石舞台古墳とは?被葬者はだれ?

歴史

奈良県明日香村にある石舞台古墳は日本最大級の横穴式石室を持つ、飛鳥時代を代表する古墳です。

石舞台古墳とはどのような古墳なのでしょうか?

 

 

 

 

その被葬者は飛鳥時代の権力者である蘇我馬子というのが現在の有力説ですが、どのような根拠によるものでしょうか。

石舞台古墳とは?

石舞台古墳は、奈良県高市郡明日香村にあります。

造成年代は古墳時代後期から末期のあたり、7世紀の初めと推測されます。

飛鳥時代の代表的な方墳で、墳墓下段の一辺は50mもあります。

ただし、上段が円形の上円下方墳という説もありますが、現在、墳墓の盛り土がなくなり、むき出しになっていますので不明です。

ちなみに、明治天皇の伏見桃山稜、大正、昭和天皇の武蔵野稜は上円下方墳です。

石舞台古墳は30個以上の岩石で作られ、特に天井岩の重さは約77トンで、総重量は約2300トンにもなる日本最大級の横穴式石室です。

 

 

 

 

横穴式石室とは、古墳の前面に入口をつくり、遺体の安置場所である玄室まで羨道(えんどう/せんどう)という通路を作った墳墓のことで、墓の上面を開けて遺体を上から降ろす方式を竪穴式石室と言います。

石舞台古墳は、盛土が失われ、石室が露出しているため、高さが4.8m、幅2.5m、長さ7.7mの石室の中に入って、その構造を見ると、巨大な岩石の積み上げや、床面の排水溝など、古代人の土木技術の高さには驚かされます。

盛土がいつ失われたかは不明ですが、江戸時代末期に書かれた「西国三十三カ所名所図会」の絵でも、石舞台古墳は盛土が失われています。

石舞台という名称は、天井石の上面が広く平たい形状に由来しますが、大昔に天井石の上で狐が女性に化けて舞を踊って見せたとか、旅芸人が石舞台の上で演じたという伝承が地元にはあるようです。

1952年(昭和27年)、石舞台古墳は国の特別史跡に指定されています。

石舞台古墳の発掘・調査の歴史

石舞台古墳の本格的な調査は、1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都大学と奈良県の共同で行われ、墳墓の形が四角形の方墳と判明しました。

1954年(昭和29年)には古墳の復元事業も始まりました。

1976年(昭和51年)の橿原考古学研究所による発掘調査では、石舞台古墳の下層周辺から、7基以上の小古墳が見つかり、これらの古墳を破壊して石舞台古墳が新造された事がわかりました。

石舞台古墳の被葬者、蘇我馬子とは?

石舞台古墳の被葬者は、飛鳥時代の権力者、蘇我馬子というのが現在の有力説となっています。

蘇我氏が歴史の表舞台に登場するのは、6世紀になってからです。

587年、蘇我馬子はライバルの物部氏を滅ぼし、権力を一手に握ります。

大臣として、女帝の推古天皇を支え、聖徳太子とともに17条憲法や、冠位12階を定めるなど国家の体制作りに貢献しますが、一方で権勢を振るい、しばしば天皇をも圧迫したとされます。

蘇我馬子は626年に75歳で没します。

石舞台古墳の被葬者が蘇我馬子という根拠は?

まず、蘇我馬子の墓について、はっきりと記載されている文献は見つかっていません。

ただ、日本書紀に蘇我馬子は626年に死去し「桃源墓に葬る」とだけ記されています。

その後、645年、馬子の孫、入鹿が「大化の改新」のきっかけとなった「乙巳の変(いっしのへん)」で暗殺され、蘇我氏は滅亡します。

日本書紀は、蘇我氏を滅ぼした側が作成した歴史書ですから、素っ気ない記述となっています。

盛土が剥がされているのも、蘇我氏が「乙巳の変」で逆賊として滅ぼされたことが関係しているのかも知れません。

石舞台古墳が書物で紹介されるようになるのは江戸時代からです。

例えば1848年(嘉永元年)の「西国三十三ヵ所図会」という書物には、石舞台古墳の紹介とともに墳丘が失われた現在と同じ姿の挿絵を載せています。

当時の書物には、石舞台古墳は天武天皇の陵であると書かれたものありました。

石舞台古墳が、蘇我馬子の墓と言われるようになったのは明治時代以後です。

1912年(明治45年)、当時の歴史学者 喜田貞吉は石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされる「桃源墓」である可能性が高いという論文を発表しました。

石舞台古墳と隣接する島庄遺跡が、日本書紀に記述されている蘇我馬子の所有地と特徴が合致したため、石舞台古墳を含めたこの地域が蘇我馬子に支配されていたことがわかったためです。

その後は石舞台古墳の被葬者は蘇我馬子であると言う説が定説になり現在に至っています。

石舞台古墳とは?被葬者はだれ?まとめ

奈良・明日香村には、未だに解明されていない、古代の遺跡物が、たくさん存在します。

 

 

 

 

 

 

その中で、誰もがその迫力に圧倒される石舞台古墳ですが、そこに埋葬された蘇我馬子が率いた蘇我一族は、逆賊とされて滅亡しました。

しかし、近年、その汚名が見直されつつあり、古代日本の国の石杖を築いた功績が再評価されてきています。

石舞台古墳の前に立ち、その雄壮な姿とともに蘇我氏のその後の命運に思いを馳せれば、悠久の歴史の息吹を感じることができるかもしれませんね。

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