現在のような男女同権が当たり前の時代でもカトリック教会では女性は司祭など聖職者になれないことはご存じでしょうか。プロテスタント教会、聖公会では少数ですが女性の司祭や牧師が活躍しているのですが。
この問題について、カトリック教会は常に苦しい言い訳をします。
あるカトリック教会では信者の質問に対して「答えにくい質問です。歴史の成り行きで続いているだけです。イエス自身は女性を大切にしていたし原始教会では女性が活躍していました。しかしその後の世の動きの中で教会の役職は男性に限られるようになりました。聖職者は男性に限るという神学的必然性はないのです。しかしカトリック教会は伝統を非常に重んじるため一朝一夕に変わらないと思いますが将来は変わる可能性もあります」と理由とも言えない説明をします。
ところがそのようなカトリック教会の歴史のある時期に女性教皇が実在したことがあり、教会はそのことを厳重に隠蔽していると一部の人々の間で根信じ信じられているのです。それが「女教皇ヨハンナ伝説」です。
はたして女教皇ヨハンナとはどのよう人物で本当に実在したのでしょうか。
女教皇ヨハンナ伝説とは
長く中世ヨーロッパで語り続けられた女教皇ヨハンナ伝説の大筋は下記の通りです。
850年ごろ、ドイツのマインツ生まれのイギリス人であるヨハンナは学問を志す恋人とともにギリシャのアテネに行きますが、当時、学問の世界は男性でなければ困難が伴ったのでヨハンナは男装して勉学に励みました。やがてヨハンナは頭角を現わし、恋人と別れてローマに移ると当時の最高学府の聖マルティーノ学院の神学教授に招聘されます。彼女はそこでも学識と信頼を集めると教皇庁に招かれ、当時のレオ4世が死去するとついには女性であることを隠したまま教皇の座に上り詰めたのです。
2年半に及ぶ教皇ヨハンナの治政は概ね順調だったようですが、ヨハンナは教皇でありながら無分別にも側近の若い聖職者と恋仲となります。やがて身ごもる事態となり、出産の知識に欠けたヨハンナはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂からラテラノ大聖堂までの教皇行列の途中で突然産気づいて出産し、子も自らも命を落とてしまったのでした。子だけは助かり側近の父とともに追放されたという説もあります。
教会はこの不祥事に驚愕すると厳重な箝口令とあらゆる関係文書を破棄し、ヨハンナの存在を徹底的に隠蔽しました。
その後、教会は新教皇就任式の際にはラテラノ大聖堂の穴の開いたイスに教皇を座らせ下から手で男性であることを確認することにします。また教皇行列もヨハンナの出産場所を忌み嫌い迂回するようになります。塩野七世の小説「女法王ジョヴァンナ」ではその場所にやさしき民衆により子を抱いた母の像が建てられたため以後の教皇はその前を通ることを嫌い道を変えたとしています。
さらにヨハンナを埋葬した場所には、この出来事を伝える「p..pater partum.p.p.p.」という6つのPの文字が入った碑文と法衣をまとった女性像もあったと伝えます。碑文は「ペトルスよ、父たちの父よ女教皇の出産を暴いて下さい」という意味だったといいます。
女教皇ヨハンナの伝承は事件直後の9世紀から始まったとされていますが、正式な文献として見いだされるのは13世紀半ばからで、確認された主な17の文献をM・ケルナー他著「女教皇ヨハンナ 伝説の伝説」(三元社)の巻末に詳しく挙げています。
女教皇ヨハンナ-伝説の伝説/三元社
同書のリストのなかで最も古く1255年ごろの本である「メッツ世界年代記」ではこう記しています。「ある教皇、女教皇について調べること。というのもその者は女でありながら男のふりをし、瞠目すべき才能により教皇庁の書記官に、次いで枢軸卿に、ついには教皇までなったのだから。彼女は馬に乗っているとき男子を産み直ちにローマの正義によって馬に引きずられ民衆から投石を受けた。そして息絶えたところに埋められそこにはこう記された。”ペルスよ、父たちの父よ、女教皇の出産を暴いて下さい”」
1277年に出版されたポーランドのドミニコ会修道士オパヴァのマルティネスの「教皇・皇帝年代記」は次のように記し、教皇史の一部としました。
「このレオ(四世)の後、マインツ生まれのヨハンネス・アングリクスが2年7ヶ月と4日その座にありロ-マで死去した。・・・この者は女であり年若い頃、男の服をまとって、とある恋人によりアテネに連れて行かれ、さまざまな学問において大成し・・・その後ローマで三学科を教え・・・ローマで行状と学識において高く評価されたため誰からの異存も無く教皇に選ばれた。しかし教皇位にあったときに側近の子を身籠もった。彼女は出産の正しい時を知らず、サン・ピエトロからラテラノへ向かっているとき陣痛に見舞われコロッセウムとサン・クレメンテ教会の間で出産し、やがてそこで息絶え埋葬されたといわれている。そして教皇行列が常にこの道を迂回するのは教皇様がその出来事を忌み嫌ってこのようにするのだときわめて多くの人により信じられている。今回の件におけるほど女の性の歪みの故に、彼女は聖なる教皇たちの目録に載せられていない」
実はヨハンナと同時代の「教皇の書」の写本のなかにも女教皇ヨハンナについて記載されたものが存在します。しかしその内容の真偽はともかく後世の加筆と思われているのです。
ドナ・W・クロスによる女教皇ヨハンナ実在説
以上のように女教皇ヨハンナの伝説は中世の多くの教皇年代記や教会史のなかに記載され、長く語り継がれて、現在でも彼女の実在を信じる人が多いのです。
その代表とされるのが1996年に「女教皇ヨハンナ」を書き、2009年には映画化されたアメリカの女流作家ドナ・W・クロスです。小説や映画はクロス自身も史実をもとにしたフィクションですが書籍の巻末にヨハンナ実在説を展開しています。
女教皇ヨハンナ/ドナ・W・クロス/草思社
クロスは女教皇ヨハンナの存在根拠を次のように主張します。
かつては女教皇ヨハンナの存在は広く世に知られ信じられていたが17世紀半ばにプロテスタント教会、とくにルター派がカトリック教会の腐敗を激しく攻撃し女教皇ヨハンナをその材料としたため、カトリック教会は隠蔽するために彼女と同時代の教会の写本や印刷物を押収し破棄した。そのため同時代には彼女に関する文献がないことになった。もともと9世紀はまだ記録物が少ない時代であったため教会にとって不都合な事象を隠蔽することは容易であった。
ただ同時代に書かれたと思われる歴代教皇の伝記である「教皇の書(リベル・ポンティフィカリス)」の写本にはヨハンナについての記述が残っている。それは後から加筆されたものとされるが、いつ・誰によって加筆されたのかは解明されておらずそのことだけをもって虚偽とは言えない。
また女教皇ヨハンナの在位期間についてはレオ4世とベネデックトス3世の間であり、現在の正史ではヨハンナの在位期間を入れる余地がないが、当時の教皇の伝記は教皇の就任時期や死亡時期について疑わしい記述が多く信憑性に乏しい。ヨハンナの在位を消し去るためにレオ3世の死を遅らせるだけでよいのだ。
女教皇が存在した証拠として中世の教皇就任式で行われてきた新教皇を「穴あき椅子」(セッラ・ステルコラリア)に座らされ、下から男であることを確かめたという儀式がある。16世紀まで約600年間続き、女教皇の就任を防ぐために行われた。15世紀はじめのインノケンティウス7世の就任式に関する記述のなかにも登場している。この穴あき椅子は現在もローマに残されている。
また教皇行列が頻繁に行われたローマのコロッセウムからラテラノ教皇宮殿・聖堂に向かう教皇の祭礼行列のコースがサンティ・クワットロ・コロナーティ通りからヨハンナ以降は敬遠され、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ通りを使い遠回りするようになったことも一つの傍証である。これはヨハンナがこの道で子を死産し命を落としたため以後の教皇達が忌避したためだ。
さらにクロスは触れていないが13世紀半ばの多くの年代記によるとにヨハンナを埋葬した出産した場所にはこの出来事を伝える「p..pater partum.p.p.p.」という6つのPの文字が入った碑文と法衣をまとった女性像もあったという。碑文は「ペトルスよ、父たちの父よ、女教皇の出産を暴いて下さい」という意味である。
ドナ・W・クロスによれば宗教改革者が教皇庁を攻撃するために禁忌の女教皇を作り上げたとカトリック教会は主張するが、ヨハンナの話はマルティン・ルターが生まれる何百年も前からあった話で、13世紀以降、ヨハンナを取り上げてきた文献の作者は信頼がおける高位のカトリック司祭が多く信頼に足りるとするのです。
女教皇ヨハンナ虚構説
これに対し現在の歴史学は下記のように女教皇ヨハンナは虚構の人物に過ぎないと断言します。
フェミニストの神学者のエリザベート・ゲスマンも最大の温情を持ってしてもクロスの論は歴史的説得力が欠けていると述べます。
女教皇の物語は「中世の空想が生み出した最も驚くべき伝説の一つ」でありその成立はローマ地域の伝承にすぎなかったが13世紀にはいろいろなバージョンで広く流布していった。ところが16・17世紀になると女教皇の存在が宗派論争の対象に加えられ、反教皇主義、反教会主義の材料として利用されると教会側は明らかな捏造として反論し、19・20世紀になると学術的論証により女教皇の存在が完全に否定されたとします。
その根拠としては、まず前述したように9世紀当時の史料には女教皇ヨハンナについての言及がないことをあげます。唯一、「教皇の書」の一部の写本にはヨハンナについての記述がある。しかしそれは14世紀の書体でかかれており後から加筆されたものである。つまり当時の史料には女教皇が存在したことについて具体的な証拠が見つからない。
また女教皇ヨハンナはレオ4世とベネディクト3世の間の複数年にわたり教皇の座に就いたとされるが、9世紀の教皇たちの在位期間については裏付ける証拠は教皇史以外にも豊富にあり、ヨハンナが在位する隙間を作る余地はない。
教皇が就任の際に穴あき椅子に座ったことについては、着座は教皇就任を示す儀式である。その際に遣われた穴あき椅子はセッラ・ステルコラリア(糞便椅子)という奇妙な名が付いていたが、これは「神は困っている者を粉塵から貧しい者を糞便から引き上げ、王侯貴族とともに座らせた」という旧約聖書に由来し、就任時、教皇の謙譲の気持ちを呼び起こすためのものだった。つまり儀式の本来の意味が女教皇出現を防止するための性別判定の手続きと取り違えて信じられるようになったのだ。
教皇行列のルート変更については、単に16世紀に拡張されるまで道幅が狭く行列がとおれなかったために過ぎない。6つのPという略字で刻まれた碑文についてもヨハンナとは関係の無い異教の碑石であると推測される。
以上のように現在の歴史学では女教皇ヨハンナの実在性は否定されているのです。
女教皇ヨハンナ伝説の誕生
女教皇ヨハンナの物語が虚構だとしてもなぜ創造されたのか。
研究者は、9世紀後半から10世紀初頭にかけて教皇庁の不安定な時代にローマ地区の地域的伝承として生まれたのではないかと推測します。当時、教皇という地位がローマの貴族層の政争の具に利用され、教皇が短期的に交代することが繰り返され、「教皇史の暗黒時代」といわれました。
たとえばレオ4世が8855年に死去すると、野心的な枢機卿アナスタシウスは皇帝の支援を得て次期教皇に決まっていたベネディクト3世らを監禁し教皇の座を奪おうとしますが最後に失敗しています。899年に死去した教皇フォルモススは教会法に違反したとして遺体を掘り起こされグロテスクにも教皇の椅子に座らされ被告として裁判(死体裁判)にかけられ有罪とされました。10世紀初頭には教皇ヨハネス10世の愛人テオドラとその娘マロッィアが教皇の治政を左右し、彼女らを女元老と揶揄しその時期をポルノクラシー(娼婦時代)と呼んだのでした。
そういう時代の既存の体制に対する代案として女教皇ヨハンナの物語が民衆の中から生まれてきたというのです。とくに教皇庁さらには教皇庁に限らない男性優位の社会全般に対するアンチテーゼとしても女教皇の伝説が広がっていったのであろうと考えるのです。。
ドナ・W・クロスも女教皇ヨハンナ実在の意義をフェミニズムの立場からも次のように強調します。
9世紀とは不安と混乱に満ちた時代であった。とりわけ女性にとって生きるには困難な時代であった。初代教皇パウロなどの激しい女性批判の影響で女性蔑視の風潮はひどかった。女性はつねに男性より劣った存在と見なされ、所有権も与えられず教養のある女性は異常であり危険と見なされた。
そのような運命から逃れるため男性を装った女性がいたとしても不思議ではない。世間をみごとに騙した女性はヨハンナ以外にも多くいた。こうした女性たちによって灯された希望の光は暗闇の中で細々と燃え続け決して消えることはなかった。強い意志を持って夢を追いかける女性には必ず道が開けたのである。女教皇ヨハンナはそうした女性の物語である。
ところで最近公開された映画「教皇選挙」(コンクラーベ)は新教皇選出をめぐるミステリーですが、候補である枢機卿たちの虚々実々の駆け引きを描いて目を離すことができないストーリー展開です。選挙を取り仕切る首席枢機卿ローレンスは誠実な人柄で私心がなく教会においても多様性を尊重すべきだと主張する革新的な思想の持ち主でした。彼は選挙中に発覚する次々に起こるスキャンダルや陰謀を果敢に処断し新教皇の選出にたどり着きます。しかしその真相を知ると呆然とし立ち尽くすのでした。
あたかも伝説の「女教皇ヨハンナ」が出現したかのように。
参考文献:女教皇ヨハンナ 伝説の伝説/M・ケルナー、K・ヘルバース(三元社) 女教皇ヨハンナ/ドナ・W・クロス(草思社)
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