謎の大王・継体天皇とは・王権を武力で奪った大王なのか?

人物

多くの日本人は、天皇制は「万世一系」と言われるように初代の神武天皇から現代の今上天皇まで一つの血筋が連綿と続いてきたと信じてきました。

ところが26代継体天皇は王権を武力で奪った別の血統出身の大王であるという説があるのです。

この説によれば25代天皇以前と26代継体天皇から126代徳仁天皇までとは血統が違うと言うことになります。

言うまでもなく戦前までは天皇制の正当性は世界の他に見られることのないこの「万世一系」という血の繋がりにありました。

しかし戦後、天皇の研究に関するタブーがある程度解禁されると、この「万世一系」についてもいろいろ懐疑的な学説が発表されるようになります。

その一つが東大教授の江上波夫氏が主張した「騎馬民族征服説」で、天皇の起源は東北アジアから朝鮮半島を経由して我が国に渡来した騎馬民族であったとする説です。

さらに、早大教授の水野祐氏は古代日本では血統が異なる三つの王朝が交替したとする「三王朝交替説」を発表します。

その内容は、架空の天皇が数多く存在することを前提としますが、4世紀の古王朝(神武~10代崇神)、5世紀の中王朝(16代仁徳~25代武烈)、6世紀以降現代までの新王朝(26代継体~)と三つの王朝が交替したとします。

そのうち新王朝の創始者である継体天皇は地方の豪族であり、武力により王権を奪取して天皇の地位に就き、以来、現在までその血統が続いているとするのです。

この「三王朝交替説」は枝葉末節では異論も含みながら、多くの学者に支持を得て有力説となっています。

しかし、私たちは歴史の授業ではそのような学説のことは教わったことはありませんし、継体天皇についても詳しく教科書には書かれていません。

継体天皇というのはどういう人物なのでしょうか。そして皇位を武力で奪取したというのは事実なのでしょうか?

継体天皇とはどういう人物か?

日本書紀によると、継体天皇の在位は西暦507年3月3日から531年(継体25年)3月10日までとされ、崩御は82歳の時だったとされます。

書紀には但し書きがあり「ある本には534年(継体28年)とあるが、「百済本紀」の記述を採用した」と書いています。

一方、古事記は継体の崩御を527年(丁未/ひのとひつじ)4月9日、享年を43歳としており、従って生まれは485年となりますが、現在は日本書紀の記述が通説となっています。

書紀によると継体は応神天皇の5世孫で、即位前は男大迹王(おおどおう)と名乗り、父は近江を本拠地とする豪族の彦主人王(ひこうしおう)、母は越前出身の振姫(ふるひめ)といい、近江の高島で生まれています。

継体が15代応神天皇の5世孫というのは本当かというと、書紀には5世代の名前が伝わっていないため疑わしく、現在は記紀の「万世一系」という後世の統一思想のもとに創作されたものというのが大方の見方です。

幼いときに父彦主人王が死去し、母振姫は越前・三国に帰り、男大迹王を育てます。

学説は即位前の継体は父母の近江・越前を中心として琵琶湖と大阪湾を結ぶ淀川水系を掌握し、さらには尾張・河内など広範な地域に勢力を保持していた大豪族ではなかったかと推測しています。

継体は即位すると、武烈天皇の父、仁賢天皇の娘である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を正妻として娶り、継体を継いだ安閑、宣化天皇仁賢天皇の娘を妻としています。

このことは即位後、あえて前王権とのつながりを強調し王権の交替を正当化しているように思えます。

継体は即位の際に功績があった大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかい)を大連に任命し、側近として重用します。

内政においては氏姓制・民部制・国造制などを進めて国家の制度を整備し、外交面では百済と親交し、百済の要請により援軍を派遣したり五経博士を迎えたりしました。

晩年に勃発した磐井の乱には大伴金村、物部麁鹿火を派遣して鎮圧し国内の統一を進めます。

崩御後の御陵については、宮内庁は「太田茶臼山古墳」(茨木市)と比定していますが築造年代が合わず、「今城塚古墳」(高槻市)であるというのが現在の定説です。

継体天皇即位の経緯

継体天皇が王権を武力で奪取したと推定されるのは、日本書紀に描かれる即位の経緯からです。

書紀は継体天皇の即位の経緯を次のように記述しています。

継体天皇の前の天皇は25代武烈天皇(在位499年~506年)ですが、武烈については悪逆非道の天皇と強調して記述しています。

例えば妊婦の腹を割いて胎児を見たり、女性を馬と交接させるなど異常性格の持ち主で残忍な限りをつくした天皇として描いています。

元来、日本書紀は藤原不比等が天皇中心の律令国家を正当化するための歴史書ですから、書紀がこのように悪逆非道の天皇がいたことを強調していることには非常に違和感があります。

対照的に継体天皇については男盛りで人を愛し、知者を敬う心の広い人であったと賛美しているのです。

この武烈が亡くなると、子供がなく、身内も武烈が多数殺害していて王位につく者がいなくなっていたので、重臣の大伴金村は、丹波国に住む14代仲哀天皇の5世孫である倭彦王(やまとひこおう)を迎えようとしました。

しかし倭彦王は小心者で、迎えに来た兵に恐れ逃亡してしまいす。

そこで金村は物部麁鹿火らと計らい、応神天皇の5世孫の男大迹王を越の三国から迎えるため使者を送ります。

男大迹王倭彦王と違って威風堂々としており、使者はこのお方こそ大王にふさわしいと感銘を受けます。

男大迹王は、初めは自分は大王にふさわしくないと固辞しますが、再三の要請を受けるとこれを承諾し507年3月、樟葉宮(くすはのみや/枚方市)で、26代天皇に即位します。継体天皇57歳の時です。

しかし、継体天皇は、すぐには朝廷の本拠地である大和に入らず樟葉で即位した後、筒城(京田辺市?)、弟国(長岡京市?)を転々とし、大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)(奈良県桜井市)に都を定めたのは即位して20年後でした。

この日本書紀の記述から読み取れることは、

前天皇を人間とも思えない残虐で異常人格者として描き、一方で継体を慈悲深い人格者として描くことにより、即位を正当化し、即位に何人も疑義を持たせないようにしていることです。

これは中国の歴史に見られる徳を失った前王朝を廃するということは正当であるという「易姓革命」を模倣したものと思われます。

また仲哀天皇の5世孫である倭彦王のエピソードを挿入することにより、地方出身で王族と血統の遠い人物を大王に迎えようとした前例を作り、しかも威風堂々として大王として最適な人物が選ばれたと重ねて即位の正当化を強化しているのです。

一方、継体が即位後、河内や京都近辺を転々とし、朝廷の本拠地である大和に入るのが20年も後になったのは、即位後も王権が不安定で反継体勢力との抗争が続いたことを示しているのでしょう。

継体天皇の出身豪族と抵抗勢力

考古学の大御所、直木孝次郎氏水野氏の「三王朝交替説」を継承し、

武烈天皇死後、王権が揺らぐなかで地方の動乱が起こり、その機に乗じて勢力を拡大、中央に進出し20年にわたる動乱を収め、新王朝を創設したのが継体ではなかったかとします。

それでは継体が率いた勢力とはどういう豪族であったかについては、近江を本拠地とする息長氏(おきながし)とするのが有力説です。

息長氏は琵琶湖の交通路を支配した経済力で近畿北部から北陸、東海の地方豪族を束め、継体という突出したリーダーを擁し王権を奪取したとします。

このことは継体の9人におよぶ妃の出身氏族などから推測できるとします。

息長氏は古代史において大きく注目される存在ではなかったのですが、継体天皇の出身氏族という学説の登場により脚光を浴びることになり研究が進んでいます。

息長氏は後の天武天皇時の「天武八姓」という氏制度の最高位の「真人」の姓を与えられ、天武の治世で重要な役割を果たしたのも、継体天皇以来の王権と特別な関係だったためと考えられています。

それでは継体の反対勢力とはどのような勢力だったのでしょうか。

歴史学者の水谷千秋氏は、前王朝と密接な関係にあり、継体朝のころから衰退していった豪族であろうと推定し、それを葛城(かつらぎ)氏ではないかとします。

葛城氏は継体以前の仁徳系王朝で権勢を誇った豪族で、継体王朝のころから衰退しています。

また葛城氏が拠点とした奈良北西部の北葛城地方が継体系の王族に領有権が移っていることを根拠として、葛城氏が前王朝につながる王族を擁して、大和で勢力を保持して継体と対立していたのではないかと推定します。

その葛城氏は同じ同族関係にあったと思われる蘇我氏に政治的主導権を取って代わられ衰退します。

蘇我氏は、葛城氏とは真逆に継体支援に廻り、これにより継体天皇大和磐余玉穂宮(奈良県桜井市)遷都が可能になり継体王権が確立したのです。

水谷氏はその証拠として継体の皇子である安閑、宣化が営んだ宮がいずれも飛鳥地方の蘇我氏の勢力下にあったという事実をあげるのです。

死後のクーデター・辛亥の変

謎が多い継体天皇ですが、その死の際にも不可解な点が見られ、継体天皇の後継をめぐり内乱があったのではないかという説があり、その内乱を「辛亥の変」と呼んでいます。

日本書紀は継体の崩御は「ある本では534年(継体28年)とするが、百済本記には辛亥年(531年/継体25年)に日本の天皇・太子・皇子がともに死んだと書かれていることに従い継体25年(531年)とした」と記述しています。

百済本記は26代継体、27代安閑、28代宣化が同時に死んだと理解される不審な記事で、これによると安閑、宣化は皇位についていない事になります。

一方で日本書紀は継体の次に、534(甲寅/こういん)年に安閑天皇が即位したとしており、2年間の空位を作っているのです。

また「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起」は、29代欽明天皇の即位年を531年(辛亥年)としていて、これが事実なら安閑・宣化は帝位に就いていないことになりますし、日本の天皇・太子・皇子が同時に死ぬなど、戦乱か暗殺以外まずあり得ない事です。

そこで出てきた説が2朝並立論で戦前は平子鐸嶺氏、喜田貞吉氏が主張しました。

戦後になると林家辰三郎氏がこの説を発展させ次のように説明します。

継体の死後、蘇我氏を中心とする勢力が欽明を擁し、安閑天皇の即位に反対してクーデター「辛亥の変」を起し、欽明が即位、一方安閑・宣化も生き残り2年後の534年に大伴・物部氏の支持によって即位し二つの王朝が7年にわたり並立した。

その後539年に宣化天皇が死去すると大伴金村も失脚し欽明天皇に統一されたとします。

この驚くべき説は支持する研究者も多いのですが、反対の意見もあり決着はついていません。

しかし、2朝並立論では、天皇・太子・皇子が同時に死んだということが説明できません。

そこで、欽明側が外交権を奪取するために、百済側に意図的に流した虚偽の情報だったのではないかという説も唱えられました。

水谷千秋氏は2朝並立論に反対し次の解決策を提示しています。

継体天皇は死の直前に安閑に譲位したが百済までは伝わることがなく、百済本記では安閑は依然太子として記された。

その安閑天皇に反対したのが蘇我氏であり、宣化、欽明とともに内乱を起こし安閑とその皇子を殺害したため、百済本記には天皇・太子・皇子が同時に死んだかのように記されたと説明します。

確かに蘇我氏は宣化天皇時に突如大臣として歴史に登場していて宣化に取り入ったのは間違いありません。

水谷説では宣化と欽明の関係は、欽明が宣化の娘を3人も娶っていることから政治的に手を結んでいて、死んだ皇子は宣化のことではなく、日本書紀ではいなかったとされる安閑の子であり、その後宣化・欽明の順に皇位についたとします。

なお、「上宮聖徳法王帝説」では欽明即位を辛亥としたため宣化の即位を否定するかのようですが、一方で宣化を欽明妃の父として天皇としている表現もあり誤った記載だろうと考えます。

さらには、安閑、宣化、欽明はいずれも継体の子ですが、母方を考えると、安閑、宣化が地方豪族の尾張連の娘「目子媛(めのこひめ)」で、欽明の母は仁賢天皇の娘、手白香皇女であることから、辛亥の変は武力で仁徳系王朝から王権を奪った継体王朝を再び仁徳系王朝に引き戻した再クーデターだったのではないかという説も説得ありそうです。

その背後にあるのが、それぞれの王権を支えた大伴氏と蘇我氏の権力争いであることは間違いありません。

大伴金村欽明天皇が即位した年に、任那4県の百済割譲という30年前の政治責任を蘇我に与する物部尾輿(ものべおこし)らから追求され失脚し、その後蘇我氏の天下となりました。

謎の大王・継体天皇とは・王権を武力で奪った大王か?・まとめ

継体天皇がそれまで王権と血のつながりのない地方豪族出身で武力により王権を奪ったのか、何らかの血の継続があったのか学会では今も議論は続いています。

血の継続がなかったとする説が多数説ですが、あったにしてもかなり薄いつながりであり実質上、武力により王権を奪ったことは間違いないようです。

ところで天皇の諱(おくりな)は奈良時代の文人である淡海三船(おうみのみふね)が、神武から光仁天皇まで一括選定したと言われています。

継体天皇の「継体」という名は、中国の言葉「継体持統」から採用したといわれ武烈天皇の崩御で途切れそうになった皇統をつないだ存在との意味のようです。

「継体持統」からは「持統天皇」の諡も採用されています。

持統天皇は言うまでもなく天武天皇の皇后で、天武天皇が死ぬと実子の草壁皇子を後継にしようと、草壁のライバル、大津皇子を死に追いやるなどしますが、草壁皇子が早世したため自ら帝位に就き、さらに孫の軽皇子、後の文武天皇に皇統をつなげます。

そのような女帝の執念から淡海三船は「持統」という諡を選んだのでしょう。

そういう意味で、淡海三船が生きた奈良時代においても、継体天皇の即位に日本書紀に書かれエピソード以上のなにか特別の事情があったことが認識されていたようです。
(参考:「謎の大王 継体天皇」/水谷千秋)

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