謎の人物・徐福とは 実在して日本に来訪したのか

人物

今から約2200年以上前、古代中国を初めて統一して秦帝国を創設した始皇帝は権力の頂点を極め、この世のすべての富を手に入れました。しかし唯一得ることができない永遠の命を渇望し、東方巡行で出合った方士・徐福に不老不死の仙薬を探して持ち帰るよう命じます。

徐福は大船団を率い、東海中に存在するという三神山を目指し出航します。徐福は2度出航し、2度目の出航の後、始皇帝の元に戻ることはありませんでした。そして伝説によれば徐福は日本に上陸し、定住して数々の中国文化を伝え日本の古代文化の発展に大きな影響を与えたといわれているのです。

徐福の出航の話は司馬遷が書いた歴史書「史記」に記述されていて、その後の「漢書」、「三国志」、「後漢書」など正史にも記載されていますが、これまでその歴史的真実性については中国の歴史学会では否定的でした。

ところが近年、中国では徐福伝説の学問的な見直しが行われるようになり、徐福は実在していたという説が有力となってきているのです。

伝説の人物、徐福は本当に実在したのでしょうか、そして日本にやって来たのでしょうか。    

「史記」に記録された徐福

秦の始皇帝は始皇26年(前221年)、中国を統一すると、翌年から5回に亘って全土視察の巡行を実施します。

始皇帝

巡行の最大の目的は全土に皇帝の威信を示し、郡県制や度量衡、文字の統一など自らの施策を行き渡らせることにより統一を徹底すること、そして各地でその土地の神々に庇護を請うための祭祀を行うことにありました。これは神話に出てくる聖人皇帝である舜の故事に見習ったものといわれています。

史記・秦始皇帝本紀によれば始皇帝が初めて斉人の方士、徐福(徐市)と出合ったのは始皇28年(前219年)の第2回巡行の時で山東半島の琅邪(ろうや)においてでした。方士とは呪術や祈祷、占星術、医学、天文学などの知識を持った、日本でいえば陰陽師のように権力者などに仕える存在です。彼らの中にはいろいろな夢物語を権力者に持ちかけ取り入ろうとした者も多かったようですが徐福もその一人だったと思われます。

徐福は「海中に蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)の三神山があり仙人が住んでいます。斎戒して童男童女数千人をつれて海にいり仙人を求めたい」と上奏すると始皇帝はこの申し出を受け入れ、未婚の男女数千人を同伴させ徐福に仙人を探させます。

三神山の伝説は戦国時代のころより多くの方士らが語っており、王侯たちは渤海中に三神山を探し求めたといいます。実は渤海湾では大気と海面の温度差による蜃気楼現象が頻繁に起こり、島影の幻影が見られたため人々はそれを三神山と見違えたともいいます。

内陸生まれで、おそらく初めて海を見た始皇帝は海中に存在するという仙人の住む幻の島には強く惹かれ、徐福の話を信じたのでしょうか。

またすべての物欲を満たし権力を手にした始皇帝もその時41歳で、老いの兆しを感じ永遠の命を希求して徐福の建言にかけてみようと考えたのかも知れません。

次に史記に徐福の動向が出てくるのは7年後の始皇35年(前212年)の条で「徐福らは巨万の費用を費やしたがついに薬を得なかった。不当な利益を得ていると聞こえている。」と批判しています。これはなかなか不老不死の仙薬を持って帰らない徐福に対する始皇帝の怒りを現わしたものですが、始皇帝は仙人というより不老不死の薬を渇望していたことがわかります。

さらに始皇37年(前210年)の条には徐福の釈明を記述しています。「方士徐福らは海に入り神薬を探して数年になるが得ることができなかった。徐福は費が多くて責められることを恐れ、皇帝に蓬莱に薬を見つけたが大きなサメがいて得ることが難しい、弓の腕がいい者を派遣してほしい、大鮫が現われたらこれを撃ちますと偽りの報告をします」

この記述以降、秦始皇帝本紀には徐福の動向は記されていません

ところが同じ史記の「列伝」のなかに徐福の話が再掲されています。前漢時代の「淮南衡山列伝」です。その中で伍被という人物が淮南王に秦が滅んだ理由を述べています。その一つとして伍被は徐福の故事をあげるのです。そこでは本紀とは内容が変質していて次のように書きます。

「徐福が帰還し偽っていうには、海中の大神に会い不老長寿の薬を請いますが、大神は秦王の礼が薄いので見せてもいいが渡すことはできないといいます。そこでどのような礼が必要かと問うと良家の男子と女子、百人の職人を遣わすようにと答えます。そのため徐福は皇帝に再拝して上奏すると始皇帝は大いに喜び良家の男女3000人と五穀の種と百工をつけて向わせます。しかし、その後徐福は帰って来ず、平原広沢(広い平野や湿地)を得てとどまり王となった。そのため随伴した男女の家族は悲しみ、秦王朝に乱を起こそうとした者は10家のうち6家であった。(そのため秦王朝は人心を失い滅んだ)」

この話は秦始皇帝本紀と違い歴史的記述というよりも伍被という人物の語りという位置づけですから信憑性に疑わしい印象があります。

さらに史記「封禅書」には「始皇帝が天下を統一して初めて海上に来ると三神山のことを述べる方士は多くいた。始皇帝もなかなかそこに行くのは難しいと思い、ある者(徐福)に童男童女を連れて行かせ探させたが、船は海中にとどまり強風のため到達することができず彼方に見えたのみですという。始皇帝は翌年も海を訪れその三年後も訪れ、海に入った方士を思い出した」と書いています。

以上のように司馬遷は史記において内容に相違はあるものの5回に亘って徐福について記録しているのです。その後、漢書、三国志、後漢書においても徐福についての記載がありますがおそらく史記の記述をもとにしたものと思われます。

さてこの史記の記述については3つの論点があります。

1 徐福は実在の人物なのか

2 徐福が出航した本当の目的は何であったか

3 徐福はどこに行ったのか、後世に流布した日本渡航説は本当なのか、です。

徐福は実在の人物なのか

史記は言うまでもなく中国の正史です。史記から明史まで24正史の最初のもので中国の代表的な歴史書です。また史記の著者、司馬遷の記述態度はきわめて謹厳といわれ、かつて史記に記述された殷朝は架空のものとされてきましたが現代になって殷の遺跡が発見され史記の正確性が実証されたのはその具体的例です。

徐福に関しても司馬遷と時間的に離れていませんし伍被も徐福と同時代の人です。したがって徐福を空想上の人物とすることは考えにくく、まったく根も葉もない話を取り入れるはずはないとも思えます。

しかしこれまで中国の歴史学会では徐福について学問的には取り上げてきませんでした。

中国の歴史学者である汪向栄氏は「史記の各記事の内容には微妙な食い違いがあり、神仙的要素も濃かったことから中国においては長く徐福を長く学問的研究の対象としなかった。1940年代に入って徐福についての論文が出てきたが、徐福は日本に行き神武天皇となった、徐福が王となった平原広沢はアメリカとするなどおよそ真実性に欠けるものだった」と述べています。

汪向栄氏自身もかつては、きわめて猜疑心の強い始皇帝から財や人をだまし取ることはできるはずはない、紀元前3世紀当時の技術では大船団を編成し大海を渡ることは現実的に不可能であろうとの理由から徐福はやはり実在の人物ではなく司馬遷は方士らの誇張した話を信じてそのまま記したのではないかと考えていたと述べています。

その後、古代の造船技術の見直しなどで徐福についての考え方を見直す気運も起こりますが、1980年代に入ると徐福の実在を裏付ける重要な発見が報道されます。

まず1982年、全国的な地名調査を実施するなかで、江蘇省において清朝までは徐福村と呼ばれ現在は徐阜という名の村が発見されたのです。この地域は秦の時代には斉の国で、徐福が斉の人という史記の記録にも合致しており、徐福と始皇帝が初めて面会した山東半島の琅邪(ろうや)のすぐ近くに位置しました。また村からは漢代の瓦が発掘されていて古くからの集落であったことがわかりました。村には徐という姓はなかったのですが、伝承によると徐福が旅立ってから始皇帝の怒りを恐れ親類縁者は逃亡したり徐という姓氏を変えたりしたといいます。また戦前までは徐福廟なるものがあったようですが日本軍の侵攻により破壊され、再び昨今の徐福ブームにより再建されています。

さらに1987年には江西省で徐家の家譜である「草坪・徐氏宗譜」が発見され、その中に「徐市(福)」という文字がはっきりと記されていました。

これらのことから、徐福を伝説の類いとしていた中国学会の雰囲気も変わり、汪向栄氏自身も徐福実在説に考えを変えます。

いずれにしろ、徐福の実在を示すものが史記をはじめとする歴史書の記述のみだった状況から、徐福村と徐福の名を記した家譜の発見により徐福実在説がにわかに有力となったのです。ただし、例えば墓跡や遺品などは見つかっていず、決定的とは言えないかも知れません。

徐福の本当の目的とは

史記によれば徐福は始皇帝に上奏して、始皇帝のために東海中に存在するという蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)の三神山に行き、仙人から不老不死の薬を持ち帰ることの承認を得ます。しかしこれは表向きのことで本当は始皇帝の不老不死への渇望に乗じて巨万の富を詐取することにあったことは間違いありません。

ところが史記は徐福が出航にあたって童男童女数千人を同伴し、さらに史記の「淮南衡山列伝」では五穀の種と百工も連れて出航したとし、最後は徐福は帰って来ず、平原広沢(広い平野や湿地)にとどまり王となったと書き残します。

誰もが不審に思うことは、渤海中にある三神山と不老不死薬の探索になぜ数千人(淮南衡山列では三千人)もの男女や職人を連れて行ったのか、そして五穀の種がなぜ必要なのかということです。中国文献の数値はとかく誇張があると言ってもこの記述を数十人と解釈することには無理があると思われます。

徐福がただ単に始皇帝を騙して富を奪う目的であれば、多人数の男女や職人を率いて出航せずとも、ひとり、あるいは少人数で広い中国のどこかに富を持って行方をくらませば良かったのではないかとも思われます。

そこで現在では徐福は他の方士のように始皇帝から巧みな言説で富を詐取する詐欺師というよりも始皇帝の圧政から逃れるために数千人の若い男女や職人を集めて海外に理想郷を作ろうとした社会改革者、理想主義者だったのではないかという説が有力説となって来ているのです。

理想郷といえば陶淵明の「桃花源詩」のなかに出てくるユートピア・桃源郷を思い出しますが、これも秦の始皇帝の暴虐から逃れ、陝西省の商山に隠れ住んだ4人の賢者の詩です。徐福もこのような世界を作ろうとしたのでしょうか。

しかしそれにしても始皇帝は徐福の意図に気づかなかったのかという疑問は残ります。

淮南衡山列伝では徐福は始皇帝に大神が要求したように報告していますが、猜疑心が強かった始皇帝が徐福の言を簡単に信じたのは理解できませんし、あの焚書坑儒を進言したという冷徹な側近の李斯あるいは超高にも徐福の嘘を見破れなかったのでしょうか。

実は始皇帝は徐福だけでなく盧生という方士に騙され逃亡されているのです。それにもかかわらず始皇帝は徐福の詐術に騙されています。それほど不老不死の薬をほしがっていたのでしょうか。

そこで出てくる新たな説が、始皇帝が徐福に命じたのは不老不死の仙薬の探索というより、海外の土地の植民地化であったという説です。始皇帝はそのために徐福の大艦隊を組織したというのです。ですから最終的に徐福がとどまったという平原広沢は中国ではなく日本をはじめ海外の土地だろうと考えるのです。

但しこの説の欠陥は、史記には始皇帝の海外進出の意思を匂わせる記述が全く出てこないことです。始皇帝の方針であればもう少し詳しい記述が史記に書き込まれているはずですがそれがないのはやはり不自然と思われます。

やはり、始皇帝は不老不死を求める余り、徐福の夢物語を信じ、あるいは徐福にすがり徐福の詐術に騙されたというのが真実に近いのでしょう。

兵馬俑

徐福は日本に来たのか

それでは徐福はどこに行ったのでしょうか。

史記は「淮南衡山列伝」で「平原広沢(広い平野や湿地)を得てとどまり王となった」と書くのみです。「平原広沢」とは広い平野や湿地という意味ですがその場所は明示していません。

ところが後の時代の書「三国志」の中の呉孫権伝、「後漢書」東夷伝には「亶洲」(だんしゅう)にとどまったと書いています。

この記述を信じるなら「亶洲」がどこかということになりますが、徐福が出航したと思われる山東半島の琅邪(ろうや)付近から、東方海中のルートを勘案して、韓国の済州島にあった古王国は耽羅(タンラ)と呼ばれ発音が似ている、平原広沢という地形も多いという理由として済州島とする説、そしてその先に位置する日本であるとする日本渡来説があるのです。

徐福日本渡来説は、その根拠として徐福が来たとされる紀元前3世紀頃は弥生前期で稲作や鉄器・青銅器の急速な普及など大きな変化があった時で、徐福の数千人の船団が入植したことが影響していると主張します。

大陸からの稲作の伝播は紀元前9世紀ごろですので、徐福が稲作を伝えたとすることは時期的に一致しませんが大陸と日本の交流が盛んに行われたことは否定できず徐福の来訪は可能性があると考えます。

また哲学者の梅原猛氏は吉野ヶ里など北部九州で出土する甕(カメ)棺は死骸を密封して保存する葬送方法で不老不死思想と結びついており徐福がもたらしたものではないかと推定しています。

文献上では、徐福が日本に上陸したとする最初の記述は10世紀に中国の僧、釈義楚が書いた「義楚六帖」とされます。この書で「日本国、または倭国と名づく。東海の中にあり。秦の時徐福、五百の童男童女を率いてこの国にとどまる」とし「東北千余里に山ありて富士と名づけ・・徐福此に泊まり蓬莱という。今に至りて子孫皆秦氏という」と述べます。

義楚はこの話は日本の僧、弘順大師から聞いたこととしています。弘順大師は寛輔といい10世紀初めに宋に渡った実在の僧なので当時の日本でこのような話が流布していたのでしょうか。

秦氏は朝鮮半島から渡来した氏族で西アジアの弓月氏を祖とし秦の始皇帝の末裔という伝説のある謎の民族ですが養蚕、織物、土木に秀でた集団だったため徐福とともに出航した百工が連想され、秦氏は徐福の末裔と考えられたのかも知れません。

また11世紀の北宋の政治家で詩人の欧陽脩は日本について歌った「日本刀歌」で「徐福は日本に行った。それは焚書坑儒の前だったので失われた書が百編も日本に残っている」と記しています。

他方日本側では遣隋使など日中の文化交流で「史記」の伝来は早かったと思われますが、日本書紀、古事記といった古代最大の史書は徐福にはまったく無関心で関連する記述はありません。ただ10世紀以降の「宇津保物語」、「源氏物語」、「今昔物語」などで徐福に触れた表現が見られるようになり弘順大師とは時期が合っているといえます。

時代が下ると南北朝時代の「神皇正統紀」で「此始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ」と記します。また江戸時代の林羅山の「羅山文集」、松下見林「異称日本伝」、新井白石の「同文通考」などで徐福来訪に言及しています。

特筆すべきなのは、日本には北は青森から南は沖縄まで40以上の場所で徐福が訪れたという伝説があることです。そのうち有名なのが佐賀県の金立山と和歌山県の新宮市の蓬莱山です。

徐福像と金立山(佐賀・徐福長寿館提供)

佐賀説では徐福一行は日本海を越え有明海から現在の佐賀市諸富に上陸します。徐福はそこから見える金立山を蓬莱山と考えて登頂すると仙人に出会い霊薬フロフキを授けられたと伝えます。フロフキは不老不死が訛ったもので現在もカンアオイトという名で自生しており腹痛や頭痛に効く植物です。山頂には徐福を主神として祀る金立神社があり50年に1度の例大祭には神輿を担いで徐福の上陸地とされる諸富の浮盃(ぶばい)から金立山までたどった道を逆に下る神事が行われます。金立神社の創建は孝霊天皇の代と伝えられ徐福の時代と合致しています。この説では徐福が王となってとどまったとされる平原広沢は筑紫平野のことだったとします。

徐福像(新宮市提供)

和歌山説は熊野までやって来た徐福が熊野川河口近くにあるお椀を伏せたような形をした蓬莱山を三神山の蓬莱と考えたというのです。徐福はその地に定住し農業や漁業の技術、捕鯨の技術などを教えます。またこの地で天台鳥薬という生薬の原料となるクスノキ科の常緑灌木を発見しその薬の製法を伝えたといいますが天台烏薬の原産地は中国なので不老不死薬を探しに来たとされる徐福が逆に仙薬を伝えたことになります。現地には紀州藩主徳川宗直により1736年に建立された徐福の墓がありますがその当時から徐福来訪地として伝承があったのでしょうか。毎年初夏には徐福を偲び遺徳に感謝する「熊野徐福万燈祭」が行われています。

このように各地に徐福を由来とする神社や墓は多いのですが、地元の熱量は高いにもかかわらず徐福の到来を実証できるものは見つかっていないようです。なにせ徐福が日本に来たとされるのは紀元前3世紀ごろとされ、その時期は縄文時代が終わり弥生時代の始まる時期で文字もない状況なので考古学上の遺物が発見されることが必要となります。考古学者は徐福が本当に日本に来たなら大量の貨幣を持ってきたはずなので、斉刀銭など秦の時代の貨幣あるいは始皇帝の使者と証明する虎符が発見されない限り徐福渡来説を軽々しく取り上げることはできないと述べます。

徐福伝説否定説とは

最後に徐福伝説否定説を紹介しましょう。

この説でも司馬遷の厳正な執筆姿勢を考えると秦始皇帝本紀に出てくる徐福は実在の人物であろうと考えます。 しかし徐福が数千人の童男童女を引き連れて大海に出航したことについては本紀では明確に書かれていないことに注視します。徐福の出航にはっきり言及しているのは淮南衡山列伝ですが前述したように、ここでの話は歴史的記述というよりも伍被という人物の語りという位置づけですから史実としての信憑性はないとします。

結局、徐福は数千人の童男童女を連れて出航せず、不老不死薬の発見の遅れを大鮫のせいだと釈明ているうちに始皇帝が崩御したため、国の混乱に乗じて逃走したのではないかと推定するのです。

希代の弁舌により始皇帝から富をだまし取った徐福なる方士はその大胆さのために司馬遷によって歴史に記録されますが始皇帝の死とともに闇に消えていったと結論づけます。

日本に徐福が来訪したという伝説は史記の淮南衡山列伝が日本に伝わり創造されたもので、その背景には当時の日本人の中国文化への強い憧れがあったとします。日本各地に残る伝説も古代中国の偉人が我が郷土にやって来たかも知れないという願望にも似た感情から形成されていったと考えます。

他方中国側でも日本文化の発展に中国人である徐福の影響があったという考えは彼らの中華思想に基づく自負心を満たすものであり、そのような双方の思いが合致して中世、近世の日中で真実のように流布していったのではないかとします。

弥生文化の急激な展開については中国文化の影響が大きいのは間違いなく、大陸からの絶え間ない人的流入があったのであろうがそれが徐福一団の日本来訪説と結びつくものではなく、また梅原猛氏の甕棺についての考察はそもそも中国には甕棺が発見されていないため説得力がないと否定します。

近年になって唐突に出現した徐福村や徐福一族の系図についても冷静に考えると観光振興のための村おこしだった可能性を指摘します。日中で徐福ブームが高まり両国で多くの民間の研究会が立ち上がったのは日中国交正常化と期を一つにしていて徐福は日中友好のシンボル的存在となりましたが日中の政治的亀裂が続く現在においては徐福ブームも沈静化しているようにも思えます。

揺れ動く日本と中国の政治的情勢の中で徐福に対する人々の熱い思いが両国の架け橋として後世まで続いていけばいいですね。

参考:徐福伝説考/逵志保(一季出版)、徐福伝説を探る/日中合同シンポジウム(小学館)、不老不死を夢見た徐福と始皇帝/池上正治編訳(勉誠社)、トンデモ日本史の真相/原田実(文芸社)、徐福/池上正治(原書房)、人間・始皇帝/鶴間和幸(岩波新書)

コーヒータイムによむシン・日本史

 

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