アフリカ系アメリカ人、奴隷制度と差別の歴史とは?(Ⅱ)

<アフリカ系アメリカ人、奴隷制度と差別の歴史とは?(Ⅰ)からの続きです>

公民権運動の加速化

ブラウン判決、モンゴメリー・バス・ボイコット

1954年、ジム・クロウに法的根拠を与えた「プレッシー判決」を覆す「ブラウン判決」が出されます。

歴史に残る判決と言われ、公民権運動を加速させました。

 

 

 

 

 

カンザス州の溶接工ブラウンは、自分の娘が黒人であることを理由に、近くの学校に通わすことができないのは憲法修正第14条に違反すると訴えました。

連邦裁判所は、「分離すれども平等という論理は認められず、人種による隔離された教育は子供たちの平等な教育機会を奪い、違法である」と満場一致で判決を下しました。

1955年、アラバマ州モンゴメリーでは、黒人女性のローザ・パークスは公営バスの「黒人専用席」に座っていたにもかかわらず、白人の運転手が白人客に席を譲るよう命じたが、パークスがこれを拒否したため、警察官に逮捕され投獄される事件が起きました。

この事件に抗議して、マーティン・ルーサー・キング牧師らがモンゴメリー市民に対して、1年にわたるバス・ボイコットを呼びかける運動を展開しました。

この呼びかけに対して、黒人のみならず運動の意義に共感する他の有色人種、さらには白人までもがボイコットに参加し、後にこの運動は「モンゴメリー・バス・ボイコット」と呼ばれることとなります。

1956年、連邦最高裁判所が「バス車内で人種を分離し、白人の専用および優先座席設定は違憲」とする判決を出すと、アラバマ州をはじめとする南部諸州各地で黒人の反人種差別運動に拍車がかかる事になります。

一般に、反人種差別運動の流れの中で、1954年のブラウン判決から、運動の中心にいた、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された1968年までを「公民権運動」と称しています。

1960年に学生たちが、人種分離がなされているレストランで始めた、非暴力の座り込み運動「シット・イン」は、その後、大規模なものとなり、このような非暴力的手段による抗議活動に賛同した一般市民による同様の座り込み運動も広まっていきました。

一方、これに対して多くの州の警察当局は「治安維持」を理由にデモ隊を過酷に弾圧したため、これに反発した黒人らによる大規模な暴動に発展することもしばしばありました。

これらの非暴力的運動に対する弾圧や暴行は内外のマスコミで大きく報じられ、アメリカにおける人種差別の酷さと、それに対する非暴力的手段による反人種差別運動が世界に知られるようになりました。

1954年の、公立学校における人種隔離を違憲としたブラウン判決以降、全米の学校において長年行われていた人種隔離が廃止されていくこととなります。

しかし、1957年には、ブラウン判決以降も白人しか入学させていなかったアーカンソー州の州立リトルロック・セントラル高等学校への9人の黒人学生の入学を、白人至上主義者のオーヴァル・フォーバス州知事が拒否し、州兵により学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件が起きます。

公民権運動が全米規模で盛り上がりを見せる中に発生したこの事件に対して、反人種差別運動家だけでなく、白人が多くを占めるアメリカ国内の世論、そして連邦政府も反発を見せます。

アイゼンハワー大統領はフォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令しますが、無視されたため、陸軍を派遣し、入学する黒人学生を護衛させます。

9人の黒人学生は無事に入学しますが、白人学生からの執拗ないじめに遭いました。

ワシントン大行進

これらの1950年代から1960年代にかけて起こった人種差別事件と、それに対する世論の反発や連邦裁判所の判決は、これまで孤独な戦いを強いられていた多くの公民権運動家を力づけました。

そして公民権運動は、キング牧師らの呼びかけに応じて、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の参加者を集めた1963年8月28日のワシントンD.C.における「ワシントン大行進」で最高潮に達しました。

この時、キング牧師がワシントン記念塔広場で行った「I Have a Dream」の演説は、アメリカの歴史に残るものとなりました。

公民権法制定

1960年に発足した民主党のジョン・F・ケネディ政権は、公民権運動にはリベラルな対応を見せ、南部諸州の人種隔離各法、いわゆる「ジム・クロウ法」を禁止する法案を次々に成立させます。

1963年11月に大統領に就任したジョンソン大統領は、南部のテキサス州を地盤に持つ「保守派」でしたが元来人種差別に対して否定的な考えの持ち主で公民権法の制定に積極的でした。

ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、世論の高まりもあり、1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになります。

 

 

 

 

 

 

 

1964年には公民権運動に対する多大な貢献が評価され、キング牧師に対し1964年度のノーベル平和賞が授与されました。

その後ジョンソン政権下で、黒人の社会的、経済的地位を向上させるために、役所や企業、大学に黒人を優先的に採用することを義務付ける「アファーマティブ・アクション政策」が取られます。

その後の反人種差別運動

しかし、一部の白人による有色人種への人種差別感情は存在し、公民権法制定後の1965年3月7日には、アラバマ州セルマで「血の日曜日事件」と呼ばれる、黒人の投票権を求めるデモ行進に対して、白人警察官による暴力事件が発生しました。

さらに、南部を中心に、公民権法の制定や人種差別の解消に抵抗するKKKなどの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや暴行、黒人の営む商店や店舗、住居への放火、またそれらに対して白人警察官が傍観するようなことが頻繁に起きます。

一方、反人種差別運動の一部は、公民権法制定以降もなくならない人種差別への悲観と、1968年4月4日のキング牧師の暗殺やベトナム戦争反対運動の影響を受けて、非暴力主義の平和的・合法的な反差別運動から、暴力手段を含めた過激な運動へと変化していきます。

例えば、急進派の「学生非暴力調整委員会(SNCC)」や、共産主義や毛沢東主義などの影響を受けた「ブラックパンサー党」、黒人による独立国の樹立を目指した「新アフリカ共和国」(Republic of New Africa)といった過激派の政治団体が現れました。

キング牧師の暗殺直後には、ロサンゼルスやセントルイスなど大都市圏を含む全米125の都市で一斉に暴動が発生します。

しかし、過激派の活動は一部の黒人から熱狂的な支持を受けたものの、複数の警官射殺事件を起こしたり、政府機関のビル爆破計画の発覚や共産主義との結びつき、リチャード・ニクソン大統領の暗殺を示唆するなどで支持を失い、ベトナム戦争が終結した1970年代中頃になって運動は沈静化します。

公民権法の制定から50年以上が経ち、アファーマティブ・アクション政策や、黒人をはじめ有色人種の社会進出の障壁排除、差別的表現を改める「ポリティカル・コレクトネス」の浸透などで反人種差別の啓蒙が進みました。

さらに2009年、アフリカ系の血を引いた(父親がケニア人)バラク・オバマが白人の対立候補に大きな差をつけて大統領に就任するなど、公民権法施行以前に比べて黒人差別の改善は進んだといえます。

しかし、残念ながら、現実には全米各地で人種差別感情に起因する、白人による黒人をはじめとする有色人種に対する暴力事件や人種差別的な扱いは今も残存しているのです。

1991年、黒人男性が警官に集団で過剰な暴力を受けたにもかかわらず、警官たちは無罪となり「ロサンゼルス暴動」の原因となった、「ロドニー・キング事件」も起きました。


ジューンティーンスとは?

以上、アメリカの黒人差別の歴史を見てきました。

ところで、日本ではそれほど知られてはいませんが、アメリカでは6月19日を「ジューンティーンス」と呼び、全国各地で、パレードやいろいろな行事が行われます。

1863年1月1日にリンカーン大統領は、奴隷解放を宣言しましたが、アメリカ全土では、すぐには奴隷が解放されませんでした。

「ジューンティーンス」は、1865年6月19日に全米で最期になる、テキサス州で奴隷解放宣言が読み上げられた日なのです。

2020年は、黒人男性ジョージ・フロイドさんが警察官の暴行で死亡した事件を機に、各地で人種差別に抗議する動きが高まる最中での6月19日ということもあり、例年より多くの人々が、さまざまな行事に参加し、ニューヨーク市内だけで、およそ100件近くの抗議デモが行われといいます。

そして6月19日に、ビル・デブラシオ市長は、2021年からこの「ジューンティーンス」をニューヨーク市の公式な祝日とし、公立学校の休日にすると宣言し、ニューヨーク州のクオモ知事も、この日を休日にする法律を導入すると明言しました。

 

 

 

 

 

アメリカ国民にとって、「ジューンティーンス」が祝日として公式に定められることの重要性は、「Black Lives Matter」の抗議デモが続いているなかで、さらに高まっています。

「ジューンティーンス」が400年間以上続いているこの国の不幸なシステムを、本当に変えていかなければならないという人々の想いにあふれる日になればいいですね。

<アフリカ系アメリカ人、奴隷制度と差別の歴史(Ⅰ)にもどる>



 

『先端技術・イノベーション領域に強い転職コンサルティングサービス【Kaguya】』

<参考:アメリカ黒人の歴史:ジェームズ・M・バーダマン/NHK出版>

スポンサーリンク
時事
スポンサーリンク
スポンサーリンク
シェアする
shinestoneをフォローする
ブログ ホームズの眼

コメント

  1. […] <アフリカ系アメリカ人と差別の歴史とは?(Ⅱ)につづきます>   […]