1947年、死海文書(Dead Sea Scrolls)(しかいもんじょ)の発見は、考古学上、「20世紀最大の発見」といわれました。
死海文書とは、死海のほとりの洞窟で発見された紀元前1~3世紀に書かれた古代文書のことです。
死海文書により、当時のユダヤ教の実態や、キリスト教の起源やイエス・キリストの実像に迫ることができると期待されました。
しかし、発見後、公開が大幅に遅れたことから、死海文書には発表できない内容が含まれているのではないかなどの憶測を呼び、それに関する書籍も多数出版されたりしました。
また「死海文書」という少しおどろおどろしい名称から、いわゆる「都市伝説」と関連して語られたりもしています。
そこで死海文書とはいったいどういうものか、なぜ公開が遅れたのかなどをまとめてみました。
劇的な死海文書の発見
イスラエルの首都、エルサレムから東に向かい19キロに死海はあります。
広さは945km2で、琵琶湖の1.5倍ですが、塩分30%以上で、いかなる生物も水中では生きていけないため「死海」(Dead Sea)と名付けられました。
ちなみに海水の塩分濃度は3%ですから10倍の塩分です。
1947年、その死海沿岸、「クムラン」と呼ばれる地域の断崖で、遊牧民「ベドウィン」の羊飼いの少年、ムハマド・エッ・ディーブが群れから離れた羊を探していると洞窟を見つけ、試しに石を投げ込むと何かに当たる音がしました。
そこで中に入ると、素焼きの壺が10個あり、その一つに汚い麻の布に包まれた3巻の皮の巻物が入っていることを見つけました。
のちに世界を揺るがすことになる「死海文書」発見の瞬間です。
ベドウィンたちは後日、さらに別の巻物を発見し、その数は7巻になりました。
死海文書の行方
ベドウィンたちは、ベツレヘムの靴の修理屋で古物商を兼ねるカンドーに巻物を持っていくと、カンドーはこれをエルサレムの聖マルコ修道院の院長、アタナシウス・サムエル大主教に見せ、サムエル大主教大主教は4つの写本(「イザヤ書」、「ハバクク書註解」、「共同体の規則」、「外典創世記」)を24パレスチナポンド(現在の価値で約100ドル)で買い取ります。
一方、エルサレムのヘブライ大学のエレアザル・スケーニク考古学教授は、死海文書の話を聞くと、「歴史上、最古のユダヤ教の文書」と確信し、当時、ユダヤ人とアラブ人の衝突で治安の悪い最中のアラブ人地区だったベツレヘムのカンドーの店に赴き、「戦いの書」「感謝の詩篇」と「イザヤ書」断片 の3巻を入手しました。
1947年11月29日、その日は奇しくも国連がイスラエルの国家創設を決めた日でした。
スケーニク教授は残りの4巻をなんとかサムエル大主教から買い取りたいと思い、大主教も聖マルコ修道院の活動資金のため売却してもいいとは思ったものの、教授側の提示した値段があまりに安かったため売却は断念します。
新聞広告で売り出す
当時、イスラエルはアラブ諸国との紛争で情勢は不安定であり、サムエル大主教は死海文書の安全も考えてアメリカに持ち出し、展示会などで公開し、売却先を探します。
イスラエルは、国外に持ち出された死海文書4巻はイスラエルの国家遺産と主張し、発見地クムランのあるヨルダンも文書の所有権を主張し、サムエル大主教を訴えたりします。
業を煮やしたサムエル大主教は、1954年6月1日、ウォールストリートジャーナルに、死海文書4巻の売却の広告を出します。
それを見たアメリカの2~3の大学は購入を検討しますが、文書の真偽に異論もあり断念する中で、代理人をたて匿名で25万ドルという金額で購入したのが、前年に亡くなったスケーニク教授の息子で考古学者のヤディンでした。
匿名にしたのはアラブ人のサムエル大主教は敵国のイスラエル人に文書を売らないのではと懸念したからで、大主教も後に売却相手を知って悔やんだといいます。
こうして、最初に発見された死海文書7巻はイスラエルに帰属することになりました。
その後、考古学者たちはクムランの断崖周辺を調査しますが、一方ベトウィンたちも金になることを知って自分たちだけで文書を探します。
ベトウィンたちが最初の写本の出所である洞窟の場所について口を閉ざす中で、1949年1月に国連休戦監視部隊のベルギー人フィリップ・リッペンス 大尉らは、ベドウィンを懐柔して洞窟(第1洞窟)を発見します。
これらの探索の結果、1956 年までの間に、11 カ所ほどの洞窟(クムラン洞窟)から、900以上の文書やおびただしい羊皮紙の断片を発見されました。
死海文書は、当初、パレスチナ考古学博物館(ロックフェラー博物館)に保管されていましたが、現在イスラエル博物館に特別に作られた「死海写本館」という展示館に保管されています。
死海文書の内容とは?
死海文書は「クムラン文書」ともいい、作成した集団を「クムラン教団」と呼びます。彼らはクムランの洞窟に住み清貧を重んじ共同体生活を送っていました。
この「クムラン教団」がどういう集団か、長らく議論がありましたが、現在は、当時のユダヤ教の三大宗派の一つで、もっとも敬虔で高潔な集団である「エネッセ派」というのが定説となっています。
多くは羊皮紙で、一部パピルスもあり、内容および書体の分析と炭素年代測定などから、紀元前250年頃から紀元70年の間に書かれたとされています。
また死海文書の約80%はヘブライ語で、20%がアラム語で、若干がギリシャ語で書かれています。
死海文書の内容を大別すると、
・旧約聖書の写本、
・クムラン教団の教義、規則や儀式書、預言
・ユダヤ教に関する「旧約聖書外典」と「偽典」とよばれる文書群
・その他の黙示や知恵、文学 や詩篇と多岐にわたります。
旧約聖書については、死海文書の発見で、従来より約1000年も古い写本が現われたことになり、これまで全く知られていなかったような大変貴重な資料も多く含まれていていました。
また原始キリスト教が始まった頃と同時代のユダヤ教文書が、オリジナルで現れたことから、「第二神殿時代」の「ユダヤ教」の宗教儀式など、当時 のユダヤ教の多様な実態がわかってきました。
死海文書研究と公表の遅れと非難
最初に発見された7巻は次々と翻訳され、公表されましたが、それ以降は研究メンバー以外に開示することが遅滞していきます。
第一次中東戦争で、パレスチナ考古学博物館(ロックフェラー博物館)の管轄はイスラエルからヨルダンに移り、1953年、ヨルダン政府・古物管理局の委託を受けたド・ヴォー神父をリーダーとし、各国の研究者からなる死海文書の発掘と解読、研究のチームが発足します。
ところが、死海文書の大部分の資料はいつまで経っても世界に公表されませんでした。
1967年、第3次中東戦争でイスラエルがエルサレムを占領すると、パレスチナ考古学博物館は再度イスラエルの所有となり、国際研究チームの活動もイスラエル古代遺物管理局の管理下で行われることになります。
しかし、死海文書の公開は遅遅として進みませんでした。
発見から40年近くなっても資料の半分以上は未公開で、チーム以外の研究者が要求しても、閲覧することすらできませんでした。
そうした秘密主義は最初のチームリーダー、ド・ヴォー神父が徹底し、彼の死後も引き継いだリーダーたちはチーム内の隠蔽方針を堅持しました。
この公開の遅れと秘密主義に、外部の学者やマスコミは憤慨し、1977年、死海文書発見から30周年にあたって、オックスフォード大学の権威であるG.ヴェルメシュ博士は「20世紀における学術上の一大スキャンダルになりかねない」と強く非難します。
しかし状況は改善せず、チームの一部の学者が史料を独占している事に対し、疎外されている学者たちは死海文書の全資料を世界中の研究者に公開するように要求します。
ニューヨークタイムズ、ワシントンポストなど、ジャーナリズムも資料の独占と怠慢を非難しました。
1985年、ユダヤ系アメリカ人の聖書考古学のジャーナリスト、H・シャンクスは、死海文書の独占に反対し早期公開のキャンペーンを大々的に開始します。
研究チームとバチカンがキリスト教の教義をおびやかすような重大な事実をもみ消そうとしているという憶測も広がります。
しかし、それでも国際研究チームは、逆に反発し公開を拒み続けます。
その結果、死海文書の分析・調査の過程で文書の一部のコピーを入手していた大学、図書館などが、国際研究チームの秘密主義を打破するために、保持していた文書の写真版をつぎつぎに出版し、事実上、世界の人が見れるような動きに出ました。
1991年、ここに至って、イスラエル古代遺物管理局と国際研究チームは、秘密主義の方針を転換し、保有するすべての死海文書を公開すると発表したのです。
最初の発見から約45年後、やっと死海文書は全貌を世界に公開されることになったのでした。
死海文書の公開が遅れたのはなぜ?バチカンの陰謀?
死海文書の公開の遅れについて、「バチカンにとって都合の悪い事が記載されているため、公開が阻止されているのではないか」という陰謀説が流れました。
アメリカではマイケル・ペイジェントとリチャード・りーが「死海の巻物のごまかし」(邦名:死海文書の謎)を出版しました。
そこで、「研究チームメンバーは、多くがカトリック教徒で、バチカンの支配下にあり、死海文書にはキリスト教の根幹を揺るがす事が書かれていて、バチカンが公表を止めるように圧力をかけている」と主張しました。
このバチカン陰謀説は多くの読者をとらえ、ベストセラーになります。
しかし現在、死海文書のすべてが公開されており、その中にはキリスト教の根本を揺るがし、バチカンが隠蔽しようとするような記述は見つかっていません。
しかも研究メンバーにはカトリック教会と無関係な人も多く、研究者の良心に反する指示に従うはずもなかったのです。
それでは死海文書の発表が何十年も遅れた原因はどこにあるのでしょうか?次のことが上げられています。
・膨大な作業とスタッフ不足
死海文書は約900巻の写本や無数の状態の悪い断片があり、再構成や解読、さらには専門的注釈を加える事は、気の遠くなるような膨大な作業量に対し、研究者の数が不足していました。
・秘密主義
初代チームリーダーであったド・ヴォー神父、引き継いだブノウ神父も、その次のストゥラグネル教授も、死海文書の研究が完成し刊行するまでは不公開にするという秘密主義をとり続けました。
・資金不足
ロックフェラー財団からの財政援助は、ロックフェラー二世が死去すると、打ち切られ、資金が枯渇し、各国からやって来た研究者も帰国していき、優秀な研究者を増やすことができませんでした。
・政治情勢の変化
1967年の六日戦争によりパレスチナ考古学博物館はイスラエルに摂取され、反イスラエル・親アラブ的なチームメンバーは研究や発表の意欲は失われたといいます。
20世紀最大の発見といわれた死海文書とは?バチカンの陰謀とは?・まとめ
ともかく、現在では死海文書の全貌を、世界の誰もが見ることができ研究できることになり、世界中の死海文書の研究者たちが、日夜研究に勤しんでいます。
2017年2月にイスラエルのへブライ大学は、クムラン西部の岸壁で、死海文書が保存されていたとみられる12番目の洞窟を発見したと発表しました。11番目の洞窟の発見以来60年ぶりでした。
洞窟からは死海文書を所蔵していた壺や写本を包んでいた布の断片などの遺物は発見されたものの、残念ながら文書自体は見つかりませんでした。
さて、死海文書発見当初は、イエス・キリストの実像や原始キリスト教団の実態が解明されるのではないかと期待されましたが、今のところ、イエスや原子キリスト教団に関する直接的な記述はないようです。
しかし、死海文書と新約聖書に似た内容があることは多くの研究者が指摘するところです。
例えば、死海文書の「義の教師」がキリスト教でいう「メシア」であり、清めの沐浴がキリスト教の洗礼を連想させたり、パンと葡萄酒の共同体の食事がキリスト教の儀式である「聖餐会」につながるものとも考えられ、また「神の子」や「神の国」など新約聖書特有の表現が死海文書にもすでに表れていています。
これらのことからエネッセ派が初期キリスト教団へ移行したという説も出てきました。
もっとも古代ユダヤ教はキリスト教の源流であることは違いありませんので、死海文書の登場により、その関係性が明確に説明できるようになってきたと言うことができます。
今後の研究が期待されますね。
*参考:「パレスチナとはどんなところ?その困難な歴史と現状は?」
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