アフリカ系アメリカ人、奴隷制度と差別の歴史とは?(Ⅰ)

時事

米国で黒人が警察官の過剰な暴力対応で命を奪われる事件が相次いでいます。

全米では「Black Lives Matter」というプラカードをかかげ、抗議デモが行われ、それは世界各地に広がりました。

 

 

 

 

「Black Lives Matter」は、2012年、フロリダで17歳の黒人の少年が自警団の白人に射殺された際の抗議デモのスローガンでもありました。

アメリカ合衆国は、1863年に奴隷解放令が発布されてから、160年近く過ぎましたが、人種間の緊張や社会に未だに存在する偏見、人種隔離による社会・経済的な不平等が残り、黒人に対する警察の過剰な暴力的対応が頻発しています。

私たちには、アメリカは自由と公平を一番大事にする国というイメージがありましたが、そのアメリカでなぜ黒人差別はなくならないのでしょうか。

公権力である警察官の黒人に対する過剰な暴力がどうして起こるのでしょうか?

日本人には知っているようで知らない、米国での黒人と差別の歴史をまとめてみました。

アメリカ奴隷制度の始まり

今から400年以上前の1619年8月、オランダ船によって、当時イギリス領のバージニア州のジョージタウンに運ばれてきた20人あまりのアフリカ人が、北米大陸で最初の奴隷となった人々でした。

アフリカ大陸の沿岸や内陸で、有無を言わせずとらえられた不幸なアフリカ人は、海岸まで歩かされて、狭く薄暗い奴隷収容所に何ヶ月も監禁されたあと奴隷船に乗せられました。

奴隷貿易の拠点はガーナのケープ・コースト・キャッスルやセネガルのゴレ島などでした。

これらの都市は今では人気の観光地ですが、ゴレ島などは、かつては「黒い黄金」と呼ばれ、奴隷貿易を今に伝える世界遺産になっています。

一方、アメリカ側の奴隷貿易の玄関は、これも今は人気の観光地、サウスカロライナ州のチャールストンであり、ルイジアナ州のジャズの町、ニューオリンズなどでした。

奴隷貿易により、17世紀から19世紀にかけて、およそ1,200万人のアフリカ人が、誘拐されアメリカ大陸に強制的に連れて行かれ、1860年のアメリカ合衆国では、奴隷人口は約350万人に達していました。

アメリカ南部に連行されたアフリカ人たちは、奴隷市場で、たばこや綿花の大規模農園であるプランテーションなどに売られ、一生、奴隷として働くことになります。

仕事は、農園での労働に従事することでしたが、中には手に職をつけ大工、靴職人になる人もおり、女性は農園主の大邸宅での子守、料理人、メイドなどとして働きましたが、奴隷としての身分は子供にも引き継がれました。

奴隷の処遇は、農園主の胸先三寸で、少しでも反抗的な態度をとると、むち打ちや焼き印などの懲罰が与えられ、死んでも責任は問われませんでした。

プランテーションからの逃亡も頻繁に起こり、南部では州法で厳しく取り締まり、捕まれば、むち打ちや独房監禁、見せしめに首つりの刑にすることもありました。

独立戦争と奴隷解放の動き

1775年、イギリスからの独立戦争では、イギリス側が味方について戦う黒人に自由を約束したこと、独立戦争の目的が「植民地支配からの自由」ということもあって、北部の州では奴隷制度への疑問が高まり、奴隷制度を廃止する州も出てきました。

そのために、独立戦争が終わるまでには、10万人の奴隷が自由の身になることができ、北部の州では奴隷制を廃止する州が多数となりました。

しかし、バージニア州など南部の州は農園経営の労働力に奴隷が手放せないということもあり、奴隷制を廃止する考えは毛頭ありませんでした。

「すべての人間は生まれながらに平等である」と高尚な独立宣言を起草したトマス・ジェファーソン自身がバージニアの奴隷所有者でした。

特に、綿繰り機(コットン・ジン)が発明され、アラバマ、ミシシッピ、テキサスなどで綿花栽培が飛躍的に拡大すると、奴隷の需要は急激に高まり、中には奴隷を解放しようと考えていた農園主もいましたが考えを変えました。

一方、黒人の逃亡を支援する「地下鉄道」という組織的な活動も起こりますが、これに対応して1793年と1850年には他の州へ逃亡した奴隷を返還することを義務づけた「逃亡奴隷法」が制定されます。

1831年、バージニアで、奴隷解放を目指したナット・ターナーが率いる黒人奴隷の反乱が起こります。

80人近い黒人が蜂起し、60人以上の白人が殺されましたが、ターナーは絞首刑になり、18人の黒人が処刑されました。

白人の怒りはすざましく、ターナーの遺体は皮を剥がれ、首を切り離されたといいます。また関係のない約200人の黒人が暴行を受け、殺されました。

その結果、南部各地では、これまで以上に黒人の自由を制限する法律を制定し、奴隷制廃止運動に対抗しましたが、一方で北部では奴隷制反対の動きも加速していきます。

南北戦争と奴隷解放令

当時、北部と南部の州では政治・経済面での意見の相違が鮮明となっていました。

奴隷を活用したプランテーションによる農業を中心とした経済の南部と、急速な工業化により、黒人の労働力を必要とし、奴隷制度に反対する北部は対立が頂点に達しつつありました。

1860年、奴隷制に強く反対していたエイブラハム・リンカーンが大統領に就任すると、サウスカロライナをはじめ奴隷制度に固執する11州が連邦からの脱退を宣言、翌1861年、南北戦争が始まりました。

 

 

 

 

 

しかし、南北戦争は、必ずしも奴隷制の存続が主目的の戦争ではなく、北軍にとってはあくまで連邦体制を維持すること、南軍にとっては、北軍支配からの自由のための戦いでしたが、黒人の自由については考えが及びませんでした。

1863年、リンカーンは「軍事上の戦略」から、「奴隷解放宣言」を行います。

綿花の輸出先であるヨーロッパから経済的、政治的に南部を孤立させるためであり、南部の黒人たちの離反と、黒人の北軍への参加を促すためでした。

1865年、南北戦争は終結し、約400万人の奴隷が解放されました。

結局、南北戦争で60万人の国民が亡くなり、そのうち北軍は36万人が戦死しますが、従軍した黒人の死者は37千人でした。

リンカーン大統領は、国民に向かって、あの有名な演説を行い、その中で、黒人に対し投票権を与えることを約束し、喝采を浴びます。

しかし、3日後、南軍の支持者だった、俳優のブースにより射殺され、その棺が列車で運ばれる線路脇では何千人もの黒人が見送ったと言われます。

ジム・クロウ制度による差別の継続

南北戦争は北軍の勝利に終わり、米国の奴隷制度は表向きなくなりました。

しかし、リンカーンの後、大統領となったアンドリュー・ジョンソンは、かつて奴隷所有者で、解放された奴隷に共感は薄く、黒人の権利を保障する施策はほとんど取りませんでした。

ジョンソンは敵対した南部の白人が合衆国に忠誠を誓い、奴隷制廃止を謳った憲法修正13条の遵守を形式的に誓うだけで、プランテーションを元の奴隷所有者に返還することを命じました。

これに対し北部の多くの人は、連邦議会において、ジョンソン大統領の抵抗にもかかわらず、1868年、憲法修正14条で黒人の法の下の保護、1870年には修正15条では黒人の投票権の確保、そして1875年には何人も公共施設での不平等を禁止する「公民権法」を制定しました。

しかし、南部州の白人の大多数は、黒人が劣等だという固定観念を変えることはできず、「ブラック・コード」と呼ばれる「黒人規制法」を次々と制定し、白人との結婚禁止、夜間外出制限、移動や職業選択の制限、投票権を与えない、公的施設での人種区分など、奴隷と変わらないような黒人の権利規制をおこないました。

そのような制度は「ジム・クロウ」と呼ばれました。

当時、白人の芸人が、顔を黒く塗って「ジャンプ・ジム・クロウ」という歌に合わせ、ひょうきんに踊り、無学で役立たずの黒人を演じて、白人の間で人気を博していたショーがあり、黒人に対する侮辱の意味を込めて「ジム・クロウ」と呼んだのです。

「ジム・クロウ」制度について、1883年の連邦最高裁判決は、「修正14条は、州による差別を禁止しているが、個人による差別は禁止していない」とし、「何人も人種により不平等な扱いを拒否できるとする公民権法は違憲」という逆行的な判決を下しました。

さらに1896年には、ルイジアナ州が制定した鉄道車両で白人、黒人、混血の有色人種を区別する車両を義務づける法令について、「区別であり人種差別でない」とし、連邦最高裁判所は合憲としました。

 

 

 

 

 

この判決を受けて、南部諸州のみならず国内の全州で、黒人や全ての有色人種に対する制度的な差別が、1964年の公民権法制定までの間、合法的行為として大手をふってまかり通ることとなります。

また「ジム・クロウ」の下で、白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、黒人の営む商店や店舗、住居への放火、さらにこれらの白人至上主義団体と同じような志向を持つ警察による不当逮捕や裁判所などによる冤罪判決などが南部を中心に多発します。

悪名高い白人テロリスト集団としては「白いカメリアの騎士団」や「KKK(クー・クラックス・クラン)」があります。

そして多くの場合、加害者は罰せられることはありませんでした。

1899年のサム・ホース事件では、雇い主を正当防衛で殺してしまったサム・ホーズという黒人を、2000人以上の見物人の前で、木に縛り付け、耳と指と性器を切断した上に、焼き殺すという凄惨なリンチが行われましたが、実行者は一人として逮捕されることはありませんでした。

このような中、1914年から1950年ごろまで100万人以上の黒人の南部から北部への「大移動」が起こりました。

第一の要因は、第一次世界大戦を背景とした北部の工場労働者の需要増でしたが、南部州でのジム・クロウ法による人種差別からの訣別も大きな理由でした。

しかし、北部の州でも、南部とは状況は違うものの、偏見や施設での隔離、貧困、住居規制、暴力などの差別は存在しました。

1910年、社会学者のW・デュボイスとジャーナリストのアイダ・ウェルズらの黒人や白人有志によって設立された「全米黒人地位向上協会」(NAACP)は、これらの深刻な人種差別の解消に立ち向かいます。

NAACPの活動は、多くの人々の奮闘により、次第にアメリカ全土にその裾野を広げていきますが、南部州のみならず、アメリカ国民の多数を占める白人に深く根付いていた、黒人をはじめとする有色人種に対する人種差別意識を完全に改めることはできませんでした。

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軍隊内での黒人差別

軍隊の中でも同様の黒人差別は存在しました。

米国が1917年より参戦した第一次世界大戦では、陸軍に服役した黒人は、補給やコック、運転手などの非戦闘要員としての役割に限定されました。

第二次世界大戦でも、隔離政策は続き、陸軍では黒人のみで編成された「黒人部隊」が編成され、海軍でも多くの黒人兵士が、海軍航空隊および海兵隊航空隊から排除され、また黒人が佐官以上の階級に任命されることは希なことでした。

このように軍隊内には制度的差別だけでなく、根拠のない人種差別的感情も蔓延していましたが、多数の黒人兵は、ヨーロッパ戦線を中心に多数の犠牲を出しながら、連合国軍の勝利に大きな貢献をしました。

1948年、ハリー・トルーマン大統領によって、ようやく軍隊内での人種「隔離」を禁止する大統領令が発令され、軍内部の人種差別が撤廃されます。

(参考)アメリカ黒人の歴史:ジェームズ・M・バーダマン/NHK出版

<アフリカ系アメリカ人、奴隷制度と差別の歴史とは?(Ⅱ)につづきます>

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コメント

  1. […] <アフリカ系アメリカ人と差別の歴史とは?(Ⅰ)からの続きです> […]