松尾芭蕉 、忍者・隠密説とは?曽良は幕府・巡見使だった?

人物

松尾芭蕉は俳諧を芸術のレベルまで高め、与謝蕪村と並ぶ日本最高の俳諧師であり、俳聖と称される人です。

その句風は「蕉風」とよばれ「わび・さび」を特徴とします。

芭蕉といえば、みちのく・北陸道の旅と俳諧の旅行記「おくのほそ道」は有名ですね。

その芭蕉が、実は忍者であり、「おくのほそ道」の旅は幕府の指令による隠密活動であったいう説があるのです。

荒唐無稽な話のように思えますが、先日テレビ番組で取り上げられ、人気の歴史学者、磯田道史氏も「おくのほそ道の旅の同伴者曽良が幕府の巡見使だったことに引っかかる」と言って明確に否定はされませんでした。

テレビの演出上のコメントかもしれませんが、見ていて少し違和感を覚えました。

そこで「芭蕉忍者・隠密説」はどれだけ根拠があるのか、調べてみましたのでおつきあいください。

松尾芭蕉の生涯は?夢は枯れ野をかけ廻る. . . .

まず、芭蕉の生涯を見ていきましょう。

芭蕉は本名松尾宗房といい、1644年(寛永21年)伊賀国上野に生まれました。父は土豪出身で苗・帯刀は許されていましたが農民だったようです。母は百地家の出身ともいわれています。

その父は13歳の時に亡くなったため生活は苦しく、19歳で藤堂藩の嫡子で俳人の藤堂良忠(蝉吟)に仕えるようになります。芭蕉は良忠から俳諧の手ほどきを受けましたが、師と仰いだ良忠が死去すると藤堂家を去り俳諧の道に専心します。

1672年29歳の時、芭蕉は俳諧の修行のため江戸に出ます。号を桃青(とうせい)と称し江戸の俳人たちと交流して多くの作品を発表します。34歳で宗匠(師匠)と呼ばれて職業的な俳諧師となります。

芭蕉が目指した俳句は、「蕉風」と呼ばれるさび、しおり、ほそみ、かるみ、を重んじた幽玄・静寂の境地のなかで自然や人生を探求したものでした。

1682年、深川の居宅「芭蕉庵」が江戸の大火で全焼しますと、芭蕉はこの火事で住処を持つことのはかなさを感じ、心のなかに旅に身を置くことへの強い憧れが生まれます。

その後、芭蕉は世を去るまでほとんど旅また旅の人生を生き、そのなかで後世に残る句集や紀行文が生まれていったのです。

1689年46歳の時、芭蕉は強く望んでいた東北、北陸の7ケ月の「おくのほそ道」の旅に弟子の曽良とともに出発します。

1694年9月、芭蕉は旅の途中の大阪で病に伏し、10月、支援者の宿で永眠します。51歳でした。 「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」が辞世の句となりました。

芭蕉 、忍者・隠密説の根拠は?

芭蕉 忍者・隠密説の根拠には通常以下の7点が挙げられます。

(1)芭蕉の出生地は伊賀上野で、母親が忍者の頭領である百地家の出身だから忍者の血筋である。

(2) 若い時期に出仕した藤堂家は伊賀忍びの者を多数取り立てていて当主は服部半蔵のいとこだった。芭蕉は伊賀忍者として藤堂家に仕えたのである。

(3) あれだけ頻繁に旅がどうしてできたのか、幕府の隠密だから通行手形も容易に取得でき、費用も工面できたのだろう。

(4)「おくのほそ道」の移動の早さが尋常でなく芭蕉の年齢では難しい。忍者として 訓練されていたからだ。

(5) 仙台藩は幕府にとって謀反を警戒すべき藩で「おくのほそ道」の旅は 仙台偵察のためだった。芭蕉は見たかった松島を素通りして仙台滞在に日を多く取っているのは市中や軍事基地の調査が目的だったから。

(6)「おくのほそ道」は同行した河井曽良が記した「曽良随行日記」とは食い違いが多く、芭蕉の捏造が見られ何かを隠している。

(7) 曽良は後年幕府の巡見使として活動しており幕府と関係があることは事実。従って師匠の芭蕉も隠密であるに違いない。

芭蕉、忍者・隠密説、根拠の評価は?

しかし芭蕉忍者・隠密説の根拠は下記に述べるように残念ながら薄弱といわざるを得ません。

(1)忍者の血筋というだけで芭蕉が忍者という根拠にはなりません。

(2)これは都合のいい想像に過ぎません。実際は芭蕉は藤堂家の料理人として仕えたとされます。

(3) 芭蕉の門弟には裕福な町家の商人や武士もいて、その支援もあったようです。また芭蕉の旅は支援者の家に泊まる場合も多くそんなに費用はかからなかったようです。

通行手形については、お伊勢参りや社寺仏閣詣については、比較的、許可は緩やかで支援者の口添えがあれば手形の取得は難しくはなかったというのが歴史的事実です。

例えば幕府御用魚問屋・杉山杉風は豊かな経済力で芭蕉の旅を支援したといわれています。

(4)歩行が庶民の主な交通手段であった時代の人の脚力を甘く見るのは間違いです。 また芭蕉の痩せこけた肖像画が誤解を与えているようです。

(5) 根拠薄弱の想像に過ぎません。

(6)「おくのほそ道」は文学作品で旅から5年後に完成していますのでリアルな曽良の旅日記とは細かいところで違うのは当然とされています。

曽良の幕府・巡見使説は本当?

それでは、(7)曽良が幕府の巡見使だったのだから芭蕉も隠密であるに違いない という根拠はどうでしょうか?

調査すると曽良の終焉の地、壱岐の文化財調査委員をされていた方の研究論文に、曽良が巡見の旅にでた経緯の記述が見つかりました。

それによると、 曽良は31歳で江戸に上り、国学塾を開いていた吉川流神道の吉川惟足に入門、高弟となります。

曽良は、芭蕉亡き後も俳諧を続けるとともに、吉川惟足の高弟としても活躍しています。

1709年、徳川家宣が六代将軍となると全国8区に恒例の巡見使派遣を発令します。

その際、曽良は吉川一門より神道学者として地方の神道調査の目的のために推挙され、巡見使の随行員に加わったようです。

巡見使一行の編成例を挙げられていますが、8百石から2千石の上級旗本の巡見使と近習、中間等総勢30人ほどだったようです。

巡見の旅はかなりの強行軍で62歳の曽良には70日にも及ぶ苦難の連続でした。

曽良は目的の神道の調査もままならず、壱岐、勝本浦に疲労困憊で到着しますが、1710年5月、当地で不帰の客となったとされています。 (参照:曽良終焉の地 壱岐・勝本/原田元右衛門 )

この論文によると曽良は巡見使でなく、民間からの参加者だったようです。

したがって芭蕉忍者・隠密説を補強する材料にはなりません。

芭蕉 忍者・隠密説、結論は?芭蕉の人生感は?まとめ

いかがでしたか。

以上により松尾芭蕉忍者・隠密説を裏付けることは難しいようです。

しかし、芭蕉忍者・隠密説は歴史のロマンかも知れません。

これをきっかけに芭蕉のことを少しでも知ることができるなら、歴史のロマンを追うことは決して悪いことではないと思います。

「おくのほそ道」の書き出しの「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」(月日は永遠の旅人であり、来ては去り去っては来る年も旅人である。そして時にゆだねて生きる私も旅人のようなものだ)は「方丈記」の「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」と双璧の名文とされます。

芭蕉の人生観を凝縮した一文でしょう。

ときには先人の残した深い言葉に触れ、自分の人生を振り返ることもいいかもしれません。

最後までおつきあいありがとうございました。

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