多くの人たちに愛され続けるジャズ・ミュージックですが、その魅力はどこにあるのでしょうか。
当然、それぞれ聞く人によって違ってくるのでしょうが、私は哀愁を帯びたセンチメンタルなメロディが好きですね。
これは「ブルーノート」と呼ばれる黒人音楽特有の音階によって奏でられる、明るくも暗い旋律です。
そのテンポはゆったりとし、リズムも心地よくリラックスな気分に誘います。
ですから夜、ジャズバーや自分の部屋でお酒を傾けながら聞くジャズは至福の時間を演出します。
そのようなジャズの起源とジャズという音楽を創造した巨星たちについて解説します。
ジャズの起源とは?
ジャズは20世紀初頭、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオリンズで誕生しました。
ニューオリンズは、ミシシッピー川下流の港町で、もともと、いろいろな国の人々、文化が集まってくる人種、民族の堝でした。
特に南北戦争の前までは多くの黒人たちが、西インド諸島経由あるいはアフリカから直接、奴隷船でこの町に運ばれ、タバコや綿花の大規模農場の労働力として売られていきました。
そのような黒人たちに、苦しい生活や差別への怒りや絶望を表し、あるいは希望を託す「ブルース」という音楽が生まれます。
その曲は哀愁をおび、フラットな暗い旋律が特徴で、そのフラット気味の不協和音を「ブルー・ノート」といいました。
南北戦争後、敗北した南部の白人音楽隊が解散し、楽器を安く売りに出すと、貧しい黒人たちにも楽器を持つことができるようになります。
その結果、黒人たちのアンサンブルが可能になり、「ラグタイム」という新しい音楽も生まれます。
ラグタイムの 「rag 」という言葉は、「不揃い」とか「デコボコ」という意味で、彼らは音を小節の中に整然とはめ込まずに、意識的にずらして演奏しました。
ラグタイムは、ギターの弾き語りを基本としたブルースとは異なり、ピアノ、ドラムス、金管楽器、ヴァイオリンなどのアンサンブルが持ち味で、バンド演奏を基本としました。
そんな黒人たちの音楽の土壌の中から、ジャズという音楽は芽生えます。
ジャズの誕生に大きな影響を与えたのが、クレオール(creole)と呼ばれるフランス系白人と黒人との間に生まれた混血の人々でした。
フランス系というのは、南部一帯はもともとフランスの植民地で、ニューオリンズもフランスの町、オルレアンにちなんでつけられた名称です。
当時、農場主などの白人と奴隷の黒人女性との間に子供が生まれることが多くあったのです。
クリオールは、当初、白人と同等の扱いを受け、音楽教育も含めてヨーロッパスタイルの教育を受けていたのですが、1865年に南北戦争で北軍が勝利し奴隷解放令が発令されると事態は一変します。
奴隷解放令により、南部の奴隷所有者は、安い労働力である黒人奴隷を手放さなければなりませんでした。
そのことで、彼らの憎悪は北部の白人だけでなく、肌の色は白くないのに白人と同じ生活を送っていたクリオールにも向けられ、黒人同様の差別の的となります。
さらにクリオールは今まで優越感を持っていた黒人たちからも白い目で見られました。
生活や立場が変わってしまったクリオールは、やがて黒人社会に融合し、人種的偏見が消えない状況に苦しんでいた黒人たちとともに、音楽に救いを求めていきます。
やがて「ブルース」、「ラグタイム」などの黒人の音楽をベースに、クリオールの西洋音楽が融合し、生まれたのが「ジャズ」なのです。
白人たちも、黒人たちが奏でるジャズの魅力に引きつけられ、歓楽街「ストーリーヴィル」の酒場で毎夜演奏されるジャズを楽しむために集まります。
また黒人たちはその苦しい生活に「死ぬことでやっと自由になれる」と考えていたので、葬式でも黒人たちはジャズを陽気に演奏しながら通りを練り歩きました。
こうして1900年代初頭にニューオリンズで生まれたジャズを「ディキシーランド・ジャズ」といい、全米に広まって行きます。
ニューオリンズからシカゴ、ニューヨークへ
しかし、ニューオリンズのジャズは1917年に転機を迎えます。
米国が第一次世界大戦に参戦すると、ニューオリンズの港湾地区が海軍の基地となったため、歓楽街「ストーリーヴィル」は綱紀粛正の影響で閉鎖に追い込まれます。
夜の店が閉鎖され、仕事にあぶれた多くのミュージシャンたちは、活動の場を失い、ミシシッピ川に沿って北上してシカゴに拠点を移していきます。
背景には農業の南部から北部の工業化というアメリカ経済の変化があり、ミュージシャンのみならず大量の労働人口が北部に流れて行きました。
そのためシカゴには1920年代になると多くのジャズクラブが誕生し、キング・オリバー、トム・ブラウンなど多くのミュージシャンが活躍しました。
ルイ・アームストロングもその一人で、1922年にニューオリンズからシカゴに移動、ベニー・グッドマンなどとともにシカゴ・ジャズの全盛時代を作ります。
しかし1929年に大恐慌が起こると、シカゴでも多くのクラブが閉鎖され、ミュージシャンの活動の中心はニューヨークに移ります。
ニューヨ-クのハーレムや高級クラブなどでジャズは歌や踊りのバックに流れる音楽として、すでに高い人気を誇っていましたが、1922年に、ハーレムにギャングが経営する高級クラブ「コットン・クラブ」が開店すると、そこで演奏される黒人のジャズを聴くため多くの白人が集まりました。
ジャズの隆盛を後押ししたといわれるのは、1920年に制定され1933年まで13年間続いた「禁酒法」で、ジャズは違法酒場で不可欠な音楽として演奏されます。
当時の様子はフランシス・コッポラの映画「コットン・クラブ」に詳しく描かれていますが、当時違法酒場とジャズ、そしてギャングは不可分の関係だったのです。
1929年に「世界大恐慌」が発生し、ニューヨークのウォール街が壊滅的な打撃を受けると、この恐慌がもたらした絶望感の中で生まれたのが、逆に陽気で自然と体が踊り出してしまう「スウィング・ジャズ」でした。
白人が主体となった大人数の編成によるビッグバンドで演奏し、1930年代にはクラリネット奏者のベニー・グッドマンやピアニストのデューク・エリントン、カウント・ベイシー、それにトロンボーンのグレン・ミラーらがビッグバンドを率いて、米国各地のダンスクラブを席巻しました。
スウィング・ジャズの全盛を示す出来事として今でも語り継がれるのが、1938年のベニー・グッドマン楽団によるカーネギー・ホールでのコンサートでした。
この快挙にベニー・グッドマンは「スゥイングのキング」と言われました。
代表曲の「シング・シング・シング」はあまりにも有名ですが、そのほかスウィング・ジャズとして「イン・ザ・ムード」「A列車で行こう」といった私たちがよく知っている多くの有名なナンバーが生まれています。
このあたりまでがジャズ・ミュージックの創生期と言えます。
ジャズ創世期のミュージシャンたち
ジャズの創生期には偉大なミュージシャンたちが出現し、ジャズという音楽ジャンルを作り上げました。
その中でも巨星と言われる天才たちを見ていきましょう。
ジャズの巨星といえば、誰もがまず挙げる名前はルイ・アームストロングです。
ルイ・アームストロングは、1901年8月にニューオリンズに生まれました。
13歳の時、ピストルの不法所持で少年院送りとなりますが、そこでコルネットを演奏したのが楽器との出会いでした。
生涯の師匠、キング・オリバーの指導を受け、シカゴ、ニューヨークと拠点を移しながら、トランペット奏者として卓越した演奏能力を身につけるとともに、特徴あるダミ声のボーカルとしても活躍します。
即興を取り入れたパワフルな演奏、サービス精神旺盛で、陽気な人柄は世界中のジャズファンから愛されました。
「サッチモ」(Schmo)という愛称は「satchel mouth」(がま口のような口)とか「Such a Mouth」(なんて口だ!)からきたと言われています。
即興で歌ったとされる「シャバダバ、ダバダバ」など意味のない言葉、「スキャット」を広めたのも、ルイ・アームストロングでした。
1964年、「Hello Dolly!」でグラミー賞を受賞、1967年リリースした「この素晴らしき世界」(What a Wonderful World)は世界的ヒットとなりました。
1971年、ルイ・アームストロングは69歳でニューヨークで亡くなりますが、彼の名はジャズの歴史に永久に刻まれました。
デューク・エリントンは1899年ワシントンDCに生まれ、ピアニストとしてデビューしますが、バンドリーダー、アレンジェー、作曲家として、20世紀最大のジャズ音楽家と讃えられています。
1924年、ディユーク・エリントン・オーケストラを創設、ハーレムの「コットン・クラブ」で活躍して、その名を不動のものとしました。
その演奏は「ジャングル・サウンド」と呼ばれ、アフリカの密林の中のうねり声を思わせる音色を奏でましたが、そのサウンドに合わせ、黒人ダンサーのエキゾチックな踊りの迫力に観客は喝采しました。
彼の活躍がニューヨークをジャズのメッカまで高めたとも言われます。
「In A Sentimental Mood」、「A列車で行こう」(作曲はビリー・ストレイホーン)、「スイングしなけりゃ意味ないね」、「サテン・ドール」など、現在もスタンダードナンバーとなっている曲を多数生み出しました。
また、ビリー・ストレイホーンなど優れたミュージシャンを抱えたディユーク・エリントン・オーケストラは、大成功を収め、現在まで90年以上にわたってジャズ界に君臨しています。
カウント・ベイシーは、ジャズピアニスであるとともに、ベニー・グッドマン、デューク・エリントンとともにアメリカを代表するスィングジャズのバンドリーダーです。
1904年、ニュージャージー州に生まれ、母親から学んだピアノにより、20歳の頃プロデビューしました。
1927年、カンザスシティで活動し、1935年、自分のビッグバンド「カウント・ベイシー・オーケストラ」を結成します。
カンザスシティの「リノ・クラブ」での演奏を、有名なプロデューサーが聴いていたことから注目されました
1936年、シカゴのクラブからニューヨークへ活動拠点を移し、翌年発表した「ワン・オクロック・ジャンプ」が大ヒットし国際的にも評価を得ます。
べイシーの活動の拠点は国内にとどまらず、世界各国をツアーし世界中から賞賛されました。
そのほか、「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」は現在もスタンダードナンバーとして世界中で親しまれています。15回ものグラミー賞を受賞しました。
カウント・ベイシー・オーケストラは40年代後半に大戦影響で一時解散しますが、1951年ギターのフレデイ・グリーンとともに再結成され、気鋭のミュージシャンたちを迎え、カンザスシティ風のモダンなアレンジで高い評価を得ます。
1984年、カウント・ベイシーはフロリダで死去します。79歳でした。
ベニー・グッドマンは、1909年シカゴでロシヤ系ユダヤ移民の貧しい家庭に生まれました。
10歳の頃から地元の無料音楽教室でクラリネットを習い、わずか11歳でプロデビューしたといいます。
しばらくはソロ活動でしたが、1934年に自分の楽団を結成し、翌年のロサンゼルス・パロマーボールルームでの演奏で成功し、全米に知られるようになりました。
1938年にはクラシック音楽の殿堂と言われたカーネギーホールで最初のジャズコンサートを行うなど、空前のスウィングブームの立役者として「キング オブ スゥイング」と呼ばれました。
ベニー・グッドマンの音楽はスゥイング・ジャズを体現しており、楽しさ、わかりやすさ、軽快さ、そしてゴージャスさでした。
まだ人種差別が激しかった時代に、黒人ミュージシャンを自分のバンドに起用、その勇気ある行動は画期的なことでしたが、彼にとってはただ音楽だけが優先されたに過ぎなかったのです。
代表作はジャズファンでなくても知っている「Sing・Sing・Sing」です。
1986年、スウィングジャズをけん引したベニー・グッドマンは77歳でニューヨークで亡くなります。
日本でもよく知られているグレン・ミラーは、1904年、アイオワ州に生まれました。ベニー・グッドマンとともに「スゥイングの王様」と呼ばれています。
トロンボーン奏者としてスタートしましたが、1937年に自分の楽団を組織し、優れたバンドリーダー、作曲家、アレンジャーとして、ジャズシーンに旋風を巻き起こしました。
「ムーンライト・セレナーデ」、「インザムーン」、「真珠の首飾り」など、よく知られた名曲を多数世に送りました。
そのポップなメロディは、世界中に多くのファンを作りました。
1942年に兵役に就き、1944年除隊しますが、12月に大戦さなかのヨーロッパへの慰問旅行中、不慮の飛行機事故で亡くなります。まだ40歳でした。
グレン・ミラーの生涯は1954年「グレン・ミラー物語」として映画化され、その音楽とともに一大ブームとなりました。
グレン・ミラーの死後も、グレンミラー・オーケストラは今日まで90年以上グレン・ミラーの意思を継いで活動を続け、世界中のジャズファンを魅了し続けています。
モダンジャズとジャズの多様化
1940年を過ぎると「スゥイング・ジャズ」は衰えをみせ、「ビ・バップ」という新たなジャズが生まれますが、その後1970年ごろまでに登場する多彩な演奏スタイルを「モダン・ジャズ」といいます。
スゥイング・ジャズに飽きたらないアルトサックスのチャーリー・パーカー、トランペットのディジー・ガレスピーなど若手ミュージシャンたちは、ニューヨークのハーレムに近いジャズバー「ミントンズ」で従来のスウィングにはない、コード進行に沿った形でありながら、アドリブを中心とした自由な演奏を繰り広げます。
これが「ビ・バップ」です。
従来のジャズの常識を覆したビ・バップはいわゆる「モダン・ジャズ」の基礎になり、様々なジャズの変化形を生みました。
「ジャズの帝王」、マイルス・デイビスが試みた、知的でビ・バップよりも感情を抑え、アンサンブルや音楽構成を重視した「クール・ジャズ」、
1950年代前半に白人ミュージシャン中心にロサンゼルスで一大センセーションを巻き起こした、西海岸特有のリゾートのポップな雰囲気と自由で明るい編曲重視の「ウエスト・コースト・ジャズ」、
1950年代後半からビ・バップをより分かりやすく発展させ、ビ・バップの即興性に、リズム&ブルースやソウルを融合させた「ハード・バップ」などです。
1960年代の終わりには、「フュージョン」が登場しジャズとロック、ポップス、あるいはクラシックとの融合が起こります。
マイルス・ディビスやハービー・ハンコックやウエイン・ショーター、チック・コリアらがジャズに電子楽器やエイトビートのようなロックの要素を取り入れたフュージョンを演奏し、ジャズの主流に躍り出ました。
その記念碑的作品がマイルス・ディビスの「ビッチェス・ブリュー」でした。フュージョンの登場でジャズはさらに多様化します。
特にショーターとジョー・サヴィヌルが中心となって結成した「ウェザー・リポート」、チックの「リターン・トゥー・フォーエバー」はジャズ・ファンでない人々にも支持され、ジャズの可能性を広げました。
しかし、80年代に入ると、ウィントン・マルサリスを中心として、伝統的ジャズに帰るという大きな揺り戻しが起こります。
ジャズは黒人が生んだ偉大な音楽ということを強く意識し、過去のジャズを忠実に再現しながらも、新しい解釈を加えて演奏します。
彼らを「新伝承派」といい、たちまち主流となりました。
ただ、一方でクラシックや民族音楽、ポップスなどとの融合も進み、一言で「ジャズ」と括れなくなるほど、多様な音楽へと進化しているのです。
ジャズミュージックとは?その起源と巨人たち・まとめ
ジャズの起源とその創世期に活躍した巨人たち、そしてモダンジャズの概略を見てきました。
モダンジャズ以降のジャズの多様化は複雑でなかなか把握することは困難です。
ディキシーランド・ジャズからスゥイングで全盛を迎え、ビ・バップからモダンジャズへ変化していく、大まかな流れがわかっていただけたらと思います。
しかし、ジャズは、時代により自在に姿を変えても、色あせることがなく、私たちを楽しませてくれます。
例えば、映画「カサブランカ」でドゥーリー・ウィルソンが歌った「As Time Goes By」は1931年にリリースされ、いろいろな歌手がカバーしていますが聴くたびに、懐かしさ、切なさとともに新鮮さを感じます。
それがジャズの魅力なのです。
いつまでも、ジャズのある人生を過ごしたいですね。
参考:「面白いほどよくわかるジャズのすべて」/澤田俊祐
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