小倉百人一首は、正月の定番であるカルタや坊主めくりなど日本の平和な家庭を象徴するような遊びとともにいつの時代にも国民に親しまれてきました。
その小倉百人一首は、平安・鎌倉期の歌人、藤原定家が選定したと言われています。
定家の日記「明月記」によると息子の嫁の父である宇都宮頼綱(蓮生)の別荘、嵯峨中院山荘の障子の色紙に書き込むための歌だったようです。
1951年に定家が選定した「百人秀歌」という歌集の存在が初めて明らかになると、「百人秀歌」こそ「百人一首」の原型ではないかともいわれています。
そのような小倉百人一首には100人の天皇、公家、僧侶などの名だたる歌人の歌が収録されています。
ところが、百人一首に登場する歌人のなかには、その存在が疑われる正体不明の人物が登場しているのです。
「猿丸太夫」、「蝉丸」、「喜撰法師」の3人です。
この3人はいったいどういう人物なのでしょうか。
猿丸太夫、万葉の大歌人と疑われる人物?
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」
(奥深い山に紅葉を踏み分けて行き、鳴いている鹿の声を聞くときが秋はとくに悲しい)
百人一首第5番に採用されている、この歌を詠んだとされる「猿丸太夫」は全く謎の人物です。
猿丸太夫の名前は古今和歌集の真名序(漢文の序)で初めて公式に登場します。
真名序の中で、六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友黒主の歌は、いにしえの猿丸太夫の次なり」と評します。
つまり、両人の歌を比較し、黒主は猿丸太夫の下だと言っているのです。
にもかかわず、古今和歌集には黒主の歌は採用し、猿丸太夫の歌は掲載されていません。
「奥山に・・」は、古今和歌集では、詠み人知らずとして載せています。
不可解な態度です。
ところが平安時代中期の歌壇の大御所である藤原公任は、歌集「36人撰」で猿丸太夫を「36歌仙」に選び、
そこには、「奥山に・・」のほかに、次の2首も猿丸太夫の歌としてあげています。
「をちこちの たづきも知らぬ 山なかに おぼつかなくも 呼子鳥かな」
(あっちに行ったらいいのか、こっちに行けばいいのかまるで見当が付かない山中で心細げに鳴く呼子鳥だ)
「ひぐらしの 鳴きつるなべに 日は暮れぬと 見しは山の 影にざりける」
(ひぐらし蝉が鳴き始めたので、日が暮れたと思ったのは勘違いで本当は山の陰に入ったことだった)
しかし、これらも古今和歌集では詠み人知らずとして掲載されている歌なのです。
公任はそのことを知っていたはずですから、どういう意図で36人撰に選んだのでしょうか。
また「猿丸太夫集」という歌集が存在し、49首が猿丸の歌として収録されています。
しかし、すべて詠み人知らずの和歌を、後世の人が集めたものであろうというのが多数説になっています。
つまり、猿丸太夫が詠んだと確実にいえる歌は1首もないのにもかかわらず、どういうわけか優れた歌人として名が広がっていたということになります。
「猿丸太夫」という名前も奇妙といわざるを得ません。
古代には「蘇我馬子・入鹿」のように動物の名が付いた有名人もいます。
ところが、大夫というのは五位以上の官職名ですから本来なら正史に現われるはずですが、その記録は見当たらず、架空の人物か、誰かの偽名ということになります。
そういう観点から、猿丸太夫の正体について大胆な説を唱えたのが哲学者の梅原猛氏です。
「水底の歌」という著書で、万葉の歌人、柿本人麻呂こそ猿丸太夫の正体と断じました。
柿本人麻呂は、万葉集では多くの歌を詠んでいる奈良時代を代表する歌人ですが、その人となりについては日本書紀など正史には全く載っていません。
つまり柿本人麻呂もまた謎が多い人物なのです。
梅原説では、人麻呂は何らかの理由で罰を受け刑死しますが、そのため死後、名前を人から猿におとしめられ、日本書紀に出ている「柿本臣猨」、あるいは続日本紀に登場する「柿本朝臣佐留」に改名され、さらに猿丸太夫といわれるようになったとしました。
しかし梅原説は学会では受け入れられてはいず、猿丸太夫の正体は現在も謎のままです。
蝉丸(せみまる)、山奥に捨てられた盲目の皇子?
小倉百人一首 第10番の
「これやこの 行くも帰るも別れつつ 知るも知らぬも逢坂の関」
(本当にここが都から下って行く人も都へ帰ってくる人も、知る人も知らない人も、逢っては別れ、別れては逢うという逢坂の関なのだな)
の詠み人とされるのが蝉丸です。
蝉丸は猿丸太夫と同様に、奇妙な名を持ち、確かな生没年や経歴がわかリません。
しかし、様々な伝承があります。
蝉丸が最初に登場するのが、史上2番目の勅撰和歌集の後撰和歌集で、「これや・・」の歌が掲載されています。
この歌には、蝉丸は逢坂の関に庵を造って住んでいたとの詞書きがあります。
また源俊頼によって書かれた歌論書「俊頼髄脳」には
「世の中は とてもかくても ありぬべし 宮も藁屋(わらや)も はてしなければ」
(世の中はどう過ごそうと同じことだ。立派な宮殿も粗末な藁葺きの小屋もいつ滅びるかわからないのだから)
を蝉丸の歌として紹介し、逢坂の関の藁で作った庵に住み、人に物を乞いながら生活し琴を弾いていたと述べます。
蝉丸の話は今昔物語にも登場します。
村上天皇の時世(946~967)に、逢坂の関に住む盲目の蝉丸は、かつては宇多天皇の第8皇子、敦実親王の雑色(雑務を行う者)で、琵琶の達人である敦実親王の琵琶を聞いて技を習得しました。
公卿の源博雅三位は琵琶の名手である蝉丸のことを聞き、その技を習おうと3年通い詰めますが、ついに8月15夜に「流泉」、「啄木」の曲を口伝で伝授されるという話です。
そして、蝉丸が「盲僧琵琶」(盲人の僧が琵琶を弾くこと、琵琶法師)の始まりとします。
また鎌倉時代のはじめ、方丈記で有名な鴨長明は「無名抄」のなかで、蝉丸は仁明期(833~850)頃の人で吉岑宗貞(僧正遍昭)が和琴を習い、逢坂の関に祀る明神は蝉丸であると述べています。
次に、平家物語では、蝉丸は醍醐天皇の第4皇子で四宮河原(京都山科)に住み、源博雅三位に琵琶の秘曲を伝えたとします。
四宮は仁明天皇の第4皇子人康親王(831~872)の山荘があったところで、しかも人康親王は琵琶の名手で、眼の病で山荘に隠遁したとされるため、蝉丸とは人康親王ではないかという説もあります。
蝉丸像を決定的にしたのは、世阿弥作といわれる謡曲「蝉丸」です。
蝉丸は醍醐天皇の第4皇子であることは平家物語と同じですが、生まれながらの盲目のため逢坂山に捨てられます。
蝉丸は、これも前世の宿縁と自らの運命を悟り、藁のみすぼらしい庵でひとり琵琶をひいて過ごします。
そこに、髪が逆さまに生える奇病のため宮中を追われて流浪する姉宮、逆髪が偶然に訪れ、二人は互いの身の不幸を嘆き、そして別れます。
これを素材に江戸時代に、近松門左衛門が浄瑠璃「蝉丸」を書き、公演されて大評判となり、蝉丸のイメージが定着します。
蝉丸の歌は「これや・・」以外に3首が伝えられ、新古今和歌集など勅撰和歌集に選ばれていますが、蝉丸の確証のある実像は、その名の由来を含め、まったくわかっていないといってよいでしょう。
喜撰法師、宇治山に隠れ住んだ修験者?
百人一首 第8番の
「わが庵(いほ)は 都の辰巳(たつみ) しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」
(私の庵は都の南東にあって、このように心穏やかに暮らしているのに、世間の人々は、私が世を憂いて宇治山に住んでいる、と言っているようです)
の詠み人、喜撰法師も謎の人物と言っていいでしょう。
上の歌から、宇治山に住んでいた僧であることがわかるのみでどういう人物かはっきりしていません。
紀貫之は、「古今和歌集」の「仮名序」で代表的な歌人6人(僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主)、いわゆる「六歌仙」の名前をあげますが、その中に喜撰法師を入れています。
ただ貫之は仮名序で、続けて、喜撰法師のことを「言葉かすかにして、始め終はり確かならず。いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。読める歌、多く聞こえねば、かれこれを通わしてよく知らず」と述べます。
たしかに、喜撰法師の歌は、「わが庵は・・」と鎌倉時代の勅撰和歌集である玉葉和歌集に掲載されている、
「木の間より 見ゆるは谷の蛍かも いさりに海人の 海へ行くかも」
(木の間から見える光は、谷にいる蛍の光だろうか。漁のために海へ向かう漁師たちの漁火だろうか)
の2首のみです。
ですから、なぜ貫之が喜撰法師の名を仮名序の6歌仙で挙げたのか不可解です。
文献は残っていませんが、当時はそれなりに有名な僧だったのでしょうか。
平安後期の歌学書「倭歌作式」(喜撰式)も喜撰法師の作と伝えられていましたが、現在では後年に作られた偽書とされています。
桓武天皇の末裔とか、奈良中期に乱を起こし敗れた橘奈良麻呂の子という説もありますが根拠が不明です。
一方、国文学者の高崎正秀氏は、「喜撰」を「紀仙」と読み替え、「紀一族」の人物と考えました。
紀貫之のことではないかとの説もあります。
一方、鴨長明は『無名抄』で、「御室戸(みむろど)の奥に、二十余町ばかり山中へ入りて、宇治山の僧、喜撰が住みける跡あり」と記しています。
たしかに、京都から辰巳方向(南東)にある宇治山は、現在は「喜撰山」といい、山頂近くにある洞窟は「喜撰洞」と呼ばれ、その中に喜撰法師らしい像がいまも鎮座しています。
江戸時代の作で、奥山に隠遁した人々を紹介した「扶桑隠逸伝」によると、喜撰法師は出家して初めは醍醐寺に入り、のちに宇治山に隠棲し、仙術を学び、嶺から雲に乗って飛び去ったといいます。
醍醐寺は修験道当山派の本山であり、岩窟に住んでいたという伝承からも、喜撰法師は修験者だったかもしれません。
「仙術を学び、嶺から雲に乗って飛び去った」という「扶桑隠逸伝」の記述には、中国の神仙思想の影響を感じさせ、播磨・摂津地方に古くから広がる「法道仙人」の伝説も連想させます。
喜撰法師は、今後も修験者や神仙のイメージをまとった謎の歌人として生き続けていくのでしょう。
猿丸太夫・蝉丸・喜撰法師、百人一首に登場する謎の歌人たち・まとめ
以上、猿丸太夫、蝉丸、喜撰法師という、小倉百人一首に登場する謎の人物の正体を探ってみました。
古くから専門家が研究してきましたが、残念ながら確かな文献に乏しく、ここまで述べてきた以上のことはわかっていないようです。
私は、猿丸太夫については、誰か表には出ていない歌人の偽名ではないかと想像します。
猿丸太夫は、藤原公任の36人撰のとおり、「奥山・・」以下3首の歌人だったのでしょう。
古今和歌集において、序文では猿丸太夫の名を出したものの、「奥山・・」以下を詠み人知らずとしたのは、さすがに勅撰和歌集で偽りの名である猿丸太夫を歌の作者と記すことを憚られたからではないでしょうか。
ただ、梅原説のように、柿本人麻呂を懲罰的に猿丸としたとするのは、人麻呂の名はその後も他の歌の詠み人として明示されているので説得力に欠けるように思います。
蝉丸、喜撰法師は、山中に隠遁生活をして過ごす、貴族、宗教者が伝説化されたのではないでしょうか。
都の貴族たちは贅沢な暮らしをしつつ、一方で出世競争や政争など気持ちの安まることのない生活の中で、世俗から離れて自然を相手に超然と過ごす隠遁者への憧れがあったのでしょう。
そのような憧れが、詠まれたという歌とともに蝉丸、喜撰法師の伝説を作り上げられていったのかも知れません。
参考:百人一首の謎を解く/草野隆(新潮新書)
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