聖徳太子はいなかった?聖徳太子虚構説とは

人物

今でも日本人の多くが敬愛するという「聖徳太子」が亡くなったのは、日本書紀によると621年(推古29年)2月5日と言われ2021年は1400年の遠忌(おんき)の年でした。

聖徳太子は歴史の教科書には必ず登場し、千円札や1万円札など何回もお札に肖像が採用されて日本人の誰もが認める歴史上最大の偉人と言われてきました。

しかし、その聖徳太子が実は「日本の歴史には実在しない架空の人物である」という学説が一定の支持を得ているのです。

戦前より国史である「日本書紀」については、内容の信憑性について有力な学者たちが疑ってきたのは周知の事実です。

ところが、「日本書紀」が描く聖徳太子の存在そのものを全面的に否定する学説が近年提出され旋風を巻き起こしています。

その学説を発表したのは、中部大学教授(当時)の大山誠一氏であり、以来学会では喧々諤々の議論が行われていますが、一定の賛同者を得ているといってよいでしょう。

大山氏の主張する「聖徳太子虚構説」とはどういうものか、それは事実なのか見ていきましょう。

 従来の聖徳太子像とは?

私たちは聖徳太子について、学校の授業では概ね次のように教わってきました。

聖徳太子は574年に第31代用明天皇の第二皇子として誕生し本名は厩戸皇子(うまやどのみこ)といいます。

叔母に当たる第33代の女帝、推古天皇皇太子摂政となり、国の根幹となる「冠位12階」「憲法17条」を制定、豊かな教養と優れた政治理念による政治を行い、天皇を中心とする国家体制の基礎作りに貢献します。

一方、小野妹子遣隋使として派遣し、積極的に中国文化や制度を導入しますが、その際、煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」と記した国書を渡して、中国に隷属的な態度を取らず毅然とした対等外交を行いました。

また法隆寺四天王寺を建立し、高度な仏教注釈書である「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」を著すなど仏教の振興にも努めます。

そのほかに「母が馬小屋の前で出産した」、「生まれてすぐ言葉を発した」、「10人の請願を同時に聴き取り、理解することができ」、「未来のことさえ見通すことができた」、「山中で出会った行き倒れ人を聖人と見破り、手厚く保護した」という超人伝説を残しています。

このように聖徳太子は日本史上、最大の偉人とされ、現在に至るまで尊敬と信仰の対象となっているのです。

 聖徳太子虚構説とは

以上のような、聖徳太子像に対して、大山誠一氏は下記のような聖徳太子虚構説を発表しました。

聖徳太子「日本書紀」で創造された虚構の人物である。

聖徳太子とされる厩戸王(皇子)は蘇我系の実在の人物で、斑鳩寺(法隆寺)を建立したのは史実だが、聖徳太子が行ったとされる数々の業績や伝説とはまったく関係がない。

聖徳太子像は、日本書紀編纂の実質的な責任者である藤原不比等長屋王、律師・道慈によって創造されたものである。

その目的は天皇中心の律令国家運営を行うために我が国にも中国の皇帝のように絶対的権威を備え、需・仏・道教の守護者として君臨する人物が存在したとして聖徳太子像を創造し皇室の威厳を高めることにあった。

「憲法17条」日本書紀で創作された捏造品である。

聖徳太子実在の有力な証拠とされてきた「法隆寺系資料」「釈迦三尊像光背銘文」「薬師如来像光背銘文」「天寿国繍帳銘文」、そして「三経義疏」聖徳太子の著作とされたことも日本書紀編纂以降に不比等の娘である光明子を中心として聖徳太子信仰が形成される中で捏造されたものである。

虚構説の根拠-日本書紀

聖徳太子という人物像が最初に登場し、出生から亡くなるまで詳細な記述がされているのが720年(養老4年)に編纂された日本書紀ですが、大山教授は聖徳太子に関する記述については次のような理由から虚構と主張します。

日本書紀では593年に厩戸王は皇太子となったとされますが、皇太子制が始まったのは689年に発布された「飛鳥浄御原令」からで、歴史的事実として最初の立太子は697年の軽皇子(後の文武天皇)なので、推古期に厩戸王が皇太子であることはあり得ない。

聖徳太子実在の最大根拠とされていたのが憲法17条の制定ですが、江戸時代の狩谷棭斎、昭和の津田左右吉が主張しているように、憲法17条日本書紀のなかの文章と酷似していて推古期の文章とは思われない。

憲法17条には多くの中国の古典が引用され、当時の中国の思想と政治体制を熟知していなければ書けない内容のものである。

聖徳太子がいくら天才でも、推古期の政治・文化観と全く違っている憲法17条を書くのは不可能であり、津田左右吉が言うように日本書紀の編者が聖徳太子の名を借りて当時の官僚たちを戒めるために創作したものであろう。

用語の問題として、憲法17条の中の「国司」は大宝令以降の用語であり、また聖徳太子蘇我馬子が共同で天皇記・国記を編纂したという文章でもその中に使われている「公民」は大化以前に存在せず矛盾している。

一方、歴史的事実としてはっきりしている遣隋使の派遣、冠位12階の制定などの記事については聖徳太子は登場させず、憲法17条や三宝興隆など史実でない話や曖昧で具体性に欠ける記事にのみ登場させている。

虚構説の根拠-法隆寺系資料

薬師像光背銘文

法隆寺金堂薬師像光背銘文には「(薬師像は)用明天皇の病気平癒のため大王天皇(推古天皇)東宮聖王(聖徳太子)が607年に完成した」と書かれて、これが本当のものであれば聖徳太子実在の証拠と言える。

しかし従来より多くの疑問が指摘されていて薬師像光背銘文は捏造品である。

その理由は、「天皇」号の成立が689年の「飛鳥浄御原令」で、天武天皇に最初の天皇号が捧げられたというのが学会の定説であり、「天皇」という言葉が登場する銘文が607年に書かれたというのはあり得ない。

おなじく皇太子の意味を持つ「東宮」の語も、697年の軽皇子(文武天皇)の時が最初であり、607年に完成したという銘文とは矛盾がある。

釈迦像光背銘文

一方、釈迦像光背銘文には、「622年2月22日法皇(聖徳太子)が亡くなった。像は623年止利仏師が完成した」と記載していて、これも聖徳太子が存在していた証拠とされる。

しかし、その中に「法興」という元号が記載されているが、「法興」という元号は歴史上存在していないし、元号自体645年の大化の改新以前には使われていなかったので、銘文の内容は虚偽ということになる。

また銘文中に使われている「知識」「仏師」という語の初見は奈良時代でありこれも矛盾する。

天寿国繍帳銘文

天寿国繍帳銘文は「聖徳太子の妃、多至波奈大女郎(橘大女郎)が太子の死を嘆き、推古天皇に作ってもらった」という経緯を書いていて、これも聖徳太子実在を証明する資料と言われてきた。

しかしここでも「天皇」という表記が用いられていて、その作成は持統期以降と考えねばならない。

また歴代天皇の名が聖徳太子の時代ではあり得ない和風諡号を使われている。

さらに聖徳太子の妃とされる多至波奈大女郎(橘大女郎)がここで初めて登場し、古事記、日本書紀などほかの資料には見えず実在の人物かどうかも疑わしい。

このように、3つの銘文はどれも天武・持統期以後につくられたものにもかかわらず、あたかも聖徳太子が実在したかのように偽造している。

三経義疏

三経義疏とは、法隆寺資財帳の747年(天平19年)2月21日付けで「聖徳太子(上宮聖徳法王)御製」と記された法華・維摩・勝鬘の三経の注釈書で、「法華義疏」のみは太子肉筆とされるものが現存し、ほかは写本と言われていて、まさに聖徳太子実存の証拠とされるもの。

しかし三経義疏は747年まで知られていず、聖徳太子が亡くなったとされてから120年以上経って突如、太子御製として歴史に登場した不可解な書物である。

「法華義疏」については「東院資財帳」によると「行信」という僧がどこからか探してきて法隆寺に寄進したと記録されていて、その巻頭には張り紙があり、「これは聖徳太子の私集で海の彼方のものでない」とわざわざ注意書きがされており、いつ貼付されたのか、また出所も疑わしい。

また「勝鬘義疏」が中国出土のものと7割方同じ文章であることから、現在の有力説(藤枝説)では三経義疏全体は中国留学僧が国内に持ち帰った中国製の輸入品であり、聖徳太子信仰隆盛のために行信という僧が聖徳太子作として捏造したものである。

 聖徳太子虚構説への批判

以上のように、大山説に従えば、「憲法17条」と「三経義疏」聖徳太子の作品でないことと聖徳太子の実在を証明するものと考えられた「薬師像光背銘文」・「釈迦像光背銘文」も捏造品、「天寿国繍帳」も後世のもので聖徳太子の実在を証明するものが一切存在しないことになります。

この説に対し、古代史界では同調する意見も増える中で、次のような大山説に対する反論も出ています。

日本書紀は国家が作成した史書であり、少人数が謀議して自分たちに都合のいいように捏造することは困難で  ある。

道慈が書紀の仏教関連の記事を書いたとする説に対しては、道慈が帰国後、書紀が完成するまで1年強の時間しかなく、道慈が捏造に加担したというのは根拠薄弱である。

日本書紀の太子関連の漢文は「倭習」と呼ばれる奇用・誤用が多く16年も唐に留学していた道慈の筆であり得ない。

・日本書紀編纂の公的責任者は舎人親王であり、天武天皇の皇子である舎人親王の意向を無視して捏造はできない。

・理想的な天皇像を示すのが目的であれば天皇にならずに亡くなった厩戸皇子を取り上げずに「仁徳天皇」や仏教伝来後の天皇なら「欽明天皇」でも良かったはずである。

大山説は後世に聖徳太子となった厩戸皇子を軽んじていて、「厩戸王」という呼称は先行の研究者が使っているだけでどの文献にも見えない不正確な呼称。

法隆寺は当時としては最新技術を駆使した巨大な寺院であり、厩戸皇子が建立したのは有力な皇子であったことの証であるから業績が多少誇張されたとしても後に聖徳太子となってもおかしくはない。

三経義疏は大山氏がよりどころとする藤枝説の中国製説は有力ではあるが、今なお聖徳太子作とする説も多い。

「薬師像光背銘文」、「釈迦像光背銘文」、「天寿国繍帳銘文」が捏造品とする理由の1つである天皇号や皇太子制の採用時期は、天武・持統期以後とされるが、実質的には推古期にも使われていたと解することもでき捏造品と決めつけられない。

聖徳太子はいなかった?聖徳太子虚構説とは・まとめ

以上、聖徳太子虚構説反対説を見てきました。

当然、名だたる古代史学者が研究し議論を交わして、現在まで結論が出ていないのですから、まだどちらが正しいとは言える状況にはありません。

しかし、江戸時代の狩谷棭斎、津田左右吉以来、日本書紀には創作が多く、聖徳太子に関する記述にも虚飾があることは多くの研究者に異論はありません。

聖徳太子は存在したのでしょうか?あるいは架空の人物だったのでしょうか?

どちらにしろ「邪馬台国」の謎とともに、歴史ファンの興味を駆り立てる古代史最大のミステリーに違いありません。

参考:聖徳太子の誕生/大山誠一、聖徳太子の真実/大山誠一編



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