20数年前、神戸の須磨に住んでいた頃、しばしば、須磨寺で開かれていた落語会に噺を聴きに行ったことを懐かしく思い出します。
「須磨寺落語会」という若手の寄席でしたが、時には大御所が登場され、先年亡くなられた名人・露の五郎さんの一席を聴いたことを覚えています。
記憶では当時客数は30~40人程度、木戸銭も500円というワンコインで、おかげで大阪まで出かけずに、近所で気軽に本格的な落語を楽しむことができました。
「須磨寺落語会」は現在も続いていて、来場者数も250人と多くなり、大きな寄席になっているようです。
ところで、落語という日本のエンターテイメントはいつ、どのように始まり、現代まで続いてきたのでしょうか、
落語の源流から、明治の巨人・三遊亭圓朝までたどってみました。
落語の源流、御伽衆
落語の源流はどこまで遡れるのでしょうか?
なお、「落語」を「らくご」と呼ぶようになったのは明治以後で、江戸時代では、「咄(はなし)」、「軽口」、「仕方咄」、その後「噺(はなし)」いう字も使われるようになったようです。
いつの世にも、物知りで、話し上手な人がいて、周囲に、昔話や教訓めいた話、怖い話、滑稽な話を語って聴かせていたのですが、それが「噺家」の源流として姿が見えてきたのは、16世紀の戦国時代末期の頃です。
その時代、武将や大名は「御伽衆(おとぎしゅう)」という側近を抱え、政治や軍事について相談したり、趣味・教養の指南役として活用しました。
今で言うコンサルタントやアドバイザーですが、彼らは学問や武術、政治について諮問に答えるだけでなく、滑稽な話などを披露し、主人の無聊を慰めました。
織田信長の御伽衆に野間の藤六という者がいましたが、城の女たちから「怖きものは何?」と問われると、「あずき餅ほど怖きものなし」と答え、好物のあずき餅をせしめたという噺が残っています。
これは現代落語の「饅頭こわい」の原型です。
御伽衆の中で一番有名な人物が、豊臣秀吉に仕えた曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)です。
奇知とユーモアに富み、話術に長け、時に主人の秀吉に対しても辛辣な言い方をしましたが、本心は敬愛しており、秀吉からも可愛がられたといいます。
現在、落語の祖と言われるのは「安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)」です。
京都・誓願寺の住職で、秀吉の御伽衆でもあり、話術の名手でもありました。
曾呂利新左衛門と同時代の人で、かつては同一人物ではないかとも言われましたが、別人というのが今の定説です。
その策伝が、当時の笑い話をまとめ上げたのが「醒睡笑(せいすいしょう)」です。
千話以上の笑い話が収録されていて、その中には「平林」、「牛ほめ」、「かぼちゃ屋」、「子ほめ」など現代落語でも語られる噺が多く見られます。
落語家の元祖出現
江戸初期、1670~80年のころ、京都・大坂・江戸の3拠点に落語家の元祖と呼ばれる人物たちが現われます。
長い戦乱の世が終わり、人々の生活も少し安定したことにより、庶民が娯楽を求める時代になったことも影響したのでしょうか。
まず京の祇園・真葛が原や四条河原町の街角、北野天満宮の境内で落語を演じる、いわゆる「辻噺」を始めて人気を集めたのが露の五郎兵衛です。
五郎兵衛は、日蓮宗の経典や教義をわかりやすく説き聞かせる談義僧で、野天で行っていた説法に滑稽さを加え、「辻噺」に変化させました。
軽口本(笑い話を集めた本)の「露がはなし」「軽口あられ酒」などを残し、上方落語家の祖とされます。
露の五郎兵衛より少し遅れて、大坂・難波では、初代・米沢彦八が、生玉神社境内に小屋を建て、「当世仕方物真似(とうせいしかたものまね)」の看板を出して辻噺を行いました。
「仕方物真似」とは、小道具、身振り、手振りを使って歌舞伎や身近の周りの出来事などを真似し、客を楽しませたことから、そう名付けています。
大坂落語の祖といわれ、「彦八」の名は三代もしくは四代まで継承され、「彦八」は噺家の代名詞にもなりました。
「軽口男」「軽口御前男」「軽口大矢数」などの噺本を残し、その中には現在の落語「寿限無」や「貧乏神」などの原形も見られます。
なお民話にしばしば登場する「彦市」や「彦七」は「彦八」が変化したとも言われます。
同じ頃、江戸では江戸落語の祖といわれる鹿野武左衛門が現われます。
もともと漆細工の塗師でしたが、往来に小屋を建てて辻噺を始めました。
武左衛門は辻噺だけでなく、お座敷に呼ばれて「座敷仕方噺」も行いましたが、そこでは三味線や鼓の奏者を従え、にぎやかに演じることもありました。
「鹿野武左衛門口伝ばなし」「鹿の巻筆」などの噺本を残しました。
ところが、せっかく盛り上がった初期落語ブームを一気に冷やすような事件が武左衛門に降りかかります。
1693年(元禄6年)4月、江戸市中に、当時は「ソロリコロリ」といわれた疫病が大流行、1万人以上の死者がでます。
そこに病除けの小冊子が売り出されますが、その内容は、馬が人の言葉で「南天の実と梅干しを煎じて飲めば治る」と話し、その結果、市中では南天の実と梅干しの値段が20倍以上に跳ね上がります。
奉行所が調べると、浪人の筑紫團右衛門と八百屋・惣右衛門の企みと判明しますが、二人は、鹿野武左衛門の「鹿の巻筆」に出てくる「堺町、馬の顔見せ」という小話にヒントを得たと自供します。
浪人の筑紫團右衛門は斬罪、八百屋・惣右衛門は流罪となりますが、武左衛門まで連座し、伊豆大島への流罪、版元は江戸追放、版木は焼却になったといわれます。
武左衛門は5年後赦免となりますが、島流しの心労ですぐに没します。
この事件が江戸の落語界に与えた影響は大きく、他の噺家たちは、とばっちりを恐れ、噺を敬遠するようになり、その後、百年ちかく江戸落語は衰退することになりました。
ただし、この武左衛門の連座については、武左衛門の判決文、流人記録が見つからないため、真偽に疑問を持つ研究者もいるようです。
江戸落語の復活と寄席の始まり
鹿野武左衛門の事件から、長く衰退していた江戸の落語は、天明の頃、烏亭焉馬(うていえんば)が現われ、再び息を吹き返します。
焉馬は大工棟梁という本業のかたわら、戯作、狂歌師として活動していましたが、1786年(天明6年)のころから、落とし噺を披露する「咄の会(はなしのかい)」を主宰します。
「咄の会」では、噺家や狂歌師、蜀山人、五代目市川團十郎など当時の文化人が料亭などに集まり、木戸銭を取ることなく、互いのネタを披露し合いました。
百人近い人数が集まるような盛況ぶりで、初代三遊亭圓生、三笑亭可楽、立川談笑など多くの著名な落語家を生み出すことになります。
「咄の会」は、最初は不定期だったのですが、やがて月例となり、ながく沈滞していた江戸落語は再び盛り返し、烏亭焉馬は「江戸落語中興の祖」と呼ばれます。
「咄の会」で育った落語家の中のひとり三笑亭可楽は1798年、下谷稲荷境内で初めて寄席興行を行いました。
同年、大坂からきた岡本万作も神田の藁店(わらを売っている店)で寄席を始めています。
寄席興行とは「特定の場所で一定の期間に木戸銭を徴収して行う興行」のことです。
また客から三つのお題をもらい、一席の噺にまとめる「三題噺」を始めたのも可楽といわれます。
その後、寄席は「天保の改革」の寄席制限令により一時沈滞しますが、老中水野忠邦の失脚によりすぐに活況を取り戻します。
三笑亭可楽は弟子の育成にも力を注ぎ、特に活躍した弟子たちを可楽十哲といい、朝寝坊夢羅久(あさねぼうむらく・人情噺)、林家正蔵(怪談咄)、船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう・音曲噺)などがいました。
また三遊派の元祖の初代三遊亭圓生とも、交流し影響を与え合い、二人は当時、江戸落語の中心人物となります。
一方、上方では露の五郎兵衛や初代、二代目米沢彦八が没して辻噺が衰退し、落語の停滞期を迎えていましたが、1794年(寛政6年)ごろ、初代の桂文治が、初めて大坂・坐摩神社で寄席興行を行いました。
桂文治は、お囃子や小道具を使い芝居のように演じる芝居噺を得意とし、「情け深くして実あり」といわれるような人気を得て、後に「上方落語の中興の祖」と呼ばれました。
「蛸芝居」「崇徳院」「竜田川」など現在でも演じられる数多くの作品を残しています。
このように、江戸、上方とも同時期に寄席興行が始まったのです。
時は19世紀前半、文化文政の江戸の町人文化が爛熟する時代で、可楽が始めた江戸の寄席は125件まで増え、すぐれた噺家も多数生まれて江戸落語は隆盛期を迎えました。
巨人・三遊亭圓朝の登場
江戸の落語は隆盛のまま、幕末を迎えますが、幕末から明治中期にかけて登場したのが、三遊亭圓朝(1839~1900)です。
三遊亭圓朝は、初代三遊亭圓生一門である「三遊派」の総師で、傑出した話芸を持ち、新しい噺を次々に創作し、一方で多くの優れた弟子を育てました。
近代落語の祖であり、そして落語史上の巨人といわれます。
三遊亭圓朝は、1839年(天保10年)、江戸・湯島で、音曲師・橘家圓太郎を父として生まれました。
7歳で橘家小圓太として初舞台を踏み、11歳の時、二代目三遊亭圓生に入門します。
一時落語を離れますが、17歳で復帰、三遊亭圓朝と改名し、すぐ真打ちに昇進、その後、鳴り物や道具入り芝居噺で人気を集めます。
圓朝は「圓朝髷」といわれた粋な髷を結い、黒羽二重に赤い襦袢をちらつかせ、弟子の肩に寄りかかって歩く姿は多くの女性ファンを獲得したと言われています。
明治になると、圓朝は道具を使わない扇子一本の素咄に転じ、本格的な話芸を追求します。
一方、創作活動にも励み、「怪談牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」など怪談噺、人情噺では「芝浜」「文七元結」、滑稽噺では「心眼」「死神」など数多くの優れた噺を作りました。
明治の文人二葉亭四迷は、圓朝の噺の速記本を参考にして、言文一致体の小説「浮雲」を発表します。
「浮雲」は日本の近代小説の始まりとなる記念すべき作品で、その意味でも圓朝は近代日本文学にも大きな影響を与えたのです。
しかし、晩年、圓朝や六代目桂文治らが中心として初めて結成した噺家団体「落語睦連(らくごむつみれん)」に対して、寄席の経営者である「席亭」の圧迫がひどくなります。
1891年(明治24年)以降、圓朝はその反発から高座に上がることを拒否し、例外的に特定の高座のみを務めましたが、ほとんど創作噺を新聞紙上に発表するだけとなりました。
1900年(明治33年)8月、落語の歴史に大きな足跡を残した三遊亭圓朝は、病に伏せ、享年62歳で没しました。
参考:図説落語の歴史/山本進、落語「通」入門/桂文我、落語/山本進
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