男の悲劇として後世に多くの書物に描かれ伝説化し、武家社会の人々の間に広がりました。

日秀上人・補陀落渡海から生還し高僧として尊敬された僧侶

補陀落渡海を伝える文献は多く残されていますが、渡海者の末路まで語ったものはなく、補陀落山に到着し、その観音浄土で往生し本懐を遂げたであろうと暗示させるのみです。

しかし、現実のほとんどは出航後まもなく、海上で入水したのか、波にのまれ溺死したのか、漂流し餓死したのか、望んだこととはいえ渡海者には悲惨な運命が訪れたことは間違いありません。

その中で、16世紀初頭に那智海岸から補陀落渡海を試み死の淵から生還したのが日秀上人です。

日秀上人は1503年(文亀3年)、上野国(こうずけのくに/現在の群馬)に生まれ、豪族・富樫氏の子孫ともいわれています。

19歳の時、誤って家臣の一人を殺害してしまい、逆縁により懺悔の念が日増しに高まると発心して仏門に入り高野山で修行します。

やがて那智海岸から櫓(ろ)も櫂(かい)もない渡海船補陀落渡海を試みますが船は琉球国(沖縄)の金武(きん)村・福花海岸に漂着します。

 

補陀洛渡海船

補陀洛渡海船

伝説では日秀上人の渡海船が沈まなかったのはアワビが船底の穴を塞いだためで、そのアワビの殻は現在も霧島市の民俗資料館に保存されていて表面には「南無阿弥陀仏」の文字の一部が残っていますが真贋のほどは不明です。

金武は富登山や池原という湖などの景観が、伝説の補陀落山に似ており、命を拾った日秀はこの地を補陀落とみなして補陀落観音寺を開山するなど真言宗を広め、寺社再興に奔走します。

また波上山護国寺を再興し、自分で彫った阿弥陀仏・薬師仏・観音仏像を納めたり、10余りの寺院を建立するなど琉球国での活動は20年以上に及びました。

妖怪が出没する首里と浦添を結ぶ街道で小石に金剛経を写し埋めて石碑を建て妖魔を退散させたなど逸話も多く、日秀の名声は民衆に広がり琉球国王からも畏敬されます

その後、薩摩に渡ると、薩摩坊津津一乗院、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の再興、三光院の建立(現在、日秀神社として残る)などさらに宗教活動に精力を注ぎました。

1575年(天正3年)、日秀上人73歳の年、三光院の丑寅(北東)の方向に一坪の石を敷いた部屋を作り、入定(断食し即身仏となる苦行)します。

「開山日秀上人行状記」は「穀水を絶ち、食を蝉脱す(穀物や水を絶ち食欲の束縛からのがれた)」と書きます。

入定の直接のきっかけは、薩摩藩主嶋津義久から敵対する武将伊東氏の攻撃を阻止するための祈願を命じられ、日秀は固辞しますが許されなかったためでした。

日秀は「身命を捨てて成るにしかず」と言い、入定をもって義久の命に応えたのです。

入定後およそ2年の間、日秀の誦経の声は外まで漏れ聞こえていたのですが、1577年9月24日、75歳の年、ついに誦経は途絶え、弟子たちが悲しんで扉をたたくも応答がなかったため、この日を入寂の日としました。

日秀上人は数多くの伝説に包まれていて文献には潤色も多いと考えられ、食をとらず2年間も入定できたのかなど異論もあるようです。

三光院・阿弥陀堂の石塔銘文によると、日秀上人入寂の90年後、1667年(寛文7年)に三光院の僧・快意が日秀上人の夢告をうけて定室を開くと、遺骨は燦然として残っていたので石塔に治めたといわれています。

日秀上人補陀落渡海から生還し、仏門の興隆に寄与した後に入定するという2度の捨身行で生涯を終えた希有の渡海僧といえます。

金光坊・補陀落渡海を拒否した渡海上人

江戸時代の書物「熊野巡覧記」によれば、補陀落山寺では住職が60歳を越えると船に乗り、補陀落渡海を行うことが習わしとなっていたのですが、16世紀末ごろの住職、金光坊は甚だ死をいとい、命を惜しんで拒否したので介添え役の役人たちが無理矢理、海中に沈めるという出来事が起こります。

そしてこの事件以来、存命の内に住職が入水(渡海)することは中止になったというのです。

この金光坊補陀落渡海の顛末は、文豪・井上靖が小説「補陀落渡海記」に書いています。

小説では、補陀落寺代々の住職はいつの頃からか61歳で渡海するようになったのですが、現在の住職である金光坊も当然渡海するものと周囲の人々は思い込み崇めるのですが、金光坊はその覚悟ができていず、一方で人々の尊敬も失いたくないため徐々に追い詰められます。

ついに渡海の日が来ると金光坊は呆けたような状態で船に乗せられますが、沖でひとりだけにされると恐怖が襲いパニックとなり、閉じ込められた屋形を打ち破り海に飛び込みます。

金光坊は小島に打ち上げられ、知らせを受けた弟子の僧侶たちに救助されますが、弟子たちを見るとかすれた声で「助けてくれ」と本音を吐いてしまいました。

その言葉は彼らの耳にととかず、金光坊は震える筆で漢詩をつづり弟子の清源に渡します。

その文意は、ようやく到達した悟りの境地のようでもあり、意思に反して渡海せねばならない怒りの表現ともとれるものでした。

しかしそのあとすぐに金光坊は弟子たちによって、急ごしらえの渡海船に押し込められ再び海原に流されたのです。

金光坊の渡海後、生きながらの補陀落渡海は中止されますが、唯一の例外として金光坊の遺文を受け取った清源のみが13年後に渡海したとことを述べて小説は終わります。

文豪は理不尽な死に直面した人間の生と死のはざまで揺れ動く心理を淡々と描きながら、金光坊だけが特異な僧ではなく、立派に渡海を行ったと思われた歴代の高僧たちも実は粛然と渡海に臨んだのではなかった事を暗示し、補陀落渡海という残酷な風習において人間の真実の姿を浮かび上がらせます。

金光坊補陀落山寺の実在した住職であったのか、本当に渡海を拒否して海に沈められたのか、「熊野巡覧記」以外の文献は見つかっておらず、補陀落山寺にも金光坊の名は記録されていないためはっきりしていません。

ただ現在も那智海岸沖には金光坊島(こんこぶじま)という岩礁があり、金光坊が入水させられた場所として語られていて、また周辺の海でとれる「ヨロリ」という魚は金光坊の生まれ変わりと伝えられており金光坊の実在と渡海の真偽については今後の研究が待たれます。

補陀落渡海(ふだらくとかい)とは?・まとめ

9世紀から18世紀前半にかけて、観音浄土を信じる多くの人々が小舟に乗って海の彼方に消えていきました。

補陀落渡海は現代では決して受け入れられない宗教行為で、井上靖は近代の合理的精神により補陀落渡海の蒙昧性を描いたともいえます。

しかし、観音浄土補陀落山に生きて到達したいと望んで渡海した人々がいたことは厳然たる歴史的な事実で、浜辺では大勢の人々が渡海船の帆影が見えなくなるまで手を振り、涙を流して別れを惜しんだといいます。

那智海岸

ですから中世の宗教観や時代背景を無視した批判のみでは真実を見誤る可能性があります。

日本宗教史上の謎とも言われる補陀落渡海のさらなる解明が待たれます。

参考:「補陀落渡海史」・「観音浄土に船出した人々」/根井浄、「補陀洛渡海記」/井上靖





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