徳川綱吉は名君だった!「生類憐みの令」の真実とは

人物
徳川綱吉

徳川15代のなかでも最も不人気で暗愚な将軍と言われているのが5代将軍・綱吉でしょう。

綱吉と言えば「生類憐みの令」を思い浮かべますが犬や鳥獣を極端に保護し、これに違反した者を厳しく処罰して民衆を苦しめたといいます。

また殿中で浅野内匠頭が起こした刃傷事件では吉良と浅野を喧嘩両成敗とせず不公平な処断を行い赤穂浪士の討ち入りを招き、討ち入った47義士に対して大方の世論に反して切腹を命じたと非難されます。

さらに側用人柳沢吉保を重用し恣意的な側近政治を行うとともに荻原重秀に命じ貨幣改悪を行い物価高騰など経済混乱を引き起こしたと悪評はつきません。

ところが近年、綱吉の治政について見直しが進みつつあり、従来の評価とは真逆に名君だったのではないかという説が出てきています。

例えば「生類憐みの令」については最新の山川日本史では必ずしも否定的でなく

「犬の愛護は食犬の風習や野犬公害が多い江戸とその周辺で推進され全国的には捨牛馬禁止が重視された。この法は捨て子、行路病人、囚人など社会的弱者をも対象とし、人を含む一切の生類を庇護しようとし殺伐な戦国の遺風を儒教・仏教により払拭する政策の一環であった」

とし肯定的な評価を与えています。

しかし、依然としてテレビ・映画で描かれる徳川綱吉像や生類憐みの令のイメージは従来と変わらないため綱吉の不人気は根強く続いているようです。

そこで改めて徳川綱吉とはどのような人物で、「生類憐みの令」の実態とはどのようなものだったのか見ていくこととします。

江戸城

生い立ちと将軍就任の経緯

綱吉は1646年(正保3年)、戌(いぬ)の年の1月8日、三代将軍家光の4男として生まれ幼名徳松と名付けられました。

生母はお玉の方と呼ばれ、公式には京都二条家の家人北小路太郎兵衛宗政の娘、光子とされますが京都堀川の八百屋仁左衛門の娘から養子となったという説が有力です。

光子は六条宰相有純の娘お万の方のお付きとして江戸城に入りますが春日局の目にとまり家光の側室となります。

家光の寵愛は厚く19歳で亀松を産み翌年に綱吉を出産しますが亀松は2歳で亡くなっています。

1651年(慶安4年)に家光が没すると桂昌院と称しました。

なお「玉の輿」の語源はこのお玉の方の出世物語によるものといわれることもありますが正しくはなく貴人が乗る立派な輿に乗って嫁入りをする事を指しているようです。

父親の家光は早くから綱吉の利発さを見抜き、自分が弟の忠長と将軍の座を争ったような悲劇を起こさぬように母親のお玉の方に養育を委ね、武術より学問、特に儒教を中心とした教育を行わせます。将軍・綱吉の儒教政治の源流はここにあります。

当時幕藩体制は安定期に入り初期の武断政治から文治政治への移行期で、綱吉は意識せず新しい時代の為政者としての素養を身につけていったともいえます。

下層階級出身であるお玉の方は教育を受けていないものの、生来の聡明さと堅固な意思を備えた女人だったようで、そのような母の直接の養育は幼い綱吉に大きな影響を与えます。

おそらく母から伝えられた庶民の暮らしの情報は将軍就任後の政策の土台になったものと推測されます。

桂昌院

1680年(延宝8年)5月、世継ぎがいなかった兄の4代将軍家綱が38歳で死すと、綱吉は思いもよらず5代将軍の座に上ります。35歳の時でした。

家綱が病に伏すと時の大老酒井忠清は自分の権勢を維持するため、綱吉には天下を治める器量はなく君主となれば天下騒乱のもととなると主張し、鎌倉幕府の先例にならい一時的に京都より宮将軍を迎えようと画策しますが、新参の老中、堀田正俊は密かに病床の家綱と綱吉を対面させ綱吉の養子と将軍継承を実現させます。

綱吉の将軍就任はこれまでの長子相続の慣例を破って弟が継いだこと、しかも4男にその座が回ってきたことなどこれまでの徳川将軍のなかでも異例のことでした。なお家の字が付かない将軍は綱吉の後は吉宗と慶喜のみです。

ただ武家相続の慣例に従うと弟の相続は中継ぎ扱いとされ、綱吉就任時に家綱の側室が懐妊していため、もし男子が生まれたら次の将軍職は家綱の実子に将軍職を戻すという誓詞を書かされますが結局家綱の子は生まれることはありませんでした。

綱吉の政治姿勢

綱吉は自分が生まれながらの将軍でないこと、また周囲が中継ぎ将軍と見ていることをかなり意識していたようで、そのコンプレックスからか綱吉の政治姿勢には終生、将軍の威厳を示そうとする意思が強く現われています。

幕僚や諸藩の大名に常に厳しい姿勢を見せたのもそのためでしたが、自分が支配層出身の将軍でないという意識を持っていたためという見解もあります。

綱吉は将軍に就任すると自分の将軍就任を妨げた大老酒井忠清を罷免し新たに堀田正俊を大老に任命します。

酒井は上屋敷を閉門して謹慎したのち半年後に58歳で急死しますが自刃したともいわれています。

将軍就任の翌年には徳川家に連なる名門の越後松平家に起こったいわゆる「越後騒動」の幕府裁定を自ら見直し周囲の反対にもかかわらず越後松平家を取り潰しました。

その際、綱吉は御三家・大名、関係者列席の大広間で裁断を述べた後、「これで決した。もはや退出しろ」と大声で命じると居並ぶ重臣や関係者は皆震えて平伏したといいます。

綱吉の裁断は藩の改易だけでなく家老らの切腹、流罪という厳しさで、以前の裁定に関わった幕府の大目付なども遠流処分にし、さらに前大老の故酒井忠清も罪に問い跡継ぎである酒井忠挙までも処分しています。

綱吉の治政中には40を越える大名の藩政の失策をとがめ領地没収や減封などを行い、また幕府役人に対しても信賞必罰を貫き、「民は国の本也」で始まる代官服務規程を定めて幕府領の不正代官の糾弾を徹底的に進め、多くの世襲代官を罷免・切腹などを命じています。

綱吉の初期の政治は大老・堀田正俊を中心に行われますが、1684年(貞享元年)堀田が江戸城内で刺殺され、安全のため将軍の御座所と老中の詰所が引き離されると綱吉は側用人を重用するようになり、老中以下をもっぱら行政官としてのみ使いました。

初期に側用人として重用したのは牧野成貞で、中期以降は柳沢吉保でした。とくに綱吉の吉保に対する信頼は終生厚く吉保邸への訪問は58回を数えたといいます。そのため「三王外記」などでは綱吉と吉保との異常な関係を描き、綱吉の悪評の一因となりましたが、現在では根も葉もない雑説と見なされています。

 

柳沢吉保

生類憐れみの令

歴史上、将軍綱吉の悪名を高めたのが「生類憐れみの令」ですが、一般に誤解されているような基本精神をうたった一つの法令があったわけではなく、江戸市中もしくは全国に通達された個別・具体的な法令(御触れ)を総称して「生類憐れみの令」と呼んでいて現在知られているだけでも135通にものぼります。

「生類憐れみの令」といえば犬の過剰な保護のみを想像しがちですが、捨て子の禁止や捨て牛馬の禁止、鉄砲所持と使用の禁止、鷹狩り禁止などその内容は多岐にわたりました。

そのうち犬の擁護に関する御触れは33件もあるため、綱吉が犬公方と呼ばれたこともあながち理由がないことではありません。ただ犬に関する法令は江戸市中を中心として適用され、捨て子・捨て牛馬禁令などは諸藩にも適用され全国的法令となりました。

以下、犬の保護令と捨て子禁止令を見ていきます。

犬の保護令

江戸市中や近郊にはもともと野犬が生息していましたが江戸という大都市が排出する膨大な生ゴミを漁って増殖していきました。また江戸の大名家は鷹狩りの餌用や狩猟犬、番犬のために何匹もの犬を飼育していて、これらの犬は屋敷内ではほとんどが放し飼いのため脱走すると野犬化しました。

後に幕府が中野などに建てた野犬小屋には10万匹以上が収容されたといいますから、当時の人口の10%以上の野犬が江戸に住みついていたことになり、人を襲い捨て子を喰うなど野犬の害が多く発生し人々が見かけた野犬を殺傷することは普通のことでした。

また日本には戦国時代から犬食の習慣があり、特にかぶき者と呼ばれた無類の徒が犬を食したり、犬皮を採るために多くの犬が犠牲になっていました。

このような犬に対する殺傷は戦国時代から続く殺伐とした気風の象徴でしたが、綱吉はそのような風潮を嫌い犬の擁護に関するお触れを数多く発令します。その最初となったのが1685年(貞享2年)7月の「将軍の御成の道に犬や猫が出てきてもかまわない」とする御触れでした。

綱吉は自分が向島の別邸・墨田御殿に赴く際に不手際がないようにと、役人らが野良犬数十匹を処分したことを知りこの御触れを出します。このお触れが「生類憐れみの令」の第1号とされ、これにより綱吉の生類憐れみの施策が始まったとするのが現在の多数説です。

翌1686年(貞享3年)7月には「大八車、牛車で犬などを引き損じるのは不届きである、主なき犬には食べ物をやりなさい、生類を憐れみの志を肝要とするように」などと命じますが「生類憐れみ」という言葉が初めて出てきた御触れです。

1687年(貞享4年)2月には、「犬を毛色で登録せよ」、「犬がいなくなっても方々訪ね歩いて探す必要がない」という御触れを出し、10日後には「その御触れは老中の間違いだった。見えなくなった犬は探し出せ」と改めます。4月には「主なき犬に最近は食べ物をやっていないと聞く。食べ物をやると飼い主になってしまうからというのがその理由だが不届きである」と通達します。

犬の擁護に関するお触れは、1693年(元禄6年)に鷹狩りを禁じてから多くなります。

鷹狩りの廃止は田畑を荒される農民たちにとっては救済となりましたが、猟犬、あるいは鷹の餌として犬の需要がなくなったため野犬が必然的に増加しました。また犬を好んで食べていたかぶき者が取り締まられことも一因でした。

野犬が増えるとその害も多く発生しすると人々は犬を殺傷したり傷ついた犬を放置したため幕府は犬擁護の御触れを連発します。しかしこのお触れに反発し故意に犬を傷つける者も出てきてお触れに対して人心が離反していきます。

そのため幕府は野犬を隔離・収容する施設を大久保、四谷、中野に作ります。中野の16万坪の用地には10万匹の犬が収容されたといいます。しかし幕府は財政難からこれにかかる費用は町方から徴収したため町人の不満は大きかったといいます。

特定の生き物を保護することが、しばしば人間を含め他の生物の生態との軋轢を起こし結果的に悪影響を及ぼすことになるのは現代では広く知られています。「生類憐れみの令」が失策であったとすればこういった生類の相互作用に考えが及ばず、場当たり的な御触れで対応しようとしたことが要因とも言えます。しかしそれは「時代の限界」だったかも知れません。

犬の擁護に関するお触れは1709年(宝永6年)6月に綱吉が死ぬとすべて撤廃されました。

捨て子禁止令

捨て子は古くからの社会問題で、いつの時代も犯罪という位置づけでしたが江戸時代においても急速な人口増加と都市化の進展により貧富の差も大きくなり、捨て子は珍しい光景ではありませんでした。

日本には「七歳未満の子供はまだ完全に人間ではなく地獄に落ちたり成仏したりするような魂を持たないと考えられていた」という宗教観から子供の命はさほど省みられなかったという見解もあります。(ボダルト・ベイリー)

しかし綱吉の捨て子問題への取り組みは並々ならぬものがありました。

まず1687年(貞享4年)4月、「捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、みずから養うか、またはのぞむ者がいればその養子とせよ。養子に付け届け(金銭)はいらない。」という捨て子に関する最初のお触れを出します。「捨て子養育令」といわれるものです。

捨て子の禁止をはっきりと明文化したのは1690年(元禄3年)10月の御触れで「捨て子は御制禁である。養育できない理由があれば主人、代官、名主、五人組などに申し出なさい。育てられなければその土地で養育すること。これから捨て子は厳しく処罰する」とするものです。その8日後には7歳以下の子は名主が登録することを追加します。

しかし、その後も捨て子が減らないため毎年のように御触れを出しています。元禄9年のお触れは「捨て子はしてはならない」「育てられないものは申し出なさい」と繰り返し、「借地人、借家人が子をはらんだら地主・大家に届けなさい。3歳までの子は帳面に記録しなさい」と命じます。

綱吉が特に厳罰に処したのが金目当てで養子とした子や預かった子を捨てる行為で斬刑や牢死の記録が多くみられます。

捨て子禁止令や養育令によりどれだけ捨て子が減少し、あるいはどれだけ捨て子の養育がなされたのか確かなデータはないのですが、結局のところ捨て子の原因は貧困であり貧困問題を解決しない限り大きな成功を収めることは困難なので綱吉の施策は厳罰化や理念先行で効果を収めなかったとする研究者もいます。

しかし、綱吉以前は子供の命をさほど省みられず、捨て子を必要悪として大目に見る風潮だったのが、「生類 哀れみの令」以降は捨て子を悪とする考えが定着したと評価する見方があるのも事実です。

綱吉が死んで多くの「生類憐れみの令」が廃止されていますが、捨て子禁止令・養育令、さらには行き倒れ人、病人の保護などの施策は後代まで継続されたのです。

コーヒータイムによむシン・日本史

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