国民食・ラーメンとは?その源流と歴史について

料理

国民食と言われるようになってから久しい「ラーメン」ですが、大衆食だけに「ラーメン」には人それぞれに忘れ得ぬ思い出があるようです。

私の場合、ラーメンにまつわる思い出には必ず父の姿があります。

私は九州の田舎町に育ったため外食をすることはほとんど無かったのですが、中学の時、父に初めてラーメン屋に連れて行かれました。

 

 

 

 

 

そこは父の職場近くの駅裏のラーメン屋でした。

親子で何を話したのか覚えていませんが、豚骨スープで赤いショウガと焼海苔が乗っているだけの素朴なラーメンで、ものすごく美味だったことと、夜の黄色い電灯の明かりの下で、父と二人でラーメンを啜る情景だけが脳裏に残っています。

また父は休日の昼にはよくインスタントラーメンを作ってくれました。きまって棒ラーメンでした。

家の狭い台所で、面をゆでると出てくる白いアクを丁寧にすくってから粉末スープをかき混ぜる父を思い出します。

そのような私の心象風景にまで残っているラーメンの歴史について探求してみました。

中国麺料理の始まり

中国の麺料理は紀元前2世紀ごろ、中央アジアから小麦回転式のすり臼(ウス)が伝えられてから始まったとされます。

中国人は小麦粉に水を加えてこねた生地を様々に加熱調理しました。

小麦粉のことを麺(ミエン)といい、小麦粉から作られる食べ物は餅(ビン)といいます。

前漢の頃には、蒸籠(せいろう)でむす蒸餅(ツエビン)、焼いた焼餅(シャオビン)、脂で揚げる油餅(イウビン)、茹でたり煮たりする湯餅(タンビン)など多彩な料理が現われます。

時代が下って唐代になると、小麦の生産が増大したこと、水車を利用した碾磑(テンガイ)と呼ばれるひき臼醤(ジャン)という発酵調味料の普及などで、麺料理は急速に発展します。

湯餅は、薄くのばして具材を包み込む饅頭(マントウ)・餃子(チヤオヅ)・包子(パオズ)・焼売(シュウマイ)・雲呑(ワンタン)などの類と細長く延ばす麺類の2種類に分かれて発展していきます。

特に、細く長い麺料理は長寿を願う祝いの行事などによく用いられました。

この細長く紐状にした麺を麺条(ミエンジャオ)と呼びますが、手で延ばした手延べ麺を拉麺(ラミエン)といい、麺棒を使って延ばし折りたたんで包丁で切ったものを麺切(チエミエン)と呼びました。

さらに宋代前後から、麺の生地にかん(碱)水というアルカリ性の添加物を加え、麺質を強くし独特の食感を作る製法が始まりました。

かん水天然のアルカリ水で、これを加えると小麦粉に含まれるタンパク質のグルテンを変化させ、麺は黄色く発色し、弾力性を増してなめらかさと歯触りを生み出し、加えて防腐効果により長持ちさせる効果があります。

また、これまで水に浸して麺を引き延ばしていたのが、水に浸さずに容易に引き延ばすことができるようになりました。

中国人はこのような麺条を、茹で熱い汁に入れて(湯麺)食したり、麺と具を一緒に炒めたり(炒麺/チャオミエン)、あるいは油で揚げて(炸麺/ザーミエン)食べました。

中国麺料理の日本への伝播

以上のような、中国の麺料理は、奈良時代から平安前期には遣隋使、遣唐使により留学生や留学僧が両国を行き来する中で伝わったとされますが、詳細な状況はわかっていません。

一説には、この頃伝わった「唐菓子」が日本の麺料理の始まりともいわれます。

唐菓子は小麦や米粉から作られ、こねたり蒸したり、焼いたり、油で揚げたりしますので麺料理につながったようです。

しかし、中国から伝わった麺料理は、日本独特の麺料理として発展していきます。

江戸時代までの我が国は、仏教思想の影響で、肉食禁忌が長く徹底していたため、動物油をたっぷり使った中国風麺料理とはかけ離れた麺料理が発達したのです。

それは、関東のそば、関西のうどんといわれるように、醤油ベースの淡泊な麺料理でした。

かん水が国内で入手できなかったことも原因と思われます。

そういう中で、例外的にラーメンを食した人物のエピソードが残っています。

江戸前期に長崎に滞在していた中国の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)は水戸藩の2代目藩主の水戸光圀に招聘され、水戸学にも影響を与えた人物です。

その朱舜水が中国流の麺料理を作り、光圀に振る舞ったといいます。

レンコンのでんぷんをつなぎに使った麺に5種の中国の薬味を添えたラーメン風の麺料理だったようで、水戸黄門こと水戸光圀こそ日本ではじめてラーメンを食べた人物と言われているのです。
(真偽については異論があります)

ラーメンの誕生

そのような、我が国の食文化の中で、現在のラーメンが登場するのは明治に入ってからです。

鎖国政策が廃止され、アメリカやイギリスなどから多数のビジネスマンが駐在しますが、その使用人として中国人も多く来日します。

これらの中国人たちは、自分たちが食べるために麺料理をさかんに作ります。

これが日本ラーメン誕生のきっかけとなりました。

特に、江戸時代末期に開港された横浜・神戸・長崎の港町には、来日した中国人により中華街が形成されます。

横浜では1859年に横浜港が開場されると、中国・広東省からの中国人が多数来日し、現在の山下町一帯に、南京町と呼ばれる華僑の居留地ができます。

まず彼らを相手に中国麺の屋台が現われます。麺は包丁で生地を切る方式で柳麺(リユウミエン)といい、広東語ではラオミエンといいました。

1899年(明治32年)には居留地外でも商売が許されると、中国麺の店には日本人客も増え、その麺は「南京そば」とよばれ、明治末ごろは「シナそば」とも呼ぶようになりました。

また長崎では福建省から来日した陳平順(チンピンシュン)は中華料理店「四海楼」を開店し、たくさんの具と豚骨スープに太麺による「シナうどん」を考案し大評判となります。

 

 

 

 

 

これが「長崎ちゃんぽん」の始まりで、ちゃんぽんから「皿うどん」も派生します。

豚骨スープの長崎ちゃんぽんは、九州ラーメンの誕生に影響を与えたといいます。

1937年(昭和12年)、長崎出身の宮本時男「長崎ちゃんぽん」にヒントを得て、久留米で屋台の「南京千両」を出します。白濁していない澄ましスープでしたが、これが九州ラーメンの元祖といわれています。

白濁した豚骨ラーメンが誕生したのは、その10年後、1947年(昭和22年)に杉野勝見が久留米で創業した屋台「三九」においてでした。

当初は透明な豚骨スープでしたが、豚骨を煮すぎて白濁したのですが、それが思いもかけず美味だったため、白濁スープのラーメンに変更したとのエピソートが残っています。

日本人による最初のシナそば店は1910年(明治43年)に、浅草公園で開店した「来々軒」です。

シナそば・ワンタン・しゅうまいなどを出す大衆シナそば屋の元祖といわれ、横浜の南京町から移った広東出身の料理人が関東の濃口醤油をベースにしたあっさりしたスープで、刻みネギとシナチク、チャーシューを添えただけの醤油ラーメンを作り東京ラーメンのルーツとなりました。

札幌ラーメンのルーツは1921年(大正10年)、北海道大学の正門前に開店した竹家食堂です。

当初は親子丼、カレーライスの和食大衆食堂でしたが、店主大久昌治ロシア革命でロシアを追われた山東省出身の王文彩を料理人として雇い、シナそばをメニューとします。

スープは鶏、豚のミンチ、貝類等で採った汁に醤油を加え、麺にはかん水でなく炭酸ソーダを使った肉絲麺(ロースーミエン)と呼ばれました。

肉絲麺は北大の中国人留学生の間で評判になり、その評判から日本人客も集まります。

竹家食堂のおかみ、大久タツは日本人客が王文彩の作った麺料理を差別的な呼び方をするため、王が厨房から「料理ができたよ」という意味でいつも発していた「好了(ハオラー)」から「ラーメン」と名付けます。

これが「ラーメン」という名称の始まりというのが有力な説になっています。

ただ横浜の柳麺の広東語読みである「ラオミエン」が変化して「ラーメン」と呼ばれるようになったとの説、生地を手延べで作った「拉麺(ラミエン)」が変化したとの説なども存在し、はっきりと断定はできないようです。

なお、札幌ラーメンといえば味噌ラーメンですが、味噌ラーメンが誕生したのは、ずっと時代が下り、昭和30年代です。


戦後、満州から引き上げてきた大宮守人は札幌の「すすきの」にラーメン店「味の三平」を開きますが、ふんだんにもやしを使った豚骨ラーメンでした。

あるとき、雑誌の記事に「日本人は味噌の効用を忘れている」と言う記事にヒントを得て、豚骨スープに味噌を加えたラーメンを出してみると特に単身赴任族に大いにうけます。

これが味噌ラーメンの始まりとなりました。

味噌こそ醤油以上の日本を代表する調味料で、魚や豚、鶏の肉や骨に合うとともに臭みを抑える効果もあり、まさに中華と和が融合したラーメンが誕生したのです。

このように中国風麺料理は、来日した中国人が広めていくとともに、文明開化策により肉食タブーから解放された日本人にも浸透していき、各地で日本人の好みに合うよう進化、現在のラーメンが形作られていったのです。

インスタントラーメン・カップ麺の登場

安藤百福が画期的なインスタントラーメンを発明すると、ラーメンの歴史は新たな段階に入ります。

1958年(昭和33年)、日清食品の創業者である安藤百福は史上初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を開発し、発売を開始します。

安藤百福は戦後の食糧難を体験し、もっと手軽に食べられるラーメンを作りたいと考え、開発に当たって5つの目標を立てます。

第1は、美味しくて飽きのこない味にすること。第2は、保存性の高いものにすること。第3は、調理が容易な食品にすること。第4は、値段が安価であること。第5は、安全で衛生的な製品であることでした。

安藤は自宅の裏庭に開発用の小屋を建て、睡眠時間は4時間と決め1日も休むことなく10年近く開発を続けます。

試行錯誤の末、安藤がたどり着いたのが天ぷらからヒントを得た「油熱による乾燥法」です。

麺を高温の油に入れると水と油の温度差によって水分がはじき出され、水分が抜けたあとには無数の穴 が開いて多孔質を形成します。

その麺に熱湯を注げば、そこから湯が急速に吸収され麺がやわらかく復元されるのです。

「瞬間油熱乾燥法」と名づけられ、今日でも即席麺の基本的な特許となっています。

スープをチキン味にしたのも安藤の卓見で、洋の東西を問わず、またヒンズー教徒にもイスラム教徒にも受け入れられる味であることに留意しました。

1958年(昭和33年)6月に行われた、東京有楽町の阪急百貨店での試食会では「お湯をかけたら2分でできる魔法のラーメン」と宣伝し、評判となりました。

チキンラーメンが初めて大阪市中央卸売り場に出荷された8月25日は、ラーメン記念日とされました。

しかし、1960年代になると、急成長を続けたインスタントラーメンも市場の低迷期にさしかかります。

そこで安藤はカップめん「カップヌードル」を新しく開発します。

開発のきっかけとなったのは、1966年(昭和41年)、安藤はアメリカ市場の視察に出かけますが、そこでアメリカ人バイヤーに持参した「チキンラーメン」の試食を頼むと麺を紙コップに入れて湯を注ぎ、フォークで食べるという情景を目にしたことです。

安藤は衝撃を受け、カップめんという発想が生ました。

開発に当たって、容器は、断熱性が高く、熱湯が冷めにくく、手に持っても熱くない、軽くて、厚みもある発泡スチロールという新素材に注目します。

また、麺をカップに充填する方法では、カップに麺を入れるのではなく、麺にカップを被せることにより、カップの底に空洞をつくり、底にたまった湯でカップの下から麺を蒸らすようにすると、カップ全体が均一な温度になり麺の戻りが良くなるという工夫をしました。

具は、湯をかけて3分で戻すためにフリーズドライ(凍結乾燥法)という方法を採用します。

フリーズドライしたものは、鮮度がよく、品質を保持でき、豚肉、エビ、卵、野菜などを使うことができます。さらにスープも顆粒状にすることで、溶けやすくしました。

「カップヌードル」は消防署や病院の夜勤の職員、看護婦、トラックの運転手など夜働く人々に浸透していきます。

1970年(昭和45年)から始められた銀座の歩行者天国での販売では、2万食が4時間で売り切れるほどの人気を集めました。

また1972年(昭和47年)、日本中を震撼させた浅間山荘事件では3000人に及ぶ警官や報道陣が「カップヌードル」を食べる様子がテレビで放送され、その名は全国的に認知されます。

こうしてインスタントラーメンは新たな市場を築き、ラーメンという食文化全体の活性化と、ラーメンブームに拍車がかかることになります。


国民食・ラーメンとは?その源流と歴史について・まとめ

ここまで、中国での麺料理の誕生から、日本でのラーメンの起こり、インスタントラーメンの登場までの歴史を足早にたどりました。

以上のように、中国をルーツとするラーメンは、日本で独自に進化し、全国各地でそれぞれの郷土色を持って成長していきました。

そしてインスタントラーメンにより、国内のみならず世界の食品として拡大し続けています。

2016年のデータでは、インスタントラーメンの世界の総重要は975億食で、そのうち中国・香港385億食、インドネシア130億食、日本57億食、ベトナム49億食、インド42億食、アメリカ41億食と続きます。

インスタントラーメンの生みの親、安藤百福の晩年の夢は宇宙で食べられるラーメンを作ることでしたが2005年その夢が実現します。

宇宙飛行士の野口聡一国際宇宙ステーションで、日清食品の宇宙ラーメン「スペース・ラム」を食べる様子がテレビで放映されました。

「スペース・ラム」はカップヌードルをベースに、無重力空間でもスープが飛び散らないように粘度を高め、給湯可能な70度のお湯でも戻すことが可能な麺を実現しました。

安藤百福はその2年後、2007年(平成19年)、96歳で逝去します。

しかし、日本各地では、職人たちが創意工夫を競い合い、空前のラーメンブームは続きました。

そして2020年(令和2年)、新型コロナの影響で外食産業全体が打撃を受け、ラーメン店の客も減少しています。

しかし、やがて新型コロナは終息し、多くの日本人が、再びラーメン屋ののれんをくぐり、職人たちはさらにラーメンを進化させ続けるのは間違いありません。

参考:岡田哲 『ラーメンの誕生』 (ちくま新書)

 

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