倭寇と倭寇王・王直とは?パイレーツ・オブ・イーストアジアの真実

歴史

「倭寇」とは室町時代を最盛期として日本海から東シナ海沿岸を舞台に略奪と拉致を繰り返した海賊集団です

その姿は「髪をそり上げた月代(さかやき)の頭、半裸に裸足で大刀を振り回す荒くれ者たち」というのが誰もが思い浮かべるイメージでしょう。

倭寇

「倭寇」の「倭」は中国から見た古代日本の名称で、「寇」は外敵とか侵略するといった意味ですから、「倭寇」とは日本人の賊、日本人の侵略者といった意味になります。

高校の教科書は「その出身は九州や瀬戸内海沿岸の土豪・商人で彼らの一部は貿易がうまくいかなくなると海賊的な行動をおこなうため倭寇とよばれて恐れられた」(山川日本史)と簡単に記述するのみで、授業でも詳しく教えられませんでした。

倭寇のために当時の朝鮮半島や中国沿岸が大きな被害を受けたのは事実ですから、倭寇は日本にとってマイナスのイメージが強く、詳しく触れることを避けたのではないかとも勘ぐりたくなります。

しかし、現在の学説によると倭寇の実態は必ずしも日本人だけの海賊集団でなく、その活動も暴力的な物資の略奪や人の拉致だけではなかったともいわれています。

「パイレーツ・オブ・イーストアジア」、倭寇の本当の姿とはどのようなものだったのでしょうか。

そして東アジアの海で倭寇を率いて縦横無尽の活動をした倭寇王・王直とはどのような人物だったのでしょうか。

倭寇と東アジア情勢

倭寇が大規模に活動した時代は、東アジア各国の動乱期でもありました。

我が国では2度の元寇(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)で力を失った鎌倉幕府が1333年に滅亡します。

その後、建武の新政を経て1338年に足利尊氏が室町幕府を開きますが、南北朝並列のなかで、倭寇の根拠地である西九州など列島周辺部には中央政府の統制が充分に届きませんでした。

中国大陸では14世紀に元が相次ぐ農民反乱により衰え、1368年、紅巾の乱を引き起こした貧農出身の朱元璋は元をモンゴルに追いやり、明を起こします。

朝鮮半島では高麗王朝が中国の圧力に苦心しながら続いていましたが、1392年には倭寇との戦いで功を上げた李成桂が高麗を倒し朝鮮王朝を立国します。

琉球島では満山・中山・北山という小国が存在し、それぞれ中国に朝貢していましたが1429年に中山王国の尚氏が3王国を統一し琉球王国が建国されます。

倭寇はこのような東アジア各地域の動乱と各国政府の統制の緩みに乗じ日本海・東シナ海沿岸で暴れ回ったのです。

前期倭寇(13世紀~15世紀)

倭寇は通常13世紀から15世紀にかけての「前期倭寇」と16世紀の「後期倭寇」に区別されます。

前期、後期では同じ倭寇と言っても全く違う性質のものでした。

前期倭寇の始まり

前期倭寇の活動がいつ始まったのかについては諸説があります。

一説では肥前松浦に勢力を張っていた松浦党の水軍が1226年ごろより高麗沿岸を襲撃したのが倭寇の始まりとします。

藤原定家の「明月記」には、松浦党が数10隻の兵船で高麗を襲い、民家を焼き資財を略奪したという伝聞が記録されています。

松浦党は元寇以前から朝鮮半島にまで出向き、交易を求めていたのですが、うまくいかないと略奪や暴力に及びました。

元寇の際には侵略軍と奮戦し多くの領民を殺され甚大な被害を受けたにも関わらず、幕府からは十分な恩賞はありませんでした。

そこで朝鮮半島や中国沿岸まで出没し、米や資財を略奪、現地住民を拉致して元寇で殺された領民の代わりに使役しますが、松浦党だけでなく他の西日本沿岸の土豪らも同様なことを行ったようです。

しかし朝鮮王朝の正史「高麗史」には「1350年2月、倭人が朝鮮半島南部の各地を襲い、高麗側は300余人を斬穫し倭寇の侵、此に始まる」と記述しており「高麗史節要」にも同様な記述があることから、通常は倭寇の始まりを1350年としています。

朝鮮半島での倭寇

「高麗史」によると、1350年の4月、5月、6月、11月にも倭船が大挙して襲い租税米を運ぶ船を収奪し沿岸を焼き払いました。

海賊船

倭寇は毎年数度となく襲来し略奪を行いますが、1375年には藤経光ら倭寇が来襲して食料を要求したので朝鮮側は彼らを酒食でもてなし謀殺しようと謀ります。

ところが経光に気づかれ取り逃がすと、それまで人を殺すことはなかった倭寇は以後凶暴化し来襲するたびに婦女や子供まで殺すようになったと述べその残虐さを描写しています。

高麗への倭寇の侵入は1376年から1385年にかけてがピークで、年間20件以上の来襲が確認でき、船団数も100隻から500隻でなかには沿岸だけでなく騎馬集団を形成して内陸まで侵攻しました。

「高麗史節要」では1380年に起こった倭寇の騎馬集団の頭目、阿只抜都(あきばつ)と高麗の武将・李成桂の戦いを描写しています。

阿只抜都は年の頃は15、6才で容姿端麗、白馬に乗り、勇ましく矛を振り回す姿に皆恐れ、李成桂はその勇猛さを惜しみ、生け捕ることを命じます。

しかし部下は反対しやむなく李が自ら阿只抜都の兜を射落すとすかさず李の部下が刺殺しました。

阿只抜都の死により倭の軍勢は気勢をそがれ、李成桂の軍が打ち破ると川の流れはことごとく赤くなり6、7日間、色が変わらず飲むこともできなかったと書きます。

この戦いの功により李成桂はのし上がり、李氏朝鮮を建国します。

一方で高麗朝は数度にわたり使者を室町幕府に送り倭寇の禁圧や拉致被害者の返還を求めます。

日本側は幕府草創期で十分な統制力を待たなかったものの、朝鮮側の要求に応える努力をし倭寇の活動をある程度抑制したようです。

ただ時間が経つと倭寇の活動は再度活発化しそのたびに朝鮮側の要求が繰り返されました。

中国沿岸での倭寇

「元史」によると倭寇は1358年ごろから中国、山東方面の沿岸にも出没し、1363年には中国側が倭寇の襲撃を撃退したことを記しています。

明代になっても倭寇は山東・浙江・福建・広東などの沿岸部を襲い略奪や人民の拉致を行いました。

また初代洪武帝(朱元璋)のライバルでもあった元末の反乱指導者、張士誠や方国珍などの残党が倭寇と結びつき海賊行為を働くこともあったようです。

そこで洪武帝は沿岸部に軍隊を派遣して警備を強化し、「海禁令」を発令して中国人が海上に出で外国人と交易することを一切禁じる政策を行います。

同時に周辺国に朝貢を促し、朝貢国の船に「勘合付」を与えて入港を許すという「朝貢貿易」を行い、政府が輸入品を独占しました。

1368年、洪武帝は我が国に使者を派遣し、朝貢と倭寇の禁圧を求めます。

しかし使節団は九州の五島付近で賊に殺害されて詔書を失い、次に1369年2回目の使者が派遣されます。

当時は南朝の後醍醐天皇の皇子、懐良親王が太宰府を占拠しており明は懐良親王を日本の王と見なして高圧的に朝貢と倭寇の鎮圧を要求しました。

懐良親王は元寇の遺恨もあって国書を受け取らず、使者7人のうち5人を斬り、大使ら2人を帰国させます。

1370年に洪武帝が3回目の使者を送ると懐良親王はようやく朝貢要求を受け入れ、翌年朝貢使節を送るとともに倭寇に拉致されていた中国人70人余りを送還しました。

懐良親王の対応の変化は、南朝は北朝を支持する幕府に対し劣勢となっており、明の後ろ盾で勢力を挽回しようという意図があったようです。

前期倭寇の沈静化

前期倭寇の活動は15世紀にはいると朝鮮、明、室町幕府の禁圧策により沈静化していきます。

朝鮮王朝の太祖李成桂は、武力による倭寇の撃退、室町幕府への禁圧要求を行う一方で倭寇の首領に官職や食料・住居を与える条件で投降を促したり正式な貿易を認めるなど懐柔策を進めました。

その結果、倭寇のなかには朝鮮に投降し帰順する向化倭人、自ら進んで朝鮮に渡航し帰化する来投倭人などがでて倭寇は変質・分解していきます。

さらに倭寇の凋落となった出来事が「望海堝(ぼうかいか)の戦い」と「応永の外寇」です。

「望海堝の戦い」とは、1419年6月、30数隻の倭寇船団が遼東半島の望海堝を襲撃すると都督・劉江の指揮する明軍が撃退した事件で、倭寇側は1000人以上を殺され全滅に近い損害を受けてその後しばらく活動ができなくなります。

「応永の外寇」は同年7月、朝鮮王朝は倭寇の根拠地となっている対馬に船団約200隻と17000人の兵士を派遣、侵攻しますが、対馬の守護・宗貞盛は奮戦しこれをなんとか撃退した事件です。

翌年朝鮮より使節団が来日し報復を計画していた室町幕府に講和を求め、対馬より倭寇を出さないことを条件に朝鮮が宗貞盛に貿易特権を与える「嘉吉(かいつ)条約」を結びます。

前期倭寇は日本人なのか

従来、13世紀~15世紀の倭寇は日本人の海賊集団と見られてきました。

しかし近年、倭寇の主体は朝鮮人だった、あるいは日本人・高麗・朝鮮人の連合だったのではないかという説(田中健夫氏)が主張されています。

日本人だけで300~500隻の大船団を組んで、日本海を越えて朝鮮半島に襲来できたとは考えにくいこと。

高麗史には「禾尺(かしゃく)」といわれる屠殺や皮革の加工などをする集団や仮面芝居や軽業を職業とする集団である「才人(さいじん)」などの賤民が倭寇の名をかたって海賊を働いたという記述があること。

朝鮮王朝の「世宗実録」の中にも「倭寇における倭人はその1、2割にすぎず、高麗人が倭人の服を着て徒党をなした」という記述が見えること。

などを論拠とします。

これに対して、高麗史、世宗実録の記述は部分的な例にすぎず、これを持って倭寇の全体を反映しているとはいえないという反論があり、とくに韓国の学者などは前期倭寇の主体が日本人でないという説は日本人の過去の犯罪を隠蔽するものだと非難します。

一方、そもそも倭寇を現在の国籍や民族観にとらわれず、日本・朝鮮・中国の境界に生きた「マージナルマン」、「境界人」としてとらえるべきという考え(村井章介氏)が提唱され賛同する研究者も多くなっています。

少なくとも、前期倭寇の根拠地は、対馬、壱岐、松浦地方であったことは事実ですから、これらを拠点とする日本人の土豪、浮浪者、武装商人などを主力として、時代が進むにつれ朝鮮半島の禾尺、才人などアウトローが加わって編成されていった海賊集団だったというのが前期倭寇の実態だったのではないでしょうか。

後期倭寇(16世紀)

13世紀から15世紀にかけて朝鮮半島、中国北部沿岸を荒らしまわった倭寇は、一旦沈静化しますが、15世紀末から16世紀になると再び倭寇と称された集団が活動を始めます。

この時期の倭寇を「後期倭寇」と呼び、その実態は前期倭寇とはまったく違ったものでした。

後期倭寇の活動地域は前期の朝鮮、中国北部から舞台を移し、浙江、福建、広東など中国南部沿岸、さらには台湾やフィリピンにも及びました。

後期倭寇の多くを占めたのが中国の密貿易商人で、明朝が禁じた私的貿易を行い、官憲に対抗するため武装し、海賊とも結託し暴力行為に及びました。

また不法な密貿易に参画した日本人やさらには16世紀はじめに東アジアに進出したポルトガル商人までも倭寇と呼ばれました。

「明史」の日本伝には、「真倭は十の三、倭にしたがうものは十の七」と書き、また中国人が髪を剃って日本人を装ったと述べ、これらを「偽倭」や「装倭」と呼びました。

ですから日本人を意味する「倭」は意味をなさないものとなります。

また前期の倭寇が米などの食料の収奪と人の拉致が目的だったのに対し、後期倭寇の主目的は密貿易でした。

後期倭寇の時代背景

明王朝の基本政策である「朝貢貿易」と「海禁政策」は、政府が海外貿易を独占する財政政策とともに倭寇の横行を防止する治安政策でもありました。

しかし中国国内で商品経済と流通が発展していくなかで朝貢貿易と海禁政策は現実の経済活動と乖離し密貿易を増加させる原因となっていきます。

その具体例のひとつが銀を得るための密貿易です。

明朝を常時悩まし続けたのはモンゴル族の侵入と南方の倭寇で、これを「北虜南倭」(ほくりょなんわ)と呼びました。

洪武帝が北方に追放したモンゴル人は再び勢いを回復して頻繁に領内に襲来し、1550年には長城を越え北京を包囲するという「庚戌(こうじゅつ)の変」を起こします。

明朝は万里の長城の修復工事や軍隊の増強などを行い北方の防衛を強化しますが、その財源確保の必要性から銀による課税を強めると国内の銀の流通量が不足し銀の需要が高まりました。

折から日本では「灰吹法」という新たな技術が導入され銀の生産量が増大したため、商人達は日本から銀を輸入しようとします。

ところが1523年の寧波での細川氏と大内氏の衝突事件(寧波の乱)以後、明が規制を強め、勘合貿易は衰退していため日本から銀を得たい中国商人は密貿易に走ったのです。

とくに明朝が実施した北辺の軍に食料を運ぶ商人には塩の専売権を与えるという「開中法」により財をなした徽州(きしゅう)の塩商人たちは生糸や絹織物、木材などの商品で密貿易を活発化させます。

またこの頃、ポルトガル人は1511年にはマラッカを占領して交易を求めて広州に来訪しますが明朝は私的貿易を拒否したために、倭寇の頭目、許棟らがポルトガル商人(仏狼機/フランキ)を双嶼(リャンポー)に誘い込み大規模な密貿易を行いました。

双嶼には一時期には1200人のポルトガル人のほかその他の外国人を含めると3000人の住民が住み、あたかもポルトガルの植民都市を形成したかのようでした。

このように海禁政策は逆に密貿易を盛んにしますが、官憲の厳しい取締まりに対抗するため密貿易商人は武装化し海賊らと手を組み凶暴化して中国沿岸を荒らし廻る事件を引き起こすのです。

彼らこそ、この時期の倭寇だったのです。

嘉靖(かせい)の大倭寇

後期倭寇の活動がピークとなったのは12代嘉靖帝在位の時(1521~1567)で、この時期の倭寇の活動を「嘉靖の大倭寇」と呼びます。

倭寇の頭目、許棟らは、揚子江河口に近い小島の双嶼を基地として「郷紳」といわれる有力者や役人などと癒着し、広東・福建・浙江の沿岸で密貿易や官憲との抗争、襲撃事件を起こします。

倭寇に手を焼いた嘉靖帝から浙江巡撫(じゅんぶ)を命じられた清廉剛直な官吏である朱紈(しゅがん)は、私腹を肥やす沿岸の郷紳、役人などにおもねることなく次々に容赦ない倭寇討伐を実行しました。

1547年、朱紈は倭寇の巣窟である双嶼を総攻撃し海賊船を焼き払い多数の賊を殺し許棟を捕え処刑します。

さらに大量の木や石を投下し、双嶼港を埋め立てて海船の入港を妨げたため双嶼港は潰滅します。

これにより双嶼を根城とする倭寇の活動は収束しますが、功を挙げた朱紈は郷紳や腐敗官僚達の反感を買い、言われなき讒言(ざんげん)により失脚し自殺することになります。

倭寇王・王直

許棟の亡き後、倭寇の頭目としてのし上がったのが有名な王直(おうちょく)です。

王直は徽州の出身で塩商人として出発しますが商売に失敗し遊民に落ちぶれます。

しかし、仲間の葉宗満らと広州、日本、東南アジアを行き来して海外密貿易に乗り出すと、豊かな教養や知略と義侠心により外国商人の厚い信頼をつかんで大成功を収め、5~6年で巨万の富を築いたといいます。

王直が日本で初めて訪れた場所は肥前の五島で、密貿易を通じて親密になった福江領主・宇久盛定は、王直に土地を与え居住させると、福江には中国商人が集まり唐人町(チャイナタウン)もできます。

五島列島

基地の五島には数百隻の船団と2000人の手下を抱え、東シナ海に大船団を送り活発に密貿易を行います。

王直は自らを「五峰」と名乗りますが、その名の由来は彼が初めて海上から五島に近づいたとき島が5つの峰のように見え、彼に強い印象を与えたからだといいます。

その後王直は松浦隆信の要請で平戸に移り、唐風の豪奢な大邸宅を建て大内義隆、大友宗麟ら有力大名とも親交を深めます。

平戸には中国船が盛んに訪れたため京や堺からも商人が集まり商都として栄え、王直は「徽王」(きおう)と呼ばれました。

王直は明朝にとっては大悪党でしたが日本では貿易で利益をもたらしてくれる重要な人物だったのです。

もともと密貿易商人だった王直が海賊行為を働くようになったのは次の経緯からでした。

双嶼が潰滅した後、王直は密貿易集団の首領として許棟らの残党を率いますが、明政府の海禁策がさらに強化され、沿岸の物資を調達する豪商や郷紳と王直ら密貿易者との間に対立が生じます。

そのなかの豪商、謝氏は取引価格を引き上げて王直らを圧迫し、あげくには王直らの行為を官憲に告げるなどと脅したため激怒した王直の集団は謝氏の邸宅を焼き払い家人らを殺害します。

この事件をきっかけに王直は明朝から密貿易者よりも海賊と見なされるようになったのです。

王直はそれでも官憲を懐柔することで合法的地位を得て「私市」すなわち自由貿易を認めてもらおうとし、海賊を捕えれば貿易を認めるという官の要請に何回も応じ、海賊を討伐して官に差し出しますが約束は果たされませんでした。

1552年、王直は業を煮やし浙江沿岸を襲い略奪行為を起こします

この時期が「嘉靖の大倭寇」の最盛期で、王直だけでなく他の海賊の襲撃も頻繁に起こっています。

しかし、官の側では倭寇の大物、王直の仕業とすると自分たちの不手際が隠せることから、すべての事件について王直を首謀者として報告しました。

1557年、野心的な浙江巡撫・胡宗憲は王直を懐柔策により抑えようとし、獄につながれていた王直の母と妻を釈放して王直が明に帰国して海賊禁圧に協力すればこれまでの罪を問わず自由貿易を許可すると持ちかけます。

王直は自由貿易の容認に心を動かされこれを受け入れ平戸から帰国しますが、港に入港するとたちまちのうちに政府軍に取り囲まれ拘束されます。

宗憲は王直との約束を守るつもりでしたが、上層部が強硬的な処置を命じたため2年後の1559年12月、王直は処刑されるのです。

その8年のちの1567年ついに明朝は海禁令を緩和すると密貿易は減少し、日本でも豊臣秀吉が船の出入りを厳密に管理すると後期倭寇は沈静化していきます。

鉄砲伝来と王直

近年、王直は日本史上、重要な役割を果たしたことがわかってきました。

薩摩国の禅僧、南浦文之(なんぽぶんし)が編纂した「鉄炮記」(てっぽうき)によると、

1543年、種子島に南蛮人百余人が乗った大船が到着します。その中に明の五峰という名の需生(儒学者)がいたので、種子島の役人が砂上で筆談すると乗船の南蛮人はポルトガル商人だと説明します。

領主の種子島時堯は、彼らが持っていた鉄砲に興味を持ち鉄砲2丁を2千両もの大金で買い上げます。

歴史上、日本人が初めて西洋人に出会い、日本に鉄砲が伝来したことを伝える重要な記述です。

この「五峰」という需生が実は王直であったというのが現在有力説となっているのです。

この説では、到着船は漂着したのではなく王直の密貿易船で、日本に鉄砲が伝来したのは偶然ではなく、王直の売り込みだったと推論します。

現にその後、鉄砲は国産化されたものの、弾薬に必要な硝石は日本では産出されず、王直は硝石を日本に運び大儲けしたと言われているのです。

だとすると王直は日本人と西洋人の歴史的出会いと鉄砲伝来を演出した人物と言うことになります。

倭寇と倭寇王・王直とは?パイレーツ・オブ・イーストアジアの真実・まとめ

13世紀から16世紀にかけて東アジアで躍動した「倭寇」について見てきました。

「倭寇」に限らず、歴史の教科書ではたった1行か2行でしか書かれていない事象を掘り下げると、そこには壮大な物語があったことを知ることができます。

かつて東アジア海域には、倭寇と呼ばれたすさまじいエネルギーで生きた人々がいました。

彼らは、密貿易、略奪、拉致、暴力、殺傷といった反道徳行為を伴いながらも、そのダイナミックな活動でアジアの歴史に大きな影響を与えたのです。

そのなかでも最も興味深い人物が倭寇王・王直でした。

王直は中国出身ですが九州に居を構え、残酷な海賊行為を行う集団の首領であるとともに、教養があり、義侠心にあふれた魅力的な人物でもありました。

彼は鉄砲伝来を演出し、日本の歴史を大きく変えました。

彼の活動は中国・日本・東シナ海と、グローバルにそして縦横無尽に動き回り巨万の富を築きますが、最期は刑場の露と消えます。

王直の生きざまは一巻の絵巻物を見るようで現代の私たちをいつまでも惹きつけます。

参考:「倭寇・海の歴史」田中健夫、「倭寇と王直」三宅亨(桃山学院大学総合研究所紀要)、「倭寇と日本国王」吉川弘文館

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