我が家の初詣は数十年来、三木市にある伽耶院(がやいん)です。
伽耶院は、三木市の丘陵地帯の森林のなかに、今から1300年以上前に毘沙門天(びしゃもんてん)を本尊として建立された修験道の寺院です。
現在の建造物は、秀吉の三木城攻撃や失火により全山消失し、江戸初期に立て直されました。
伽耶院の名は、インドの仏教の聖地「仏陀伽耶」(ぶっだがや)に由来し、境内の金堂、多宝塔、鎮守三坂明神社が国の重要文化財に指定されています。
新年の朝に境内を訪れると、新鮮で肌にしみ通るような冬の冷気に包まれて新たな年の到来を感じますし、修験者により参内者一人一人に厄払い加持を行っていただけるので、年の初めに明るい気持ちを持って帰路につくことができます。
伽耶院は院の縁起では、大化元年(645年)に「法道仙人」という人が開基したとされます。
ところが不思議な事に、近畿一円には、伽耶院(創建年645)と同じ時期に「法道仙人」を開基とする寺院が数多くあるのです。
名の知れた寺院でも30近くあり、中小の寺院を入れると100を超えるといわれます。
例えば、兵庫県内では一乗寺(加西市)(創建650年)、清水寺(加東市)(627)、西林寺(西脇市)(651)、如意寺(神戸市)(645)、石峯寺(神戸市)(651)、摩耶山天上寺(神戸市)(646)、朝光寺(加東市)(651)、 常勝寺(丹波市)(645~650)、光明寺(加東市)(594)、東窟寺(篠山市)(645~650)、花山院(三田市)(651)など、他の地方では長谷寺(鳥取市)(721)、観音寺(福知山市)(720)、羅漢寺(大分県)(645) などです。
「法道仙人」とはどういう人物で、なぜ同じ時期に多くの寺の開基とされたのでしょうか。
法道仙人とは?
法道仙人の正体は謎に包まれていて、鎌倉末期の仏教の歴史書「元享釈書」では、天竺(インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)に住む不老長寿の仙人だったとされます。
一乗寺縁起によると、紫雲に乗り中国、百済を経由して日本に来訪し、播磨に降立ち、その地を法華山と名付けて居住します。
法道仙人は法華経を称え、観世音菩薩を信仰し、飛鉢の術により人々に供養を乞いました。
ある時、播磨灘を通過する船に、仙人の鉢が飛んできて托鉢を乞いますが、租税の米だったため船主に断られると鉢はそのまま法華山に向け飛び去り、そのあとを米俵も次々と鉢を追って飛んでいったといいます。
法道仙人の霊力は都でも評判になり、大化5年(649年)、孝徳天皇の病の時、都に召されて、加持を行い、たちまちのうちに病平癒すると宮中をはじめ多くの人々が仙人に帰依します。
天皇も仙人を慕い、法華山に雄壮な寺院を建立しますが、これが現在の一乗寺です。
その後、数十年にわたり一乗寺を拠点に仏法の興隆につとめたあと、再び雲にのり天竺に帰って行ったといわれています。
ただ播州清水寺の縁起には景行天皇の時世(4世紀ごろ?)に、来日して現在清水持のある御嶽山に住まわれたとしていて、各々の寺院の縁起によって違った書かれ方をされているようです。
法道仙人が多くの名刹の開基となった理由は?
法道仙人は、播磨から丹波地方にかけて多くの寺院の縁起で、寺院を開基した人物とされてはいますが、実在の人物とは確認できないため、その縁起はあくまで伝承と考えざるを得ません。
しかし、法道仙人がこの地方で同時期に多数の寺院の開基とされたのは、歴史的な事情があったと思われます。
法道仙人の開基伝説の始まり
研究によると法道仙人伝説はこの地域で平安時代末期から鎌倉時代に書けて普及し始め、14世紀半ば頃までに急激に広がったとされます。
したがって各寺院の法道仙人の開基という縁起も、各寺院創立当初からあったのではなく、平安末期から14世紀にかけて作られたものではないかと推定されるのです。
その裏付けとなるのが清水寺古文書で、法道仙人が寺院建立をしたことが1181年の文書で初めて見られますが、それ以前の文書では寺院建立についての記述のなかに法道仙人の名が全く触れられていません。
そのため清水寺では12世紀後半にかけて法道仙人開基の伝承が作られたのではないかと推定できます。
また一乗寺の法道仙人像は1286年の作で、西林寺の法道仙人立像も室町時代の作など、寺院の創建よりあとの時代に制作されている例がいくつも存在するため、そのことは法道仙人が共通の開基として広まったのは13世紀から14世紀ということの傍証ではないかと思えます。
多くの寺院で法道仙人が開基とされた理由
平安時代中期以降、天台、真言密教の隆盛とともに、山林幽谷の地に一乗寺や清水寺のような修行の場としての寺院が多く建立されていきます。
そういう寺院において多数の僧侶が居住し修行の場を確保していくためには、人々の信仰を集め、貴族や地元豪族の寄進を必要としました。
そのためには霊力あらたかな人物を開山者とした由緒ある縁起が必要だったと思われます。
すなわち寺院の伝える開基伝承は、寺院が存続していくために創出されたもので、このことは法道仙人だけでなく聖徳太子や行基菩薩の開基伝承でもいえるのでしょう。
法道仙人の開基が播磨、摂津、丹波一帯に集中するのは、法道伝説が、まず法華山一乗寺を中心に作り上げられ、播磨、丹波の山岳地帯の山岳信仰や神道などと結びつき、民衆に受け入れられ急速に広がっていったためではないかと推定されています。
法道仙人が仏教僧でなく、仙人と呼ばれたのも山岳信仰の影響が色濃く残っているからと思われます。
また中小の寺院も、地域の中核となる大寺院との連携で生き残りを図るため、法道仙人を開基とする縁起伝承を見習ったのでしょう。
それでは法道仙人が架空の人物としても、そのモデルとなる人物はいるのでしょうか。
一説では、播磨出身で、奈良・長谷寺の開祖、徳道上人(656~?)をあげます。(永井義憲大妻女子大教授)
法道仙人伝承が最初に一乗寺で作り上げられたのも、徳道上人が播磨出身であり、長谷寺の縁起に飛鉢伝説を組み合わせて法道仙人像が形成され、「法道」と「徳道」の草書体での文字の混同も一助となったとします。
また長谷寺は観音信仰の聖地ですから、法道仙人の信仰、一乗寺のご本尊とは相通ずるものがありました。
謎の僧侶・法道仙人、多くの寺院を開いた理由とは?まとめ
播磨、摂津、丹波地方を中心とし、遠くは四国、九州、北陸地方にまで点在する法道仙人伝説について見てきました。
どうやら法道仙人は実在の人物でなく、その開基縁起も寺院開山より後年のある時期に創作されたものでした。
しかし、もちろん、そのことで人々の法道仙人に対する信仰は変わることはなく法道仙人を開基とする寺院の尊さは決して減じることはありません。
この地方の寺院と聖たちは、長い歴史の中で、人々の心の安寧を祈り続けてきたのですから。
*参考文献:法道仙人と行基菩薩の時代/「法道仙人と行基菩薩の時代」実行委員会
:法道仙人と徳道上人/永井義憲
コメント