三代将軍・源実朝とは?暗殺事件に黒幕はいたのか?

人物
源実朝-Wikipedia引用(public domain)

初の武家政権である鎌倉幕府は源頼朝が死んで嫡子・頼家が二代将軍を承継すると、すぐに御家人の間で権力闘争が始まります。

その結果、頼家は北条氏によって廃され、三代将軍となったのは11歳の実朝でした。

源実朝というとこれまで和歌や蹴鞠にうつつを抜かした暗愚の将軍というイメージがつきまといました。

しかし近年は実朝像の見直しが進み、従来とは正反対に英明な将軍だったという説が有力になってきています。

源実朝-Wikipedia引用(public domain)

源実朝とはどのような人物だったのでしょうか。

そして衝撃的な実朝暗殺事件の真相とは。

従来からささやかれている黒幕の存在はあったのでしょうか。

陰謀渦巻く鎌倉時代に短い生涯を生きた源実朝の将軍就任経緯から実朝の本当の姿、暗殺事件の謎についてまとめてみました。

実朝の将軍就任と権力抗争

実朝は1192年(建久3年)、頼朝・政子の次男として生まれ、幼名は千幡(せんまん)、乳付け役(乳母)は政子の妹、阿波局です。

阿波局は頼朝の異母弟・阿野全成(あのぜんじょう)の妻で、全成は実朝の乳母夫(めのと)となり実朝の後見人になりました。

一方、長男・頼家は、頼朝の乳母・比企尼の甥にあたる比企能員(ひきよしかず)の妻を乳母とし、夫の能員は乳母夫として頼家を後見します。

能員は頼家の側室となった娘が長男・一幡を生んだため、頼家の外戚として権勢を強めました。

1199年(正治元年)、初代将軍頼朝が急死し頼家が二代将軍に就くと、頼家後見の比企氏と御家人の筆頭である北条氏との確執が表面化します。

1203年(建仁3年)6月、頼家は突如、阿野全成を謀反の罪で常陸に流刑にし、その地で処刑、その息子の頼全も京で殺します。

頼家はさらに母政子に全成の妻で政子の妹である阿波局の引き渡しを要求しますが政子は断固拒否します。

ところが頼家が病に倒れると北条氏は反撃に移り、北条時政は能員を仏像供養と欺いて自宅に招いて門に入ったところで斬殺します。

比企一族は能員の死を知ると頼家の嫡子一幡の御所に立てこもって北条氏に抗戦するものの抵抗むなしく全滅し、6歳の一幡は母の若狭局が抱いて一旦は脱しますが後日殺されました(比企の変)。

頼家は病から回復すると比企氏の滅亡を知って激怒し、時政の討伐を命じます。

しかし頼家に従う者はなく母政子は頼家を伊豆の修善寺に謹慎させます。

そして翌年、北条時政の刺客により殺害されたのです。

吾妻鏡は、頼家が病床に能員を呼んで時政を誅殺する密談を行っていたところを、政子が障子の影で立ち聞きし父時政に告げたため時政が先手を打って能員を殺したと述べます。

しかし、いかにも芝居じみた記述で信頼できません。

能員は頼家、一幡の後見として権力を振るえる立場にあり、積極的に時政を討つ理由が薄いことや堂々と時政の家を訪れた振る舞い、後の「牧氏事件」などを考えると、北条時政こそ謀略家であって阿野全成の誅殺から二代将軍頼家の殺害まで一連のストーリーを描いた首謀者であったのではないかと思われます。

1203年(建仁3年)9月、源実朝は弱冠11歳で第三代征夷大将軍に任じられます。

実朝という名は後鳥羽上皇が贈ったもので、翌、1204年(元久元年)には後鳥羽院の従兄妹となる坊門信子が正室に決り、実朝と後鳥羽院は京都、鎌倉と離れていながら精神的な結びつきを強めました。

北条時政の失脚

当初、幼い実朝の後見として実権を握ったのは祖父でもある北条時政でしたが、1年後、時政が失脚する事件が起こります。

1205年(元久2年)、時政は後妻の牧の方に動かされ、鎌倉幕府創業の武将で武蔵国(埼玉県)で勢力を保つ畠山重忠・重保親子を謀反の罪に仕立て義時・時房兄弟に殺させます。

時政を動かしたのは畠山氏を快く思わなかった後妻、牧の方といわれていますが時政にも武蔵国の実権を奪うという目的があったと見られます。

しかしそれが冤罪とわかり、時政と牧の方は義時らに責められると無謀にも実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようと画策し、政子と義時はそれを事前に察知すると二人を出家させ伊豆に追放します(牧氏事件)。

こうして幕府の実権は政子、義時に移って行きましたが、実朝は将軍就任以来、このように頻繁に起こる御家人間の権力争いのなかで幕府の舵取りを行わなければならない運命にあったのです。

将軍実朝の実像

源実朝といえば、これまで「武家政権の征夷大将軍でありながら、和歌や蹴鞠(けまり)などの公家文化に夢中になり政治に背を向けた軟弱な文人将軍」、または「北条氏に祭り上げられた実権のない傀儡将軍」という負のイメージがつきまといました。

しかし近年、それは実朝の本当の姿ではなかったというような見直しが行われつつあります。

実朝が和歌に関心を持ち、初めて詠んだのは将軍就任後14歳の時です。

自分の名付け親である後鳥羽院が編纂し、父頼朝の歌も掲載されている「新古今和歌集」を手に取ると和歌に傾注していきます。

後鳥羽院のいとこでもある夫人の影響もあり和歌を通してまだ見ぬ京の宮廷生活にも憧れを抱いたと思われます。

実朝は当代随一の歌人藤原定家と師弟関係を結び習作の添削を受け定家の歌論を学びました。

また「方丈記」を著した鴨長明など京の著名な歌人達も鎌倉を訪れ実朝は彼らと交流のなかで和歌の才能を磨いていきます。

やがて実朝は歌力を開花させ、自選の「金槐和歌集」を編纂、小倉百人一首にも収録されるほどの歌人として名を残すことになります。

実朝は蹴鞠(けまり)にも興味を持ち、自ら行うだけでなく達人を選任して頻繁に御所内で蹴鞠の行事を主催しました。

しかし、実朝の和歌や蹴鞠に対する傾倒はやがて御家人達から批判が出てきます。

吾妻鏡は、失態を犯した御家人が心境を綴った和歌を実朝に送ると優れた和歌だったために許したという皮肉を込めた記事や「当代(実朝)は歌・蹴鞠を以て業となし武芸廃るるに似たり」と和歌や蹴鞠にふける実朝に対し御家人の批判があったことを記しています。

義時や大江広元などの側近も「武芸にもっと力を入れられ朝廷を警護されることが幕府を永遠に安泰とする事になるのです」と諫めたと述べます。

吾妻鏡のこのような記事が実朝の軟弱なイメージを作り上げました。

しかし当時、武家政権のトップとして朝廷の上皇や天皇、公卿と渡り合うためには和歌など公家文化に精通することは必須のことでした

初代頼朝は和歌の名手でしたし二代頼家は蹴鞠の達人で、東国武士の中にも京文化に精通し和歌に優れた者が多かったといわれます。

ましてや実朝が相対する後鳥羽院は和歌、蹴鞠、音楽など諸芸・学問を極めた朝廷の最高権力者で、しかも自分の名付け親、御台所のいとこでもあり、実朝は後鳥羽院に恥ずかしくない教養を身につける必要があったのです。

また実朝が政治を顧みなかったというのも事実ではありません。

11歳で将軍に就任し当初は北条時政が、後には母政子、義時、大江広元などが主導した政治であったことは間違いありませんが成長するとともに積極的に政道に関わっていきます

実朝は京から呼んだ源仲章(なかあきら)を待読(じとう)として、中国の帝王学の教科書である「貞観政要」を熱心に学びますが、そこには将軍としての自覚と積極的に政治に関わろうという意欲がうかがえます。

1209年(承元3年)、18歳になり従三位に序せられると政所を開き自ら政治決断(将軍親裁)を行うようになります。

実朝は鷹狩り禁止令、神社寺社振興のための発令など独自の政策を次々に打ち出し、寺社や御家人間の争いごとの審議にも直々に裁定を下すことも多くなっていきます。

特筆すべきは後見人の義時が自分の家臣を「侍」という特別待遇にするように実朝に求めたところ、実朝は幕府内の秩序が乱れるとして拒否します。

鎌倉時代の仏教説話集の「沙石集(しゃせきしゅう)」には仏教の師である老僧が訴訟に口出しをしたところ、実朝は老師を叱責したというエピソードを掲載していて、実朝が身内に対しても贔屓をせず公平性を心がけた様子がうかがえます。

長く鎌倉期の研究は第一級の史料である「吾妻鏡」に頼ってきたのですが、「吾妻鏡」は北条氏の執権政治を正当化するために頼家、実朝が暗愚な将軍であったように描いていることは否定できません。

しかし、たとえば南北朝期に書かれた「増鏡」では実朝のことを「この大臣は心ばえが麗しく、強さも優しさもすべて感じがよく当然のごとく武士達が従うのは代々の将軍を超えていた」と評します。

このように近年は多方面からの資料研究が進み、実朝の従来の軟弱なイメージは変わりつつあるのです。

 1213年(建暦3年)には、幕府創業以来の有力御家人である和田義盛が北条義時を排除しようとした「和田合戦」が起こりますが、実朝は無事にこの乱を収束させると将軍親裁にさらに自信を深めていきます。

不可解な宋への渡航計画

1216年(建保4年)6月、吾妻鏡は不可解な実朝の行動を記述します。

東大寺の大仏再建に貢献した陳和卿(ちんなけい)という宋人が実朝に拝謁し、実朝の前世は宋の仏舎利信仰の聖地「医王山」の長老であり、自分はその門弟だったと涙ながらに訴えます。

これを聞いた実朝は、自分も同じ夢のお告げを得たと答え陳和卿の言を信じ込みます。

その半年後、実朝は自ら宋に渡航し医王山を参詣するので陳和卿に唐船を建造するよう指示し、結城朝光を奉行として随行者60人あまりを選抜させたのです。

義時と大江広元はしきりに実朝を諫めますが、聞き入れず造船に着手します。

ところが完成した唐船を由比ヶ浜に引き出し進水を試みると、船は海に浮かぶことはなく実朝の計画は結局挫折することになります。

この出来事について従来の解釈では、北条氏などに実権を奪われ孤立感を強めた実朝が現実逃避のために日本を脱出しようとしたもので、実朝の暗愚さの一つの具体的な例とされました。

しかし、実朝像の見直しが進んだ現在、そのような現実逃避が目的ではなく、別のもっと積極的な目的があったとする説が提示されています。

かつて平清盛は日宋貿易を独占してその富により平家は栄耀栄華を極めますが、実朝も日宋貿易を自ら行い政権基盤を盤石にしようとする意図があったというのです。

そのために中国人技術者、陳和卿を活用し夢の一致を演出したとします。

日宋貿易という構想は実現しませんでしたが、実朝は気を取り直し将軍親裁を推進します。

そんななかで事件は起こります。

実朝暗殺

1219年(建保7年)1月27日夕刻の6時過ぎ、深々と雪が降り積もる鎌倉の鶴岡八幡宮では、三代将軍源実朝の右大臣就任を神に謝意を表す拝賀の儀式が行われました。

参列した有力御家人、公卿は千人を超えたといいます。

鶴岡八幡宮

実朝は拝賀式を終えて社殿を退出し、居並ぶ公卿たちに会釈しながら笏(しゃく)を手に持って石段を正装の裾を引きながらゆっくりと下っていきました。

その時、傍らの大銀杏の木の影から法師姿の男たちが飛び出します。

そのなかの首謀者、実朝にとっては甥であり鶴岡八幡宮別当の公暁は実朝の裾を踏むと「親のかたきはこう打つのだ」と叫び、太刀を振り上げて切りつけ、実朝が倒れるとその首をかき切りました。

同時に他の男たちが、御剣役として実朝の前を歩く源仲章(なかあきら)を斬り殺すと、公暁は実朝の首を抱えて仲間とともにその場を逃げ去ります。

これが日本史上、衝撃的な将軍暗殺場面です。

その後、公暁は自分の乳母夫であった三浦義村に使者を送り、「今、将軍の座があいた。私が幕府の長となるので準備をするように」と指示しますが、義村は北条義時に報告、義時より公暁を誅するよう指示を受けて刺客を差し向けます。

しかし公暁は義村を最期まで信じて義村の自宅までたどり着き、板塀を乗り越えようとしたところを斬られたのでした。

公暁の犯行理由

何故、公暁はこのような凶行に及んだのでしょうか。

定説は、二代将軍頼家の嫡子として生まれた公暁は、子がいない実朝の次の将軍になる野心を持っていたが、実朝と義時ら北条氏は、自分をないがしろにして次の将軍を京から親王を迎え据えようとしていたため、これを阻止するために実朝と義時を亡き者にしようとしたと説明します。

公暁が暗殺直後、三浦義村に「将軍の座があいた。私が将軍になるので準備せよ」という使者を送ったことなどを根拠とします。

ところが実朝暗殺には成功するものの、義時は拝賀の式には体調不調のため急遽欠席したため助かり、源仲章が義時と間違えられ斬殺されたのです。

凶行の際に公暁が叫んだ「親のかたきはこう打つのだ」という言葉については、定説は公暁が犯行を正当化するために周囲に聞こえるよう叫んだものとします。

父を殺した北条義時を筆頭とする北条氏と北条氏に担がれた実朝に対しては親の敵として胸の内に憎悪を秘めていたことは間違いないでしょう。

公暁の犯行動機は、将軍への野心と北条氏への恨みが犯行に駆り立てられたとするのが真相なのでしょうか。

暗殺黒幕説

ところが公暁の犯行の裏には黒幕がいたのではないかという黒幕説が従来から唱えられてきました。

事件の黒幕としてあげられるのが北条義時、三浦義村、後鳥羽上皇の3人ですが、果たして彼らを黒幕と考える合理性はあるのでしょうか。

・北条義時黒幕説

吾妻鏡によると、義時は当日、鶴岡八幡宮に参内する行列が桜門まで来たとき、急に体調不良と称し御剣役を源仲章に替わって自宅に戻ったため、義時に間違えられた仲章が殺されました。

これは義時の自分も狙われていたように装った周到な演出とします。

北条義時-Wikipediaより引用(public domain)

動機は将軍親裁を行うようになった実朝から幕府の実権を奪うために公暁をたきつけ暗殺したというものです。

しかし、北条氏は実朝とともに京から親王を次期将軍にする計画を進めていて非常手段に訴えて実朝を早く排除する必要があったとは思われません。

公暁は「親のかたきはこう打つのだ」と叫んているように将軍の座を約束されたとしても父頼家を手にかけた北条氏の筆頭である義時と手を結ぶのでしょうか。

事件後、公暁は乳母夫の三浦義村を頼り裏切られていますが、義時が黒幕であればなぜ最高権力者である義時を頼らなかったのでしょうか。

愚管抄の記述では義時は体調不調で行列を抜けたので無く、実朝の指示で中門にとどまっていたとしますがこれが正しければ先ほどの義時の演出は成立しません。

そもそも慎重な性格である義時なら、実朝を排除するにしても公暁をそそのかして御家人や武士らも集まった大きな行事の場で決行させることはあまりにも仕損じるリスクが大きいと判断するでしょう。

このように義時黒幕説は多くの問題点が存在しありえないといってよいでしょう。

・三浦義村黒幕説

作家の永井路子さんが提唱し一時は多くの賛同を集めた説です。

公暁の乳母夫であった三浦義村は、実朝を殺して公暁を将軍に立てるとともに北条義時を排除して実権を握ろうとしたのですが、公暁が義時を殺すことに失敗したため口封じのため殺したとします。

その根拠に、義村は公暁の乳母夫であり、義村の子、駒若丸は公暁の門弟であるなど関係が近いこと、公暁が犯行後、義村に「将軍の座があいた。私が将軍になるので準備せよ」という使者を送った事実を挙げます。

さらに当日、義村は有力御家人であるにもかかわらず拝賀の式を欠席していますが、これは不可解なこととして実朝、義時の暗殺の成功を聞いた後に軍を挙げる準備をしていたのではないかとします。

しかし、義村は和田合戦でも義時に味方して乱鎮圧の功労者であり、その後も義時との関係は良好で今更義時に反逆する理由が見当たりません。

現に実朝の死後、次の将軍に左大臣九条道家の子、九条頼経を推薦し、積極的に政子・義時と協力して実現させています。

拝賀の式の欠席については、前年の実朝の直衣初(のうしはじめ)で義村は行列の立ち位置について口論するという問題を起こしており、今回は実朝の意向で欠席しただけで事件とは関係はないという説が有力です。

そもそも直接手を下した公暁を担いで新将軍とすることは正当性が得られないし、特に近年の研究では英明な将軍だったとわかってきた実朝を殺した公暁に従う御家人達は少なかったと思われます。

このような道理を幕府創業以来、生き抜いてきた三浦義村にわからないはずはありません。

このことからも義村黒幕説は無理があると思われます。

・後鳥羽院黒幕説

この説は後鳥羽院が鎌倉幕府に混乱を巻き起こし弱体化させ、朝廷に政治権力を取り戻すために公暁に実朝を殺させたとします。

しかし前に述べたように後鳥羽院は実朝の名付け親で、正室信子は後鳥羽院の従兄妹という親しい関係で、実朝は後鳥羽院に強い憧れを抱き、後鳥羽院もまた実朝を憎からず思っていたことは間違いありません。

また実朝が将軍でいることが後鳥羽院や朝廷にとって都合がよかったはずで、実朝の死後に起こった承久の乱も実朝が生きていたなら避けられていたのかも知れません。

したがってこの説もあり得ないでしょう。

三代将軍・源実朝とは?暗殺事件に黒幕はいたのか?・まとめ

以上のように、実朝暗殺事件には黒幕はいなかったと考えることが真実と思われます。

「本能寺の変」もそうですが歴史上衝撃的な暗殺事件には黒幕説がつきものです。

しかし事実を冷静に考証した結果、公暁とその周囲の少数の暴発だったと考えるのが最も理にかなっているようです。

いずれにしても、教養にあふれた英明な若き将軍、源実朝は26歳で世を去り、源氏政権は頼朝、頼家、実朝の三代で断絶します。

実朝の死はその後の歴史に大きな影響を及ぼしました。

後鳥羽院と実朝の親密な関係により均衡が保たれていた朝廷と幕府の関係は急速に暗雲が立ち込めます。

1221年(承久3年)、後鳥羽院は北条義時追討の院宣を発し「承久の乱」が勃発です。

承久の乱は幕府側の勝利となり、後鳥羽、順徳、土御門の3上皇は流罪となり仲恭天皇は廃されて朝廷の力は衰退します。

勝利した北条氏は執権政治を確立し、我が国は約150年間にわたり鎌倉幕府が統治することになりました。

参考:「源実朝・東国の王権を夢見た将軍」・「源氏将軍断絶」/坂井孝一、「陰謀の日本中世史」/呉座勇一

 

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