黄金伝説と侵略者たち

歴史

黄金、すなわち金という金属は古来より人の欲望をかきたててきました。

古来より権力者たちは金を求めて数々の侵略戦争を引き起こしました。ある意味で人類の歴史は黄金への渇望が動かしたともいえます。

13世紀、東アジアでは元帝国のフビライは日本を2度に亘って襲います。フビライがその元寇を引き起こしたのは当時流布していたジパング黄金伝説、その源流のワクワク伝説を信じていたからともいわれています。

15世紀末、ヨーロッパではコロンブスが黄金の国ジパングを目指して出航し、新大陸を発見して大航海時代が開幕します。さらにスペインのコンキスタドール(征服者)たちはエル・ドラード黄金郷伝説に魅入られ新大陸に侵攻しました。

以下では歴史に大きな影響を及ぼした黄金伝説であるジパング黄金伝説、ワクワク伝説、エル・ドラード黄金郷伝説と伝説に踊らされた人々を紹介します。

黄金とはどんな金属

さて、なぜ金はこれほどまでに人の心を魅了し虜にするのか、これまでいろいろな理由が上げられてきました。

まばゆいばかりの美しい光沢、なかなか採取することができない希少性、極限まで薄くでき極細に加工できる展延性、そして永遠に錆びず、変色することがない不老不死を思わせる不滅の金属であることなどです。

このような金の魅力に加えフロイトがいうように、なにか人間の心の深層に根ざす欲望を駆り立てる魔性のようなものが確かにあるのは間違いありません。

ところで金はどこでどのように生成するのでしょうか。

実は金はダイアモンドや石油・石炭のように地球上でつくられたものではなく、宇宙で生成し飛来した物質のです。金は79番目の元素記号Auという元素ですが、そもそも元素はすべて宇宙から飛来したものなのです。

現在の学説によると、宇宙が始まった直後に起こったビッグバンによりまず水素とヘリウム、少量のリチウムが生成されますが、その後、宇宙に恒星が誕生すると鉄までの元素は恒星内部の核融合で合成されたことがわかっています。しかし鉄より重い元素である金やプラチナなどは恒星の核融合では生成が難しいとされ、その生成過程については長く議論が続けられました。

現在有力とされている説は恒星が寿命を迎えたときに起こる超新星爆発によって生じた中性子星同士が衝突した際に生成されたというものです。それが宇宙に散らばり、地球が形成される際に隕石として飛来し地球の核に融合されて地球の奥底に沈み、地球形成後は地球表面に降り注いで地表にとどまったというのです。

ですから人類が採掘できる金は地球表面に降り注いだ金だけなのですが、金鉱の鉱石1トンにわずか3~5グラムしかとれません。また海水には1トン中、0.1~2μg(マイクログラム/1000分の1ミリグラム)が含まれているとされます。

世界的な金の調査機関 ワールドゴールドカウンシル(WGC)によるとこれまで人類がこれまでの6000年間に採掘した量は約18万トンで、これはオリンピックの公式プールの4杯弱に過ぎず、現在残されている採掘可能な埋蔵量も約5万トンでプール1杯分のみで今後15年ぐらいで掘り尽くされると推定されているのです。

金はこのように極めて希少物資だったのです。

ジパング黄金伝説

15世紀、ヨーロッパの大航海時代をけん引したのはジェノヴァ生まれの冒険家、クリストファー・コロンブスであったことは否定できないでしょう。彼の冒険を駆り立てたのは金への欲望でした。

コロンブスは当時、西洋世界で流布していた「大西洋を東に突き進めば黄金の国がある」という「ジパング黄金伝説」を信じて疑わず、そこに到達して莫大な黄金を手に入れたいという飽くなき野望に突き動かされます。

1492年にスペイン女王、イザベルとフェルナンド王を説得し資金を得ると、大西洋の海原に乗り出し苦難の末、2ヶ月後にバハマ諸島に到着します。さらにキューバ島北岸に沿って移動しイスパニョーラ島(現ドミニカ、ハイチ)を発見すると住民からその内陸にシバオという金山があると聞かされます。コロンブスはシバオがジパングのなまりで、イスパニョーラ島こそジパングであると思い込みます。実際、川の河口で大量の砂金を発見しジパングに到達したと確信したのです。

コロンブス

コロンブスは翌年スペインに戻り、イザベル女王とフェルナンド王にジパング島発見を報告すると女王らは大喜び、第二回の大船団が出航させます。しかし以降第4回までスペイン王室の命でコロンブスは出航しますが結局コロンブスが提出した当初の計画通りの黄金を採掘することはできませんでした。

やがて王室はコロンブスに対して信頼を失い、最後まで熱烈な支援者だったイザベル女王がなくなるとコロンブスは孤立し、女王の死から1年半後の1506年5月20日に後を追うように55歳で寂しく世を去ったのでした。ヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸へ到達したコロンブスでしたが終生、自分はアジア大陸に到達しジパング島を発見したと信じていたようです。

コロンブスが信じた「ジパング黄金伝説」はどのようにして生まれたのでしょうか。

定説によると日本を黄金の国として広く西洋世界に広めたのは13世紀に発行されたマルコポールの「世界の記述」、通称「東方見聞録」であり、同書では次のように日本を黄金の国として紹介しています。

「この島ではいたるところに黄金がみつかるため住民はだれでも莫大な黄金を所有している。この島には誰も行ったことがない、商人さえも訪れていないから黄金は一度も島外に持ち出されたことはない。国王の宮殿は純金ずくめである。屋根は純金で覆られている。床も指2本ほどの厚い純金で敷き詰められている。広間も窓も一切がすべて黄金作りである」

さらに「この島の莫大な富を聞いたフビライは武力でこの島を征服しようと考え、二人の将軍に大軍を授け侵攻させた」と元寇の理由がジパングの黄金にあったと述べるのです。

コロンブスはこの「東方見聞録」の影響を受けて黄金の夢にとりつかれたのでした。

しかし実際にはマルコポーロ自身は日本を訪れておらず当時の中国での風聞を記しただけでした。また別の記事でも取り上げましたが、マルコポーロは中国さえ訪れていないのではないかという有力な説もあります。

ワクワク伝説とは

さらにポーロが記述したジパングに関する記述は以前からからイスラム人の間で広く流布していたという「ワクワク伝説」というものを下敷きにしただけではないかともいわれているのです。

この「ワクワク伝説」とはいかなるものでしょうか。

時代をさかのぼり9世紀の唐の時代に日本は頻繁に遣唐使を送りますが、日本人一行は朝貢品や必要経費として黄金や砂金を持参しました。もともと中国では金の産出が少なかったため、唐の人々は彼らがもたらす黄金に目を見張りました。また東大寺の大仏、中尊寺金色堂の豪華さなども過大に伝えられます。日宋貿易でも日本から大量の黄金が安い価格で中国に輸出されたため日本の噂話は当時広州や揚州で活動していたイスラム商人の間にも広がります。

さらに彼らによって出身地の西方にも誇張して伝わり、イスラム世界では中国東方に「ワクワク」という黄金の国があるという「ワクワク伝説」が創造され流布していったのです。

「ワクワク」とは中国での日本の名称「倭国」の発音に由来するものでした。7世紀後半には我が国はすでに国名を倭国から日本に変えていたのですが、唐では依然従来の倭国という名が普通に使われ、この発音がイスラム人の中でワクワクに転化したと思われます。

当時のイスラム帝国アッバース王朝の地理学者フルダーズベはその著書で朝鮮半島の新羅のことと思われる中国東方のシーラという国とその隣に位置する黄金島ワクワクを「この地には豊富な黄金があり、犬の鎖や猿の首輪も黄金で作り、黄金の糸で追った衣服も売っている」と紹介しています。

12世紀のイスラムの学者アル・イドリーシーが作った「世界図」にはこのワクワク伝説に従ってアフリカ東部にワクワク島とシーラ諸島が書き込まれており、これが世界地図に日本が書き込まれた最初の地図とされています。もっとも現在ではワクワクをスマトラかアフリカ東岸ザンジバルではないかと考える学者もいます。

元朝に入りイスラム商人の中国での活躍が激しくなると一時下火になっていたワクワク伝説が再度高まります。フビライはイスラム商人たちを側近として登用したので、彼らは日本の黄金の収奪のため皇帝に日本侵攻を進言した可能性は大いにあります。だとすると元寇もまた黄金に対する欲望が引き起こした大戦争だったのです。

エル・ドラード黄金郷伝説

コロンブスがこの世を去った後、スペインのコンキスタドールたち(征服者)を新大陸にひきつけたのは「エル・ドラード黄金郷」伝説でした。

「エル・ドラード」とは金箔を塗った人を意味しました。コロンビアのボゴタ高原にグアタビータという湖では付近の首長は毎朝身体に金箔を塗って夜には湖で金箔を水で落とすという生活をしている、あるいは金箔を身体に塗りつけた首長が湖に黄金を奉納する儀式を行っているという噂話がスペイン人達に伝わり、やがて密林の奥地のそのまた奥地には眩いばかりの黄金に溢れた黄金郷があるという「エル・ドラード」と呼ばれる黄金郷伝説が創造されます。

コンキスタドールたちはその伝説に魅入られたかのように黄金を求めてアンデスの密林に分け入りました。

彼らは当初はボゴタを中心とする北アンデスの高原地帯を探索しますが、やがてアマゾンの熱帯雨林の奥深くまで探索します。過酷な環境の中で熱帯病や風土病に悩まされ、食糧難、原住民の激しい抵抗に遭いながら黄金郷を目指したのでした。

そのなかで有名なコンキスタドールがスペイン人のヒメネス・ケサーダです。ケサーダは元々グラナダで法律の学位を取ったインテリでしたが1535年に新大陸に渡ります。探検の隊長に任命されると600人を超える兵を率いて前線基地であるコロンビアのサンタ・マルタを出発し黄金を目指してボゴタ高原に向かいました。

行軍は過酷を極め、兵の数は最後には166人まで減ったといいます。苦難の末、ボゴタに到着したケサーダは首長制の共同体社会で生活していたムイスカ族を襲い、多くの原住民を虐殺して彼らが保有する黄金やエメラルドを収奪し、首長のシバを自殺に追い込みます。そして現コロンビアの首都、ボゴダを創設したのです。

ところがドイツ人のフェーデルマン、スペイン人セバスティアン・ベナルカサルという探検家もそれぞれベネズエラのコロ、エクアドルのキトからほぼ同時にボゴタ高原に攻め入り、ボゴタで邂逅した3人の征服者はムスイカ人を襲撃しながら当然のごとく既得権争いをします。

結局3人はスペイン国王カルロス1世の判断を仰ぐこととしますがフェーデルマンは直後のベネズエラ探検に失敗して殺され、ベナルカサルも本国とのトラブルで逃亡ののち死亡します。一方ケサーダもスペイン国王に不遇の扱いをされボゴダに戻り500人の兵を組織して再度エル・ドラードの国を目指し密林を進軍しますが猛獣や毒蛇、害虫に苦しめられ生還したのは25人という惨憺たる結果に終わったのでした。

しかしスペイン人がムスイカ族から奪った黄金は1トンを超えるといわれており、そういう意味ではムスイカ族が住む地はエル・ドラード(黄金郷)であったともいえます。

イギリスにもエル・ドラール伝説に魅入られ身を滅ぼした探検家がいました。詩人でもあった貴族、ウォルター・ローリー卿で女王エリザベス一世の愛人とも噂された人物です。

1595年、彼はベネズエラのオリノコ川上流のギアナに黄金郷が存在すると信じ自ら探索を決行しますが黄金を見つけることはできませんでした。しかしあきらめきれず資金をつぎ込み次々と部下を派遣しますがやはり何も見つけることはできませんでした。やがてパトロンのエリザベス1世が死去するとウォルター・ローリーは現地でのスペイン部隊とのいざこざの責任をとらされジェームス一世により投獄され処刑されます。

彼らのほか多くのコンキスタドール、探検家たちがエル・ドラードを目指しますが結局は失敗し、多くの兵や原住民を犠牲にして本人も非業な死を遂げ、生き残っても財産を失い不遇の人生を終えたのでした。

参考文献:黄金の島ジパング伝説/宮崎正勝、ジパング伝説 コロンブスを誘った黄金の島/宮崎正勝、エルドラド黄金郷伝説/山田    篤美、コロンブスは何を「発見」したか/笈川博一、黄金の世界史/増田義郎

コーヒータイムによむシン・日本史

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