1868年、徳川幕府の瓦解とともに新しい時代が始まりました。明治維新です。
封建制度と士農工商の身分制度、鎖国政策などの旧弊は終焉を迎え、文明開化、殖産興業など近代国家の建設が始まり、多くの人々が希望を抱いたはずでした。
しかし、実はその裏ではあまり語られることのない宗教史上の陰惨な事件が起こっていたのです。
「廃仏毀釈」と呼ばれる仏教への一連の迫害・暴力です。
日本史上、宗教弾圧といえば、中世期に織田信長の比叡山焼き討ちや豊臣秀吉のキリシタン弾圧など時の権力者主導の宗教迫害が思い浮びます。
ところが「廃仏毀釈」は近代において、全国規模で一般民衆までもが加害者となって寺院や僧侶に対し暴力・破壊が行われるという極めて異常な事件でした。
明治維新の裏面史である「廃仏毀釈」はなぜ起こり、その実態はどのようなものだったのでしょうか。
神道のはじまり
「廃仏毀釈」を語るには我が国固有の宗教・神道と外来宗教である仏教の関係史を紐解く必要があります。
約1万5000年前から始まる縄文時代、人々は日々自然の脅威に曝され、一方では自然の恵みを得ながら暮らしていたため森羅万象には人知・人力を超える霊力が宿るという恐れの気持ちを抱いていました。この自然崇拝(アニミズム)が神道の起源となりました。
弥生時代に入り、集団での農耕生活が始まると天候に収穫が大きく左右され自然への畏怖はさらに高まりました。
人々は自然のあらゆるところに「カミ」が存在(八百万の神)すると信じ、「カミ」に対する祭祀を行うようになり原始神道が形成されます。
そのため神道には仏教の仏陀、キリスト教のイエスのような創始者はおらず、聖書や仏典などの経典や教義も存在しません。
飛鳥時代に入って王権が確立されると「古事記」や「日本書紀」などの編纂でそれまでに語り継がれてきた神話が体系化され、太陽神である天照大神を天皇の皇祖神とした古代神道が成立して我が国唯一の宗教として普及していきます。
仏教の伝来と神仏習合
ところが552年(538年説もあり)に欽明天皇の時世に百済の聖明王によって仏教が我が国に伝わると、仏教を受容するかどうかについて飛鳥王権の二大勢力である蘇我氏と物部氏が崇仏派と排仏派に別れて論争し、権力闘争にまで発展します。
587年、蘇我馬子、厩戸皇子と物部守屋の武力闘争、丁未の乱(ていびのらん)が起こり、崇仏派が勝利すると馬子に擁立された推古天皇は仏教に帰依し仏法興隆の勅を発布します。
神道の最高神、天照大神の子孫である天皇が異教である仏教の擁護者となったのです。
この後、我が国は神道と仏教が並列して信仰され「神仏習合」と呼ばれる混淆の道を進みます。
奈良時代になると対等だった神と仏の関係に変化が起こり、神道の神々は仏教の修行の途上にある存在と考えられその修行の場として神社の境内や神社と隣り合わせに神宮寺あるいは別当寺などと呼ばれた寺院が作られるようになり、寺院側でも神道の神々を守護神として勧請し寺院の境内などに鎮守神社を建てることがありました。
神宮寺などの僧侶は社僧と呼ばれ、神社でも仏像を祀り読誦を行い、本来の神職を従えて神社を管理して権限を振るようになります。
平安時代には「本地垂迹説」が登場して神仏習合の理論構築がなされ、神道より仏教が上位にあるとし日本の神々は仏菩薩が仮の姿としてこの世に現われたもの、すなわち権現としました。
例えば天照大神は大日如来、瓊瓊杵尊(にぎにのみこと)は釈迦如来、八幡神は阿弥陀如来、天神は十一面観音の化身などとして本地仏が定められ神社においてそれぞれの仏像が祀られました。
このような形で、仏教は神道を従属させながら、時として政治権力に対立し争うこともありましたが、概ね武家社会に庇護されながら栄えていきます。特に江戸時代の初めには寺院は宗旨人別帳に住民登録を行う檀家制度の担い手として権力体制のなかに組み込まれていったのです。
しかし寺が広大な土地を所有して経済的に豊かになると、僧侶は華美な生活に浸り宗教者としての本分を忘れ勤行や修行を怠り妾を囲ったり、また村人から小作料を収奪するなど堕落が目立つようになります。
排仏論の勃興
このようななかで江戸中期には寺院に対する民衆の離反が起こり朱子学者・儒学者・国学者による排仏論が勃興しました。
口火を切ったのが朱子学を学び垂加神道を提唱した山崎闇斎(やまざきあんざい)で、仏教は夷狄の邪教で神国の日本人が信じるものでないと唱えます。
さらに契沖を始祖とし本居宣長を経て平田篤胤に至る国学の隆盛により仏教排斥論は本格化しました。
国学は古事記や日本書紀などの古典の文献研究を基本にして古代の日本文化に理想を求め、仏教を排し日本古来の神道に回帰するべきだという復古神道を主張します。
そのなかでも最も過激だったのは独善的で荒唐無稽な仏教批判を展開した平田篤胤でした。
その国粋主義的思想は多くの信奉者を集め、幕末の尊皇攘夷運動の精神的な支柱となっていくとともに廃仏毀釈の原動力となりその後の国家神道形成に大きな影響を与えることになりました。
そういう情勢の中で、明治維新を待たず一部の藩では廃仏毀釈が起ります。
水戸藩の廃仏毀釈
史上最も早い廃仏毀釈は1665年ごろ水戸黄門で知られる第2代藩主徳川光圀が水戸藩で行ったものですが、光圀の施策は仏教に対する一方的な弾圧ではなくむしろ寺社改革だったようです。
当時、藩内では無秩序に寺院が建てられ僧侶数も増え、怪しげな祈祷が行われて民衆を惑わすなど藩政上も問題視されました。
そこで光圀は寺社の調査を行って開示帳を作成し、祈祷ばかりで葬祭をしない寺院、檀家がいない寺院、住職が掛け持ちの寺など2377寺のうち713カ所を取り壊し徹底的な整理を行います。
一方神社については仏像を神体とすることを禁じ、僧侶の管理する神社は神職の管理に変えるなど神仏分離を進めます。
光圀自身は熱心な仏教の信者で明の名僧を迎え祇園寺を創建したり京より高僧を招いたりしていますが、反面僧侶に対しては厳しく本来のあるべき道を求めたのです。
光圀は朱子学についても造詣が深く明の儒学者朱舜水を招き朱子学の振興を図りますが、山崎闇斎の多くの門弟を招いたことは幕末の過激な水戸学派の興隆につながり尊皇攘夷、倒幕や廃仏毀釈の遠因となりました。
水戸藩での本格的な廃仏毀釈は、天保年間の9代藩主斉昭の治政において側近の藤田東湖など水戸学派の進言により行われます。
破戒僧の寺や無住の寺院など190寺は取り潰され僧侶は追放・還俗処分とし、取り潰しを免れた寺からは梵鐘や仏具の供出を命じ、鋳つぶして大砲を鋳造し海防に備えました。
神道に対しては社僧を廃止して氏子帳を作成させ住民登録の機能を寺から神社に移し、仏教的な葬送である火葬を禁止し神葬である土葬を行うことを命じるなど神仏分離を行います。
このような斉昭の過激な施策に対し、水戸藩の保守派や江戸の仏教会が幕府に働きかけ、幕府は斉昭に謹慎を命じますが水戸藩の神仏分離策は維新政府の国家神道化策に引き継がれていきます。
江戸時代末期、国学者らの影響によるこうした神仏分離の動きは水戸藩だけでなく岡山・津和野・松本・薩摩藩などでも見られ、明治維新とともに激烈な廃仏毀釈にエスカレートしていくのです。
神仏分離令と仏教弾圧
全国で連鎖的に勃発した廃仏毀釈の起因となったのは維新政府が発布した「神仏分離令」でした。
これまで述べてきたように我が国は古代から長い間、神道と仏教が混淆して人々に受け入れられてきましたが、維新政府は神道を国家宗教とし天皇中心の国家体制を作るために、仏教色を排除して神武天皇時代の純粋な神道に戻す必要があると考え「神仏分離令」を発出します。
この「神仏分離令」は一つの法令でなく、新政府が出した関連する一連の布告を総称しますがその発出過程は下記の通りでした。
1867年(慶応3年)12月、新政府は「王政復古の大号令」を発し、神武天皇以来の天皇中心の祭政一致の政治を行うことを宣言すると、翌1868年3月、神祇官を設置し全国の神社・神職を神祇官の下に属させます。
また全国の神社の仏教僧である別当、社僧を還俗させ神職への専念、もしくは神社よりの立ち退きを命じました。
同じく3月、通称「神仏判然令」を発出し、神社が権現、午頭天王など仏教由来の神号と名乗ることを禁止し何々神、何々命と改めること、神社で祀っている仏像、鰐口、梵鐘、仏具など仏教の道具は取り除く事を指示します。
5月には石清水、宇佐、筥崎などの八幡大菩薩という神仏混淆の称号も禁止し八幡大神と称することとします。
さらに新政府は神道の優位性を図るために仏教の弱体化を進めました。
その一つが僧侶の肉食、妻帯、蓄髪の解禁で、従来浄土真宗だけが認めていた肉食、妻帯をすべての宗派に認め、仏教の権威喪失と世俗化を行います。
また寺社上知令を出し寺院の経済力を弱めるために寺院が幕府、大名から与えられていた朱印地、黒印地など所有する土地を没収します。
1871年(明治4年)、境内を除くすべての領地が、1875年(明治8年)には境内でも主たる領域を除いた土地が国に没収されます。これは寺院だけでなく神社も対処としていましたが、広大な領地を持っている仏教寺院を狙い撃ちとしたものでこれにより寺院は財政基盤を失い廃寺となる寺も多く発生したのです。
最初の廃仏毀釈・日吉大社
「神仏分離令」の目的はあくまで神道の仏教からの独立でした。「廃仏毀釈」として破壊活動に及ぶ事まで予想していませんでしたが、新政府で宗教政策を担っていた国学者、神道家の中には暴力的な活動を指揮する者が現われます。
全国で最初に廃仏毀釈の烽火が上がったのは滋賀県大津市の日吉大社です。
日吉大社は比叡山の東麓にあり天台宗・延暦寺と神仏習合が進み、延暦寺の鎮守的な神社として日吉権現、山王権現などと呼ばれ発展してきました。全国に3800社以上ある日吉、日枝、山王系神社の総本宮でもありますが、延暦寺に従属していて神官も僧侶に虐げられていたといわれてます。
「神仏判然令」が出された4日後の4月1日、日吉神社社司・樹下茂国らは神殿から仏像・仏具を除去するため大社を管理する比叡山に乗り込み、神殿の鍵を引き渡すよう要求します。樹下は急進的な神道家で政府の神祇事務局の権判事でもありました。
延暦寺側は政府より通知がきていないと拒否すると、樹下らは「神威隊」と名付けた武装集団と村民ら約40人で大社に乱入、武力で神殿の扉をこじ開け神殿内の仏像、仏具、経典等を一ヵ所に投げ集めて打ち砕き、ついには火を放ち焼き払います。そのとき破壊・焼却されたのは124点に及び、鰐口など48点が収奪されています。
事件後、日吉社は延暦寺より独立し日吉大社と名称を変え、系列の山王7社なども同じような目に遭い権現という名から変更されました。
全国に広がった廃仏毀釈
延暦寺は政府に強く抗議すると政府も分離令の意図と違うとして4月10日には破壊行為を戒める太政官布告を発ますが、日吉大社で始まった廃仏毀釈は日本全国に燎原の火のように広がっていきました。
その中でも薩摩、宮崎、佐渡、松本、隠岐、富山などでは特に激烈な廃仏毀釈が起こりました。
薩摩の廃仏毀釈
西郷隆盛、大久保利通らの偉人を輩出し、明治維新の表舞台での華々しい活躍が今でも人々の誇りである薩摩藩、現在の鹿児島ですが、その裏で行われた悲惨な廃仏毀釈は人々が口にすることのない負の歴史となっています。
11代藩主・島津斉彬は下級武士の西郷や大久保を登用して名君といわれた人物ですが、一方で復古神道に心酔し水戸藩での廃仏の動向を知りその廃仏思想に共感していました。斉彬は対外関係に非情に危機感を持っていたため、寺院を廃棄して梵鐘を摂取し大砲を製造しようとしますが実行する前に急逝します。
しかしその後実権を握った島津久光とその子12代藩主忠義が徹底的な廃仏を実施します。
まず藩の祭礼は神式で行うことし中元・盂蘭盆などの仏教儀式を禁じ、島津家の菩提寺を始め大寺院も例外とせず領内すべての寺院を廃寺にするよう命じます。
寺院の梵鐘や金属の仏像・仏具は溶かされて大砲などの武器の原料とされ、密かに天保銭が密造されます。石の仏像は壊され、あるいは川に水よけとして沈められ木像や経典は焼き捨てられました。巧妙に隠されたり土中に埋められたりした一部を除いて重要な文化財の多くが失われたのです。
その結果、維新前に藩内に1066寺あった寺院は1874年(明治7年)までにことごとく廃却され2964人いた僧侶も全員が還俗させられ、青年、壮年の僧は兵役に使い,老僧は教員などに用いたといいます。
全国でこれほど徹底して仏教が弾圧され、寺院と僧侶が一定期間に完全に消滅したのは薩摩だけでした。
現在の通説では薩摩藩のこのようなすさまじい廃仏毀釈は復古神道を提唱する国学の影響だけでなく、寺院から金属類を摂取して大砲などの武器の製造、天保通宝を密造するためだったといわれています。
また薩摩では伝統的に民衆を寺に登録させる檀家制度が機能していず、寺院と民衆のつながりが薄かったために寺の廃却に民衆が抵抗しなかった、また目上の者の言うことは絶対に従うものと教育した薩摩独特の「郷中教育」も廃仏毀釈に拍車をかける原因となったといわれています。
このような暴挙に異を唱えたのが西郷隆盛で、彼は僧・月性と心中を図ったのは有名な話ですが、仏教にも深い理解があり自ら頭を丸め僧形となって寺院への狼藉の徒を戒めたため西郷入道先生と呼ばれました。
全国の廃仏毀釈は概ね、1872年(明治5年)ごろには収束していますが、鹿児島では1876年(明治9年)に西洋諸国の反応に配慮した政府が信教の自由を各県に通達するまで継続しています。
この事件は150年以上経過した現在でも鹿児島仏教界に爪痕を残しており、令和4年の宗教年鑑によると鹿児島県の寺院数は457寺で全国ランキングは44位、維新前の数にはまったく及びません。
また徹底した破壊のため鹿児島県には仏教関係の国宝や重要文化財の類は存在せず、寺院の文献、過去帳類もほとんど残っていず詳しい研究も進まないようです。
なお鹿児島の隣県、宮崎も鹿児島の影響を受け廃仏毀釈が吹き荒れ、現在の寺院数は特殊な事情がある沖縄を除けば令和4年の宗教年鑑には331寺で全国一少ない県となっています。
宮崎は日向国と呼ばれ幾つもの小藩に分かれていましたが南部は島津家の影響下にあり、ほとんどの寺院が消滅しています。
佐渡の廃仏毀釈
佐渡も全国に先駆けて激しい仏教弾圧が起こった地域です。
1868年(明治元年)、戊辰戦争で功績を挙げた元長州藩士、奥平謙輔は越後府の権判事として佐渡に赴任すると徹底的な廃仏を実行します。
11月に寺院の住職達を集め、539寺のうち80寺を残し459寺を廃止するよう命じるとともに説法の禁止、葬儀では仏式の火葬を禁止して神式の土葬とすること、仏像、仏器の新造の禁止、翌年には寺院の土地、田畑,山林を差し出すことなどを打ち出します。
さらにこれを違反する僧侶は厳罰処分とし、港には出国、脱走する場合は鉄砲で撃ち捨てると立て札に書いて警告しました。
しかしこのような島民感情を無視した廃仏に寺院の大半を占めていた浄土真宗は激しく抵抗し京都の総本山に訴え還俗も拒みます。本山も廃仏毀釈は賊徒の偽りとして各寺に伝えるとともに朝廷に奥平の無法を訴えます。
その結果、理由のある寺院統合を除いて一方的な廃仏を禁止する旨の布告が政府より出され、奥平権判事は罷免され、佐渡の廃仏毀釈は1年あまりで沈静化しました。
なお奥平謙輔は1876年(明治9年)の萩の乱に加担しますが敗れて斬首されました。
松本の廃仏毀釈
信州の松本藩も激しい廃仏毀釈の嵐が巻き起こった地域で有名です。
その廃仏毀釈主導したのは旧藩主で松本知藩事の戸田光則でした。戸田は維新前、松平姓を名乗った徳川家の血筋であり長州征伐の際にも幕府方として働きますが戊辰戦争で新政府軍が松本に進軍すると方針を転換し新政府側に加わります。
以後、戸田は新政府に極端なほど阿ねり北越戦争や会津戦争に積極的に参加し、版籍奉還でも他に先駆けて受け入れたため新政府からは知藩事の地位が与えられます。
戸田は神仏分離令が出ると、もともと水戸学に共鳴していたため徹底した寺院廃却を推進します。
戸田は新政府の太政官に松本藩の神葬の実施と無檀無住寺廃却願いを提出し、その許可を得て手始めに戸田家の菩提寺と廟所の廃却、神葬への変更を実施します。
次に藩内寺院の住職達を集め、廃寺、僧侶の帰農などを命じると庶民の位牌棚の撤去、盆行事の廃止など仏教の排除、神葬化、寺院の無檀家、仏像・仏具の破壊など廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、領内180寺のうち140寺は廃寺となりました。
その中で抵抗したのが歌人としても有名で浄土真宗・正行寺の住職、佐々木了綱でした。
了綱は藩庁役人の廃寺・帰農要求に対し、独自の情報をもとに政府の神仏分離令が廃仏や帰農を意図しているものでないと主張し執拗な脅迫や懐柔を突っぱねます。
その結果23の真宗系寺院が廃寺を免れ、松本の廃仏毀釈の早期収束にも貢献することになりました。
隠岐の廃仏毀釈
佐渡と並んで激しい廃仏毀釈が起こった島が隠岐でした。
隠岐は幕府の天領で松江藩が郡代を派遣し統治していましたが、幕末になって他藩同様に海外列強に危機感を覚えた松江藩は隠岐島内で農兵制を実施し徴兵すると島民の反発が高まります。
1868年(慶応4年)、隠岐出身の儒学者中沼了三の影響を受けた島の青年達は尊皇攘夷思想に染まり「正義党」と結成して、隠岐の朝廷直轄化を主張、松江藩の郡代を追放した「隠岐騒動」を起こし、住民による自治(隠岐コミューン)を行いました。
維新政府の神仏分離令が島に伝わると正義党は過激な廃仏運動を始めます。
久留米勤王党の中心人物、真木和泉の実弟、真木直人が隠岐県知事として派遣されると廃仏毀釈はさらに輪をかけて激しくなり後鳥羽上皇の御座所である源福寺も焼け落ちます。島の僧侶の中には私欲に溺れ淫奔などの破戒行為を行う者が多くいて民衆の支持を失っていた事も理由の一つでした。
島内106の寺はすべて廃寺となり、僧侶は全員が還俗、仏教・仏具・仏典は破壊、海への投棄がなされ、また島民は血判状をしたため仏教から神道への改宗を誓ったのです。
正義党は寺院の土地、建物、什器を政府に献上することを申請しますが、政府より隠岐島民で処置せよとの回答を受け、寺院の梵鐘や仏具の金属は売却されて主に学校の建設資金に充てられたといいます。
富山の廃仏毀釈
加賀藩の支藩、富山藩も激しい廃仏毀釈が行われました。
富山藩で廃仏毀釈を主導したのは1870年(明治3年)に大参事に抜擢された林太仲でした。
林は平田篤胤の復古神道に心酔していて、就任すると突如廃仏指令を出します。「各宗派1寺のみとして、両3日中にすべて合寺すること、これに違反すれば厳罰に処する」と命じます。当時、藩には真宗だけで1300寺以上ありこれを1寺に統合するなどは現実離れした暴挙でした。
記録によると藩庁は藩兵を各所に控えさせ抵抗者を抑えて強圧的に廃寺を行います。
藩は廃寺を決行して梵鐘、仏像、仏具を強圧的に没収したため、現場は阿鼻叫喚の修羅場になり信者の念仏の声が絶えなかったといいます。金属類は鋳物工場を建てて鋳つぶし銃砲の材料にされますが役人が売上金を横領するなどの不祥事も多発しました。
その中で一人の僧侶が雪の中を脱出して上京し政府に実情を訴えると政府は藩に方針の緩和を促し、各宗派の本山も藩庁に強硬に抗議し中止の要請しました。
1872年(明治4年)廃藩置県となり藩主や林が東京に移住すると廃仏毀釈は収束していきます。
廃仏毀釈の終息
全国で巻き起こった廃仏毀釈は1~2年ほどでほとんどが沈静化します。
仏教側、特に浄土真宗の現場での抵抗、本山から新政府への働きかけもありましたが、1876年(明治9年)に西洋諸国の反応を心配した政府がキリスト教の解禁を含めた信教の自由を各県に通達するとほぼ完全に廃仏毀釈は終息しました。
しかし、廃仏毀釈が残した被害は深刻でした。
全国で9万寺あった寺院のうち約半分が廃寺となり、鹿児島、宮崎などは現在でも元にはほど遠い寺院数です。また多くの建造物、仏像、仏具も破壊、焼却され、未来に伝えていくべき多くの貴重な文化財が失われました。
廃仏毀釈がなぜ起こったのか、その要因は前述していますが、二度首相となった大隈重信は次のように述べています。
「廃仏毀釈は神道・国学・漢学者が仏教に対する長年の怨恨を晴らそうとして主導したものである。当時の政治力が不十分で彼らはその機会に乗じて実行した。寺を焚いたり仏像を壊したりしたことはまったく彼らの仕事であった」と。
2001年アフガニスタンの過激派タリバンがバーミヤンの仏教石像を爆破しましたが、その映像を見た多くの日本人は彼らの暴挙に眉をひそめました。
しかし、私たち日本人も150年前にそれ以上の破壊行為を行っていたのです。
参考:仏教抹殺/鵜飼秀徳、廃仏毀釈/畑中章宏、仏教破壊の日本史/古川順弘、近代日本の仏教者たち/田村晃祐
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