イスタンブール・東西文明が交差する魅惑の歴史都市

世界の旅

ヨーロッパ大陸とアジア大陸を分かつボスポラス海峡の両岸に広がるメガシティ・イスタンブールは、東西の異なる文化が混じり合い、過去と現在が交差する独特の雰囲気があふれた街です。

イスタンブール

紀元前7世紀にギリシャ人が植民都市を建設した後、イスタンブールは政治・軍事・経済の要所として世界の覇者を目指したローマ、ビサンツ、オスマンという3大帝国が帝都としました。

そしてビザンチウム、コンスタンティノープル、イスタンブールと呼び名を変えながら、1600年にもおよぶ帝国興亡の舞台となってきたのです。

そして現在、イスタンブールはトルコ共和国の首都をアンカラに譲りつつも、トルコ最大の国際都市として発展を続けています。

人口は東京よりも200万人も多い1584万人で上海、ムンバイなどとともに世界有数の巨大都市で、コロナ前は年間1500万人の観光客がイスタンブールを訪れています。

黒海と地中海・マルマラ海を結ぶボスポラス海峡と金角湾、マルマラ海に面し、入り組んだ海岸線で形作られたこの街にはブルー・モスクやトプカプ宮殿など数々の史跡が今も栄華の痕跡をとどめ、一方、東西交易で栄える巨大市場グランド・バザールには喧噪と熱気が満ちています。

美しい海と静かな街並み、無数の歴史的建造物とエネルギッシュな繁華街という多面的な姿をもつ国際都市イスタンブール、誰もが1度は訪れたい魅惑に満ちたこの街の歴史についてまとめてみました。

イスタンブールの地形と構造

イスタンブールは北の黒海と南の地中海・マルマラ海を縦に結ぶ約30キロのボスポラス海峡によりヨーロッパ側とアジア側の東西に別れ、さらにヨーロッパ側は金角湾(きんかくわん)という蛇行する約8キロの入り江により南北に区分されます。

ヨーロッパ側南部を「旧市街」、北部を「新市街」、アジア側を「アジア岸」と呼び、さらに近年、「新市街」の北に金融・商業機能が移転し「新都心」と呼ばれる街が形成され、新たなビジネス地区として発展しています。

旧市街は西側を南北7キロに伸びるテオドシウス城壁に遮断され、2辺がボスポラス海峡、金角湾、マルマラ海に面した三角地域です。

古来より常にイスタンブールの中核をなし、この地域こそ王侯達の栄華と悲劇が繰り返された地域でした。

7つの丘からなる丘陵地帯でそのうち6つの丘が街の中心線にそって東西に連なり、それぞれの丘の上にはアヤ・ソフィアやトプカプ宮殿など数多くの豪壮なモスクや宮殿が建ち並び街の景観を形作ります。

旧市街中心部に位置する「グランド・バザール」は550年以上も続いた世界最大級で最古の屋根付き市場で、4000以上の店には絨毯、スカーフや陶器などのトルコの伝統的工芸品がところ狭しと店頭を飾ります。

グランド・バザール

市場内の60を越える迷路のような通りには大勢の観光客をはじめとする多様な国々の人々が行き交い、エネルギッシュで異国情緒にあふれています。

1985年、旧市街は「イスタンブール歴史地域」として世界遺産リストに登録されました。

新市街は金角湾を隔てて旧市街と対面する北の地域です。オスマン帝国時代以降にヴェネツィア人、フランスなどヨーロッパのキリスト教徒が住みつき外国人居留区を形成しました。

近代になると真っ先に西洋化が進み、現在はしゃれたショッピングモールやブティック、夜景を望む高級レストランやバーなどが立ち並ぶ最先端エリアです。

海峡の東岸がアジア岸で、「アナトリア岸」とも呼ばれ古くからアジアへの玄関口となって来ました。

都会的なヨーロッパ側とは対照的に素朴な街並みが縦に広がり、ゆったりとした時の流れを感じさせる落ち着いた雰囲気の地域です。

そして新市街とアジア岸の間にはボスポラス大橋、第二ボスポラス大橋が、旧市街と新市街を分かつ金角湾にはガタラ橋、アタチュクル橋が架けられこの巨大都市を一体化しています。

ビザンチウムの時代/ギリシャの都市国家からローマの支配下へ

現在のイスタンブールに最初に植民都市を作ったのは、紀元前7世紀に隣国ギリシャのアッティカ地方の都市メガラからやって来た人々でした。

彼らはまず現在のアジア岸、カドキョイ地区に進出しますが17年後には旧市街の現在トプカプ宮殿がある丘にアクロポリス(都市の中心)をおいて植民都市を築き、メガラ人の指導者ビュザスの名をとってビザンティオンと名付けます。

ビザンティオンは金角湾の入口は黒海から流れてくる魚群が集まり豊かな漁場を作ったため漁業で栄え、ボスポラス海峡を通過する船から徴収する通航料も大きな収入源となって富を蓄え発展していきました。

一方乱立するギリシャ植民都市との絶え間ない武力抗争に勝ち抜き、東から台頭してきたペルシアやマケドニアの侵攻に耐えながらも自由都市としての独立を保ち続けます。

しかし紀元前2世紀にローマ人が到来し、紀元1世紀には自治権を持ちながらもローマ帝国に組み入れられ、紀元後2世紀になると、ローマ皇帝位を巡る争いで敗者の側に付いたために皇位についたセウェルス皇帝に3年近く包囲され占領されます。

セウェルス帝は、城壁はもとより劇場、浴場など多くの施設を取り壊すなどギリシャ都市国家としてのビザンティオンを破壊尽くし自治権も剥奪しました。

ところがその直後、ゲルマン系ゴート族がローマ帝国に侵攻してくるとこの都市の戦略的な重要性に気づき、再び周囲に強固な城壁を張り巡らして短期間の内にローマ仕様で再建を行いビザンティウムは再びローマ帝国の大都市として復興します。

コンスタンティノープル/ローマ帝国の首都

紀元後3世紀末、ディオクレティアス帝は膨張しすぎたローマ帝国を東西に分割し、それぞれ正帝と副帝をおき「4分治制」を実施します。

しかしディオクレティアスが退位すると4人の分割統治者間で権力闘争が起こり、324年、ローマ帝国の唯一の支配者になったのがコンスタンティヌス帝でした。

コンスタンティヌスはビザンティウムの海上、陸上交通路の要所という戦略的位置と理想的な気候を重視しここに帝都を移すことを決め、街の大改造を開始しました。

そのころローマは帝国の首都としての機能を失っていて、またローマ皇帝として初めてキリスト教を信仰したコンスタンティヌスは異教徒が多いローマはキリスト教を中心とする帝国の首都にはふさわしくないと判断したのです。

コンスタンティヌスはビザンティウムをこれまでの4倍の広さに拡大して城壁で囲い、多くの神殿、宮殿、浴場、ヒッポドローム(競馬場)などを建設し、街の中心にはコンスタンティヌス広場を作り、高い円柱を立てその柱頭には太陽神アポロンに扮した自身の像を置きました。

またコンスタンティヌス帝の遺志により死後建造された聖ソフィア大聖堂は、四角の本体の上に巨大なドームを乗せた今も圧倒的な迫力を持つ大建造物です。

330年5月、新都は落成し「コンスタンティヌスの都」を意味するコンスタンティノープルと呼ばれます。

413年、テオドシウス帝は西ゴート人のローマ侵略をきっかけに、コンスタンティヌス帝が建設した城壁の2キロ外側に、総延長6キロ、三重の城壁と40メートルの幅の堀を備えた大城壁を完成させこの都市の防御を万全とします。

ローマ帝国自身は395年に東西に分割し、476年には西ローマ帝国が滅亡しますが、コンスタンティノープルはその後1000年以上、紆余曲折がありながらも「東ローマ帝国」、すなわち後の歴史家たちが「ビザンツ帝国」と名付けた帝国の首都として存続し、ヨーロッパの東玄関、東西交易の中心地となったのです。

7世紀に入るとアラビア半島で出現したイスラム勢力が急速に拡大し、ビザンツ帝国はシリア、エジプト、北アフリカなどを失います。

コンスタンティノープルも幾度となくイスラム勢力に包囲されますが、水上でも燃え続けたというビザンチン軍の焼夷兵器「ギリシャ火薬」がアラブ軍との海戦に威力を発揮するなどして危機を乗り越えます。

ビザンツ帝国はその後イスラム勢力を撃退し10世紀後半から11世紀前半にかけてふたたび黄金時代を迎え版図はバルカン半島・イタリア半島南部・小アジア(アナトリア半島)に広がります。

帝都コンスタンティノープルの人口は50万近くに達してヨーロッパ最大の都市となり、ビザンツ建築やモザイク画、フレスコ画に代表されるビザンツ芸術も頂点に達しました。

十字軍の占領とビザンチン帝国の滅亡

11世紀前半、中央アジアの遊牧民であったトルコ民族がイラン高原で大セルジューク朝を樹立するとビザンツ帝国の小アジア・アナトリアへ侵攻し1071年にはアナトリア東部のマラズギルトでビザンツ軍を撃破、時のビザンツ皇帝ロマノスは捕えられます。

1095年、セルジューク朝の勢力がコンスタンティノープルに迫るとビザンツ帝国はローマ教皇に救援を求め、これに応えて派遣された第一次十字軍は一時的にセルジューク軍をアナトリア東部まで押し戻します。

しかし、2次、3次の十字軍派遣にしたがってビサンツ帝国と十字軍との間で戦争目的や経済的利害で食い違いが表面化、コンスタンティノープルに居住するカトリック教徒に対する虐殺事件などが勃発するとカトリック教国とビザンツ帝国の対立は決定的になります。

1204年の第4次十字軍はコンスタンティノープルを攻撃し全ての教会、修道院そして記念碑に至るまで略奪と破壊を行い、「ラテン帝国」を建国します。

ビザンツ帝国はアナトリア岸に拠点を移し長期にわたってラテン帝国に対抗し、約50年後の1261年、ラテン帝国の崩壊によりコンスタンティノープルを奪還しますが、ビサンツ帝国も衰退しコンスタンティノープルも見る影もない荒廃した街となっていました。

そのころアナトリア地方でアジアから侵攻してきたモンゴルに敗れたセルジューク朝が衰亡し、代わって勢力を強めたのは同じくトルコ民族のオスマン朝でした。

オスマン朝は民族や宗教、文化に寛容で、効率的な組織と卓越した行政能力で征服地を統治したため勢力を増大し次第にビザンツ帝国の領土を侵食していきます。

 オスマン朝のメフメット2世は「ウルバンの巨砲」といわれる大砲をテオドシウス城壁の前に設置させ1ヶ月以上にわたりコンスタンティノープルに攻撃を加えて城壁を破るとオスマン軍は市内になだれを打って侵入、ビザンツ帝国の最期の皇帝コンスタンティヌス11世は服の国章を剥ぎ取り戦闘に身を投じて戦死します。

こうして1453年にコンスタンティノープルは陥落し、西ローマ帝国が滅亡して以来、約1000年続いた東ローマ帝国すなわちビザンツ帝国は滅亡しました。

イスタンブール/オスマン帝国の時代

弱冠21才のメフメット2世は、荒廃したコンスタンティノープルに入城すると聖ソフィア大聖堂に直行し、ひざまずいて礼拝を終えると「聖ソフィア大モスク」と名を変えさせ、他の市内の聖堂、教会もモスクに改修するよう命じて帝都の再建を開始します。

イスラム教では偶像崇拝が厳しく禁じられていたため、モスクに転用された施設では彫刻やレリーフ、モザイク画やフレスコ画などは破壊され多くのビザンツ芸術が失われますが、アヤ・ソフィアやカーリエ修道院では壁画が漆喰で塗り込められたため奇跡的に難を免れました。

またスルタンの宮殿やモスク、現在のグランド・バザールなどの市場を建設しイスタンブールは急速にイスラムの帝都としてふさわしい形を整えました。

帝都名はコンスタンティノープルのオスマン語「コンスタンティ二イェ」が正式名称とされましたが、古代ギリシャ人がこの地を「町で」または「町へ」という意味で呼んだ「スティン・ポリス」に由来する「イスタンプール」も一般に使用されます。

なお「イスタンブール」がこの都市の正式名称となったのはオスマン帝国が滅んでトルコ共和国となり首都を返上した後の1930年です。

メフメット2世は元々いたイスラム教徒以外の市民に対して「ミレット」と呼ばれる宗教ごとの共同体を組織することを認め、異教徒にも信仰の自由と社会的な権利を与えます。

また「デヴシルメ」という徴兵制度によりキリスト教徒など異教徒の有能な若者を地方からイスタンブールに集め教育を施し軍人や宮廷官僚などに登用するなど多民族国家にふさわしい統治を行いました。

オスマン帝国が最盛期を迎えたのはメフメット2世の曾孫、10代スルタンとなったスレイマン大帝の時代です。

スレイマン大帝は、東はイラン、イラク、西はウィーンまで、自ら軍を率いで13回の遠征を行いますが、1529年に初めてウィーンを包囲した時は西洋世界に衝撃を与えます。

オスマン帝国の領土は、東はイラク、西はウクライナ、ハンガリー、南はアルジェリアまで、かつてのローマ帝国の4分の3まで広がり、イスタンブールには広大な領土から富が集められ、人口は40万人となりイスラム世界のみならず世界規模の巨大都市に拡大しました。

スレイマン大帝は建築家の巨匠、ミマール・シナンに命じ、巨大なドームにミナレット(尖塔)が付随した壮麗なモスクを次々に建造します。

現在のイスタンブル大学の北側に今も残る巨大なドームと4つのミナレットをもつ「スレイマニエ・モスク」もスレイマン大帝がシナンに命じ建設されオスマン帝国の栄華を象徴する代表的モスクです。

スレイマニエ・モスク

帝都から国際都市へ/オスマン帝国の滅亡

オスマン朝時代のイスタンブールでは400年以上「パックス・オトマニカ」といわれる安定した時代が続きました。

もちろん度重なる火災は何度も起こり大地震や疫病に見舞われることもありましたがイスタンブールはその都度新たに復興され繁栄を続けました。

しかし17世紀に入るとオスマン帝国の栄華にも陰りが差します。

帝国内部では「女人統治」と呼ばれるハーレムの王権介入や「イェニチェリ」と呼ばれる直属軍隊の反乱で国政が混乱する一方、国外では1683年、第2次ウィーン包囲が失敗となり、オーストリア、ポーランド、ロシア、ヴェネツィアなど「神聖同盟」との「大トルコ戦争」に敗北しハンガリー、トランシルバニアをオーストリア・ハプスブルク家に奪われます。

18世紀になるとピョートル大帝の元で台頭したロシアの南下圧力に悩み、セリム3世は苦境を打破するため西洋化改革を進めますが、イェニチェリなど守旧派の反対により失敗し殺されます。

19世紀前半にはギリシャの独立戦争が起こり、エジプトでも総督が反乱を起こし事実上独立したためオスマン帝国の衰退に拍車がかかります。

ヨーロッパ列強も領土的野心を隠さず、オスマン帝国のこうした混迷は「東方問題」と呼ばれました。

1876年、アブドル・ハミト2世は西洋型国家への転換を宣言しオスマン帝国憲法を発布して帝国議会を設置しますが、2年後にはロシアとの戦争での敗北を口実に憲法効を停止させ、帝国議会を閉鎖し専制統治を復活させます。

これに対し青年将校や下級官吏は不満を強め、1908年に青年トルコ革命を起こしてオスマン帝国を再度立憲君主制に戻しアブドル・ハミト2世は廃位されます。

1914年、第1次世界大戦が起こると次のメフメット5世は軍事的な支援を受けて同盟関係にあったドイツ側につき参戦しますが敗北しイスタンブールは連合軍に占領されます。これは1453年にメフメット2世が入城して以来のことでした。

戦後の混乱に乗じて侵攻してきたギリシャ軍を打ち破って国民の支持を得たオスマン軍の将官ムスタファ・ケマルは民族抵抗運動を起こしてアンカラでトルコ大国民議会を組織します。

1922年、トルコ大国民議会はスルタン制と帝政の廃止を宣言すると、最期の皇帝メフメット6世はイタリアに亡命、600年続いたオスマン帝国は終焉を迎えたのでした。

1923年、連合国のイスタンブール占領が終了するとムスタファ・ケマルはイスタンブールに入り、総選挙を実施して勝利し、トルコ共和国を成立させて自ら初代大統領に就任します。

さらにこの年ムスタファ・ケマルは旧勢力の影響力を排除するため、首都をイスタンブールからアンカラに遷します。

ここにおいてイスタンブールは330年にローマ帝国の帝都となって以来、約1600年に及ぶ帝都としての地位を失うことになりました。

 

しかしイスタンブールはその後も生き残ります。

1600年の間、3大帝国の首都として君臨し幾多の滅亡の危機に遭遇しながらも不死鳥のように復活したように。

イスタンブール

イスタンブールは戦後の急速な経済発展により近代都市として変貌しながらも、東西文化が合流する歴史都市、世界有数の国際都市として現在も進化を続けているのです。

参考:イスタンブル歴史散歩/鈴木董、物語イスタンブールの歴史/宮下遼、イスタンブール三つの顔をもつ帝都/ジョン・フリーリ

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