1992年10月31日、ローマ教皇庁は360年前に行ったガリレオ裁判における有罪判決が誤りであったと結論づけ、教皇ヨハネ・パウロ二世はガリレオに謝罪して破門を解きました。
私たちの多くはガリレオについて、
「科学的真実である地動説を主張し、頑迷に天動説に固執するローマ教会による宗教裁判で異端の判決を受け終生幽閉されますが、法廷を退出する際 ‘それでも地球は動いている’ とつぶやき、信念を曲げることのなかった偉大な科学者である」
と記憶しています。
ですから、ガリレオ裁判を科学と宗教の対立としてのみ捉えがちですが、近年の研究ではこの事件は必ずしも単純な二元対立論だけでとらえるべきでないという主張も出てきています。
ガリレオはなぜ裁判にかけられ、どういう理由で有罪とされたのか、その真相を探ってみました。
ガリレオ・宗教裁判までの歩み
ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日に音楽家でフルート奏者ヴィンチェンツィオの長男としてフィレンツェ(トスカーナ大公国)のピサに生まれました。
1581年にピサ大学医学部に入学しますが学術用語の暗記を主体とした講義に飽き足らず3年半後には退学します。オスティリオ・リッチというすぐれた数学者と出会い、ユークリッド幾何学など数学の面白さに夢中になったからです。
ガリレオは退学後もアルキメデスに傾注し、天秤や固体の重心についての研究を発展させ、その業績が認められて1589年にかつて中退したピサ大学に薄給ながらも数学教授のポストを得ます。
しかしトスカーナ大公コモジ一世の庶子ジョヴァンニ・デ・メディチが設計した浚渫(しゅんせつ)機械を役に立たない物と評し不興を買ったこともあって任期終了後再任されず辞職します。
1592年、親交があったデル・モンテ兄弟やジョヴァンニ・ピネリなど貴族たちの支援によりヴェネツィアのパドヴァ大学の数学教授に転職しますがパドヴァ大学での18年間はガリレオの人生にとって最も充実した時期でした。
私生活ではヴェネツィアの酒場で知り合ったマリナ・ガンバとの間に3人の子供をもうけ、研究でも「振り子の等時性」や「自由落下の法則」などを発表しています。
「振り子の等時性」とは振り子の中心点から振れ上がる端までの振幅が違っても1往復する時間は一定であるという法則で時計などに応用されました。
「自由落下の法則」は落下する物体の速度は出発からの経過時間に比例し、落下距離は時間の2乗に比例する、すなわちどんな物体も空気抵抗のない真空では落下速度は変わらないという法則で、ふたつとも近代物理学の基礎となる理論です。
ガリレオがピサの斜塔から鉄球を落として実験を行ったという有名な逸話は後世の創作とされていますが、彼の最期の著作である「新科学対話」には実際に行ったことを匂わせる記述もあるようです。
ガリレオの研究が天文学に向かったのはオランダのリッペルスハイが発明した望遠鏡を手に入れてからです。
ガリレオは自身で改良した望遠鏡で月や太陽、木星、土星などの惑星を熱心に観測し、月はつるつるの完全な球体というアリストテレス以来の考え方とは違って地球と同じ山や平地があること、太陽に黒点があること、木星には4つの衛星があり木星を回っていること、金星は月と同じように満ち欠けをすることなどを発見します。
ガリレオは大学に束縛されず研究に没頭できる地位を望んでいたため、木星の衛星を「メディチの星」と名付けトスカーナ大公であるメディチ家コモジ二世に献上すると、大公は大いに喜びガリレオをトスカーナ大公付き数学者兼哲学者に任命します。
そのころ、ポーランドのコペルニクスが提唱する「地球は不動でなく太陽を公転しているという地動説」が広まりつつありました。
これに対し宇宙の中心は神が自身の姿に似せて創造した人間の住む地球であり、その周りをすべての星が回っているというアリストテレスの天動説を聖書の教えとするローマ教会は危機感を覚え、異端審問所により地動説を異端として取り締まります。
1600年にはコペルニクスを信奉して教会に従わなかったジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられるという事件も起こっています。
ガリレオは元々、海の満引きが地球の公転と自転を原因としていると考えて地動説を支持していたのですが、天体観測の結果が太陽は不動で地球が動いていることを示していたため地動説を確信し公言するようになります。
やがて教会の一部からはガリレオの発見を認めず、彼を批判する動きが出てきますが、ガリレオも論敵に対して孤軍奮闘して反論したため発見した事実は疑う余地がなくなります。
もっともすべての宗教者がアリストテレスの宇宙観を盲目的に信じていたわけではなく、たとえばイエズス会の教育機関、ローマ学院は最新の科学知識を保有していました。
ガリレオに好意的なイエズス会のベラルミーノ枢機卿が、ガリレオの天文学上の発見は正しいのかローマ学院の数学者達に諮問すると、彼らはガリレオの発見を承認し、信仰上なんら問題とならないとしたため、ガリレオに対する攻撃はいったん収まります。
しかしガリレオに反感を持つ勢力はひそかに反撃する機会をうかがっていました。
第一次裁判
1613年12月13日、トスカーナ大公コモジ二世邸での学識者を招いた朝食会でガリレオを窮地に追い詰める出来事が起こります。
この朝食会にはガリレオの弟子ベネデット・カステリが出席していましたが、たまたまメディチ星についての話題となるとピサ大学哲学教授コジモ・ボスカリアは、ガリレオの発見は事実だが彼の地球が運動するという主張は聖書に反すると非難します。
これに対してコモジ二世の母であるクリスティーナ大公妃は本当に聖書に反するのか、カステリに質問しますが彼はうまくガリレオを代弁できませんでした。
ガリレオはカステリから話を聞くとカステリに長文の手紙を送り、「聖書も自然も神がつくられたもの故に両者に矛盾はない、聖書の字句と自然に矛盾があるように見える場合、聖書の解釈が間違っている。そもそも聖書は魂の救済について教えているのであって天文学を教えようとしていない」と論じ、よく天動説の根拠として引き合いに出される聖書の「ヨシュア記」の一節は天動説よりもむしろ地動説を示唆していると述べます。
後日、クリスティーナ大公妃にも同様な主旨の手紙を出し、聖書と自然、宗教と科学の関係について自分の考えを説明しています。
ガリレオの考えは現代の私たちから見ると至極当然のことでしたが、この手紙の内容は教会が絶対的権力を持つ当時としては聖書の解釈権者への批判という危険な領域に踏み込みこんでおり、またコペルニクスの地動説を明確に支持するものでした。
この手紙をカステリが周囲に見せたことから反ガリレオ派が知ることとなり、1615年2月、ドミニコ教会ロリー二という頑迷な神父がこの手紙の写しを異端審問所に送り、ガリレオを異端の罪で告訴します。これが第一次ガリレオ裁判の始まりです。
異端審問所は、ロリー二が提出した手紙が改ざんされているのではないかと疑い慎重に審議します。さらに同じドミニコ教会の修道士カッチニもロリー二に同調して、ガリレオが聖書に反して太陽が宇宙の中心にあると主張していた、また聖人達の奇跡を否定しているなどと告発し自らの証言を裏付ける証人の名を上げますが異端審問所は彼らからは有力な証言は得られませんでした。
一方、自分の審判が行われていることを知ったガリレオは周囲が止めるのも聞かずローマに入り、自説を擁護するため地球の運動を肯定する「海の干満についての論議」という書をローマで書き上げ知人のオルシ二枢機卿に献呈するなど大胆な行動に出ます。
1616年2月24日、異端審問所は11人の神学者全員一致で次のような裁断を下します。
太陽が宇宙の中心で静止しているという命題は馬鹿げており哲学的にも異端である。聖書の記述とも教父や神学博士の解釈とも矛盾している。
地球は宇宙の中心になく不動でもなく全体として日周運動しているという命題も前者と同様に哲学的には非難に値し、神学的に見ても少なくとも信仰上は誤りである。
そしてコペルニクスの著書「天球の回転について」などを閲覧禁止とします。
この裁断をうけて当時の教皇パウルス五世は、ガリレオと親しいベラルミーノ枢機卿に命じ、ガリレオに対して異端とされた考えを放棄するように勧告させます。
2月26日にベラルミーノ枢機卿がガリレオを自宅に呼んだことは事実です。しかし、そこでベラルミーノ枢機卿がどのような話しをしたのか記述された文書が2つ存在し、しかもその内容に食い違いがあったため後に問題になります。
一つが異端審問所に残された文書でそこには「ベラルミーノ枢機卿は、地動説は誤りで放棄すべきとガリレオに訓告された。さらに同席していたドミニコ会総主任セジェツィが、前記命題をいかなる仕方においても抱いても教えても擁護してもならず、さもなければ裁判にかけられると命じるとガリレオは同意し従うことを約束した」と記されています。ただ公証人や証人の署名がなく、第二次裁判の際に偽造されたのではないかと疑われています。
もう一つがベラルミーノ枢機卿からガリレオが異端誓絶(異端の罪を認め放棄することを誓うこと)をしていないことを証明する手紙で、「私はガリレオには異端誓絶を求めておらず、(異端審問所により)コペルニクスの学説は聖書に反しているためその命題を抱いたり擁護してはならないとされたことを伝えただけである」と書かれていていました。
いずれにしろ、この裁判はガリレオに対して提起された裁判であっにもかかわらず、異端審問所はコペルニクスの地動説に対する教会の判断を下した形とし、ガリレオに対しては彼に同情的なベラルミーノ枢機卿より注意を喚起させるという穏便な処置がとられたのです。
ベラルミーノ枢機卿はローマ教会の中枢にいながらガリレオのよき理解者でしたが1621年に死去し、ガリレオは教会側の有力な支援者を失うことになります。
3月11日にはベラルミーノ枢機卿の尽力により教皇パウルス五世と長時間の謁見が許され、教皇から「あなたに対する不当な迫害は知っているが、私はそれには耳を傾けるつもりはなく自分が生きている限り安全は保証される」との異例の言葉をかけられます。
第二次裁判
1623年、ガリレオの著書を愛読するよき理解者だったバルベリーニ枢機卿が教皇ウルバヌス八世に就任するとガリレオはこれ以上ない強力な支援者ができたことを喜びます。
そしてローマ教会を表敬訪問すると新教皇は6回も謁見を許し、その際教皇に最新の著書「偽金鑑識官」を献呈しています。
教皇はガリレオに金と銀のメダルを与え、トスカーナ大公にはガリレオを褒め称える手紙を書き、ガリレオの息子には年金を与える約束をするなど破格のもてなしをしています。
ガリレオは意気揚々とフィレンツェに帰ると、天文学研究の総決算として長年の主張である海の干潮こそ地動説の証しであることを明確にする執筆に取りかかり、1629年に「潮汐についての対話」を書き上げます。
ところがこの書物がガリレオの人生を暗転させることになります。
この本の中でガリレオと思われる「サルヴィアチ」とアリストテレスやプトレマイオスなどスコラ哲学者を代弁する「シンプリチオ」、中立的立場の「サグレド」の3人が4日間にわたってプトレマイオスとコペルニクスの宇宙観について議論を繰り広げます。
ガリレオはベラルミーノ枢機卿の警告を踏まえ、用心深く中立的立場を装い、数学上の仮説としてプトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説を論じますが、4日目には地球の公転・自転が海の干満を起こしている原因であることを議論させ、地動説の優位性を示そうとした意図は明らかでした。
ガリレオは当初、この本の題名を「潮汐についての対話」とし、ローマの検閲官に願い出るといくつかの修正を条件に許可が下ります。また教皇ウルバヌス8世にも謁見を許され、教皇の甥、バルベリーニ枢機卿からも正餐に招待されるなど教会は好意的ですべては順調に進んでいるように見えました。
ところが、その直後ペストが流行しローマへの行き来が困難となるとガリレオは著作を地元フィレンツェで出版することに変更し、最終的な検閲をフィレンツェの検閲官に申請すると検閲官は改めて教会の最終見解をガリレオに伝えました。
その主旨は、「潮汐」を本の主題とすることは避けること、従ってタイトルにも「潮汐」が入らないように修正すること、コペルニクス的見解はあくまで数学的考察であり聖書とは別の仮説に過ぎないことを明確にすること、そのために序文と結びは内容と調和したものにすることなどでした。
そこでガリレオは書名を「天文対話」(プトレマイオスとコペルニクスの二大世界大系について)と変え、内容も修正して出版許可を取得し1632年2月、この運命の書は出版されます。
「天文対話」がローマに届いたのはペストの流行が収まった6月末ですが、7月25日付けのローマの検閲官からフィレンツェの検閲官に当てた手紙で「天文対話」が大問題になっていることが伝えられます。
ガリレオの友人であるはずの教皇ウルバヌス八世が「天文対話」を読み、激怒して出版の差し止めを命じたというのです。
教皇の怒りは尋常ではなく、ガリレオの支持者で「天文対話」は何も問題がないと教皇に報告していた教皇秘書のチアンポリは地方に左遷されます。
トスカーナ大公国の大使ニッコリー二は教皇と謁見し「天文対話」が教会の許可を得ていることを確認すると、教皇はガリレオとチアンポリに欺かれたのだと怒り、すでに特別委員会で「天文対話」の内容を吟味するよう命じたのでトスカーナ大公は名誉のためにこの件に関わるべきでないと警告します。
その特別委員会はこの問題を検邪聖省(元の異端審問所)で審議することとし、ガリレオは即座に検邪聖省に出頭するように命じられます。
ガリレオはその時病床に伏せており、出頭の猶予を願い出ますが教皇は出頭時期を1ヶ月延ばしただけで、ガリレオが出頭しなければ獄につながれると厳しく命じます。
1633年2月13日、やむなくガリレオはトスカーナ大公が用意してくれた輿に乗ってローマに入り、2ヶ月後の4月12日に異端審問が始まりました。
審問は3回行われ、6月22日に次のように判決が下されます。
「ガリレオは1616年にコペルニクスの地動説をいかなる仕方でも抱かず教えず擁護しないように命じられたにもかかわらず、そのことを検閲官に申告せず偽って「天文対話」の出版の許可を得た。ベラルミーノ枢機卿の手紙においても地動説を擁護してはならないと記されているにも関わらず「天文対話」においてそれに反した。」
「その罪により「天文対話」は出版禁止とし、ガリレオは検邪聖省の欲する期間投獄される。さらに3年にわたり毎週1回7つの悔罪詩編を唱えることを課す。」
ガリレオは判決に抵抗せず、用意された文章を読み上げ異端誓絶を行います。
「私、ガリレオは地動説という誤った学説を抱いたり擁護したりしてはならないと命じられたにもかかわらずその学説を論じ印刷したため異端の疑いがあると判定された。私は敬虔な信仰をもってその過ちを認め異端を誓絶する」
ガリレオは翌日減刑され、トスカーナ大公の別邸に移されたあと友人の大司教の自宅での幽閉処分となり、さらに半年後にはフィレンツェの自分の家での軟禁に緩和されました。
なおガリレオが裁判後「それでも地球は動いている」とつぶやいたという逸話は、裁判後のガリレオに関する文献のどこにも見当たらず、18世紀半ばに初見されていることからガリレオの反骨精神を讃えるために創作したものといわれています。
その後、ガリレオは軟禁生活を過ごしながらも研究への意欲は衰えず、1638年には学問の集大成「新科学論議」を完成させます。
この最期の著書はローマ教会から出版の許可は得られず、支援者によってオランダでの出版にこぎつけますが、この本がガリレオのもとに届いた時にはすでに目が見えなくなっており自分で読むことはできませんでした。しかしその後もガリレオは病と闘いながら「新科学論議」の増補版を口述で完成させています。
1642年1月8日、ガリレオは終生軟禁処分を解かれることなくフィレンツェの自宅で死去します。77歳でした。
トスカーナ大公はガリレオの死を悼み、公国を挙げた葬儀を行い霊廟をサンタ・クローチェ教会に建てようとしますが、教皇は両方とも禁じたため、その遺体は教会の裏にある礼拝堂の地下室に棺に名も刻まれることなく安置されたのです。
なぜガリレオは宗教裁判にかけられ有罪とされたのか
なぜガリレオは宗教裁判にかけられ、生涯幽閉される結果となったのでしょうか。
多くの人々が信じた理由は「ガリレオが聖書の教えに反する地動説を主張し教会に刃向かったためであり、ガリレオ裁判は科学が宗教権力に不当に弾圧された事件であった」というものです。
しかし、ローマ教会の中枢には第一次裁判でガリレオに訓告したラルミーノ枢機卿や「天文対話」出版前の教皇ウルバヌス八世など、ガリレオが地動説を主張していることを知りながら親しく交友している宗教人が少なからず存在していたのです。
教会がガリレオ批判一色となったのは教皇ウルバヌス八世が「天文対話」を読んで激怒してからのことで、教皇の怒りがガリレオ裁判に発展したことは間違いありません。
教皇ウルバヌス八世はバルベリーニ枢機卿と称した時代からガリレオと友人のように付き合い、教皇就任直後や「天文対話」を出版する直前にも何回も謁見を許しガリレオを厚遇しています。
その教皇ウルバヌス八世が「天文対話」を読んで激怒し、ガリレオを糾弾する姿勢に急変したのはどうしてなのでしょうか。
前にも書きましたがイエズス会のローマ学院など研究機関は最新の科学知識を保有していてキリスト教のベースとなるアリストテレスの宇宙観を盲目的に信じていたわけではなく、元来聖書も天動説が正しいことを明確に記述しているわけではありません。
しかし当時、ローマ・カトリック教会はプロテスタントの宗教改革に対抗して反宗教改革を加速させており、カトリック教会の基本的教えであるアリストテレス的宇宙観を揺るがすわけにはできない事情がありました。
他方、地動説も当時の科学では数学的論証に過ぎず、地球が不動で太陽が回転しているというアリストテレス宇宙観こそ視覚的事実であったことも事実です。
そこで心ある宗教者は科学的見解と神学上の解釈は別のものとして折り合いをつけようと模索していました。ベラルミーノ枢機卿などが「地動説は聖書に反するが数学上の仮説として議論する限りは問題にはならない」と述べたのもそのためでした。
教皇ウルバヌス八世はこのような事情をガリレオも理解していると思いガリレオに対して敬意を払ってきました。
ところが送られてきた「天文対話」を読み、ガリレオが宗教に対する科学的見解の優位性を主張し、神学的領域まで踏み込んで地動説を力説していることを知りガリレオに裏切られたと思ったのです。
さらに登場する人物のうちアリストテレス的宇宙観を述べ嘲笑的に描かれた人物、シンプリチオが教皇自身と思われるように描かれていて自分を笑いものにしていると考えてガリレオに対する怒りを増大させます。
タイトルの下の3尾の魚の絵さえ、教皇が身びいきで縁故者3人を重職に就けたことへの当てつけと疑います。
検邪聖省は、ベラルミーノ枢機卿が訓告した際の記録という偽造の疑いがある文書を持ち出し、ガリレオはコペルニクス的地動説を抱いたり教えたり擁護したりしない、これに違反したら罰せられることに同意したにもかかわらず「天文対話」を発行した、またそのことを検閲官に隠し出版許可を取得したと追求します。
ガリレオはそのような同意は記憶がないと反論し、ベラルミーノ枢機卿から取得した手紙を提出して「これにより地動説は仮説としてなら論じても許されると理解しており、天文対話においても数学上の仮の学説として地動説を論じた」と弁明します。
しかしこの抗弁は教会側は受け付けず、ベラルミーノ枢機卿の手紙についても勝手な理解をして違反していると決めつけたのでした。
結局、ガリレオは地動説という聖書の教えに反する意見を主張したためではなく、1616年の教会の命令に違反したという理由で裁断されたのでした。これは教会が科学と神学の折り合いをつけて裁判を決着させるための苦肉の策だったと思われます。
ガリレオの復活
1979年11月10日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はアインシュタイン生誕100年記念式典で、「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」というスピーチで、アインシュタインとガリレオは時代を変えた偉大な科学者であったとガリレオを再評価し、そのガリレオに大いなる苦しみを与えた宗教裁判を調査することを宣言します。
ローマ教皇庁にガリレオ裁判調査委員会が設置されたのが1981年7月、そして1992年10月31日に調査報告が行われました。
その調査報告で「当時は天文学的知識も過度的状況にあり、教会においては聖書の解釈が混乱していたためにガリレオに対し誤った処罰をしてしまい、大いなる苦しみを味あわせた」と自己批判します。
教皇ヨハネ・パウロ2世はこれを受け「科学研究に帰すべき問題を信仰の教義の問題に持ち込むという誤りを犯してしまった」と謝罪し宗教裁判で有罪とされてから360年後、ガリレオ・ガリレイの名誉回復が行われたのです。
その20年前の1971年8月2日、世界の人々はガリレオの偉大さを思い起こさせる光景を目の当たりにしています。
アポロ15号の宇宙飛行士ディヴィッド・スコットは月面に降り立ち、全世界に放映されているテレビカメラの前で鳥の羽根とハンマーを両手に持って同じ高さから手を離すと、羽根とハンマーは同時に着地します。
スコットは断言しました。「これでガリレオが正しいことが証明された」と。
参考:ガリレオ裁判/400年後の真実/田中一郎、ガリレオ・庇護者たちの網のなかで/田中一郎、ガリレオ・ガリレイ・宗教と科学のはざまで/ジェームズ・マクラクラン
コメント