タイでリゴール王となった山田長政・彼は本当に実在したのか

人物
山田長政(Wikipediaより引用)

戦国時代の末期から徳川時代初期にかけて朱印船貿易が盛んに行われるようになると日本人の海外進出が活発となり東南アジア各地には多くの日本人町が作られています。

とくにルソン(フィリピン)のマニラ、コーチ(ベトナム)のホイアン、シャム(タイ)のアユタヤが三大日本人町とされ、当時これらの地域には貿易目的だけでなく関ヶ原の合戦や大坂の変の敗残者、キリスト教禁令により脱出したキリスタンたちが新天地を求め移住したとみられます。

その中でも徳川家康の地元、駿河出身の山田長政という人物は単身シャムに渡り、日本とシャム間の貿易で成功して日本人町の頭領になると持ち前の知略と豪胆さでアユタヤ朝国王の信頼を得て王室の傭兵隊長に任命されます。その後、疾風怒濤の活躍でアユタヤ朝家臣の最高位に上り詰め、ついにはアユタヤ朝下のリゴール国王になったというのです。

この山田長政の大出世物語は明治にはいると政府の南進政策に利用され、海外で大活躍した英雄として国民の間に広まりました。国定教科書にも掲載され、菊池寛、大佛次郎、佐藤春夫など数多くの作家により物語が創作されると日本男児はこうあるべきという人々の尊敬の対象となっていきます。

ところがこの山田長政という人物の確実な存在と活動を裏付ける文献は極めて少ないのです。

そのためこれまでも伝えられる山田長政像は虚実が入り交じっているという議論がありましたが、平成に入ると政治史学者・矢野暢(やのとおる)京大教授がはじめてシャム王朝で活躍した山田長政という人物は存在しなかったと断定しこれまでの長政像を否定します。矢野氏の主張は学会や長政の地元など関係者に論議を巻き起こしましたが現在までその結論は出ていません。

はたして山田長政は実在したのでしょうか。実在・非実在の根拠とはいかなるものなのでしょうか。

山田長政の人物像

前述したように山田長政については虚実織り交ぜて伝わっているというのが実情です。そのなかで内外の関係文献をていねいに検証し、実在説に立ちつつも無批判な長政礼賛を避けて客観的な人物像を追求した本が歴史学者・小和田哲男氏の著作「山田長政 知られざる実像」です。以下、主にこの書を参考にして山田長政の人物像を見ていきます。

長政の出自

長政の正式名称は山田仁左衛門長政といい、誕生は天正18年(1590年)の頃とされます。駿河国(現・静岡市)富厚里(ふこうり)の紺屋(染め物屋)、津国屋の二代目九左衛門を父とし、母は藁科村の寺尾惣太夫の娘で、再婚で長政は連れ子ではないかと小和田氏は推測しています。

長政は少年時代、徳川家康が学問を修めたと伝えられる臨済寺で漢学だけでなく兵学を学び、その時に得た素養がシャムでの活躍につながります。ところがその後長政はなぜか大店の家を出て沼津に移り一時期、沼津藩主・大久保忠佐の六尺(駕籠かき)をしています。長政が染物屋の家業に専心しなかったのは連れ子であったことが影響したのかもしれません。

長政が駕籠かきをしていたことは徳川幕府の宗教顧問であった金地院崇伝の著書「異国日記」に記載されています。「大久保治右衛門六尺山田仁左衛門暹羅へ渡り有付、今ハ暹羅の仕置を致由也。上様への書にも見えたり。此者の事歟。大炊殿・上州へ文を越」という文章です。

「沼津藩主・大久保忠佐の六尺(駕籠かき)をしていた山田長政は暹羅(シャム)に渡り、現在はシャムの仕置き(役人)をしているという。上様への手紙でも出てくるがこの者のことなのか。老中・土井利勝殿、老中・本多正純に書簡をよこしている」という主旨です。

書簡には山田仁左衛門長正という署名があって、この「異国日記」こそが山田長政の実在を証明する唯一無二の第一級史料とされており、これにより通説はシャムで高官となった長政の実在が証明されるとし、駕籠かきを行うほどの身の丈高く容貌魁偉の人物であったとします。

シャムへの渡航

長政は、慶長17年(1612年)、23歳のとき長崎から朱印船に乗り台湾を経由して暹羅(シャム)に向かいます。当時、家康の居住する駿府は朱印状を発行する拠点であり、ルソンやシャムとの貿易のため豪商たちが集まっていました。彼らは盛んに朱印船を仕立て日本で産出する高品質の銀を輸出する代わりに香木の伽羅や武具に使う鮫皮、鹿皮などを輸入する活発な交易を行っていました。そのため町は華々しい儲け話や海外に出て成功した商人の話が溢れていましたが長政もこの雰囲気の中で海外に出て一旗揚げる夢を見たのです。

当時シャムを支配していたのは1351年から1767年まで400年続いたアユタヤ王朝です。タイ湾から大河チャオプラー川でさかのぼった内陸に位置する首都アユタヤはヨーロッパ・インドと中国・日本の東西貿易の中継基地となっていていました。約40ヵ国から来訪した外国人が住む国際都市で人口は15万人を擁し当時としては江戸やロンドンにも匹敵する大都市でした。

アユタヤ遺跡

アユタヤには一説(暹羅国山田氏興亡記)では最盛期には8000人もの日本人が居住した日本人町があったといわれていますが、小和田氏は長政が率いていた日本人傭兵が6~8百人と伝わっているとし、その家族をいれて3000人ほどの町だったのではないかと推定します。

しかし定説では東南アジアで最大の日本人町はルソンで約3000人が住み、次がアユタヤで1500~1600人程度、その他の町が300~350人、全体で5000人ぐらいの日本人が東南アジアに移住していた(世界大百科事典など)とし、在日タイ大使館のサイトにも最盛期で1000~1500人の日本人が生活していたと書かれています。いずれにしても1600年代にこれだけの数の人々が日本人町を作っていたことは驚くべきことです。

長政のシャムでの活躍は、昭和初期に発掘された当時のオランダの東インド会社アユタヤ商館長のファン・フリートの著作「シャム革命史話」により裏付けられるといわれてます。この書は長政とほぼ同時代に書かれており信憑性が高いのもとされていますが山田長政という名は出て来ず、この本に登場するオークヤー・セーナピモックという人物が長政と比定されているのです。

長政がシャムに到着した当時、アユタヤの日本人町の頭領はオークプラ純広という人物で、長政はその配下に入リ貿易実務を修行します。オークプラというのは貴族の肩書きでオークヤーに次ぐ2番目の位でした。

当時の日本人は関ヶ原や大坂の役で戦った元武士らが多かったため、貿易に従事するだけでなく有事の際の傭兵集団としての性格を持ち王朝内でも一目をおかれた存在でした。

その後、頭領は津田又右衛門、城井久右衛門と変わりますが、長政は持ち前の才気により日本人集団のなかで頭角を現わし1620年(元和6年)ごろ城井を継いで頭領となったようです。

1621年(元和7年)、王朝内で長政の名を上げる事件が起こります。アユタヤ王国の植民地支配を狙うスペイン無敵艦隊がチャオプラー川をさかのぼり攻め込んできたのです。スペインは2度にわたり襲いますが当時日本人警備隊を率いて水上警備に当たっていた長政は奇襲攻撃によりスペイン艦隊を撃破したため国王ソングタムに認められます。

その功により長政はアユタヤ朝の近衛隊長に任命されて1629年には最高位の貴族「オークヤー」という大臣級の地位とオークヤー・セーナーピムックという名称を授けられます。ソングタムより王女との結婚を許されたとも伝っていますがさすがに創作であろうと思われます。

山田長政(Wikipediaより引用)

アユタヤ朝内の権力闘争と長政

ソングダム王は西洋諸国や日本などと貿易を行いアユタヤ王朝の黄金期を作り上げた偉大な王としてタイでは現在でも尊敬されていますが1628年に38歳で急死します。毒殺された疑いもあるようです。ソングダム王が体調を崩すと王の後継をめぐって王朝内で激しい権力闘争が起こります。

シャム革命史話によると、ソングダムの長子ジェッタを擁立するソングダムの叔父で宮内庁長官オークヤー・シーウォラウォンと王弟シーシンを擁立する国務長官オークヤー・カラホムが対立し重臣らもそれぞれに分かれ内紛が勃発します。アユタヤでは王家は長子相続ではなく実力のある王の弟が継ぐというのが慣例でしたが宮内庁長官オークヤー・シーウォラウォンは前王の意思として長子ジェッタの王位就任を主張すると、長政も日本の習慣である長子相続に共感しシーウォラウォン側に与します。

その結果、長政が率いる近衛兵の武力を恐れた大官たちはシーウォラウォン側になびいたため抗争はシーウォラウォン側が勝利し、15歳のジェッタが王位に就きます。

シーウォラウォンはジェッタ新王を操りカラホムなど敵対派を処刑させ、出家して恭順した前王の弟シーシンまで殺します。「シャム革命史話」はこの虐殺にオークヤー・セーナピモック、すなわち山田長政が中心的役割を果たしたと書きます。長政は僧門に入ったシーシンを欺いて宮廷に参内させ捉え、その後シーシンが家臣の手で救出され独立政権を樹立すると日本人傭兵を率いて攻撃しシーシンを捉えて処刑したと具体的に記述し長政が一番の悪人のように記します。

小和田氏はシャム革命史話を書いたオランダのアユタヤ商館長のファン・フリートは貿易の競争相手である日本人に反感を持っていて長政を実際以上に悪人として書いたのではないか、あるいは長政は権力を握ったシーウォラウォンに利用された可能性があると推定します。長政が虐殺に中心的な役割を果たしたとすれば日本に伝えられているような尊敬すべき英雄ではなかったことになります。

勝利した宮内庁長官シーウォラウォンは殺したカラホムの役職と名を継ぎ自らをカラコムと呼ばせます。ところがそのカラホムは当初から自分が王となる野心を持っており、すぐにその本性を現わしてジェッタ王から王位の簒奪にかかります。

カラホムは即位後まもない15歳の新王を王としての器がないと貶め、軍兵を率いてアユタヤ宮殿を襲います。ジェッタ王は寺院に逃げ込みますがすぐに捕らわれカラホムに抵抗できない大官達の前に引き出され、形だけの審議で処刑されます。8ヶ月の短い在位でした。このカラホムの謀反についても主力は日本人傭兵だったとシャム革命史話は書きます。

ジェッタ王を殺したカラホムは将来ソングダムの血統に王位を戻すことを条件に自分が暫定的な王となることを了承するようオークヤー・セーナピモックこと山田長政に求めます。しかし長政はカラホムの野心を見抜き同意しませんでした。カラホムは怒りますがその頃には千人にも達する兵力をもつ長政の意向を無視できず、やむなく10歳のジェッダの弟、アデットウンを新王とし自分は摂政として補佐役につきます。しかしこのことでカラホムの長政への敵意は決定的となります。

当時、アユタヤ王朝の支配地域リゴールで住民の反乱が起り、隣国パタニー(現マレーシア)からも侵略軍が入込んでいました。これを奇貨としてカラホムは長政をアユタヤから遠ざけるために一計を案じます。

まず長政がアユタヤ王に謀反を起こそうとしているという噂を流し長政の評判を落とす一方、長政に対しては「大臣たちはあなたを糾弾しようとしているが私はあなたの忠誠心を信じており彼らを説得している。そこで忠誠心を示すためにリゴールに赴き反乱を鎮め、外敵を撃退してリゴール王に就任してほしい」と要請します。長政はカラホムの野望を見抜いており、はじめは幼帝アデットウンを守るために拒絶していたのですがカラホムの巧妙な甘言に抗えず最終的に受け入れます。

シャム革命史話では長政はカラホムが提示したリゴール王の地位と金品に目がくらみ承知したと書きますが、小和田氏は「カラホムが権力を掌握したアユタヤ王宮では自分の出る幕はなく新天地を求めてリゴールに向かったというのが真実ではないか」とします。いずれにしても長政は老練なカラホムの権謀術策に敗れたのです。

長政のリゴール王就任とその死

長政が日本人軍団を率いてアユタヤを去ると当然のごとく新王アデットウンに反逆し王権簒奪を行います。わずか在位38日でした。カラホムは王位に就くとプラサート・トーンと名乗ります。

一方、長政は獅子奮迅の戦いをしてリゴールの住民の紛争を鎮め、パタニー軍を撃退しリゴール王に就任します。ただ現地出身の前リゴール長官はそのまま配下として使います。アユタヤの新王に就いたプラサート・トーンは長政の勝利を聞き失望しますが、長政に使節を送り戦功を褒章する反面いずれ自分に刃向かうことを恐れて、前リゴール長官には長政を殺せば長官の地位に戻すという密書を送りました。

長政もプラサート・トーンが王位を簒奪したことを知り、自分に対する画策も気づいていたのか前長官を警戒し近づけませんでした。しかしその弟・オークプラ・ナリットは献身的に長政に仕えたため気を許してしまいます。

シャム革命史話は、長政がパタニー軍との戦いで負傷したためオークプラ・ナリットはかいがいしく手当てをする振りをして長政の足に毒を塗った膏薬を貼り毒殺したと長政のあっけない最期を述べます。1630年8月から9月ごろと推定され年齢は40歳でした。

山田長政(国会図書館コレクション)

ただ長政の暗殺についてはオランダの東インド会社、すなわちシャム革命史話の著者を含む勢力が謀殺したのではないかという説もあります。オランダは貿易において日本と競争関係にあり長政を謀殺し日本とシャムの関係を悪化させることで優位に立とうとしたというものです。小和田氏は「事実、プラサート・トーンの在中は徳川幕府の朱印状が発行されず、日本・シャム間の直接貿易は行われなかった」とこの説に賛成する作家の陳舜臣氏の意見を紹介しています。ただ1633年には徳川幕府は鎖国政策を始めており長政の生死にかかわらずシャムと日本の交易は断絶しています。

日本人町焼き討ち

長政が死ぬとその地位を継いだのが18歳になる長男でオーククン・セーナピックです。しかし長政殺害の黒幕と見られる前リゴール長官は老練な策謀家で、リゴールの役人達を扇動して反抗させ、日本人傭兵の有力者も懐柔し内紛を引き起こします。この事態を未熟なオーククン・セーナピックは抑えることはできず隣国カンボジアに逃げたとされます。

またアユタヤの日本人町では長政暗殺が伝わると不穏な情勢となります。そこでアユタヤ王・プラサート・トーンは日本人の暴動を恐れ、先手を打って日本人町を焼き討ちにします。シャム革命史話は1630年10月26日夜中に王は日本人の悪計と決死の心を知り、火を放ち大砲を打ち込んで国外に追放したと記します。この攻撃で多くの日本人は死亡しますが、生き残った者はアユタヤ朝と敵対するカンボジャに逃げたため後年復興するまでアユタヤの日本人町は一時的に消滅したのでした。

山田長政非実在説

ここまで山田長政の生涯を見てきました。しかし、前述したように長政の存在と活躍を伝える確実な文献はないため日本に伝えられる長政の人物像と事績がどこまで真実なのか議論がありました。   

そこに長政は実在しなかったと断じたのが京都大学の教授であった矢野暢氏で、氏の論文「山田長政神話の虚妄」からその論拠を見ていきます。

山田長正はいた

まず矢野氏は金地院崇伝の「異国日記」は第一次資料であり、シャムから老中に届いた書簡の記録に山田仁左衛門長正からのものがあり、確かに「山田長正」なる人物はいたのであろうと認めます。しかしこの山田長正が波瀾万丈のストーリーの主人公、国民的英雄「山田長政」であることは疑わしいとします。

また同じ時期の日本人の海外渡航記録は「異国渡海御朱印帳」などにきちんと残っているのに山田仁左衛門長正の名が出てこない。彼は正式に出国したのではなく沼津でなにか不始末をして密航した二流の商人かあるいは偽名を名乗ったのではないかと推論します。

山田長政伝説の広がり

矢野氏は「山田長政」伝説が広がる過程を検証します。

その始点になったのは江戸時代、長政が死んで60~80年後に発行された智原五郎八の「暹羅国山田氏興亡記」、「暹羅国風土軍記」、天竺宗心の「天竺徳兵衛物語」です。とくに「暹羅国山田氏興亡記」はその後のほとんどの長政に関する情報源になっています。

しかし、この本には聞き書き、つまり伝聞を書き記したとの断り書きがありどこまで真実か不明である。また「天竺徳兵衛物語」は文中の「天竺に山田仁左衛門と申す者あり。シャム一国の王なり」という一文だけで有名になった本ですが、天竺に渡航した徳兵衛がこの書を書いたのが96歳の時でその記憶がどこまで正しいのか疑わしい。いうまでもなく「シャム一国の王なり」というのも明らかな間違いです。

実は「山田長政」を最初に有名にした張本人は国学者、平田篤胤で、彼は国粋主義的な講談本を書き、山田仁左衛門を軍事的英雄として華々しく登場させます。しかしこの本は明らかに「暹羅国山田氏興亡記」に基づいたもので、見てきたようなうその話を付け加え山田長政という英雄像を作り広めました。

結論として江戸時代の文献から読み取れることは、山田長正は実在していたとしても伝わる人物像は根拠のない虚構の伝説に過ぎない。少なくとも江戸時代から今日まで学問的に信憑性のある「山田長政」伝はまだ一冊も、そして一篇の論文すらも書かれていないと断じます。

明治にはいると、静岡の有名な清水次郎長こと山本長五郎は山田長政が地元と縁のある人物と知って郷土の英雄に仕立てようと考えます。これに賛同した地元新聞社、郷土史家らは5冊の山田長政に関する本を立て続けに出版しました。とくに静岡県令の娘婿、関口隆正が書いた「山田長政傳」は前掲の江戸時代の書物の都合のいいところをつなぎ合わせたもので、長政の武勇伝を巧妙に散りばめて、あたかも歴史的事実かのように信憑性を持たせたものでした。

そしてこの本にお墨付きを与えたのが関口の義弟で京大教授の新村出、同僚の京大教授で日本史の権威、内田銀蔵で、彼らにより「山田長政傳」は正当性を帯び、「山田長政」は歴史上の人物として日本史学の中に位置づけられることになります。さらに同時期に渡辺修二郎という人物が書いた「世界ニ於ケル日本人」というベストセラー本のなかで関口の「山田長政傳」が取り入れられると、静岡止まりの山田長政の名が全国的に知られるようになったのです。

オランダ資料への疑念

次に矢野氏はオランダ側の資料に批判の目を向けます。東インド会社アユタヤ商館長のファン・フリートの著作「シャム革命史話」は同書に登場する日本人傭兵隊長のオークヤー・セーナピモックが山田長政と比定され同書も「山田長政」実在説を裏付ける重要な資料とされていることは先に述べたとおりです。

矢野氏は、初めて日本に「シャム革命史話」を紹介しこの本に登場するオークヤー・セーナピモックを山田長政と比定したのは昭和初期、日本の南進政策の知的拠点された台北帝国大学の台湾学派で、その中心にあったのが「南洋日本人町の研究」の著者、岩生成一教授とします。

ところがそこで引用されるシャム革命史話をはじめとするオランダ文献に登場する日本人は必ずシャム名とともに必ず日本名が付記されているのに山田長政という名だけは一切出てこない。岩生氏はこの重大な例外にまったく頓着していない。岩生氏らは山田長政伝説が真実という前提で無批判にオランダ側資料の中に該当者を求め、シャム革命史話に出てくるオークヤー・セーナピモックにたどり着いたのではないかと批判します

さらに矢野氏はオークヤー・セーナピモックが山田長政であるとの比定に重要な役割を果たした人物として東京美術学校出身でタイに長く滞在し漆工指導をしていた三木栄の名を上げます。この人物は戦前戦中の日・タイ文化交流の中心人物で長政に深く傾倒し「山田長政の事績について」という本を書いた素人の歴史家ですが、タイ語がまったくできない岩生氏ら研究者を熱心に支援し、オークヤー・セーナピモック・山田長政説を岩生教授たちに教えたのはほかならぬこの人物であるとするのです。

さらにそもそも「シャム革命史話」のオークヤー・セーナピモックのストーリーは、ファン・フリートが日本人の間に言いふらされていた噂の類を耳にして、オランダの権益を侵す日本人の好戦的性格を強調するために想像を交えて書いたのではないかと考えます。

矢野氏は、結論として「異国日記」から読み取れる情報のみが信じるに足るもので、そこから想像すれば密航してシャムに渡った胡散臭い二流の商人「山田長正」はいたかもしれないが、彼にまつわるあること無いことの噂話を聞いたオランダ人によって日本人の好戦性を証明する格好の素材として利用されたのではないかとします。

そして山田長政伝説は明治、大正、昭和と時代を通して南進論という国策と結びついて政治的存在感を増していきます。さらに大正天皇の即位に際しては地元静岡の運動で長政に対し従四位が追贈され、国定教科書への登場、有名な小説家たちによるファンタジックな歴史小説化、国民唱歌へ採用など、山田長政は虚実がさだかでない朦朧とした姿のまま大東亜共栄圏の政治的象徴として利用されていったと批判するのです。

山田長政非実在説への反論

矢野氏の山田長政非実在説に対して小和田氏は次のように反論します。

まず、英雄としての長政観は戦前の南進政策の過程で作り出されたことは疑いなく、虚像の部分がかなり入っているという指摘は同意見で、自分も「暹羅国山田氏興亡記」をあくまで伝記と扱ってきた。

しかしオランダ文献まで否定できるのか、シャム革命史話の著者ファン・フリートはアユタヤのオランダ商館長を務めた人物で、書かれた時期も1640年と一連の出来事の直後であったことは無視できない。

矢野氏はオークヤー・セーナピックが山田長政であるという証拠はないと主張するが、逆に同一人物ではないと積極的に論証できる史料もない。状況証拠からは同一人物と見るべきだ。

また矢野氏は長政が二流の商人だとするが「異国日記」には寛永6年(1629年)には山田仁左衛門長正が老中酒井忠世に書簡を出していることが見え、酒井からも返書が出されている。この返書の出し方から見ても相手の山田仁左衛門長正はシャムでも高位の身分であり長政が二流の商人とすることはできない。

したがって長政非実在説を認めることはできない。アユタヤ王朝の日本人部隊傭兵隊長としてまた貿易家として活躍した山田長政は確かに実在したのである。

山田長政ははたして実在したのか

さて、日本人はタイというと山田長政を思い浮かべその名を口にしますが、実はタイ国内ではほとんど山田長政の名前は知られていないというのが現実のようです。小和田氏も訪タイした際にそのことを実感し、長政の英雄伝説は日本で一人歩きをしたようだと書いています。

外務省のウエブサイトの「日タイ修好120周年」の「日タイ交流のあゆみ」の項にはアユタヤ朝以来の600年の交流、日本人町にも言及していますがそこにはアユタヤ朝に多大な貢献したとされるオークヤー・セーナピックこと山田長政の名前は出てきません。あれほど日本人の思い入れが強い山田長政にもかかわらずです。もちろん在日タイ大使館が紹介するアユタヤ王朝と日本の交流の歴史にも長政の名はありません。戦前・戦中の南進政策の象徴とされたからなのでしょうか。あるいは実在が不確定の人物だからなのでしょうか。

最近は親日タイ人のなかには日本人の長政に対する心情を慮って長政の名を口にする人も出てきたとされますが、それにしても日本とタイでは山田長政の存在感は格段の差があることは確かなようです。

山田長政は果たして実在したのか、最後に筆者の私見を述べるなら矢野氏の考えに近いと思います。

金地院崇伝の「異国日記」に出てくるとおりシャムに渡った商人「山田長正」はいたのでしょう。       しかしその長正をシャム革命史話に出てくる日本人傭兵を率いたオークヤー・セーナピックに結びつけることには違和感があります。

矢野氏が指摘するように日本人であれば日本名が併記されているのに山田長政の名が一切ないという事実は無視できないと思われます。

さらに言うなら、日本で戦さの経験がない商家の息子であり、一介の駕籠かきであった人物がシャムに渡って何百人もの傭兵を率いる軍団の長に変身し、疾風怒涛の活躍ができるものだろうかというシンプルな疑問が湧きます。日本人傭兵には関ヶ原や大坂の陣を戦った武士が多くいて海外に新天地を求めるほどの性根を持った人たちだったと推定されますが、そういう人が何の経験も無い駕籠かき上がりの指揮に易々と従ったのでしょうか。

ことからオークヤー・セーナピックは山田長政ではなく、タイ人の勇猛な武将だったするのが素直な解釈と思われます。彼はソングダム王の信頼を得た身分の高い武将で、日本人傭兵をまとめることができる人望のある存在だったのです。したがってシャム革命史話のオークヤー・セーナピックの話は矢野氏が言うような日本人間の噂話を書いたものでもなく知り得た事実を書いたのです。著者はオークヤー・セーナピックをもともと日本人と思っていないのですから。

シャムでの日本人傭兵の活躍は、日本には平戸を訪れるオランダ人により伝えられたのでしょう。そこに「異国日記」に出てくる商人の山田長正という人物が結びつけられ、日本人傭兵軍団を率いる英雄として智原五郎八の「暹羅国山田氏興亡記」、「暹羅国風土軍記」などで山田長政の活躍するストーリーが創作されていったのでしょう。

参考資料:山田長政 知られざる実像/小和田哲男、講座東南アジア学 東南アジアと日本/矢野暢、南洋の日本人町/太田尚樹

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