パレスチナの悲劇とは?その困難な歴史、難民問題と大国の責任とは?

私たちは、パレスチナ難民の窮状とか、イスラエルのパレスチナ自治区への空爆や、パレスチナ側からイスラエルへの報復テロなどを、テレビで見たり、新聞で読んだりします。

私を含め大部分の日本人は、遠い中東で起こっている悲惨な出来事に胸を痛めますが、なぜそんなことが起こっているのかよくわからず、あるいは知ろうともせず、日本に住んでいて良かったぐらいに思うだけに終わっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

しかし、パレスチナで起こっている悲劇は、当事者だけに起因するのではなく、長く複雑な歴史の中で、大国に翻弄され続けた人々の現在なのです。

パレスチナとはどんなところで、どのような歴史をたどってきたのでしょうか?

なぜ、多くの難民がいて、武力衝突が継続して起こっているのでしょうか?

などを、わかりやすく解説してみましたのでおつきあいください。

パレスチナはどこにあるの?どんな国?

パレスチナは、西アジアの地中海東岸一帯に位置し、ヨルダン川西岸地区地中海東岸のガサ地区の離れた二つのエリアからなるアラブ人の国家です。(地図の着色エリア/外務省資料)

 

 

 

 

 

 

136の国連加盟国が国家として承認していますが、主要国は未承認であり、日本も承認していません。

・国土面積は、西岸地区が愛媛県とほぼ同じの5,655km2、ガサ地区は365km2で福岡市よりやや広く、トータルでは茨城県とほぼ同じ6,020km2です。

・人口は約495万人で西岸地区が300万人、ガサ地区が195万人ですが、世界中に離散したパレスチナ人を加えると約1,200万人と言われます。

・人種としてはアラブ人で、言語はアラビア語です。

・宗教はイスラム教が92%、キリスト教が7%です。

・政府所在地は、西岸地区のラマッラに置いています。

・通貨は、イスラエル通貨の新シェケルで1シェケルは約31円です。

パレスチナの歴史とは?古代の興亡は?

パレスチナは、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3大陸の接合部に位置し、古来、交易や軍事の要所として、ペルシア、ローマ、イスラム、オスマン帝国などが次々と進出し、支配者が交替しました。

その中で、中心地・エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の聖地として敬われてきました。

初期にはユダヤ人がこの地域を支配していましたが、紀元1世紀、ローマ帝国の圧政により、ユダヤ人は離散し、その後、この地はアラブ系のパレスチナ人の土地となりました。

その歴史を概略で振り返りますと、

紀元前13世紀ごろには、パレスチナの語源となった「海の民」といわれるペリシテ人が、この地で盛んに活動していました。

その後、紀元前10世紀頃、エジプトで奴隷の境遇にあったユダヤ人が「出エジプト」でパレスチナに戻ってきて、ヘブライ王国を建設します。

ダビデ王の時、エルサレム建設しましたが、やがて王国はイスラエル王国ユダ王国に分裂します。

紀元前8世紀に、イスラエル王国はアッシリアに滅ばされ、紀元前6世紀に、メソポタミア南部の新バビロニアがユダ王国を征服し、多くの住民をバビロンに連行(バビロン捕因)しますが、次にアケメネス朝ペルシャが進出し、新バビロニアを滅ぼしバビロン捕因者を解放しました。

紀元前4世紀になるとアレクサンダー大王の東征によりペルシャを滅ぼし、パレスチナはマケドニアの支配下となり、その後、プトレマイオス朝エジプト、セウコス朝シリアの支配を受けます。

そして、紀元前1世紀にはローマ帝国が進出、パレスチナはローマの軍人ポンペイウスに征服されますが、ユダヤ人のヘロデがローマの元老院よりユダヤ王の称号をもらい、この地区を統治します。

紀元1年、ユダヤ教の改革運動の指導者、イエスローマ総督ピラトにより処刑されました。ユダヤ教指導者たちが「自分を神の子というイエスはユダヤの神を侮辱しており、モーゼの律法により処刑されるべき」と訴えたからです。

このことが、後世、ヨーロッパでユダヤ人が弾圧される遠因となります。

その後、ユダヤ人はローマに対し反抗し、一次、二次ユダヤ戦争を起こしますが、鎮圧され、紀元2世紀、ユダヤ人は、その後2000年にわたり、ヨーロッパを中心に離散します。これを「ディアスポラ(民族離散)」といいます。

 

 

 

 

 

7世紀になると、パレスチナにイスラム帝国が進出、イスラム化し、アラブ人の多数が居住します。

11世紀、ヨーロッパから派遣された十字軍が、キリスト教の聖地であるエルサレムを奪還、キリスト教国家のエルサレム王国を建設しました。

12世紀、イスラム国家アイユーブ朝を創設したサラディンがエルサレムを奪還します。

13世紀にはエジプトのイスラム国家マムルーク朝がパレスチナに進出します。

16世紀になるとオスマン帝国が勃興、マムルーク朝を滅ぼし、パレスチナに進出、第一次大戦でオスマン帝国が崩壊するまでその支配は続くのです。

イスラエルの建国とパレスチナ難民の発生

偽りの約束

19世紀、オスマン帝国の衰退が顕著になってきますとヨーロッパからのユダヤ人の流入が始まります。

その背景にあるのが、ヨーロッパ各国のユダヤ人に対する差別や排除などの反ユダヤ主義です。フランスの「ドレフィス事件」はその象徴的事件でした。

そのためにユダヤ人のなかで、パレスチナへの回帰とユダヤ人国家の建設を目指す「シオニズム」の気運が高まったのです。

1914年、第一次世界大戦が起こると、オスマン帝国はドイツなどの同盟国側で参戦しますが敗北し、バルカン半島、中東の領土を失い、1923年トルコ共和国の建国と同時に滅亡します。

第一次大戦中、イギリスは戦局を有利に進めるため、アラブ人にはオスマン帝国からの独立を約束(フセイン-マクマホン協定)し、ユダヤ人にはユダヤ人の国家建設を約束(バルフォア宣言)します。

しかし密かにイギリスは、フランス、ロシアとはオスマン帝国の分割後の勢力区分(サイクス-ピコ協定)を決めていました。

イギリスは三枚舌外交を行い、アラブ、ユダヤ双方に国家の建設の希望を抱かせたのです。

このイギリスの一貫しないパレスチナ政策こそが今日に至るパレスチナ問題の原因となったといわれます。

ユダヤ人の帰還

1922年、イギリスの委任統治が始まりますと、ユダヤ人は「バルフォア宣言」の約束に基づいてパレスチナに移住してきます。

ドイツでナチス政権が露骨なユダヤ人差別を始めると、さらにユダヤ人の流入は増大します。

一方、アラブ人はユダヤ移民の増加に危機感を強め、やがて両者に武力衝突が起こります。

にもかかわらず、ナチスドイツによる、ユダヤ人絶滅政策から逃れたりして、ユダヤ人の入植者は増大し、一方貧しいアラブ人の中にはユダヤ人に土地を売ったりする者も出てきました。

第二次世界大戦が終わり、ナチスのホロコーストが明らかになると、世界でユダヤ人への同情が集まり、パレスチナへの帰還と、ユダヤ国家の実現は国際的な支持を受けるようになります。

ナクバ(大厄災)

1947年、国連総会はパレスチナをユダヤ人国家が56%、アラブ人国家が44%に分割し、エルサレム、ベツレヘム、ピトジャラは国際管理下に置くという案を可決しました。

1948年5月14日、ユダヤ人はこの案を受諾し、イスラエル国の建国をテルアビブで宣言しますが、パレスチナ人とアラブ各国の同盟組織である「アラブ連盟」は拒否し、第一次中東戦争が起こりました。

戦いは、軍事力と組織力に勝るイスラエル軍が圧倒、国連案を超え、パレスチナの77%をユダヤ人国家として終結、そのため約75万人のパレスチナ人が故郷を追われ、難民となったのです。

この出来事を「ナクバ(大厄災)」と呼び、故郷を失ったパレスチナ難民の心に、この言葉が刻まれました。

2000年前、国を奪われ離散したユダヤ人が、今度はパレスチナ人から国を奪い取ったのです。

アラブとイスラエルの武力抗争と和平への模索

中東戦争

その後、1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言すると、これに反発するイギリス、フランス、イスラエルとの間で戦争が勃発します。これが第2次中東戦争です。

エジプトは、国際世論の支持を背景に勝利し、スエズ運河は国有化され、エジプトはアラブ世界の指導的立場となります。

1967年には第3次中東戦争、1973年には第4次中東戦争が起こり、イスラエルとエジプトを中心とするアラブ諸国との対立は続きました。

1964年にはナセル大統領などの支援により、パレスチナ解放の統合組織としてパレスチナ解放機構(PLO)が結成され、1974年にはパレスチナ人を代表する唯一の政治組織としてアラブ首脳会議で承認されます。

1969年、アラファトがPLO議長に就任すると、過激なテロ活動により、イスラエルに対する攻撃を開始し、イスラエルのロッド空港でのテロ「黒い9月(ブラックセプテンバー)」によるミュンヘンオリンピック襲撃などテロ事件を相次いで起こします。

和平への模索と頓挫

そのような中、1979年、エジプトのサダト大統領は突如イスラエルを訪問、その後アメリカ大統領カーターの仲介でアメリカ・キャンプデービットにおいて「エジプト-イスラエル平和条約」を締結します。

これにより、イスラエルが占領地のシナイ半島をエジプトに返還し、エジプトもイスラエルを敵対しないことで合意し、エジプトとイスラエルの対立は終了し、サダト大統領とイスラエルのペギン首相はノーベル平和賞を受賞します。

しかし他のアラブ諸国や、PLOは強く反発、エジプトはアラブ世界で孤立することになり、サダト大統領は1981年10月暗殺されました。

オスロ合意

一方、PLOのアラファト議長も、サウジなどのペルシャ湾岸産油国の離反からの資金難などを背景としてから、強硬路線から平和路線への転換を図るため、1988年「二国家共存」構想を発表します。

1993年、ノルウェーのオスロにおいてPLOとイスラエルが極秘会談を行い、「オスロ合意」が成立します。

アラファト議長と、ラビン首相が、アメリカ・クリントン大統領の立ち会いの下、初めて握手し、アラファトはイスラエルを承認し、パレスチナ暫定自治協定を締結、ヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスチナ暫定自治政府が設立することを合意するなど、長年の対立は終結するかに見えました。

なお、1994年、アラファト議長と、ラビン首相、ペレス外相にはノーベル平和賞が授与されました。

しかし、パレスチナ内部ではアラファトなどPLOの平和路線に反発するハマスなど新たな勢力が台頭、イスラエル側も、ラビン首相が暗殺され、強硬派のシャロン首相の政権が登場します。

2001年9月、アメリカ合衆国中枢をねらった同時多発テロに対して、アメリカが宣言した「対テロ戦争」を受けて、イスラエルのシャロン首相は、「パレスチナの過激派もテロリストであり、それを取り締まらないアラファト議長はテロ支援者である」と糾弾し、2002年3月、パレスチナ自治区に侵攻しました。

イスラエルはアラファト議長を軟禁し、オスロ合意を死文化し、パレスチナ強硬路線に戻りました。その結果アラファトの政治生命は事実上終わりました。

和平へのロードマップ

アメリカは、アメリカ国内のシャロン政権批判の高まりからパレスチナの和平問題に介入します。

2003年、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ連合(EU)、国連の4者(カルテット)は、イスラエルとパレスチナの双方に、新しい和平へのプロセスとしてロードマップを提示しました。

ロードマップは、パレスチナ過激派の解体とイスラエル側の入植活動停止、イスラエル軍を2000年9月以前の位置まで撤退(第一段階)、2003年中に暫定的な国境をもつパレスチナ国家樹立(第二段階)、国境線の画定と難民問題の解決(第三段階)により、2005年までにパレスチナ国家の正式な樹立などを内容としています。

 

 

 

 

 

2003年6月、ブッシュ大統領、シャロン首相、パレスチナ自治政府のアッバス首相がヨルダンのアカバで会談し、二つの国家の平和共存を目ざし、「中東和平ロードマップ(Road Map to Peace)」を実行することで合意しました。

国連の安全保障理事会も、このロードマップを支持し、イスラエルとパレスチナの双方に履行を求める決議を採択します。

オスロ合意が最終的なパレスチナ国家の樹立に言及していなかったのに対し、ロードマップはイスラエルとパレスチナの二国共存を最終目的とすること、その行程を明確にした点で評価されますが、一方では非現実的との批判もありました。

アラファト議長の死去後、2005年1月に大統領(議長)に就任したアッバスは、翌月にはシャロン首相との首脳会談でロードマップに沿った和平の取り組みを確認、同年9月にはイスラエル軍がガザ地区から撤退するなど、進捗もみられました。

しかし、2006年パレスチナ側では総選挙により対イスラエル強硬派のハマスが政権を奪取、イスラエルもシャロン首相が脳卒中で倒れ、強硬派の発言力が強まり、ガザ攻撃など暴力の応酬が激化します。

ロードマップはその第一段階も達成されていず、パレスチナを廻る紛争は、現在まで一進一退を繰り返しているのです。

パレスチナとはどんなところ?その歴史と困難な現状は?まとめ

パレスチナの歴史は、極めて複雑に重層化しており、短い文章では描ききれないため、最低限の事項を織り込んで簡潔な解説を試みましたがいかがでしたか。

2018年、5月、アメリカはイスラエルの米大使館のエルサレム移転を強行しました。

イスラエルは、エルサレムを首都としていますが、パレスチナ人が住んでいたエルサレムの東側、東エルサレムはイスラエルが武力で占拠した地域で、国連を含め、世界はイスラエルの首都と認めておらず、ほとんどの国が大使館をエルサレムには置いていません。

ユダヤ人はアメリカの政財界に強大な影響力を持ち、常にアメリカの政策はイスラエルに配慮したものですが、それでも、世界のリーダーとして、パレスチナの和平に関与してきました

1978年のカーター大統領が仲介したキャンプデービットでのエジプト-イスラエル平和条約、1993年のクリントン大統領が仲介したオスロ合意、2003年の和平ロードマップを取り決めたアカバ会議でのブッシュ大統領がその例といえます。

しかし、トランプ大統領のイスラエルに肩入れした大使館の聖地エリサレムへの移転は、パレスチナ人だけでなく、中東のアラブ人や世界のイスラム教徒も反発を強めていています。

このことが、アメリカが自ら主導した「和平へのロードマップ」を反故にし、イスラエルとパレスチナの2国共存の実現を遠ざけることにならないよう願うだけです。

参考:「アラビアのロレンス・その栄光と挫折」

参考:「20世紀最大の発見と言われる死海文書とは」



 

コメント

  1. […] *参考:「パレスチナとはどんなところ?その困難な歴史と現状は?」 […]