1935年5月13日、トマス・エドワード・ロレンスは、自宅近くの郵便局で、友人の作家、ヘンリー・ウィリアムソンに電報を打ち、帰路オートバイを走らせていました。
途中、丘陵の急な下り坂にさしかかったとき、自転車に乗ったふたりの子供に気づきます。
ロレンスは急いで子供を避けようとしましたが間に合わず、ひとりをはね、オートバイを転倒させ、地面にたたきつけられました。
その際に頭部を強打し、気を失って陸軍病院に運ばれます。
しかし6日後、ロレンスは意識を回復することなく息を引き取りました。享年46歳でした。
「アラビアのロレンス」の死は、突然に、そしてあっけなくやって来たのでした。
ロレンスはこの年の2月にイギリス陸軍を退役し、イングランド南部のクラウズ・ヒルのコテージで文筆生活を始めたばかりでした。
第35回アカデミー賞を受賞した映画「アラビアのロレンス」はこのようなロレンスの最期のシーンから始まります。
ウィンストン・チャーチルが「われわれの時代の最も偉大な人物のひとりだった」と惜しんだT・E・ロレンスの栄光と挫折についてまとめてみました。
T・E・ロレンスの生い立ちとアラブとの出会い
後に「アラビアのロレンス」と呼ばれたトマス・エドワード・ロレンスは1888年、イギリス・ウェールズのトレマドッグに産まれました。
父は准男爵、トマス・ロバート・チャップマンといい、妻エディスの間に4人の娘がいたのですが、娘たちの家庭教師セァラ・ロレンスと駆け落ちし、セァラとの間に5人の男子をもうけ、次男がトマス・エドワード・ロレンスでした。
正妻のエディスはかたくなに離婚に応じなかったので、父母は終生、内縁関係を続け、ロレンスは私生児のままで、母方のロレンス姓を名乗りました。
セァラは自分自身も私生児で、道徳的な負い目を感じていた分、子供たちへの躾について異常に厳しい態度をとったことがロレンスの人格形成に大きな影響を及ぼしたといいます。
1907年、ロレンスはオクスフォード大学に入学、有名な歴史学者ホガースに出会い、考古学を専攻します。
ロレンスは学校に通うよりも自転車でイギリス国内を走り回り、中世の城郭を調査することに日々を費やしました。
特に1908年、1909年の夏休みには、ひとりでフランスやシリアの旅をしています。
軍事用建造物研究をテーマとして、フランスの城塞や中近東の十字軍に関係する城址を見ることが目的でした。
1909年の中東への旅は、その後のロレンスのたどった行動に大きな影響を与えます。
ベイルートに向かう船上でアラビア語を懸命に勉強し、上陸してからは現在のパレスチナ、レバノン、シリアなど1800キロを徒歩で歩き回るという危険極まりない3週間の徒歩旅行を決行します。
それは安易な観光旅行ではなく、辺境の僻地を歩き回り、現地の不衛生な食物を手づかみで食べ、食あたりを頻繁に起こしたり、強盗に襲われ石で殴られ昏倒したりするというひどい旅でした。
しかしその結果、ロレンスは帰国後に提出した論文で最優秀学位を得ました。
1910年に大学を卒業すると、師のホガース博士の誘いで博士が大英博物館の委嘱で計画していた古代ヒッタイトの都市カルケミシュの遺跡を発掘する調査団に加わります。
ロレンスは、オクスフォードで学んだ考古学的知識、優秀なカメラマンとしての腕により発掘事業に貢献しますが、特に学生時代の旅の経験や物怖じしない性格により、現地住民の労働力を段取りするという仕事で活躍しました。
カルケミシュでの生活は、発掘作業と休日には近辺の旅行による見聞を広めたりして、ロレンスにとって充実した日々だったようです。
ロレンスは、この期間にアラビア語の方言を習得し、アラブ人の生活になじみ、彼らとの付き合い方も覚えます。
ロレンスが充実した生活を過ごすことができたのは、この時出会ったアラブ人少年ダフームのおかげだったといわれています。
ロレンスはダフームを親密に指導しカメラマンとして育てますが、ダフームはその後もロレンスを助けることになり、立場や人種を越えた友人関係を築くことになります。(実際はそれ以上で同性愛の関係にあったという説もあります)
アラブの反乱・アラビアのロレンスの誕生
1914年7月、オーストリアの皇太子夫妻の暗殺をきっかけに第一次世界大戦が勃発、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国側とドイツ、オーストリアの同盟国軍との戦端が開かれました。
オスマン・トルコ帝国はこれまでドイツの指導のもとに軍備の強化を行ってきたため、同盟国側として参戦し、英仏と戦争状態となります。
当時、中東はオスマン・トルコ帝国に支配されており、アラブ民族はその圧政下にありましたが、オスマン・トルコの衰退とともに、独立を勝ち取ろうという動きが活発となっていました。
一方イギリス、フランス、ロシア、ドイツなど欧州各国は中東に進出しようという野心を隠していませんでした。
したがってトルコが参戦したことで、欧州各国に中東進出の口実を与え、領土的野心を実現する千載一遇の機会が訪れたことになります。
特に、イギリスはインドへのルートを維持するため、シリアからアラビア半島にイギリスの勢力下でアラブ民族の国家を作り上げ、安全保障を確保しようと青写真を描いていました。
そこで、イギリスはその構想を実現し、将来の中東での優位性を確保するために、アラブ民族が蜂起し、イギリスへ軍事的支援を求めてくることを期待していました。
1915年、イギリスはアラブ人の決起を促すため、アラブ民族の中心人物、フサインに書簡を送り、オスマン・トルコの支配下にあったアラブ地域の独立とアラブ人のパレスチナでの居住を約束します。
これが有名な「フサイン・マクマホン協定」です。
この時期、オックスフォードに戻っていたロレンスは、彼の中東での経験と知識を活用すべきというホガース博士の推薦により陸軍参謀本部の地図課に採用されます。
しばらくの間、当時世界でも最も重要地域だったスエズ運河を含めたシナイ半島の地図の作成業務に従事していましたが、12月には彼はアラブ地域の諜報活動を行うために新設された情報部に異動、カイロに赴任します。
1916年3月、ロレンスは、メソポタミアでトルコ軍に包囲された1万人のイギリス軍を脱出させるため、トルコ軍司令官に賄賂を渡して交渉するよう命じられました。
この任務は軍の名誉を毀損するものとして反対も多く、これを受けたロレンスには周囲より侮蔑の言葉が投げつけられましたが、ロレンスは平然と敵の司令官に会いに行きます。
ロレンスは1915年に弟のウィルとフランクがヨーロッパ戦線で戦死するという悲劇に見舞われ、これをきっかけに、どんなに危険で汚れた任務でも向かっていくようになったといわれます。
この交渉はトルコの司令官から拒否され、彼は勝手に2倍の金額を提示しますが、妥結させることはできず、ただ1000人近いイギリスの負傷兵とトルコ兵捕虜との交換のみが実現したのでした。
しかし、ロレンスが最も失望したのは、この任務の間に情報収集してみると現地のイギリス・インド軍はアラブ民族を下に見ていて、本気で彼らと提携してトルコ軍に対峙する意思がなかったことでした。
ロレンスは、やがてアラブ民族を功利的に利用するのではなく、彼らの民族自決という大義のために活動したいという思いを強くし、この思いはロレンスの信念になります。
ロレンスはカイロに帰ると歯に衣着せず批判的な報告書を提出、これは軍内部に大きな反発を巻き起こし、ロレンスは情報部から新しくできたアラビア局に配転させられます。
1916年6月、ついにアラビア人の反乱がメッカとメディナで勃発します。
反乱の首謀者は、予言者モハメットの子孫である「シェリフ」の中でも有力者「アミール」のフサイン一族でした。
フサインとその息子たち、アブドラー、ファイサル、アリーはメッカ、メディナで部族民を指導して蜂起し、当初はオスマン・トルコ軍に勝利しますが、やがてトルコ軍の圧倒的な武器と兵力の前に歯が立たず、勢力を後退させます。
1916年10月、ロレンスはある構想を持って10日間の休暇を取りアラビア半島のジッダに向かいます。
目的はアラブ民族の首領フサインに会い、反乱軍の指導者は誰がふさわしいのか確認し、今後の戦略を議論する事でした。
ロレンスはフサインとの会談を果たし、さらに広大な砂漠の中を三日三晩、昼夜強行の旅を行い、ハムラにいるフサインの三男ファイサルに会いに行きます。
そしてロレンスは疲労困憊の後ハムラに到着すると、野営テントの中でファイサルと会います。
この時、31歳のファイサルと28歳のロレンスの運命的な出会いがその後の世界史を変えることになりました。
ロレンスは、長身の物腰は静かでしかし旺盛な気力が溢れた、この貴公子をひとめ見て、この人物こそアラブの反乱を指導し勝利に導く人物と確信します。
一介の青年将校であるT・E・ロレンスがアラブの反乱に身を投じようと決意した瞬間でした。
ロレンスはカイロに帰り、司令本部に対し、ファイサルを中心としたアラブ民族主義を尊重し、海軍からの軍事顧問の派遣と物資援助でアラブの反乱を支援することを提言し、認められると自らアラブ軍の軍事顧問となります。
こうして、「アラビアのロレンス」が誕生したのです。
アラビアのロレンス・戦いと栄光の日々
このときから、1918年にわたる2年間、ロレンスはアラブ軍とともに戦場で暮らし、ともに戦い続けますが、その戦いの内容は後の著書「知惠の七柱」に詳しく記述しています。
ロレンスはアラブの反乱軍とトルコ軍の軍事力の差が予想以上であることを知り、戦況を好転させるべく神出鬼没の機動力を生かしたゲリラ戦を展開します。
特にダマスカスからシリア、ヨルダン、アラビア半島のへジャーズを横断し、聖地メディナへ至る「へジャーズ鉄道」はトルコ軍の兵站・物資供給ルートであり、ロレンスはゲリラ部隊を率いて、何回もこの鉄道を爆破します。
そのため、ロレンスはアラブ人の間で「ダイナマイト王」と呼ばれたりしました。
この作戦は、結果としてトルコ軍の勢力を鉄道に引きつけ、イギリス、アラブ軍のシリアやパレスチナへの攻撃を容易にします。
さらにロレンスはトルコの支配下にあった重要な軍事拠点、アカバ港を攻撃する計画を立てます。
アカバ港はエルサレムに侵攻するためには、落とさねばならない敵側の要塞でした。
ロレンスが考えたのは、アカバ要塞は砲台が海に向けられているため大砂漠を横断し、背後から攻撃するという前代未聞の奇襲作戦でしたが、司令本部はこの作戦を非現実的と反対します。
しかし、ロレンスは上層部の意向を無視し、50人ほどのアラブ人とともに砂漠を北上し、途中で近辺の部族を加え、2ヶ月の行軍を敢行、アカバを見下ろす高地に到着すると、なだれを打って下り、オスマン軍を一斉攻撃し、あっという間に制圧します。
砂漠民族の力を知っているロレンスだからこそ可能なこの作戦は見事に成功をおさめ、弱冠28歳のアラブ軍事顧問ロレンスは一躍、軍内部での評価を上げることになりました。
アカバを攻略すると、イギリス軍のエルサレム侵攻が計画され、ロレンスはアラブ軍のみでの攻撃を主張しますが、イギリス軍責任者アレンビー将軍に否定されます。
そこで、ロレンスは、アラブ軍を率い、自らの危険を顧みず、先頭に立って出撃し、ゲリラ攻撃を盛んに行い、一番乗りを目指しました。
このようなロレンスの向こう見ずな行動は、数々の身の危険を招きます。
例えば1917年11月、へジャーズ鉄道沿線のデラアを大胆にも一人で偵察していたとき、トルコ軍の捕虜となります。
トルコの司令官の前に引き立てられると、驚くことにその司令官は同性愛を求めロレンスがそれをはねつけるとトルコ兵たちから殴る蹴るの激しい暴力を受け最終的に性的辱めを受けたといいます。
ロレンスは肉体的苦痛にもかかわらず脱出してアラブ軍に歩いて帰ることができたのですが、生涯長く心理的傷跡を残したようです。
イギリス軍によるエルサレムの陥落はこの事件の3週間後でした。
イギリス軍のアレンビー将軍は12月11日、エルサレムに入城し、ロレンスも同行、エルサレムが十字軍以来730年ぶりにキリスト教徒の手に戻った瞬間を目撃したのでした。
しかし、ロレンスにとってはファイサルをシリアの中心都市ダマスカスにイギリス軍より先に入城させることが最大の望みでした。
そのためにファイサルを盟主とするアラブ軍の軍勢の強化などダマスカス総攻撃の準備に奔走します。
アレンビー将軍は、アラブ軍をイギリス軍の後方支援に廻るように指示しますが、それではロレンスの夢は実現されません。
ロレンスはアラブ軍全軍を挙げたダマスカス総攻撃を主張、アラブ反乱軍の侵攻を早めます。
そして、ロレンスの計画どおりアラブの反乱軍はイギリス軍に先んじて総攻撃に突入し、酸鼻を極めた戦いの後、アラブ軍は勝利を確実のものとします。
1918年10月1日、ついにトルコ軍はダマスカスを放棄、ファイサルはフサインの名の下に独立国シリアの樹立を宣言しました。
ロレンスにとって最大の目標が実現した瞬間でした。
ファイサルは市民の熱狂的な歓迎を受けてダマスカスに入城しますと人々のアラブの指導者の名を叫ぶ声に混じってロレンスの名も繰り返されたといいます。
ダマスカスを攻め落とし、ファイサルとの約束を果たすことができたロレンスは無上の満足感を覚え、この地にファイサルを中心としてアラブ民族の国が建国されるものと確信しました。
ロレンスの挫折とアラブ支援活動
ところがロレンスのその望みは無残にも崩れます。
ファイサルはイギリスとの約束通り、ダマスカスに入城するとシリアの独立宣言を行います。
しかし、イギリス、フランス、ロシア3国の間で、すでにアラブ地域の分割統治が話し合われて、秘密裏に「サイクス・ピコ協定」が結ばれていて、ダマスカスを含むシリア北部はフランスの植民地とされ、そこにアラブ国家が誕生する余地はなかったのです。
ファイサルはこのことを知るとイギリスの背信行為に憤慨し、ロレンスと目を合わせることもせず、アラブの長としての威厳を保ちながらダマスカスを去ります。
ロレンスは自分が国家による詐欺行為の片棒をかつがされ、ファイサルとアラブ民族を裏切ったことに大きなショックを受け、憤懣と悲しみの淵に沈みます。
ロレンスは長く続いた激しい戦い受けた負傷や肉体的な疲労で体重は37キロまで落ち、精神的な消耗でこれ以上アラブに留まることは耐えがたく、ダマスカス陥落の3日後、傷心のままその地を去るのでした。
現在ではロレンスは、以前からこの密約を知っていて、ファイサルに対しする背信行為に悩みながら戦い続けていたのではないかとされます。
ロレンスは晩年、密かにマゾヒスティックな鞭打ちをされる行為を習慣化していたと言われます。
その遠因として、私生児として罪の意識を持ち続けた生い立ち、厳しい母親の躾、アラブでの屈辱な捕虜体験に加えアラブの人々を裏切ったことに対する心の痛みなどが鞭打ちされたいというマゾヒスティックな行為に向かわせたのではないかと説明されています。
ただロレンスはイギリスに帰国してもアラブ人への思い失ってはいず、いろいろな場でアラブ民族の国家建設を訴えます。
ロレンスのこれまでの功績に対し叙勲が決っていましたが、自分に裏切り行為を強いた国家から褒章を受けることをいさぎよしとせず、それを拒否し、また国王ジョージ5世に拝謁した際にも自説を述べ政府を怒らせます。
ロレンスはアラビアでの活動を回想した「知恵の七柱」を発表し、そこでもアラブへの思いを綴ります。
一方、アメリカ人の従軍記者ローウェル・トーマスによって行われたスライド・ショー「パレスチナでアレンビーとともに」で、アラブの乱でのロレンスの活躍が紹介されたことがきっかけで「アラビアのロレンス」という名が世界中に知れわたりました。
ロレンスはインタビューを求めるメディアにも積極的に会い、罪滅ぼしのようにアラブ民族国家建設の意義を力説します。
1919年、ロレンスはヴェルサイユ講和会議に出席し、同じく出席していたファイサルに再会、通訳を買って出ますがこの会議ではイギリス、フランスなどの中東における権益を確認しただけでした。
しかし、中東ではアラブ人たちが独立を求め反乱が頻発し、イギリス政府はその対応に苦慮し、ロレンスの意見はやがて政府部内でも浸透していきます。
1920年、植民地相に就任したウィンストン・チャーチルは、ロレンスを中東問題の政治顧問に指名し、翌年イギリス統治下にあるアラブ地域の将来を検討するカイロ会議を開催しました。
そして、この会議でイギリス政府は「イラク王国」を建設し、ロレンスが強く推奨したファイサルを国王として迎えることを決定します。
ロレンスはそんの決定を自らファイサルに連絡しました。
砂漠の地で二人が初めて出会い、そこでロレンスがファイサルに約束した広範なアラブ民族の国家建設は道半ばながらもこのような形で実現したのでした。
アラビアのロレンス・その栄光と挫折・まとめ
その直後、ロレンスは軍隊への復帰を望み、政治顧問を辞して偽名で空軍に一兵卒で入隊しますが、ロレンスと正体が判明すると除隊の処分を受けます。
その後、陸軍に入隊を許され、ホバー・クラフトの開発やバイクの開発などに携わります。
1935年、軍を去りますが、それからわずか3ヶ月後の5月13日、彼は愛車のバイク、ブラフ・シューペリアで走行中、不幸な事故を起こし19日にこの世を去りました。46歳という若さでした。
ロレンスの死がアラブに伝わった時、アラブ人の中にはロレンスはどこかに生きていて、将来アラブ民族の危機があればまた必ず救世主となって現われるはずだと語る人もいたといいます。
しかし、その後のアラブの歴史は現在に至るまで混迷が続いていていることは誰もが知るところです。
ロレンスの再来を信じたアラブ人の願いは叶わなかったのです。
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