香港の民主化運動はなぜ続く?香港の歴史との関連は?台湾・総統選挙への影響は?そして香港の今後は?

時事

民主化運動が続く香港ですが、1月19日も15万人の市民が「迫害」を続ける香港政府や警察に対する国際社会の「制裁」を求め、デモを行いました。

市民は「香港を取り戻せ」とシュプレヒコールを上げ、行政長官選出における普通選挙の実施などの「民主的政治改革」を求めたほか、聞き入れられなかった場合、国際社会による政府高官らに対して制裁措置を加えるよう訴えました。

しかし警察側はデモの排除に催涙弾を使用し、デモ隊の一部が過激化し、火を放ったり、信号機を破壊したり、けが人や逮捕者が出ていると報道されています。

どうして、香港の市民があんな激しい反対運動を行うのか、暴力的な振る舞いへ目が行きがちで、多くの日本人には理解できていないところもあります。

香港市民の激しい民主化運動を理解するためには、香港の歴史をふりかえり香港の置かれた立場自由を失うことへの恐れを理解することが必要です。

一方2020年1月11日台湾での総統選挙で民進党の蔡英文総統が国民党候補 を破り再選を決めました。

1年前は国民党候補に大差での負け予想の蔡総統が逆転勝利したのは、香港の民主化運動の影響が大きいといわれています。

そこで、香港のイギリス割譲と中国への返還までの経緯や民主化運動の源流、そして台湾総統選挙への影響などについて、まとめてみました。

イギリス領有と返還までの経緯

香港市民の自由への戦いは、アヘン戦争でイギリスの植民地となった時から始まります。イギリス領有から返還までの経緯を見ていきましょう。

イギリスの香港支配の経緯

18世紀末、イギリスはインドの東インド会社を拠点として、中国貿易を展開しました。

当時中国は清朝の衰退期にはいっていました。

しかし、イギリスは本国で大人気の中国茶や陶器の輸入超過を打開するため、 インド製のアヘンを持ち込み、貿易収支を改善しようとします。

アヘンは清国内に蔓延し中毒患者の続出と代価となる銀の流出は清朝の衰退に拍車がかかりました。そこで清朝はアヘンの規制を行い、輸入禁止と密貿易の取り締まりを強化します。その結果、貿易現場で英中の小競り合いが続発します。

1840年、ついに武力衝突により戦争状態となりました。これがアヘン戦争です。

イギリスはすぐさまインドより東洋艦隊を派遣し、その圧倒的な軍事力の前に、清は敗北します。その結果1842年南京条約が結ばれ、多額の賠償金に加え、香港島はイギリスに永久割譲されてイギリス領となりました。

さらに1860年には清とイギリス・フランス連合軍とのアロー戦争(第二次アヘン戦争)が起こり、連合軍は大軍を動員し北京を占領したため清は降伏。北京条約により、イギリスには九竜半島の南端も割譲されることになりました。

さらに1898年には第二次北京条約により、英領以外の九竜半島と島部などが99年間のイギリスが租借することになり、この地域のイギリス支配が確立したのです。

中国への返還まで

その後、1941年から1945年までの日本軍の香港占領の期間を経て、第2次世界大戦後もイギリスの領有は続きました。

1949年、中国本土は共産党政権が支配する中華人民共和国が建国されました。中国は香港の主権を棚上げしてイギリスとの国交樹立を求めたためイギリスも西側として最初に国家承認をしました。

1982年にイギリスのサッチャー首相は中国を訪問し、中国に香港領有の延長を提案します。その時サッチャーは交渉を楽観視していたといわれています。

しかし、当時の中国の権力者、鄧小平は、イギリスが期限どおりの返還されない場合は武力を行使しても奪還すると強行姿勢で拒絶します。

1984年、イギリスはやむなく要求を受け入れ、1997年7月1日をもって香港は中国に全面的に返還されることが決定されました。

ただ鄧小平は香港には「一国2制度」を採用し、社会主義政策を2047年までの50年間は実施しない約束します。

1992年、最後の総督、クリストファー・パッテンが着任し、選挙制度などで香港の民主化を推し進めました。これは多くの香港市民に大きな支持を得たものの中国政府は反発し、英中対立のまま香港返還の日がやって来ました。

英国領有下での香港の発展と自由意識の醸成

このように、香港は1842年から1997年まで、日本軍の占領期間をのぞいて約150年間、イギリスの領有下にありました。

植民地の香港には民主主義はなくイギリス人が優遇され、彼らの生活を中心として町が建設され制度が作られました。香港人に主権はなく支配層に抵抗する香港市民は弾圧されました。

しかし、イギリスの植民地統治の目的は自由貿易にありました。イギリスの統治方針である自由放任政策のもと、香港は極東の貿易拠点として発展します。

移民の規制もありませんでしたので、動乱が続く母国から多数の中国人が貧困や迫害を逃れるため流入してきました。知識人や革命家も香港を活動の拠点としたため進歩的な考えも広がりました。

例えば中国の国父、孫文は、香港大学で中国人として最初の医学博士となり「わたしの革命思想は香港から生まれた」と晩年に語っています。

香港は、清朝や周辺の独裁国家の圧政下での生活と比較すると、言論・表現はそれほど制限されず、経済活動も自由で、経済的に実力をつけた華人(中国系住民)の中には統治機構へ参画する者も現われました。イギリスの福祉国家政策も香港に波及し児童保護、労働者保護法なども整備されます。

第二次世界大戦後も中国本土の共産主義政治を嫌った、資本家、技術者等が難民となり、自由を求めて香港に入ってきました。

1967年文化大革命でも多くの人が香港に逃れ香港の人口は急増します。

こうして香港は、イギリスや諸外国の中継貿易の拠点から、アジアの金融センターへと発展・変貌を遂げ、国際自由都市として繁栄します。

イギリスに割譲した当時の香港は人口1万人足らずだったといわれていますが、返還時は650万人と世界有数の人口密集地域となりました。

このようにイギリス支配の香港市民には民主主義はなかったものの、中国にはない自由があり、香港市民の民主主義意識が醸成されていったのです。

香港返還と民主化運動

ですから1982年香港の中国への返還が決ると、多くの人々が、旧英連邦のカナダやオーストラリアなどへの脱出をはかりました。

1989年、中国で天安門事件が起こると、香港市民は中国の圧政による返還後の香港に危機感を覚え大規模なデモを起こします。また再び、移民ブームが起こり、将来を悲観した香港市民が大量に欧米などに移民し、頭脳流失が問題となりました。

しかし1990年、香港を高度な自治権を有する特別行政区とし50年間資本主義が維持されることを明文化し、行政長官の普通選挙を期待できる香港基本法が制定されると香港市民の懸念も一応沈静化しました。

民主派は、1991年の初めての立法評議会の一部議席で実施された普通選挙において、地滑り的な圧勝を収めます。

しかし、1997年、中国は、香港が返還されると、即座にパッテン総督がすすめた民主的な立法評議会を解散し、全議席中国が選んだ臨時立法府を設置し、香港支配を強化します。

2003年の返還記念日、香港市民は行政長官と立法会の普通選挙を求める50万人のデモを起こしましたが中国政府が認めることはありませんでした。

その後中国政府は一転、行政長官の普通選挙を2017年に行うと決定しました。しかし、中国政府は香港基本法を都合良く解釈し、この選挙に出馬するには北京の影響下にある選定委員会の承認を必要としたのです。これは普通選挙ではなく中国寄りの者だけが行政長官に選出されることになりました。

2014年、若者を中心とした市民の激しい反対デモがおこりました。79日間もの街頭を占拠するという激しいものでした。警察の催涙スプレー弾を防御するため黄色い傘をかかげてデモをしたため雨傘運動といわれました。

その後、香港では中国に批判的な書籍を扱う書店の店長ら5人の拉致事件中国富豪が香港のホテルから中国本土に拉致されるという事件などが起こり香港市民のさらに危機感は高まります。

そして今回の事件ですが、2019年2月に香港政府は「逃亡犯条例」改正案を公表しました。海外で犯罪を起こした人間を外国に引き渡すことができるという法律改正です。

この法律で中国政府を批判する香港市民を中国政府へ引き渡される懸念が出てきました。

そのため香港市民は200万人を超える反政府デモを起こしました。

香港議会の一時占拠、香港国際空港の占拠など事態は次第に激化したため、9月、香港政府はついに「逃亡犯条例」改正案の撤回を発表します。

しかし、デモは収束せず、民主派は五大要求全体(逃亡犯条例の撤回、デモの暴動認定の取消、警察の暴力の調査、逮捕者の釈放、普通選挙の実現)の受け入れを要求し、デモの継続を宣言して収束する気配はありません。


台湾総統選挙への影響は?

2020年1月11日、台湾の総統選挙は現職の蔡英文氏が勝利を収めました。前回より130万票も多く、820万票獲得し圧勝でした。

しかし1年半前の蔡総統の支持率は20%で再選は危ぶまれていました。
半年前の2019年7月のテレビ局の調査でも国民党韓候補の支持率が48%、民進党蔡候補は44%と韓候補がリードしていました。

しかし、結果は蔡候補が57%の得票率で820万票、韓候補は39%で550万票と逆転勝利でした。

台湾市民の世論を一気に変えたのが香港の民主化デモです。

2019年6月16日、香港での200万人規模の抗議デモと、警察の容赦ない暴力による取締まりに、台湾市民の中国の「一国二制度」に対する恐怖が高まりました。

そういう状況の中で、今回の総統選は、世界第2位の経済力を持つ中国と関係を強化して経済を向上させるのか、自主独立の道を歩むかの選択でした。

前者を主張する韓候補に対し、蔡候補は中国が押しつけようとする「一国二制度」による中台統一を拒絶しました。

蔡候補は,明確に香港の反対運動に共感と支援の姿勢を示し、「一国二制度」の危うい正体を強調、「台湾の主権と民主主義を守ろう」と訴え圧勝したのです。

香港はどこに行くのか?

今後、香港はどうなるのでしょうか。「一国二制度」を拒否して当面の自主独立を守った台湾に対して、「一国二制度」が適用され、中国の特別行政区である香港の行く先は非常に厳しい状況にあります。

今回の民主化運動がどのような結論を迎えようと、中国が決めた「一国二制度」の期限は27年後の2047年にまちがいなくやって来ます。

その時、中国の方針が変わっているのか、香港が共産主義政権下の一都市となっているのか、今の時点では想像がつきません。

「自由は抑圧する側からは自発的に与えられない。抑圧される者が要求しなくてはならない」とはアメリカのキング牧師の言葉です。

香港の市民は、このキング牧師の言葉のとおり、みずからの力で自由を要求していくのでしょうね。

今後も香港市民の厳しい戦いは続くのでしょうか。

最後までおつきあいありがとうございました。


 



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