続日本紀の記述によると聖武天皇の御代、727年(神亀4年)10月4日、東北の出羽国に見慣れぬ風貌の男たちが現われます。アジア北東部に存在した大国・渤海国から派遣された使節団でした。彼らは将軍高仁義を大使とする24人で出発し強風と海流に流され蝦夷地に漂着します。ところがその地に住む蝦夷(えみし)に襲われて大使の高仁義を含め16人が殺されました。残った8人はからくも蝦夷地を脱出して南下し現在の山形県酒田市付近にあった出羽国国府に到達します。その後、彼らは官人の計らいにより国王の親書や献上品を携えて平城京に入ったのです。この出来事がその後200年に及ぶ我が国と渤海国の交流の始まりとなりました。
当時、我が国は630年に始まる遣唐使の派遣が続いていましたが、その朝貢外交は838年(承和5年)まで続き、894年(寛平6年)に56年ぶりの派遣が計画されたものの大使に指名された菅原道真の上申により中止が決定します。したがって838年から約100年は渤海国のみが我が国の唯一の外交相手となり親密な交流を続け、渤海国を通して唐などの政治・文化の情報を取り入れていたのです。
ところが不審なことに日本史や世界史の教科書には渤海国について一言二言触れるのみでほとんど記述されていませんし詳しく教えられることもありませんでした。まさに歴史の記憶から消滅したような存在でした。それは何故なのでしょうか。そして渤海国とはどういう国で我が国はどのような交流をしたのでしょうか。

渤海国の誕生から滅亡までの200年
渤海国は7世紀末から10世紀初めごろ、現在の中国の北東部である吉林省、黒竜江省、遼寧省、およびロシア沿海部、朝鮮半島北部に広がる巨大な古代国家でした。
実は「渤海国」に関する史料はその滅亡の際に徹底的に破壊されたのか、自ら記した記録や史料類は全く残されていません。かろうじて唐の史書「旧唐書」、「新唐書」の「渤海伝」などにわずかに記載されているのみで多くの情報はこれらの書に頼らざるを得ない状況なのです。しかし近年これらの史料解析や考古学的発掘の成果により失われた王国の姿がわかってきました。
渤海国の建国
紀元前1世紀頃に北東アジアに建国された高句麗は、4世紀末に「好太王の碑文」で有名な好太王が現われ強大な大国となり中国の北東地域の辺境を脅かします。そのため隋やその後の唐はその対策に苦心し頻繁に高句麗討伐の遠征軍を派遣しますが長い間制圧することはできませんでした。
しかし7世紀後半、新羅が唐の支援を得て百済を滅ぼし、白村江では倭国を撃退して朝鮮半島の南半分を統一するとさらに半島全体の支配を目指します。唐はこれを奇貨として新羅とともに高句麗を挟撃した結果、668年に高句麗はついに滅亡しました。
唐は生き残った旧高句麗の王族や高句麗に従属していた靺鞨族(マッカツゾク)の族長たちを俘虜とし、中国・営州(現在の遼寧省朝陽)付近に強制移住させます。靺鞨族とは当時中国東北からロシア沿海部にかけて広く居住していたツングース系の農耕漁労民族で栗末靺鞨(ゾクマツマッカツ)と黒水靺鞨(コクスイマッカツ)を主要種族とし、高句麗に従属していたのは栗末靺鞨といわれました。
ところが698年にこの地で同じように流謫されていた契丹人による反乱が起こると旧高句麗王族と思われる乞乞仲象(コツコツチュウショウ)は高句麗の生き残りや靺鞨族を率いて反乱に加わり、奥深い山岳地帯に根拠を築いて唐(正確には当時は則天武后治政の周)の討伐軍に激しく抵抗しました。唐軍はなんとか契丹勢力を潰滅させますが、乞乞仲象率いる反乱軍には苦戦を強いられ討伐をあきらめます。 その結果898年、乞乞仲象の子・大祚栄は現在の吉林省・敦化市の東牟山付近を都府として「振(震)」という新しい国を起こしました。これが後に渤海とよばれる国の建国です。
大祚栄とその中心勢力が旧高句麗人だったのか、あるいは栗末靺鞨人であったのかは、実のところはっきりしていません。旧唐書では大祚栄を高句麗の別種と言い、新唐書では栗末靺鞨の乞乞仲象の子と述べており、このことが現代政治と絡まって中国側と南北朝鮮側のあいだで大論争となっています。 というのは建国者の主要勢力が旧高句麗系だとすると渤海国は朝鮮民族の国家であったことなり、靺鞨系の国家とすると後年金や清を建国した女真族につながり中国人の国家だったということになるわけで、そのことは自国の歴史を飾り、現代におけるこの地域の影響力を強化することになるからです。
渤海国の盛衰
初代国王大祚栄は官制や軍事力を増強するとともに西の突厥や南の新羅とも友好を図り唐との抗争に備えます。しかし則天武后の子・中宗は宥和策に転じて大祚栄に使者を送り唐への服属を促すと、大祚栄も国の基盤整備を優先し中宗の申し出を受け入れ次男・門芸を人質に送ります。さらに713年には次の皇帝・玄宗による冊封(サクホウ)を受け入れ「渤海郡王」という名を与えられたため国名も「渤海」と称することになったのです。渤海という名の由来は遼東半島と山東半島間の内海を渤海と呼び、その沿岸地域は前漢の時代から渤海郡が設置されていたことによります。
大祚栄の後を継いだ2代目の王・大武芸は領土拡大を推進し、唐に対抗して独自の年号を定めるなど野心的な王でした。大武芸は南部は今の平壌あたりまで広げ、さらに北部に勢力を持つ黒水靺鞨への侵攻を目指します。しかし渤海国の拡大を懸念した唐が反対し、かつて唐の人質であった弟門芸も唐に忖度して諫めたため兄弟は対立し門芸は唐に亡命します。その結果、渤海国は唐、黒水靺鞨、新羅の周囲網に対峙することになりました。そこで大武芸がその対抗策として考えたのが日本との連携だったのです。大武芸が727年に初めて日本に使者を派遣したのはそのような遠交近攻策に基づくものでした。
渤海国の繁栄は次の3代目、大欽茂王の時代に頂点を迎えます。大欽茂は武断政治から文治政治に転換し、その治政は56年に及びました。大欽茂は唐との関係を改善させ54回も朝貢し唐文化を熱心に摂取します。また積極的に唐の律令を導入し法制による支配体制を固めました。北方は長年の狙いであった黒水靺鞨を服従させ、南は遼東半島まで版図を拡大したと見られます。このような安定的な治政の中で特筆するのが頻繁な遷都です。建国の地である敦化(旧国という)から中京顕徳府(西古城)、上京龍泉府(寧安市付近)、さらには東京龍原府(琿春市郊外)、さらに上京に戻ります。とくに上京は唐の長安を模したもので渤海国の権威を誇示したものでした。遷都の意図についてはいろいろな説がありますが、王の単なる気まぐれというよりも内政、外交上の戦略と密接に関連したもので王権の確立、領土拡大、対外関係への対応等を目的とした戦略的な遷都を行ったと見られています。
一方唐は755年から始まる安史の乱で大混乱に陥りますが、大欽茂は唐側からの援軍要求や反乱軍からの誘いにも静観し自国の統治に注力したため唐とは反比例に国力は増強します。唐は渤海国の力を認めざるを得ず大欽茂に対し渤海国王の称号を与えます。これは渤海郡王であった大祚栄、大武芸の時代よりも渤海国の国力を認めた故の懐柔策に他なりませんでした。
793年に大欽茂が没すると渤海国は25年ほど混乱し王権は短期間で替わりますが、818年に大仁秀が10代国王に就くと後渤海国は再び隆盛を取り戻します。大仁秀は国祖大祚栄の直系でなく大祚栄の弟の子孫であるため王権を本流から簒奪し新たな王国を建国したとの説が有力です。大仁秀の治政の年号「建興」は中興の祖を意味する一方で新たな国の建国を意味するものかも知れません。
大仁秀は新羅に侵攻し国境を広げ、北は諸靺鞨種族を征し領土拡大を図ります。また唐との関係を強化し、12年の治政中24回も遣唐使を送っています。また行政制度を強化し経済活動も活発化しました。その結果、唐からは「海東の盛国」と呼ばれています。一方で新羅を常にライバル視していたようで、唐での朝賀の席で席次争いを度々起こし対抗心を隠しませんでした。
渤海国の滅亡
10代大仁秀以後しばらくは安定期が続きますが、9世紀末を迎えると唐が黄巣の乱などの内乱で崩壊状態となり周辺国も激変の渦に飲み込まれます。渤海国も大仁秀以降、賢明な王は出現せず、前例踏襲の統治が続き宮廷での内紛も頻発したようで、貴族が集団で朝鮮半島の新たに起こった高麗に脱出する事件も起こり国勢は急速に衰えます。
そのような中、モンゴル高原で台頭したのが耶律阿保機に率いられた契丹でした。耶律阿保機は907年にモンゴルを統一すると渤海国に攻撃の矛先を向けます。当時、渤海国は最後の王、15代・諲譔(インセン)の時ですが、契丹の脅威に対し宗主国・唐に従来にも増して朝貢しその力に頼ろうとし、唐が滅び五代十国の時代に入ると後梁、後唐にも朝貢して乗り切ろうとします。また長年にわたり敵対関係にあった新羅にも助けを求めます。しかし中国王朝も新羅も力を失っており国土防衛には役立ちませんでした。
925年、ついに契丹は渤海国侵攻を開始し、翌年には渤海西部にある扶余城を攻め落とすと間髪を入れず都府・上京龍泉府の城・忽汗城を取り囲みました。年が明けると諲譔は喪服を着て契丹の軍門に下り城を明け渡します。そのあと内モンゴルの契丹の本拠地・上京に連行され、228年に及んだ歴史を持つ渤海国はあっけなく滅亡したのでした。
耶律阿保機は忽汗城に入り渤海国の名称を東丹国と改め、息子である耶立倍を国王とします。耶立阿保機は倍に対し「朕の愛民の心を見せしめん」と懐柔策を諭したため倍は渤海国の統治組織を温存して宰相などに渤海国の旧臣を多く登用しました。なお耶律阿保機は東丹国の統治を耶立倍に任せてモンゴル高原に凱旋する途上で急死しています。
日本と渤海国の交流
交流の始まり
冒頭に述べたように渤海国は聖武天皇の治政、727年に初めて日本に使節を送りました。使節団が持参した武芸の国書は対等外交を求める格調高い堂々たる文書でした。当時渤海国は唐、黒水靺鞨、新羅と対立関係にあり国際的な孤立を打開するために同じように唐、新羅に警戒感を持つ日本と軍事同盟を結ぶことを目的としていたのです。
日本側も日本の威光に服した朝貢使節と見なしてプライドをくすぐられる一方で、唐、新羅への警戒、とくに新羅への対抗心や旧高句麗の後継である渤海国には心情的に共鳴して彼らを受け入れます。
渤海使の一行は聖武天皇が臨席する新年の朝賀式に参列を許され全員が正六位上に叙されます。さらに当時の最高権力者であった右大臣・長屋王の邸宅に招かれて厚くもてなされたことが近年長屋王邸宅跡から出土した木簡の記載から明らかにされています。
以降、渤海国は200年以上に亘って33回以上の使節団を日本に派遣しました。一方日本側も13回ほど渤海使が帰国する際に送使をかねて使節団を送っています。送使の必要性は彼らの乗ってきた船が損傷して新たに船を建造して操船するためですが、新羅、唐への対抗、とくに遣唐使派遣が中止されるとこの唯一の外交相手国から大陸の情報収集をするためにも使節団を送り、双方向で親密な交流を続けたのです。また当時外国使節をもてなすために平安京に建設した鴻臚館は事実上渤海国の使節団にのみ使用されました。
もちろん実際には日本側にとって自国の優位性を前提とした交流でしたので外交的な駆け引き、国書問題、朝貢形式などで紛糾する場面もありました。しかし大体において渤海国側が譲歩し、したたかに対処したため長い友好が続いたと言えます。
日本と渤海国の交流が進むと互いの国の産物交易という経済使節の意味合いも生じました。渤海国からもたらされる豹や虎、熊などの毛皮や皮革、人参、蜂蜜は日本では垂涎の品で殿上人らは争って求め、日本からは絹や綿、糸などの繊維物,漆器などが帰りの船に積まれました。
藤原仲麻呂の新羅征服計画
渤海国の目的だった軍事同盟は仏教による鎮守国家を志向した聖武天皇には相手にされませんでしたが次の孝謙天皇の時に権勢を握り恵美押勝と称した藤原仲麻呂は渤海国と提携した軍事行動を決意します。それが「新羅征服計画」です。
当時、唐の朝廷において使節間で新羅と席順を激しく争ったり、日本から新羅に派遣した使者が新羅国王に謁見できずに帰されたりしたため朝廷では反新羅感情が大きくなります。かつて白村江で新羅、唐と戦い5万の兵が全滅した屈辱の記憶はまだ朝廷のなかに残っており、新羅に滅ばされ日本に逃れた旧百済難民の子孫も多くいて新羅に対する復讐心は高まっていました。藤原仲麻呂はそのような朝廷内の気運に乗じ、新羅を討伐し自分自身の権力基盤を確固たるものにするという野望を持っていましたが、新羅の後見である唐が安史の乱で乱れているとの報に接すると今が新羅を攻める千載一遇の機会と捉えます。
759年、仲麻呂は太宰府に新羅を打つための「行軍式」、つまり軍事計画書の作成を指示するとともに北陸、山陰、山陽、南海の諸国に400隻の軍船の建造を命じます。さらに全国で約4万人を動員する軍事体制の構築に着手し着々と開戦の準備を進めました。762年には渤海国王大欽茂に使者を送り、共に新羅を攻撃する要請を行ったのです。
しかし、結局この新羅征服計画は実行されませんでした。渤海国についていえば大欽茂が武断政治から文治政治への転換を図っており国力の強化を優先していました。唐からは渤海国王の称号を与えられたこともあり大欽茂としては唐そして新羅といたずらに対立することを避けたいと考えていたのは間違いありません。そのため仲麻呂の再三の要請には回答を避け、やんわりと拒否の姿勢を示します。
また国内では疫病の流行、飢饉などで国民は疲弊し財政も逼迫していることから公家の間では水面下で反対論も広がっていました。そういう状況のなか道鏡を寵愛する孝謙上皇と淳仁天皇、仲麻呂との権力抗争が激化します。764年仲麻呂はついに道鏡の追放を名目に挙兵します。藤原仲麻呂の乱です。
しかし、上皇側に機先を制され朝敵とされるとたちまち勢力を失い琵琶湖西岸で斬首されるという結末となったのです。その結果、「新羅征服計画」も霧散したのでした。
文化交流の活発化
その後、日本と渤海国の交流は文化交流の要素が強くなります。元来、両国はともに漢字文化圏という共通した文化基盤があり、当時の東アジアでの知識人は漢字、中国の古典や漢詩、例えば「論語」、「史記」、「文選」などを共有していました。そのため日本人と渤海人は母国語が違っていても漢文で筆談し外交、文学の交流ができたのです。
762年の第6回目来訪以降、渤海使節団は文人中心となり、これに対応して日本側も菅原道真、紀長谷雄、都良香、大江朝綱など当代第一級の文人官僚を饗応役に当てます。彼らは饗宴の席上で漢詩の交換を行いました。これは単なる遊びではなく、外交儀礼であり中国の古典を援用し教養を披露しあうことは国の文化水準を示すことであり、ひいては互いの国家威信につながるものでした。たとえば当代随一の文人、漢詩人であり秀でた政治家でもあった菅原道真は渤海使との宴席で知識人同士の敬意と友情、そして無事な帰国を祈る漢詩を残しました。こうした文人たちの作品は菅家文草、文華秀麗集などに残されており、渤海使に対する饗応の様子は続日本紀、日本三代実録などにより垣間見えます。

引用:国会図書館デジタル
最後に日本を訪問した渤海使は919年の裵璆(はいきゅう)を大使とした一行でした。裵璆にとっては2度目の来日で、前回と同じように鴻臚館において歓迎の宴が催され両国文人の間で漢詩の交換が行われました。そして7年後の926年に渤海国は契丹の侵攻にあい滅亡します。朝廷は渤海国の滅亡を知りさぞ驚愕したことでしょう。こうして約200年間の日本と渤海国の交流はあっけなく終わったのでした。
なお渤海国最後の大使裵璆は、契丹が創建した東丹国の大使として930年にも来日します。しかし日本は東丹国との国交を拒否し、裵璆は都に入ることは許されませんでした。
なぜ渤海国は歴史から消えたのか
渤海国は中国北部、シベリア、沿海州に広がった大帝国であり、日本と渤海国の親交は約200年間も続きました。渤海使は30回以上来日し、日本側も頻繁に遣渤海使を送りました。遣唐使が廃止されると渤海国を通してのみ中国の政治体制や文化の情報に接することができ、当時の日本の政治、文化への影響は小さくありませんでした。
しかし古代日本の歴史に関心がある人でも、百済、新羅、高句麗の名を知っていても渤海国を知る人は多くありません。冒頭にも述べたように日本史や世界史の教科書には渤海国についてほとんど記述されていないし授業で教えられることもありません。渤海国は交流が絶えてから明治時代までは歴史の記憶から消滅したような存在でした。
その理由は大きく二つあげられます。
まず、渤海国の滅亡後、渤海という名も消え、その跡地に実質的に継承する国家がなかったことです。滅亡後にその地にできた東丹国は契丹の傀儡国ですぐに消滅し、多くの渤海遺民は高麗に逃れやがて吸収されてしまいます。また後渤海、定安国、興遼国など渤海国の再興を目指して作られた国家も短期間で消散し、渤海国独自の民族・文化的遺産は後世に伝えられませんでした。中国史においては一時的に存在した辺境の一国、朝鮮史では傍流国の扱いにされたのです。ましては海を越えた日本においては影響を及ぼす重要な政治勢力として記憶に残されなかったのです。
また渤海国自らの歴史書は滅亡時に破棄されてしまったのか残されておらず、その記録は唐の史書「旧唐書」、「新唐書」の「渤海伝」などにわずかに記載されている状況に過ぎません。日本では続日本紀、日本三大実録など国史に渤海国使の記事が多く残っていますが交流の記事が主体であって渤海国そのものの歴史や国情を記したものではありません。日本にとって渤海は一定期間に訪れた外国使節という位置づけに過ぎなかったようです。結局、日本と渤海国の交流は歴史的な重要な要素として位置づけられず渤海国は歴史の中に忘れ去られて行ったのでした。
再び歴史に浮上した渤海国
忘れられた渤海国が1000年の空白を経て歴史の上に浮かび上がったのは日清、日露戦争後でした。とくに日露戦争に勝利し、ロシアから満州利権を獲得すると日本人の大陸への関心が高まります。1906年には満州経営のための南満州鉄道株式会社が設立されますが、満鉄調査部は満州経営の一環としてかつて我が国の朝貢国であった渤海国の歴史調査を進めます。これは満州と日本の古代からの友好関係を明らかにして満州支配の根拠を強化するという国策に沿ったものでした。
同時に歴史界の泰斗、内藤湖南、白鳥庫吉らより本格的な渤海使の研究が開始されます。中国東北部やロシア沿海部を日本人が調査する機会も増え、この地に渤海の都城跡や城郭跡が多数存在することが知られるようになります。宮殿跡からは日本古代の貨幣である「和同開珎」が発見されるなどして、かつてこの地に日本と緊密に交流した大国が存在したのだと注目が集まったのです。
一方、中国においても東北の辺境の属国に過ぎないとして関心が薄かった渤海国ですが、満州事変を経て満州国が建国されるとこの地が古代より中国の領地であることを明確にするため渤海国の研究に慌てて着手します。また朝鮮においても日本の統治下において民族独立を鼓舞するため渤海国が朝鮮民族の国家と主張します。こうして激動の東アジア情勢の中で古代王国・渤海国がアジアの歴史によみがえることになったのです。しかしその後日本は太平洋戦争に敗北し満州国が崩壊して大陸から撤退すると渤海国への関心は再び影をひそめその研究は停滞します。
ところが戦後中国による上京龍泉府の発掘結果は日本の歴史界にも大きな驚きを及ぼしました。唐の都・長安を手本とした整然とした都市計画によって建設された宮殿、外城、街路網、寺院跡の発見により渤海国は単なる辺境の小国でなく高度な国家体制を整備した王国ということが明らかになったのです。 旧ソ連時代には調査が難しかった沿海州でも対外交易港のクラスキノ城跡、港湾遺跡などが発掘されました。これに呼応し渤海国に関心が高まり、ふたたび日本でもその研究が盛んに行われるようになりました。日本、中国、韓国などの共同研究も頻繁に行われています。
現在の研究者の多くは、渤海国は唐を模倣した単なる辺境国家だったというより、唐、新羅と並ぶ東アジアの高度な文明国家であったと位置づけています。そして日本海を挟んで日本、渤海、沿海州、北東アジアが活発に交流し「日本海交流圏」なるネットワークが形成されていて渤海はその中心的存在であったのではないかとも主張されています。もはや渤海国は忘れられた国から東アジア史を理解する上で欠かせない重要な国家として認識されるようになったのです。
おわりに-渤海は秋田美人のルーツか
ところで色白で肌のきめ細かい秋田美人のルーツが渤海国人にあると語られることがあります。たしかに渤海と秋田の歴史的な関係は否定できません。渤海使は秋田のほか出羽、能登などに到着していますが、奈良・平安時代、現在の秋田県には秋田城がおかれ秋田は渤海使が来日した際の重要な受け入れ港でした。そのため秋田に定住した渤海人はいたのではないかという推測は当然ありえます。
しかし秋田住民の形成に大きな影響を与えたという立証は難しいようです。そもそも「秋田美人」という言葉自体も遺伝的特徴をさすというより、色白、きめ細かい肌など雪国特有の生活環境などから生まれた地域イメージ的側面が強いのです。人類学や遺伝学上も「秋田美人は渤海国人の子孫だから美人となったというような説は見当たりません。結論として渤海人と秋田人の交流は確かにあっただろう。しかし秋田美人の起源を渤海人に求めることはまさに歴史的ロマンの範疇なのでしょう。
秋田美人・渤海人ルーツ説は東北古代史研究者であった新野直吉氏の説が誇張されて広まったようです。しかし新野氏は秋田美人形成には渤海人など大陸との人的交流も一因ではないかと述べているだけで秋田美人は秋田人と渤海人の血が交わってできたというような単純な血統論を主張したのではありませんでした。
実際の新野氏の研究主体は古代東北の渤海国などとの広域交流や日本海文化圏の形成についてでした。新野氏は古代日本と渤海国の交流について次のように評価しています。
古代日本は日本海を通じて渤海・沿海州・東北アジアと結ばれていて、古代東北は渤海国との交流を担う国際交流の最前線であった。日本と渤海国の交流は日本海を舞台とした北東アジア交流史の中心的出来事だった。このような考え方は現代の渤海国研究の主流となっているのです。
参考文献:渤海国・東アジア古代王国の使者たち/上田雄/講談社、渤海国とはなにか/古畑徹/吉川弘文館、渤海国と日本/坂寄雅志/吉川弘文館、秋田美人の謎/新野直吉/中公文庫、古代東北と渤海使/新野直吉/歴史春秋社


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