少し前までの日本史の授業では江戸時代の政治家、田沼意次(たぬまおきつぐ)は賄賂による放漫政治を行い、徳川幕府の衰亡に拍車をかけた悪徳政治家と教えていました。
現代の大部分の日本人は田沼意次についてそのようなイメージを持っているのではないでしょうか。
ところが、近年ではそのような田沼意次像を180度変える清廉潔白で革新的な政治家であったという説が出てきて支持を集めつつあります。
どちらが真実の田沼意次像なのでしょうか?
田沼意次の権力掌握までの経緯は?
田沼意次を輩出した田沼氏は元々は関東の一族で下野国阿蘇郡田沼邑(たぬまむら)に住んでいたため田沼という姓を用いたと言われています。
その後、田沼氏は紀州徳川家に仕えるようになり、意次の父、意行(おきゆき)は当時の紀州藩主徳川吉宗に仕えています。
1716年(享保元年)、吉宗が八代将軍に就任すると意行は吉宗とともに江戸に赴き、将軍の日常の細事に従事する小納戸(こなんど)頭取を命じられます。
田沼意次は意行の長男として1719年(享保4年)に江戸で生まれました。
1734年(享保19年)、意次が16歳の時、次の将軍に予定されていた徳川家重の身の回りの世話をおこなう小姓として江戸城に上がります。
吉宗は自分と家重の周りは信頼できる紀伊藩出身者で固める意図があったようで、そこには紀伊藩閥が形成されていました。
同年12月、父意行の死去後、翌年3月に意次は石高600石の家を継ぎ従五位下に叙せられて主殿頭(とのものかみ)に任じられます。
1745年(延享2年)、吉宗が引退して家重が第9代将軍に就任すると意次は小姓のトップである小姓頭取に昇進しました。
意次は家重の覚えがめでたくこの頃から昇進が加速します。
2年後には小姓組番頭格兼御用取次(ごようとりつぎ)見習、その翌年には小姓組番頭、さらには御用取次と順調に昇進を重ねていきました。
御用取次は将軍と老中などとの取り次ぎのほか将軍の施政方針や人事の相談役を勤め、将軍側近のトップとして大きな権限を持っていました。
田沼意次が幕政の最高幹部の道を踏み出したのは、1758年(宝暦8年)、「郡上一揆」を審議し鮮やかに解決したことがきっかけです。
この事件は、美濃国郡上藩で年貢引き上げを契機に、大規模な百姓一揆が起こりますが、解決が遅々として進まず、目安箱への訴えが起こると、将軍家重はこの一揆に幕府中枢が絡んでいることを疑い、意次に事件の解決を命じます。
意次は迅速、果敢に事件の真相解明を行い、郡上藩主の改易、幕府中枢の老中、若年寄のほか大目付、勘定奉行までも免職にするなど厳しく処断します。
意次はこの難事件で飛び抜けた処理能力を発揮し、家重の信任はさらに厚いものとなりその後の出世の大きな起点となりました。
意次はこの功により加増され一万石となりついに大名となります。意次40歳の時で、600石から1万石の大名まで成り上がるのは希なこととでした。
1760年(宝暦10年)、家重が退任し徳川家治が第10代将軍となりますが、意次は引続き新将軍の御用取次を行うよう命じられます。
通常なら将軍の代替わりとともに御用取次も退任するのですが、前将軍の家重が「田沼は正直者なのでこれからも引き立てて使うように」と新将軍に助言したため家治も従ったのです。
1767年(明和4年)には、意次は側用人に就任し2万石に加増されました。
2年後、側用人を兼ねたまま老中格となり、ついで1772年(明和9年)には「格」がとれ、正式に老中となり石高も3万石となります。
1779年(安永8年)、将軍家治の子で次期将軍が予定されていた家基が18歳で急死すると、跡継ぎは御三卿の一つである一橋家の徳川豊千代、のちの徳川家斉(いえなり)に決ります。
この後継選定にも意次は手腕を発揮しその功として4万7千石に加増されました。
この頃が田沼意次の絶頂期と言われ、幕閣において老中の年長の実力者たちが死去し意次に異を唱える老中はいませんでした
1785年(天明5年)にはさらに1万石の加増をうけ5万7千石となり、父を継いで50年後の67歳で老中首座まで栄達したのでした。
田沼時代とその政治とは
江戸幕府はその前期には天領からの年貢収入と金・銀山の収益、長崎からの活発な海外貿易により豊かな財政運営を行っていました。
しかし、全国の米の生産量の増加とともに米価の低下、貨幣経済の浸透に伴う財政支出の増加、幕府直轄の鉱山の採掘量の減少、長崎貿易における金銀の流出などで17 世紀の後半から 18 世紀にかけて江戸幕府は財政難に陥ります。
1707年(宝永4年)には富士山が噴火しその復興のための資金も必要でした。
第8代将軍の吉宗は財政を再建するため経費の削減と倹約令を出し、また年貢の引き上げや新田開発を奨励して増収を図るとともに上米の制を定めるなど財源の確保に努めました。
これらの改革の結果、吉宗の晩年には年貢の徴収高が江戸時代を通じて最高値を記録するなど幕府財政は一時的に立ち直ります。
ところが、田沼意次が老中に就任したころの幕府は再び財政難になっていました。
新田開発できる土地はすでに頭打ちとなっており、幕府の収入増加が望めないなかで貨幣経済の浸透により支出は増えるばかりでした。
そこで意次は、これ以上年貢収入を増やすことには限界があるとみて町人の経済力に着目し幕府財政を再建しようと考えます。
特定の商人に座をつくらせて独占を認め、株仲間を積極的に公認して運上金や冥加金などの営業税を幕府に納めさせます。
また、長崎貿易では銅のほかに蝦夷地(北海道)の産物を中心とした海産物の輸出を奨励しました。ロシアとの交易も計画して蝦夷地の調査もおこないました。
さらに印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発、豪商への御用金の賦課、町人・寺社への課税する画期的な惣戸税(固定資産税の一種)の導入など、大反発が見込まれるような抜本的税制改革、先進的な改革を試みます。
しかし最期まで信任の厚かった家治が死去すると反田沼派、反改革派が台頭しその多くが実施できなかったのです。
田沼意次の失脚とその経緯
田沼意次の権力失墜は家治の世継ぎである家基の急死のころから始まっていました。
1779年(安永8年)、家基は鷹狩りからの帰りに急に発病し18歳で死去しましたが、意次が毒を盛らせたとの噂が流され家基の生母の恨みを利用して反田沼派が勢力を強めたといわれます。
さらに、息子の田沼意知が江戸城で暗殺されるという悲劇が意次を襲います。
意知は1783年(天明3年)に老中につぐ重職、若年寄に昇進し、父が老中で側用人、子が若年寄で奥の職務を果たすという異例の事態が起こります。
その結果、意次に対する批判や不満が高まったのは想像に難くなく、父子で幕政を壟断(ろうだん)しているという陰口がささやかれます
そのような最中に事件は起こりました。
1784年(天明4年)3月24日、午後1時ごろ、田沼意知が同僚の若年寄たちと江戸城、桔梗の間近くでまで来たとき、知行500石の旗本、佐野善左衛門政言(まさこと)が突如、意知を切りつけます。
意知は殿中のため刀を抜かず桔梗の間に逃げますが、佐野はさらに追いかけとどめを刺しました。
佐野はその場で大目付松平対馬守に取押さえられ、意知は医師の応急の手当てをうけて上屋敷に運ばれます。
3月27日、意知は若年寄の辞職願を提出しますが将軍より十分に養生せよと慰留されたものの、4月2日に死去しました。36歳でした。
翌4月3日、佐野善左衛門に切腹が言い渡され即日実施されています。
佐野が刃傷に及んだ理由について諸説がありますが定まってはいません。
・意知に佐野家の家系図を貸したが返してくれなかった
・佐野家知行所にある佐野大明神を田沼大明神と改められた
・元々佐野家は田沼家の主家に当たるのに立場が逆転し妬んでいた
などの個人的恨みという説
・田沼親子の権勢に対する世の不満に義憤を覚え殺害に及んだと言う説
あるいは乱心説がありました。
幕府は結局、佐野の乱心として処理します。
しかし、刃傷の場面において、他の若年寄をはじめ何人もの人がいたのに執拗に意知のみを襲ったことから乱心説には大きな疑念があります。
むしろ、事件の現場に多くの者がいたのに、佐野がとどめを刺すまで止める者がいなかったのは幕閣の中でなんらかの陰謀があったのではないかという疑いを残しています。
将軍家治もこの事件に釈然とせず、現場に居合わせた役人たちを厳しくとがめました。
家治は佐野を後ろからはがいじめした70歳の大目付、松平対馬守を200石の加増をしますが、一方でその場にいた若年寄、大目付、目付などは、佐野が意知に致命傷を及ぼす前に取り押さえようとすればできたと叱責し職務怠慢として罷免や謹慎などに処します。
江戸城の殿中で最高権力者の子息の若年寄が殺害されるというこの事件は、その後の歴史的に大きな影響を及ぼしたといえます。
田沼意次はすでに67歳の高齢のため自分の跡継ぎを失い、人々は田沼時代の終焉と政治の転換を予感しました。
この事件をきっかけに、田沼意次への批判や反感が表に出てきます。
佐野善左衛門が葬られた墓には多くの民衆が訪れ英雄として花を手向け、世直し大明神とあがめました。
一方、意知の葬儀においては、民衆が石を投げつけ悪口を浴びせたともいいます。
1786年(天明6年)8月25日、意次の後ろ盾であった徳川家治が死去すると(公式発表は9月8日)
意次は即座に老中の辞表を提出しその2日後の27日には病気による辞職として決定されます。
ところが、その2か月後、2万石の没収と謹慎および屋敷の返上を命じられ、さらに7ヶ月後、2万7千石の追加没収と隠居、謹慎という厳罰が下ります。
そして1788年(天明8年)7月24日、田沼意次は失意の内に70歳でその生涯を閉じたのです。
田沼意次はなぜ失脚したのか?
意次の幕府再建策は、経済の発展に着目し、商人資本を利用するなど、革新的なものでしたが、頑強な抵抗勢力とともに不幸にも立て続けに起こった自然災害が足を引っ張り挫折しました。
1770年(明和7年)の干ばつ、1772年(明和9年)の大火災、1773年(安永2年)には江戸だけで19万人が犠牲となった疫病、さらに1782年(天明2年)の大飢饉、1783年(天明3年)の浅間山大噴火と続き、大凶作による多くの餓死者が出たりするなど社会不安のなかで、百姓一揆や 打ちこわしが続発します。
そのような厄災や世情不安は政治の中心にいる意次の悪政が原因だとされ、意次を糾弾する声が世に満ちたのです。
特に打撃となったのは印旛沼干拓工事の失敗で、3900ヘクタールの新田を造成するというこの施策は幕府の財政改革の目玉として江戸時代最大の巨大開発事業でした。
しかし激しい暴風雨で江戸や近隣地方は大洪水となり、印旛沼にも大量の水が流れ込み工事現場は再開不能まで破壊されたため幕府はこのプロジェクトの中止を発表したのです。
そして、最期まで意次を厚く信任した第10代将軍の徳川家治が世を去ると、意次としても政治責任を取らざるを得ず、老中の辞職を表明したのです。
意次の辞職は幕閣で承認されますが、そのあと立て続けに意次に対する前代未聞の厳しい処罰が下されます。
意次に対する厳しい懲罰を主導したのは老中に就任した松平定信でした。
松平定信は吉宗の2男である田安宗武の7男として生まれますが、幼少から聡明でいずれ将軍になると周囲も考え、自らも将軍になることを望んでいました。
1774年(安永3年)、定信16歳の時、奥州白河藩への養子縁組の話が持ち上がりますが、田安家としては家督を継いでいた兄の治察(はるさと)が病弱だったため難色を示します。
しかし、当時老中兼側用人だった田沼意次の強い要望で田安家は渋々定信の養子縁組を了承したのです。
その直後に治察が亡くなったため田安家は幕府に養子の解消を願い出ますが許されませんでした。
田安家はその後13年間(1787年まで)当主のいない状態が続いたのもかかわらず定信が田安家に復帰することは認められず、将軍への道を絶たれたため、定信は意次を激しく憎み江戸城内で懐に短刀を偲ばせ暗殺の機会を狙っていたと自ら述懐しています。
1787年(天明7年)6月、松平定信は老中に就任すると田沼政治を否定し、自分の信奉する儒教の復古理想主義ににもとづいて商業中心の貨幣経済から農業中心の重農主義経済に引き戻そうとし倹約と風俗の制限など厳しい政策を実施します。
しかし、幕閣の中には田沼時代にシンパシーを持っている者も残っていて、大奥勢力も抵抗しなかなか定信の思うように政治は進みませんでした。
そのために意次にさらに厳罰を科し新たな幕政を演出する必要があったのです。
田沼意次は本当に悪徳政治家だったのか?
田沼意次は賄賂を好んだ腐敗した悪徳政治家だったのでしょうか?
田村意次は汚職にまみれた金権腐敗の悪徳政治家という従来の意次像を、実は清廉潔白な実力のある政治家で時代を見据えた革新的な政治家だったと大転換したのは大石信三郎氏の「田村意次の時代」という書籍です。
大石氏は田沼意次が金権政治家であったとする歴史の資料を考察し反論します。
大石氏によれば、田沼意次が悪徳政治家であるという根拠の資料のほとんどが、意次が失脚してからの風聞に過ぎず、その資料は反田沼陣営の人物が残したもので信用に値しないと主張します。
確かに古来より、政争に敗れた人物は勝者側から史実とは真逆な評価が与えられることはよくあることです。
私たちに意次の奢りとして捉えられるのは、息子意知が若くして若年寄としてめざましく出世したことです。
それだけ将軍家の信頼が篤かったのか、取り巻きが進めたのか、父意次がどこまで息子の引き上げに関与したのか不明ですが、人々の大きなねたみを買う一因となったことは間違いありませんし、結果的に意知を失うという悲劇を生むことになります。
しかし、意次が賄賂を好み、私服を肥やしたという証拠はないようです。
松平定信の命により、意次の居城、相良城が取り壊される際に立ち会った役人は、その内部の質素な作りに驚いたといいます。
現在まで残っている資料の中で、田沼意次の人物像を垣間見ることができるのが、意次が子孫に自筆で残した「遺訓7箇条」です。
第一条は将軍家への忠節、田沼家が受けた格別のご恩を忘れるな。
第二条は親孝行、親戚縁者との関係を大事にすること
第三条は同僚との交際は誠実にすること
第四条は家来について情けをかけ、えこ贔屓をせず気を配って使うこと
第五条では武芸を心がけ家来にも奨励すること、ただし余暇を楽しむ事はとがめるな
第六条では幕府の有力者には失礼のないよう注意し、幕府の仕事は念を入れて務めること
第七条は藩の財政については普段から無駄を省き倹約せよ
と言う内容ですが、そこには意次の実直で他者に気を配る性格が読み取れますしそのような逸話も残っています。
意次は1万石までに石高を減じられると、270人もの家来を削減せざるを得ませんでした。
解雇手当として役職に応じ200両から50両を配ったと記録されており、1両は18世紀の米価で約6万円、大工賃料で35万円に当たりますから、遺訓のとおり家来には手厚い扱いをしたのでしょう。
また、残った家来のうち、家老と用人を選挙で決めておりこれは意次が斬新な考えの持ち主だったことの表れとも言えます。
「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」
1793年(寛政5年)、田沼意次を失脚させて登場した松平定信の「寛政の改革」は民衆の激しい反発を招き、わずか6年で幕をとじます。
田沼意次を金権と腐敗の政治家としてその失脚に大喝采した江戸市民でしたが、松平定信が行った時代の流れを見誤った厳しい緊縮政策のために日々の暮らしが窮乏に追い込まれ、ささやかな楽しみ事まで規制する改革に嫌気をさし、豊かで文化が花開いていた「田沼時代」を恋しく懐かしんだのです。
参考文献:「田沼意次の時代」/大石慎三郎、「田沼意次」/藤田覚
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