徳川綱吉は名君だった!「生類憐みの令」の真実とは

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徳川綱吉

浅野内匠頭刃傷事件と赤穂浪士の討ち入り事件

綱吉が不人気である理由に浅野内匠頭刃傷と赤穂浪士討ち入り事件への対応があります。

綱吉への非難は、刃傷を働いた赤穂藩主・浅野(内匠頭)長矩(ながのり)を一方的に切腹処分として武士の定法であった喧嘩両成敗としなかったこと、吉良上野介邸に討ち入り吉良上野介らを斬殺した大石内蔵助ら四十七士の忠義を評価せず全員切腹処分としたからです。

しかしオーストラリアの歴史学者・ボダイル・ベイリーは江戸時代の儒学者佐藤直方の著書を引用し、これはいわれのない非難であると述べます。

まず前者ですが、浅野長矩は吉良が天皇よりの勅使の接待について江戸城留守居番・梶川頼照と打ち合わせをしているところを背後から「この間の遺恨覚えているか」と叫びながら斬りかかり打ち損じ梶川に取り抑えられます。

浅野はその夕刻に預け先の田村家の庭先で大名としての名誉も奪われて切腹を命じられますが、吉良は場所をわきまえ手向かわなかったことが神妙の至りとされ養生せよとの綱吉の言葉が伝えられて退出が許されました。

これについてベイリーは勅使饗応という重大な役目を放棄して、役目を務めている最中の吉良を背後から襲った行為は喧嘩両成敗という武士の定法にまったくあたらない暴力行為だったとします。

勅使饗応という幕府の威信がかかった儀式を妨害する行為は綱吉にとって許せるものではなく、とくに饗応の舞台を流血で汚すことは血のけがれを忌む朝廷への不敬を意味するものでした。

さらに浅野の一国の大名としての思慮のなさを厳しく批判します

実は事件の20年前、浅野の叔父である志摩鳥羽藩主・内藤和泉守忠勝も将軍家綱の法会の席上で同僚大名を殺害、切腹を命じられ所領を失っています。浅野は叔父の一族や家臣のその後の過酷な運命を当然知っていたはずなのに藩主としての責任を顧みることなく感情のままに犯行に及んだのです。

また儀式終了後の行為ならまだしも役目を流血で放棄する無責任さも重ねて非難します。

また浅野は武士の高度な規範を説いた山鹿素行の門弟だったにもかかわらず、卑怯にも背後から不意打ちして、打ち損じるという失態を犯したことに武士としての未熟さを指摘するのです。

綱吉が赤穂浪士に切腹を命じた処置についても、四十七士が吉良邸を襲って吉良を殺した行為は幕令に違反する犯罪行為で当然であったとします。

浅野に死を命じたのは幕府ですから吉良を襲う行為はもともと的外れであり、それでも亡き主君の仇討ちというなら何故仇討ち成就と同時に切腹しなかったのか、大石らは討ち入りが忠義と賞賛されて赦免と再登用を期待していたのではないかと不信を投げかけます。

この討ち入りで吉良側は死者16人という多数の死傷者が出ますが、浪士側は4人が軽傷を負っただけだったことは、この討ち入りが多人数による深夜の襲撃で、しかも浪士側は「飛び道具」や武士の武具ではない薙刀を使った不公平な戦いであり、英雄的な行為と見なすことはできないとします。

幕府評定では浪士の浅野への忠誠心を評価する者も少なくなく、君主への忠誠が国家安定の基礎とした儒学を信奉する綱吉は彼らの罪を軽減することを模索したようです。

しかし側近の儒学者・荻生徂徠らの助言を取り入れた綱吉の決断は忠誠心による行為でも国法を逸脱したら罰されなければならないという明快なもので、切腹を認めることで彼らの忠誠心に正当性を与えたのでした。

綱吉暗愚説の起源と見直しの始まり

5代将軍綱吉暗愚説は1785 年発行の歴史書「三王外記」から始まるとされます。偽名で出版されていますが儒学者・太宰春台の作とされていて、綱吉を柳沢吉保など家臣の夫人と関係した乱倫でかつ男色愛好者であったと捏造、腐敗した無能の君主として描きます。

また自分におもねる悪僧を近づけ、政治をねじ曲げたと批判し、生類憐れみの政治は綱吉が「僧隆光に世継ぎが産まれないのは前世での殺生のためで、戌年生まれなので犬を大切にすべきと進言されたために行った」という根拠のない説をこの書により流布させます。

「三王外記」の記述は事実と偽りを巧みに組み合わせ、格調高い文体で書かれ読む人を信じ込ませたため、後世に伝わる綱吉の悪いイメージは ほとんどこの書を始点としました。

しかし古くは 寛政年間の平戸藩主であった松浦青山が「三王外記」について「十に一つも事実がなく、作りごとばかり書かれている」と「甲子夜話」の中で批判していますし、明治に入って東京帝大の歴史学者・重野安繹や栗田元次などが「三王外記」を否定し、綱吉暗愚説に異論を述べますが少数意見にとどまりました。

6代将軍家宣側近の儒学者・新井白石も綱吉の負のイメージを高める役割を担います。その著「折たく柴の記」には「生類憐れみの令」により罪を被るものは何十万人、たかが禽獣のために死刑にされ一族も罰せられ家族離散は幾十万人とし、自分は新将軍に「生類憐れみの令」の廃止を進言したと誇ります。

新井白石が高名な学者だったため、この文章も後代に引き合いに出され綱吉の悪評を補強しますが、明確な根拠はなく、前代をおとしめて当代を持ち上げその政治を主導した自らを誇る常套手段にすぎないと歴史学者・山室恭子氏は断じてます。

山室教授の調査によると「生類憐れみの令」によって処罰された記録は24年間で 69 件(そのうち極刑 13 件)にすぎず、1年に3件弱でしかも初期の3年間に半分以上が発生しているとし、記録によって内容の疑わしいものもあり実際にはこれより少なかった可能性があるとします。また町人、百姓が罰せられたのはそのうち21件でした。

教授は殺人や強盗、放火はもちろんのこと密通、詐欺の類いでも躊躇なく死罪とされた時代において「生類憐れみの令」による処罰はむしろ寛大だったと結論づけます。

2000年以降、塚本学、板倉聖宣、ボダルト・ベイリー、山室恭子などの研究者が「三王外記」を根拠のない雑説集の部類と見なし「三王外記」にとらわれない綱吉の再評価が行われています。

ベイリーは「生類憐れみの令」で迷惑を被ったのは武士階級であり、庶民にとっては子供や病人・貧者など社会的弱者の保護や野犬害や賊難など安全保障の観点から歓迎すべきものであったとします。

人権や弱者保護が国や社会に対する強い要請と位置づけされる時代となった近年、「生類憐れみの令」はその先見的政策として再評価の対象となりつつあります。

さらにベイリーは側用人を重用し側近の荻原重秀による通貨政策なども時代の限界はあったものの武士の権力を抑制して武断主義から文治主義という近代国家へ進む道を進めることになった「卓越した名君」と賞賛しています。

 

徳川綱吉

 徳川綱吉は名君だった!「生類憐みの令」の真実とは・まとめ

1682年(天和 2 年)の大火(八百屋お七の火事)、1695年(元禄 8 年)頃から始まる奥州の飢饉、1698年(元禄 11 年)の大火、1703年(元禄 16 年)の元禄地震、1704年(宝永元年)前後の浅間山噴火、1707年(宝永 4 年)の宝永地震、有史以来もっとも激しいとされる宝永 4 年(1707 年)の富士山(宝永山)噴火など、綱吉の治世においては不運なことに多くの天変地異が起こりました。

これらの厄災を当時の民衆は為政者である綱吉の悪政に対する天罰と考えました。

また武士階級も綱吉の政治は既得権益を奪うものとして強い不満を抱いていました。

綱吉は「そうせい」様と揶揄された4代将軍徳川家綱とは対照的に強いリーダーシップで文治主義の政治を行い、鷹狩の廃止、かぶき者の取締まり、切り捨てごめんといった武士による理不尽な暴力行為を禁止しますが「生類憐れみの令」も同列にあるものでした。

綱吉が将軍であった元禄時代は江戸時代で最も繁栄した時代で、その繁栄を描写した出版物はほとんど民間から発信されていますが、一方「生類憐れみの令」をはじめとする綱吉の政治に対する不満は武士階級の資料に多いとされるのもその査証で、綱吉を誹謗中傷する 「三王外記」のような書物も武士階層の抵抗の現われなのでしょう。

名君の誉れが高い8代将軍・吉宗は綱吉を高く評価し、享保の改革で幕府を立て直す際には綱吉の政策から学んだといわれ上野の寛永寺の吉宗の墓も吉宗の意をくんで綱吉の墓に似せて作られました。

参考:犬将軍/ボダルト・ベイリー、黄門様と犬公方/山室恭子、徳川綱吉/塚本学、徳川綱吉/福田千鶴

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